上 下
77 / 88
12章 春遠き、春近き

しおりを挟む
「三郎、よいか」
 成利が、おもむろに声を掛ける。何か大事な話があるのだろうか、三郎はかしこまって聞く姿勢をとる。
「久世様に、殿とお呼びすること、わしに敬称をつけないことをお願いした。城を落ちて、その城はもう存在しない。つまり、今のわしは一介の素浪人だ。客人ではない。久世様の庇護を頼みとする者だ。故にそうするのが、本来の在り方、そう思うのだ。久世様、殿もお許し下さった。故に、そなたも、久世様を殿とお呼びし、わしのことは殿と呼ぶでない。よいか」
 それには、三郎も全く異論はない。城が焼失した今、頼れるのは久世だけなのは言うまでもない。
「それは、承知いたしました。しかし、それではなんとお呼びしたら」
「高階でも、あざなでも、そなたの好きに呼べばよい」
「……では、仙千代様と」
 成利のあざなは、幼名と同じ仙千代だった。
「そなたには苦労ばかり掛けて、何も報いてやれんかった。誠にすまないことだと思っておる。しかし、これからは久世様、殿に従っていけば、報いてくださるだろう」
 成利は、当初はこの城を出ることを考えた。寺に入り、両親や亡くなった家臣たちの菩提を弔いながら、残りの人生を過ごす。そう考えて、久世に申し出た。
 しかし、それは久世に強硬に反対され、止められた。渋る成利に、久世は菩提を弔うための寺を建立するとまで言った。その熱意に、成利もこのまま留まることを決めた。
 しかし、客人としてではなく、配下として。当然、あなたのことは殿と呼ぶと。それは、久世も承知した。
 そう決まると、成利は三郎にとっては、良いことと思えた。三郎は、まだ若い。自分が、何も報いてやらなかった分、久世が報いてくれるだろう。
 確かに、久世に従っていけば、この先間違いないだろうと、三郎も思う。しかし、三郎は成利の言葉に胸が一杯になる。
「そのようなこと……私こそ、お守りできなかったこと、誠に申し訳なく……」
「そなたは、守ってくれたぞ……」
 二人の主従は、お互いそれぞれに、来し方を思った。感慨深く、胸が溢れそうな思いになるのだった。
 久世を殿と呼ぶと言うことは、久世を主とすること。しかし、二人の主従関係は生涯続くと、二人ともに思うのだった。

「それでだな、この部屋から出ることもお願いしたのじゃ。ここは、客人ならともかく、こうなった身には、あまりにも分不相応だと思うのじゃ」
 ここは、北の丸なのだ。本来、北の丸は、正室の住まう御殿なのだ。ここに自分が居座っては、正室も迎えられないと、そう思うのだ。
「他に、相応しい部屋を与えてくださいとお願いしたのだ。しかし、お許しいただけなかった」
 当たり前だと、三郎は思った。ここは、久世が、成利のために造ったことは明白。それが分からぬのだなあ、このお方はと思う。こういったところは、本当に鈍いのだ。常は聡明なお方じゃのにと、三郎は思う。しかし、この鈍さが、このお方の良きところとも思うのだった。
「他に与える部屋はない、ここにおれとおっしゃるのだ。しかしなあ……」
 思案気に、自分を見る成利に、三郎は言った。
「久世様、殿がここにおれと、おっしゃるのなら、それに従うべきでしょう。それを、別の部屋を望むのは、かえって我儘とも捉えられかねません」
「我儘……そうか……それもそうじゃな」
 漸く、成利は納得するのだった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】聖獣人アルファは事務官オメガに溺れる

BL / 連載中 24h.ポイント:6,947pt お気に入り:1,635

【完結】暴君アルファの恋人役に運命はいらない

BL / 完結 24h.ポイント:2,996pt お気に入り:1,849

Blindness

BL / 完結 24h.ポイント:1,412pt お気に入り:1,283

僕と彼らの日常

BL / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:13

旦那の愛人(♂)にストーカーされています

BL / 完結 24h.ポイント:92pt お気に入り:952

俺様上司と複雑な関係〜初恋相手で憧れの先輩〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:284pt お気に入り:384

処理中です...