悔しくも自覚させられまして~幼馴染の強かな計画~

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7 変質した眼差し

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 この所いつも彼――エバン・ホワイトの待ち人はマーヤ・グリーン伯爵令嬢だった。

 先程チラと姿を見かけたので彼女は今夜の集まりにも来ているはずなのに姿が見えず、彼は周囲の人間から不審に思われない程度に会場内を少し捜して歩いた。
 見掛けた時は折悪しくも顔見知りと会話をしていたので彼女の後を追えなかったのだ。

「折角邪魔者が傍に居なかったというのに、一体どこに……?」

 一休みも兼ねて夜会会場内の飲食スペースに足を運んだ彼は、給仕係からワインのグラスを受け取って軽食と共に口に運んだ。じわりとワインのおかげでいい気分のほろ酔い加減を味わって、それでも彼はふうと少し嘆きにも似た溜息をつく。
 彼女は今どこにいるのか。
 そう思ってふと窓の外へと目をやった。

「何だ、庭にいたのか……」

 道理で屋内には見かけないはずだ。捜し人の彼女が庭園の方からこちらへと戻って来る姿が見えた。
 彼は思わず微笑もうとして、彼女と手を繋いでいる男エディの顔を見てその笑みは明らかな引き攣りへと変わった。
 二人は窓から自分たちをジッと見ている存在に微塵も気付いている様子はない。これまで見てきたように完全に二人の世界なのだろうとそう思えば、ギリリと奥歯が軋んだ音を立てる。

 刹那、パリン、と繊細なガラスが割れる音が手元からして目を向ければ、赤ワイン入りのグラスが握力過多で割れてしまっていた。

「きゃあッ、平気ですか? ホワイト卿?」
「ああ、ええ」
「ですが血が!」
「大丈夫です。赤ワインの色ですよ」

 彼はたまたま近くにいた淑女にそう言って微笑んだが、黒革の手袋を裂いた破片は確実に彼の掌をも裂いていた。
 血が滲むと目立つ白手袋を付けて来なくて良かったと密かに思った。そうでなかったらこの目の前の女性から余計に大騒ぎされていただろう。悪目立ちするのは得策ではないし、彼女は自分を目当てにこの飲食スペースに寄って来た。先程から付き纏われて話し掛けられて少々辟易としてもいたので離れられる好機になり好都合だ。彼女とは何を話したかすらもう記憶にない。どうでもいい大多数の女の一人なのだ。

 彼にとって眼中にあるのは、今はもうたったの一人だけ。

 ワインの紅に混ざる赤。ポタポタと滴り落ちる芳醇な香りと微かな血腥さ。
 気付いた給仕係たちが駆け付けてきて、後の処理を任せて彼は一人その場を離れた。
 予想外に面倒だったのは、

「あ、ホワイト卿お待ちを」

 気遣いを滲ませ今の淑女が追い掛けて来たからだ。まだ駄目らしい。きっとそろそろ始まるダンスへの申し込みを期待しているに違いなく、内心厚かましいと苦々しく思う。
 しかし記憶にある限り彼女の家は豪商で、ここで心証を悪くすれば回り回って予期せぬ面で損害を被らないとも限らない。

 彼エバン・ホワイトは子爵位を持っている。

 ただし土地屋敷のない名目だけの子爵だ。これもひとえに彼が侯爵家の二男だからだった。
 彼の父親は現役バリバリの侯爵で、嫡男の兄は称号を多く持つ父親の二つ目の爵位たる伯爵位を名乗っている。エバンにも社交界で不便のないよう爵位が必要だろうというわけで父親の三つ目の爵位たる子爵位を名乗るのを許されているのだ。

 しかし爵位はあっても財産はない。将来的にホワイト家の財産は全て兄のもの。正式な跡継ぎが総取りすると言っても過言ではない。貴族社会とはそう言うものだ。

 もしかしたら慈悲深い兄のことなので、領地の屋敷の一つか小さな島か何かおこぼれ程度は貰えるかもしれない。
 しかしそんなものに頼りたくはなかった。

 故に一財産を築くために彼は自らで会社を経営していた。

 それもマーヤ・グリーンとの婚約話が持ち上がる以前から。
 縁談が持ち上がってからは。その話がまとまれば婿に入るようなもので、地盤が出来るとの利点もあり、当初彼は二つ返事だった。

 伯爵家の娘はまだ子供だったが、将来の美しさは保証されているような可愛らしい令嬢で、彼女本人へも確かに妹へ対するような好感を持った。

 だから四季折々の花々や手紙など少女が受け取って喜ぶだろう物を贈るのは自分でも楽しみの一つだったのは否定しない。

 まだあどけない少女のはにかみがあの頃の唯一の安らぎだったのだと、今なら言い切れる。貴族の次男以下として兄のスペアでしかなかった当時は安らぎをそれと感じる心の余裕などなく、将来の地固めに必死で気付けなかった。
 子供との婚約だけでは到底足りないと貪欲にも思い込んでいた。
 しかも、そんな時期に会社の経営が苦しくなり、彼は密かに金策に走った。

 その繋がりで出会ったのが、グリーン家との婚約を破棄してまで結婚した女性だった。
 成り金と言われる家の娘で、容姿は平凡。
 爵位はないが、しかし実家の財政はそこらの貴族より余程潤い羽振りも良い。

 その娘自身の弁舌と女の武器の扱い方も巧みだった。

 彼女は何分見目の良いエバンに好意を寄せていて、良い商談があると彼女の大きな実家に招かれたエバンが晩餐を終えた後、彼女の父親と食後のウィスキーを嗜んでいる所にやってきて、自分と結婚すれば会社も危機を乗り越えられると甘い言葉を囁いてきた。
 今思えばあの時早々に退室した彼女の父親もグルだったのだろうが、まんまと彼女に唆されて、酒の勢いもあり関係を持ってしまった。
 それからだ、彼は婚約者がありながら他の女性と戯れるという、ひと度知れれば世間から眉をひそめられる行いを繰り返し、最終的に結婚してしまえばその不貞も帳消しだと言わんばかりに事実結婚した。

 ただ、婚約を破棄した時のマーヤの呆然とした顔が忘れられず、彼は結婚後も思い出す度に罪の意識に苛まれた。

 エバンは自分を最低な男だと知っている。加えて、マーヤに自責の念を抱くくらいは根本から腐っていたわけではなかった。
 もしも何事もなかったのなら今頃自分は美しいマーヤの横で微笑んでいただろうと彼は悔恨にも似た思いを燻らせている。
 本当は何度直接謝罪に出向こうと思ったかしれない。しかし彼女は一切屋敷から出なくなり、贖罪の手紙を送っても彼女の両親からもう関わるなと送り返して寄越された。

 彼はグリーン家から何度か拒絶されてようやく、マーヤが自分に会う度に嬉しそうにする眩しい笑みも、少しずつ自分との時間に慣れてきた頃の安心したようなはにかみも、全てが失われてしまったと悟った。

 後悔したが、時既に遅しだ。

 加えて、結婚してそれ程経たないうちに妻は不貞を働き、エバンが理想と違ったと失望と非難の言葉を何度となく浴びせかけてきた。
 実の所、彼女たち父娘はエバンの持つ名目上であれ子爵位が目当てで、二人に息子が出来れば子爵位をその子に継がせるという最終的な目論見があったのだ。貴族と縁戚になれるという利点も彼女の父親にはあったのだろう。
 自らの子を貴族にしたいという願望と、エバンがたまたま好みに合っていたという理由で彼女は当初彼を誘惑し見事に落としたのだ。

 しかしもう他に意中の貴族の男が出来てしまっては、愛想を尽かした夫の存在は邪魔にしかならない。

 だから、と多額の慰謝料と引き換えの離婚を提案してきたのだろう。

 慰謝料はエバンの会社の立て直しには十分な額で、彼はあっさり同意した。夫婦の情など最早皆無だった。

 それが結婚してからおよそ半年の間までの出来事だ。何とも目まぐるしい。

 マーヤはまだ知らないが、故に現在エバン・ホワイトは文字通りの独身貴族であり、会社経営も堅調かつ潤沢な資金の下に行えている青年実業家でもあって、二十四歳という大人な雰囲気と優しげな容姿も、十代後半の淑女たちからすればかつてマーヤが気後れした年齢差も然程気にならず、彼女たちが夢見る良き理想の夫そのものだと、社交界ではまさに優良物件扱いだった。

 会社が持ち直し順調に行っている経済的な余裕とそして周囲の称賛を耳にして、彼自身以前よりも自己肯定が強くなったと断言できる。自信が付いたと言っても良い。

 今度こそはきっと直接マーヤに謝ろうとそんな心積もりも、そして彼女が赦してくれるならもう一度交際を申し込もうと決めた矢先だった。

 幼馴染の少年、いや男たるエディ・ブラックと一緒に、しかも彼の恋人としてマーヤ・グリーンが社交界に舞い戻ったのは。

 遠目にも、久しぶりに見た元婚約者の少女は大人になっていて、輝く真珠のように美しかった。

 婚約していた時にはなかった熱がドクリと胸の奥に灯ったのは自覚した。

 触れれば触れた相手まで輝きそうに麗しい伯爵令嬢を、エバンだけではなく社交界の面々は惚けたようにして見つめていた。
 エバンは彼女を見るなと、男たちを殴り付けて目をくりぬいてしまいたいと思いさえした。
 何より、彼女の腰を抱きそれが当然の権利のようにキスをして恋人として振る舞うエディの姿に、底知れぬ激しい嫉妬を覚えたものだった。
 人を殺したいという衝動がこの時初めて理解できたと思った。
 その後もエバンはマーヤたちを夜会などで見る度に仄暗い嫉妬の炎を燃やし膨らませていった。
 しかしその反面、マーヤを見ている間はそんな負の感情からは解放されて、天にも昇るような心地にもなった。
 元々は自分の結婚相手だったマーヤ・グリーン。

 自分だけが彼女を独占できるはずだった。

 他の誰でもなく、自分が。

 彼女には自分こそが合っている。

 エバンはいつしかそう思うようになっていた。
 しかしいざ接触を試みようと思ってもエディのガードが全く取れず、マーヤには近付けなかった。機会を窺い続けるも未だその機は訪れず、そろそろ本気で黙って見ているのも限界に近かった。

 ――今夜など、果たして忍耐が続くかどうか。

「難しいお顔をなされてどうかなされましたか、ホワイト卿?」
「ああ、いえ……もう少しするとダンスも始まりますね」
「ええ、はい!」

 誘いの期待へと目を輝かせる令嬢に、踊るならパートナーを探した方がいいですよ、と突き放そうとした時だ。
 にこやかに対応しつつ、どうやってこの面倒な女をやり過ごそうかと思案していたその時だ。
 背後が少しざわついて、淑女たちの嘆き声の多さに彼は肩越しに振り返った。

 ちょうどマーヤたちが入ってきた所だった。

 今夜も彼女の婚約者エディ・ブラックは女性たちから熱い視線を浴びている。

 しかしエディはそれには一瞥すらくれずにマーヤの肩を抱き寄せる。

 手の傷が痛みを訴えた。

 気付けばきつく握り締めていたらしい。
 この会場の持ち主には申し訳ないがワインの染みは勿論、絨毯にはたった今自分の明らかな血痕も増えた。

「……エディ・ブラック……」

 エバンの低い呟きに、下心ありありだった淑女がひっと息を呑んで一歩下がるとそのまま「ご、御免あそばせホワイト卿、知人があそこに」とそそくさと立ち去った。

 ぶちギレた表情を見せただけでころっと態度を変えた女の存在などどうでもよく、彼は確かエディは先程来たばかりだったと思い出す。

 その時までてっきりいつものようにマーヤと二人一緒かと思っていたが、実際はそれまで彼女はずっと一人きりだったのだ。

「……ああツイてない。僕は折角の好機を逃してしまったというわけですね。実に口惜しい……」

 マーヤとエディが並ぶ姿を、彼は実に羨ましげにそれでいて怨じるような眼差しで見つめる。

「マーヤは僕のものなのに……!」

 その執着の呟きはごく小さなものだったが怨嗟にも似た響きを伴って低く、しかし誰に聞かれる前にあっという間に人々の喧騒に吸い込まれた。

 生演奏の楽団が曲調を変えた。

 まもなく今夜のダンスの幕が上がる。
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