現代的神話入門

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現代的神話入門 第三章

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あの日、松島の計画の片棒を担ぐ事を決めた私は、帰宅した後に倫明にいた頃の資料を片端から引っ張り出してみた。倫明を辞める際に殆どを捨ててしまったが、一部残っているものもある。パンフレットが数枚と、そして私が倫明を辞める時に貰った文集。学校の文芸部が毎年発行しているその冊子の中に、倫明の歴史について言及したコラムがあることを私は覚えていたのである。場所の幽霊とやらについて、何でもいいからヒントが欲しかった。
倫明中学・高等学校の歴史はさほど長くない。平成になってから設立された比較的新規の学校で、学力は可もなく不可もなく。学校設立時には、殆ど無名の学校法人がとある農場経営者の広大な私有林地を全て買い取ったいうことで、地元のちょっとしたニュースになったらしい。
冊子に書かれていたのはその程度の事。少しも有益な情報ではなかった。私はは少し落胆したが、何とは無しに頁を捲り、生徒達の下らない作文や、校内で行われた絵画コンクールの結果を眺め続けた。そして、やがて私の視線はとある一枚の絵の上で釘付けになる。
印刷が荒いせいで筆使いや色の質感はよくわからない。しかし、倫明の校舎を創造的に描いた油絵だった。なにより、作品のタイトルに興味を惹かれる。
『アフンルパル:アイヌ語で冥界の入り口』
絵の中の倫明の校舎は半分以上が浸水し、中心部分が崩れ落ちて中が見えるようになっている。そしてその水は崩れた校舎の内部から滔々と辺りに注いでいるらしかった。まるで倫明の現状を示唆しているようだ。
『この度は伝統あるこの賞を受賞できたこと、大変嬉しく思います。応援して下さった先生方、また私の作品を支持してくださった生徒の皆様には、この場をお借りして感謝の言葉を述べさせて頂きたいと思います。さて、今回の絵のテーマは「断層」でした。地理の小林先生の仰っていた、この街の地層についてのお話に着想を得て、隔たりの本質について自分なりに考察した結果、この絵は生まれました。先生が仰るには、倫明付近の地質には、古代に起こった大陸変動の形跡が見られるというのです。二つの陸地がぶつかり合い、やがて融合して生まれたのがこの小高い丘と、森だとか。私個人としては、大変ロマンあるお話だと思いました。何かが出会う瞬間の火花散るような摩擦を、この絵で精一杯表現したつもりです。』
受賞コメントを読み終わった私は、風刺的な絵画にもう一度見入った。作者の名前は三浦佐登美。一つ上の先輩らしい。美術部に所属していなかった私は名前も知らなかったが、なかなか刺激的な絵を描く人だ。
「断層、ね。元から歪んだ土地って訳か。」
歪み歪んで、私は此処にいるのだ。

***

次に松島から連絡があったのは、それから二週間が経過してからだった。瑞々しかった初夏の季節は既に本格的な夏へと移ろい、目前には夏休みが迫っていた。
『済まん。暫く忙しくて連絡出来なかった。急で済まないが、もし今日予定がなかったらお願いしたい。テスト前だから校舎に人が少ないと思う。』
土曜の朝。当然予定はない。現在の私は、誰か特定の人間と深い関わりを持たぬよう細心の注意を払って生きている。もう、あんなに苦しい思いをするのは御免だからだ。敵を作らぬよう、しかし必要以上に親密にならぬよう。自分によく言い聞かせて学校へ行く。別段楽しい生活ではないが、それでも倫明にいた頃よりはよほどましだった。
『了解。』
既読はすぐについた。
『時間は?』
『暇だから、もう出る。』
『紫は早くて助かるなあ。』
がさつな私は化粧もしなければ、洒落た服も着ない。清潔ならば何でもいいスタンスなので、身支度に時間は掛からないのだ。女としてどうかと思うが、今の所支障はないのでいい事にしている。
『おやおや、いつのまにそんな女性と知り合ったんですかね?』
スニーカーを履きながら揶揄ってやると、すぐに返信が返ってきた。
『姉ちゃんなのが悲しいけどな。』
夏空は青く、雲は高い。機嫌は悪くなかった。
「紫。」
駅前の木陰に、松島は立っていた。
「早いね。」
「紫こそ。」
「・・・今更ながら、三人も駅が同じなのは皮肉。貴方達と登校時間が被らないように努力している自分が滑稽すぎるわ。」
「そうなの?」
「そうだよ。朝のホームで結衣とばったりとか、死んでも嫌だもん。松島も例外じゃないけどさ。そのせいで私、朝五時起なんだよ。なのにさあ、会おうってなると三十分も経たずに会えてしまう。皮肉すぎる・・・」
「なんか、不毛な努力だな。」
「・・・言わないで。わかってる・・・というか、松島たちにはもっと私に罪悪感を感じて欲しいものだよ。鬱直前まで行って、学校まで辞めたんだから。」
「・・・コメントしづらいこと言わないでくれ。」
少し、昔みたいだと思った。今でも嫌い。それは変わらない筈なのに、心の何処かでは松島と再びこうして話せることを喜んでいる自分がいた。愚かな私を、私は冷笑する。
規則正しいダイヤで動く電車に揺られ、午前最後のバスに乗る。不安がないといえば嘘になる。けれど以前のような緊張や恐怖心は薄れていた。バスは森を抜けようとしている。
バスから降りた私は、いつ見ても威圧的な校舎を遠目に眺め、深呼吸を一つした。
「今日はどの場所に行こうか?」
松島が呑気な調子で尋ねた。
「・・・中庭、かな。」
「中庭?」
「うん。中庭は結構思い出深いんだよね。まだ結衣と一緒にいた頃はよく中庭で駄弁ってた。あそこ晴れてると明るいからさ。そっちはいい思い出。」
「・・・悪い思い出もある?」
慎重に、松島が問う。
「まあ、クラスと仲違いしてからは、中庭を通り過ぎる時になんか物を投げつけられたりして、驚いた覚えがある。」
松島はじっと考え込むように俯いていた。彼はいつでも、考えすぎるほど考えてからでなくては思考を言葉に出来ない癖があるのだ。決して口には出せないが、私は以前からその態度を好ましく思っていた。ただし、いつでもその優しさが正しいとは限らない。その時の私には、どうしてか彼の言いたい事に予想がついていて、それがとても辛かった。
「・・・どっちの記憶が現れるか不明だけど、紫は大丈夫?後者が出た場合君の精神的負担は大きい。」
「今更何言ってるの。此処に来ている時点で精神的負担は振り切れてる。最早測定不能のレベルなんだから、そんな事心配したって仕方がないでしょう。」
「・・・改めて考えると、俺は紫に酷い無理を強いている・・・本当に、ごめん。」
ほら、やっぱり謝る。
私は鼻を鳴らした。
「偽善者ぶるのはやめて。貴方は時々、優しさとたちの悪い同情を履き違えている。そりゃあ、私だってやらない善よりやる偽善だと思っているし、それに感謝している部分もある。でもね、上から与えられる同情は、時に人に劣等感を植え付けるんだよ。だから、本当に私を頼る気があるならそれはやめて。今、私は精一杯の虚勢だけで何とか此処に立っているの。だから、その空虚さに突っ込まれると、挫けちゃいそう。」
松島は、はっとしたように顔を上げた。ごめん、と言いかけて慌てて口を噤む。
「わかった。今後留意する。」
ほとんど八つ当たりだ。自覚はある。松島普は人の気持ちがわかる人。それをわかっていて、優しさにつけこんでいるのは私。だから、逃げるように歩き出す。
「紫。」
しばらくして。松島の静かな声が私を呼び止めた。振り返ると、意外な程穏やかな表情をした彼と目が合う。
「深い意味はないんだけどさ、俺は今の紫の方が好きだ。」
私は目を瞬く。
「昔の紫は、嘘つきだった。なんだかんだ言って、君はいつでもいい子だった。日本人はそういう献身が好きだけれど、そして俺もそれを否定はしないけれど、君は初めから息苦しそうだったよ。」
唐突に、つまらない意地や、馬鹿馬鹿しい強がりを全て見透かされたような気がして、恥ずかしくなった。
「・・・私は、貴方のそういう所、嫌い。」
「うん。」
我ながら最悪な手を打ち続けている。松島は痛くも痒くもないというように、にこにこと微笑み続けていた。これ以上会話を長引かせてはペースを崩されるのが目に見えている。私はそれ以上の反論を諦めて早足に校内へ踏み入った。

中庭は玄関から少し奥の、真正面に位置している。松島が言った通り校内には殆ど人がいないらしく、辺りはしんとしていた。
「さて、じゃあやろうか。」
外へと通じるガラス戸の前で私たちは立ち止まった。
「・・・やるって言った後に悪いんだけどさ、私どうやってこの前向こうに入ったのか、よく覚えていない・・・」
「ああ、確かにね。とりあえず外に出たら、なんでもいいから此処であった事を思い出してみて。多分そんなに努力する事はないと思う。膨れ上がった場所の幽霊は、間違いなく紫に干渉したがる。俺は紫が完全に向こうへ引っ張られないようにするから。あっちでもしも何かあったらなんでもいいから合図をくれ。」
「合図・・・じゃあ、その時は何処かを三回ノックする。」
「わかった。」
私は下腹に力を込めて、ガラス戸を押した。
夏らしい濃い青が私を見下ろしている。四角く切り取られた空を数羽の鳥が飛んでゆく。中庭の中心に植えられたミズナラの木。そしてその下に据えられた石のベンチ。私は一人、そこに腰掛けた。
昔はよく、この場所で結衣と昼休みを過ごした。彼女はかなりの確率で持ち歩いているアコースティックギターをほろほろと鳴らしながら、楽しそうに身の回りの話をしてくれた。私はその時間がたまらなく好きだったのだ。明るい木の下に響く弦楽器の音。笑う少女の声。私のスケッチブックには此処で描かれた線画がいくつも残っている。
ふと、脳裏に浮かんだのは、結衣の横顔だった。高い鼻に白い肌。絵を描く時の癖で人の顔を分析しがちの私は、横からの角度が彼女の顔を最も美しく魅せるのだと知っていた。
「懐かしい・・・」
結衣には、自分の世界に入り込むと周りが見えなくなる傾向がある。外界の情報を全てシャットアウトして、一つの物事に没頭している間の彼女は危うく、そして魅力的だった。だから、彼女がそうして、何かに心を奪われている間、私はよくその横顔をスケッチしたものだ・・・あのスケッチブックは何処に行ってしまったっけ。きっと捨ててはいない。
ちらりと、ベンチの横に視線を向ける。その時の私には、隣に座る彼女の横顔がありあり見えるような気がした。
「なんで、言っちゃったかなあ。迂闊すぎるでしょう。」
幻覚が、口を開く。唐突に聞こえたリアルな声に、私は思わず後ずさった。
「結衣?」
ぼんやりと空想していた結衣の横顔が確かな輪郭を帯びて隣にあった。
「入ったって、事・・・?」
鼓動が早まる。
「本当に、無意識だった・・・だってあそこまで言っちゃって、もう逃げられないと思った。」
そして聞き慣れた男の声に、絶句する。
「馬鹿。あの時点なら、まだ繕えたでしょう。それに女社会っていうのは難しいんだよ。特に、あんたみたいなモテる男と付き合うとなると、話はもう大変。周りの女を黙らせてからじゃないと、面倒事に一直線。色々お膳立てしてない状態で、はい付き合いますとはならないの。」
「・・・そういうもんか?」
ベンチの反対側に座っていたの私ではなく、翔真だった。
途方もなく嫌な予感がした。脳が状況を徐々に理解し、警報を鳴らし始める。心を落ち着けようと、深く息を吸った。冷静に、自分にそう言い聞かせる。
「というか、私と松島は?」
中庭には、二人以外の人影はなかった。会話の内容からおおよその時期は予測できる。しかし、目の前に広がるこの光景に私は見覚えがない。どうやら、私は私の知らない記憶に辿り着いてしまったらしかった。
「紫は、俺の事嫌いなのかな?」
その一言に、頭からさっと血が引く。
「・・・嫌いでは、ないと思う。でもさ、きっと色々あるんじゃない?」
はっきり言って、最悪だ。様々な言葉や記憶が頭の中を乱雑に飛び交い、そして、諦めたように消えていった。
まさか、翔真がこんな相談をしていたなんて。よりによって、結衣に。
「でも、俺、まだ諦めたくない。」
私は恐る恐る結衣の顔を覗き込む。俯いた彼女の顔に張り付く、少し強張った表情。躊躇うように、幾度か開閉を繰り返した薄い唇。
やがて顔を上げた彼女は、向日葵のように笑って言ったのだった。
「まあ、応援するよ。きっと紫は振り向いてくれる。」
今度こそ、目の前が暗くなるようだった。

***

私が、翔真に告白されたのは夏休みの直前だった。そう、以前教室で見たシーンのすぐ後の事。
あの日、結衣自作の楽曲に興奮した私たちの話題は、文化祭のことで持ちきりになった。普段娯楽のない倫明の生徒にとって、文化祭は一大イベントである。それは勿論、私たちに取っても同じ。
実のところ、結衣にはある計画があった。というのも、彼女は随分早くから、私たち四人の音楽グループを作りたがっていたのだ。そして、私もその計画にある程度協力していた。
だって私は、結衣が翔真を好いている事を知っていたから。友人の恋を、なんとしてでも成就させてやりたかった。それだけだったのに、
なのに、事件は起こってしまった。
「ねえ、やろうよ。翔真はなんだって楽器できるし、紫は歌を歌える。」
楽しそうに誘いかける結衣に、松島が困ったような声を出す。
「俺は何すればいいのさ。」
「松島も歌えば?」
「ええ、強引な・・・どうするよ、翔真?」
ポイントオブノーリターン。ここが、一つ目の分岐点。
「紫も、参加するなら。」
会話そっちのけでギターのチューニングをしていた翔真は、ぽつりと言った。
「え?」
「あ、」
本当に意図せぬ発言だったのだろう。自分の言った言葉の持つ意味を悟って翔真は固まった。そして沈黙、沈黙。
私の頭は真っ白だった。きっと、結衣もそうだったに違いない。女子の唯ならぬ空気を察してか、繕うように口を開いた松島を制し、翔真は私たちにトドメを刺した。
「・・・えっと、なんかごめん。こんなばらし方するつもりじゃなかったんだけど・・・もう、言っちゃったも同然だから、さ。」
翔真が私を見る。私は、蛇に睨まれた蛙のように、身を強張らせて静止していた。
「・・・好きなんだ。紫。」
破壊の一言。正解なんてないように思えた。全部間違いだった。誰の顔も見られない。
一番の罪は、翔真に告白されて、少し嬉しかった事。殆ど絶望した。結衣の事を思うと、動揺のあまり喉が震え、上手く声もでなかった。
そして私は、逃げた。
拳銃を向けられた時の人間みたいな、咄嗟の行動だった。立ち上がり、ドアを開け、廊下を走って何処かへ。ただの愚かな現実逃避だ。銃弾はもう貫通した後なのに。もう死の手からは逃げられないのに。私は逃げた。
今思えば、最低だ。本当に逃げたいのは結衣だった筈なのに。

そして今、何も気づかぬ翔真は結衣に言わせたのだ。
「応援する」なんて言葉を。
翔真に怒っているわけじゃない。ただ、運命の女神は何処までも私たちを弄ぶ気だったらしい。それに、途方もない無力感を感じた。
この二回で、私は結衣の置かれていた状況についてじんわりと、理解し始めていた。私が其方へ行く前に、どうやら彼女は先に地獄巡りを始めていたらしい。家庭に居場所はなく、恋心まで奪い取られて、黙っている方がおかしいだろう。
以前から、結衣が私を避け始めた理由は、翔真を巡っての事かもしれないと思っていた。そして、今回の事でその予測はより信憑性を帯びた事になる。
私が直接的な悪を彼女に行使した訳ではない。しかし、私と言う存在そのものが、彼女に害を為していたのだとしたら? 翔真を奪い、家庭内での苦しみを無視して、結衣に笑顔を強要したと言われれば、反論できない。虐めが許されて良いわけではない。けれど、もしもそこに全ての理由がある言うのならば、結衣の私への怒りはある種正当なものであるように思えた。そしてその事実は、私にとって途方もなく恐ろしい事実になり得る。虐められて、傷つけられて、苦しみを糧にして作り上げられた人格が全否定されてしまう。それはとても恐ろしい事だった。
「うし、授業始まるし行くわ。お前も遅れず来いよ。」
「はいはーい。」
私は結衣の隣で、遠ざかる翔真の背中を見つめる。先程私が通ってきたガラス戸を開け、廊下へ消えてゆく翔真。結衣も、それを見ていた。
いてもたってもいられず、空を仰いだ。その日の中庭は曇り。上を見たって優しい気持ちにはなれっこなかった。校舎のあちこちからは、楽しげな生徒たちの声が聞こえている。中庭の静けさとは対照的に、賑やかなのが余計辛い。
ふと、思った。この瞬間、この時間の私は何をしていただろう。まだ、何にも知らない頃の私は、何を思っていたのだろう。記憶の中の私の苦しみは、これから始まる。私はそれを悲しく思うし、また結衣の心情を推し量れば、濁った罪悪感がしんしんと積もった。
「痛い。」
突然、結衣が呻くような声で言った。私はびくりとして彼女を見る。
「駄目だなあ・・・私、こんな事で落ち込んでられないんだけどなあ。」
無知は罪だ。胸に巨大な負荷が掛かったような気がした。
彼女の手を握る資格は私にはない。彼女を励ます義理もない。でも、悔しかった。
「ああ・・・」
結衣が、口を開く。彼女の心の奥底にある何かが言葉になる。私の直感はそう告げていたのに、
「    」
「え?」
大風が起こった。起こったというか、不可解な空気のが流れは、上空から降ってきたのだ。コップの際でぎりぎり耐えていた水が溢れる瞬間のように、風は閉ざされた中庭の底に落ちてきたである。そうして、結衣の言葉はかき消された。
「何て、言ったの!」
たった一瞬、しかし重い一撃のように風は中庭を襲った。私は煽られる髪を抑え、強烈な衝撃に耐える。
「あ。」
声は、結衣のものだった。
「あ?」
無理やりこじ開けた私の目に映るのは、乱れた制服も直さずに立ち尽くす彼女の姿。それはどこか異様な光景だった。
徐々に風がおさまり、視界がクリアになる。
私は結衣の視線の先に気がついて、呆気にとられた。
「結衣?」
ガラス戸の向こうから、一人の少女がこちらを見ていた。彼女の冷たい目にぞっと悪寒が走る。
それは結衣の形をした、ナニカ。
現実の結衣は確かに私の横にいるというのに、二人の結衣は互いに見つめ合っていた。まさかガラスに反射している訳ではない。向こう側の結衣は、本物を無視して自由に動く。
私の脳は大いに混乱をきたしていた。しかし、この驚くべき状況に則した考えは一つ。
「結衣!」
咄嗟に走り出す。此方にいるのが過去の結衣だとしたら、彼方が、本物。つまり今の結衣なのではないだろうか。彼女が何故、記憶の中の自身に干渉できるのかはわからない。が、現に私がこうして記憶に入り込んでいるのだ。何らかの理由で彼女が此処にやってきた可能性はある。
私は目前に迫ったガラス戸に手を伸ばす。ところが、その瞬間に向こう側の結衣は掻き消えた。
数秒、動けなかった。届かない。またあの無力感がこみ上げる。けれど、届いたところでどうしようというのだ。
「馬鹿か、私は。」
結局、何も変えられない。それが、今の私だった。
「私・・・?」
物思いに沈んでいた私を、結衣の声が呼び覚ます。振り返り、驚愕した。
消えた筈のもう一人は、記憶の結衣のすぐ目の前に立っていたのだ。彼女は結衣に何かをそっと耳打ちしている。何故だかその光景に果てしない嫌悪感を感じた。
「離れて。」
思ったよりも低い声が出た。
「結衣から離れて。」
すると、ドッペルゲンガーは私をちらりと睨みつけ、そして、嘲笑うよに目を細めた。
体が、弾かれる。
それきり、意識は途絶えた。

「・・・かり!」
誰かの声が聞こえた。
「紫!おい、大丈夫か!」
眩しい。眩しすぎて目を開けられない。
「まつ・・・しま?」
「ああ、よかった。覚えてるか?紫は空間から無理やり締め出されたんだ。」
「・・・結衣が、二人いた。」
「うん。見ていた。」
松島が私を運んでくれたらしい、気がつくと、校内に置かれた椅子に座っていた。
「今回は、少し考えてみないといけない。なにせ異例の事ばかりだ。現実の結衣はもうずっと意識が戻らないままだし。なにより、あれは過去の結衣に干渉した。それは普通ありえないことなんだ。紫が言ったように、過去は変わらない。それは絶対の原則だ。だから安易に、あれが現実の結衣だとは思わない方がいいと思う。」
「・・・私は、結衣がどういう状況に置かれているのか、何も気づいていなかった。」
ずきずきと、まだ痛い気がした。
「・・・紫、」
「私は、卑怯だった。人間関係の泥臭い所を見ないまま、結衣にばかりそれを押し付けて、それで彼女の友達を語った・・・私は、結衣に虐められて当然の人間だったのかもしれない・・・無知は、罪なんだ。」
松島が、悲痛な面持ちで私を覗き込んでいる。
「それは違う。それは、違うんだ、紫。」
「どうして、そんな事が言い切れるの?」
「・・・君は、まだ何も知らないからだよ。」
何も知らない。まだ、何も知らないのか、私は。いや違う、ただ知ろうとしなかっただけだ。
「じゃあ、いつなの。いつになったら私は何かを知れるの!」
私は、感情的になった事をすぐに悔いた。
「・・・もう少し。待ってくれ。必ずわかる日が来てしまう。だから、」
震える声。始めて聞く声だった。
「松島、」
「君は、」
私を遮るように、松島が言葉を紡ぐ。
「君は、無知は罪だと言う。もし、無知が罪だというのなら、それは原罪に他ならない。生まれた瞬間の赤ん坊は、多く知らない。だから無知は食べるとかと同じように、生きる事に付随する避けようのない罪なんだ・・・けれど、紫は考えた事がないか?知る事の方がよほど罪深い、と。真実はいつだって無慈悲だよ。なのに、人はやたらと本当を重んじる。知ろうとする。そして傷つき、傷つける。人は知らなくてもいい事をわざわざ追い求める。突きつける。それは原罪なんかじゃないだろう?生きるうちに進んで獲得する罪だ。」
「松島・・・?」
彼は拳を握りしめ、小さく首を振った。
「いや、ごめん、嘘の方が優しいっていう話だよ。」
珍しく動揺しているらしい松島を前に、先程まで放心状態だった頭は急速に冷えていた。
「・・・今の話、一理あると思う。でも、それじゃあ現実を動かせない。だから、貴方も知ろうとするんじゃないの?その為に、私を必要としたんじゃないの?」
松島の眉が小さく跳ねる。自分を落ち着けるように、彼は長く息を吐いた。
「・・・紫の、言う通りだ。今のは俺の逃げだった。」
「・・・私も自虐は卑怯だったね。今は、ああ言う事を言う時ではなかった。ごめん。」
松島が驚いたように私を見る。
「紫、謝れたの?」
「失礼な。」
ガラスの向こうの中庭に、ぽつりと雫が落ちる。遠くで、雷鳴の音が聞こえた。
「これは一雨くるかな。」
「まあ、次のバスが来るまでは大人しく中で待つしかないね。」
唾を飲む。状況を整理しなくてはならない。私は恐る恐る尋ねた。
「・・・で、結衣じゃないなら、さっきのあれはなんだったの?」
「正直、わからない・・・始めは俺も何らかの形で結衣が此方に迷い込んだのかと思ったんだけど。向こうの結衣には彼女が見えていた。だからこの仮定は否定される筈だ。あの情報はスリディーの映画と同じでさ、すでに録画されたものを俺たちが見てるってだけなんだ。空間は映画を上映する映画館って感じ。だから今からフィルムを取り直す事は出来ないし、定まった情報は兎に角不可逆なんだよ。ところが、もう一人の結衣は此方の時間にも干渉してきた・・・その事実は、かなり達が悪い。ゾンビ映画のゾンビがスクリーンから映画館に飛び出してきたようなものだからね。」
「つまり、松島の意見では、あれはあくまで過去に起こった出来事だってことか。でも、過去が現在に干渉するなんて・・・」
「ああ。確かにおかしい。けれど、比較的まともな方ってことだよ。」
「それを映画に例えると?」
「あのドッペルゲンガーも、演出の一つだったって・・・」
「・・・松島?」
唐突に口を噤んで、松島は中空を睨む。何かが彼の脳内を駆け巡っているらしい。時々唇からはぶつぶつと声が漏れ出た。
「・・・紫。可能性の話なんだ。」
私は黙って耳を傾ける。
「あれは、映画館そのものなのかもしれない?」
「はい?」
私は唐突な言葉に、思わず聞き返す。
「つまり、あれが場所の幽霊そのものだってことだよ。」
「場所の幽霊?人型なのに?」
「ああ。そして、もしそうだとしたら、話はかなり変わってくる。場所の幽霊が、意識体であるって事になるからね。」
ついに雨が降り出す。
「・・・つまり?」
「前にも言ったと思うけれど、場所の幽霊は空間に満ちる情報の塊だ。」
「うん。で、それが人間の感情や記憶に触れて現れるんでしょう。」
「そう。だから、それは一時的に出現する別空間であって、それ以上でもそれ以下でもない。ただいくつもの時間の重なりに過ぎないんだ。だから言ったろう?映画と同じなのさ。もっとリアルに例えると、パノラマ監視カメラの映像とかかな。けれど、もし場所の幽霊そのものに意思があったら?」
「・・・空間内での出来事の全てに干渉できる・・・?」
「その通りだよ。それなら納得のいく説明になる。あの空間そのものに意識があったとしたら、紫を弾き飛ばすことが出来てもおかしくはない。過去と現在の両方にまたがって、空間のみは行動出来るかもしれない。」
「・・・じゃあ、何であれは結衣の姿をしていたの?」
「・・・それを知るにはまだ情報が少な過ぎる。ただ、あれは多分結衣じゃない。結衣の形をした幽霊だ。空間の意識を司る、何かなんだ。」

***

朝の晴天が嘘のように、叩きつけるような雨が降っている。
人のいない校舎は薄暗く、どこか陰惨な影を帯びていた。私たちの間にはあれきり言葉はなく、ただ、永遠のような沈黙だけがひたひたと打ち寄せている。
どこかぼんやりとしていた幽霊が、ついに姿を現した。しかし、本当んそんなことがあり得るだろうか。空間そのものが意識を持つ。そんなことが可能なのだろうか。私は、確かめなくてはならない。例えあれが結衣ではなかったとしても、場所の幽霊が結衣の姿を選んだ理由がそこにはある筈だ。
「松島。」
言葉が、小さく反響する。
「私は松島に協力している。」
「・・・ああ。そうだね。」
「ならば、貴方も私に協力してくれる?」
松島が怪訝そうに私を見る。
「内容は?」
私は躊躇いの末に、それを口に出した。
「結衣に、会いたい。」
「え?」
彼の動揺は当然だった。今まで散々彼女を避けてきたのだ。私自身も、己の心情の変化に未だ戸惑っている。
「・・・どうしてまた、そんな事を?」
「・・・今の話、私の中では決着がつきそうにないの。あれを見た時、確かに結衣だと思ってしまったから、まだあれが結衣の姿をしただけの幽霊だとは思えない・・・私ね、本当は心の底で、結衣が意識不明の重体だって事、理解しきれてないのかもしれない。なんて言うかさ、わかんないの。私、こうやって知らなかった結衣の事を知ってみて、いろんな世界観がぐらぐらし始めている。今まで揺るぎない筈だったものが、揺るぎ始めている。だから、会わなくちゃいけないような気がするの。想像や記憶の中だけで何かを判断しちゃいけない・・・物事を、決定的にする為に、現実の結衣に会いたい。」
空間に渦巻く思考が、見えるようだった。私も、松島も、考えている。
「・・・わかった。」
顔を上げると、静かな松島の瞳と目があった。
「わかった。紫がそう言うならば、俺にはそれに背く理由がない。」
「・・・いいの?」
「うん。そもそも、結衣に会ってくれって言ったのは俺だ。」
「・・・私、未だに倫明での出来事、受け入れきれてない。どんな理由があったとしても、あんなに苦しかった事、正当化出来ない。だから正直、今の私が現実の結衣に会って、どんな気持ちになるのか自分でもわかんないの。でもね、今回の事で本当の悪役が誰なのか、定まって無いって事に気づいた。きっと、貴方たちにも何かの理由があったんでしょう?そして、私にも理由があったんだと思う。私たちは、それが何だったのか、きちんと知らなければならなかったんだね。」
「・・・うん。」
松島は、やっぱり辛そうな顔をしていた。
知らない事が私の罪で、知り過ぎた事が彼の罪だと言うのならば、私たちは何処へ向かえばいいのだろう。私たちは、どうやって大人になればいいのだろう。
「紫、帰ろう。そして明日、結衣に会いに行こう。きっとこう言う事は早い方がいいと思うんだ。」
私は頷く。病んだような空の下、私たちは学校を後にした。
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