西涼女侠伝

水城洋臣

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第二章 孤立の城

幕間 嘗胆の志

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 話は少し戻り、潼関どうかんで敗れた馬超ばちょうが軍勢を引き連れて関中かんちゅうから逃れ、漢陽かんよう郡の上邽じょうけいにやってきた時の事。
 上邽の県令は閻温えんおんという男であった。

 曹操そうそうを始めとする群雄たちが割拠したこの建安けんあん年間。後世の者の中には、まるで皆が国盗りをしていたかのような印象で語る者が後を絶たない。
 しかし権威は衰えたとはいえ、未だに後漢皇帝は健在。役人の大多数はあくまでも漢王朝の臣下であり、朝廷から与えられた仕事を日々淡々とこなす、国盗りとは無縁の者たちであった。
 上邽の閻温もまた同様の考えのもとに県令の職を務めてきた真面目な男である。

 露骨な失策もあり悪く言う者も多いが、漢王朝の丞相じょうしょう(朝廷の政治責任者)はあくまでも曹操であり、理由はどうあれ今の馬超は朝廷に反旗を翻した逆賊である。

 当然ながら馬超を迎え入れる心積もりは閻温には無かった。だが乱世の閉塞感からか、分かり易い反権力闘争の象徴である猛将・馬超を英雄として迎えようという声が民の中からも相当数に上っていた。
 ましてや馬超は、涼州一帯に定住する胡人こじん(異民族)であるきょう族やてい族を次々と味方に引き入れていた事も脅威であった。県城の守備兵程度では多勢に無勢である。

 閻温はそこで、城門を開いて馬超を迎え入れ、一旦は素直に上邽を明け渡す事とした。下手に反抗して余計な死傷者を出す事を避けたのである。

 馬超を迎えた閻温は、そこで会話の機会を得る。馬超は明確かつ短く、訛りのある漢語で話していた。噂は本当だなと閻温は思った。


 実は馬超の母語は漢語では無かったと言われている。祖父の馬平ばへい隴西ろうせいの貧しい役人であり漢人の妻を得られず、羌族の娘を娶った。そして生まれたのが馬超の父・馬騰ばとうである。
 馬騰は羌族との混血でありながらも、漢の役人である父と共に長安ちょうあん洛陽らくように赴く事もあり、学問を学ぶ機会もあった。

 しかし黄巾こうきんの乱に端を発する動乱で涼州や関中も乱れに乱れ、馬騰の息子たちは遂に都に赴く事は無かった。

 次男の馬休ばきゅう、三男の馬鉄ばてつは正妻である漢人の妻との間に出来た子供で、母親から学問を学び漢語も流暢に話したのだが、長男である馬超は羌族の村娘に産ませた庶子であり、羌語を以って日常会話をしていた。
 母共々、家庭内での立場が低かった事は想像に難くない。

 そんな馬超は、最低限の漢語を話す事は出来るものの基本的には漢語が苦手であり、更にはその生い立ちも相まって、父や弟たちに対し非常に強い劣等感を持っていたとされる。

 馬騰が曹操の求めに応じ、一族郎党を引き連れてぎょうに入朝した際も、息子である馬休、馬鉄らを連れているが、長男である馬超は関中に残されている。
 故郷の残存兵をまとめ上げる為に信頼されていたと言えば聞こえはいいが、兄弟の中で最も漢語が苦手であり、歪曲表現を多用する都の風土に馴染めないと父に判断されたとも捉える事が出来る。
 馬超にしてみれば、自分は父に見限られたと感じていた可能性は充分にある。

 先年の潼関の戦いでも、同盟者である韓遂かんすいとの仲を裂かれたのは、その劣等感が主な原因とも言われている。
 漢語、羌語ともに話す事が出来た韓遂は、馬超と会話する際は羌語で話していたが、曹操との会談では漢語を使って和気わき藹々あいあいと話していたと言われる。その事で馬超に疎外感が生まれ、そこに付け込まれたというわけだ。

 だが逆に流暢な羌語を話す上、馬術、弓術、槍術にも優れる馬超は、羌族および同じ言語圏の氐族には非常に信頼される事となり、今回のように鶴の一声で、馬超を慕う各地の羌族・氐族が次々と集まる結果を生んだのである。


 さて、そんな馬超が関中より逃れて隴山ろうざんを越え、漢陽の上邽に赴くと、県令の閻温は城門を開けて馬超を迎え入れた。戦いが起こるかと思っていた馬超はどこか拍子抜けしたが、民たちの喝采を見て気を良くし、閻温の歓待も素直に受け入れた。

 閻温は県令の座を馬超に譲りたいと申し出て、馬超もそれを承諾する。そんな閻温が去り際、拱手をしながら頭を下げて馬超に笑顔で言った。

向天こうてん吐唾とだを笑いて、嘗胆しょうたんの志を遂げん事を」

 役人たちはぎょっとしたが、馬超は大いに笑って喜んだ。

 向天吐唾は、天に向かってつばを吐けば、それは自分の顔にかかる。天地の法則に逆らう事の愚かさを説きつつ、転じて天子に逆らう事の愚かさを言う。
 嘗胆は、呉越戦争で敗れた越王句践こうせんが、奴隷の身分に落とされ屈辱を与えられながらも生き続け、遂には呉王夫差ふさに復讐を遂げた春秋時代の故事から、いずれ来る復讐の為に今は黙って耐えるという意味だ。

 閻温の立場を鑑みれば「謀反人の馬超はいずれ必ず滅びる。ゆえに今は笑って屈辱に耐えよう」という意味になろうが、もともと漢語の歪曲表現が苦手な馬超は、閻温の笑顔をそのまま受け取り「天子を我が物としている曹操をいつか倒す為、今は力を蓄えなさい」という激励の言葉だと解釈したのである。


 そうして上邽を去った閻温は、涼州刺史・韋康いこうの駐留する城へと落ち延びて、馬超軍の内情を報告するに至った。

 しかし漢陽郡の各地の城は、上邽と同様に馬超に呼応する民も多く、羌族・氐族の集落もあちこちに点在している。馬超軍はわずか数カ月で数万の兵に膨れ上がっていた。
 関中の治安維持を任されて長安に駐留する行護軍ぎょうごぐん将軍・夏侯淵かこうえんにも、そうした馬超軍の動向は報告されていた。だが未だ関中の領内には軍閥残党が割拠しており、領外の馬超に対して後手に回っていたのも事実であった。

 そんな最中、情勢に大きな影響を与える事件が都で起こった。
 鄴に帰還した曹操は、先の潼関の戦いで反乱の旗印となり、今また逃亡先で力を蓄える馬超を正式に謀反人とし、都に在住する馬超の親類縁者およそ二百名を処刑したのである。当然ながらこれには、馬超の父・馬騰。そして弟の馬休・馬鉄も含まれている。

 この時代、朝廷に対する謀反人が出ると、連座して一族全員の罪となる事はごく普通の事であった。例え丞相が曹操ではなく、かつての董卓とうたく李傕りかく袁紹えんしょう袁術えんじゅつ、あるいは孫権そんけん劉備りゅうびであっても、やはり同じ結果になったであろう。つまり潼関の戦いで曹操を討ち果たせなかった時点で、こうなる事は確実だったのである。

 これに対し、後世の歴史家の評価は分かれるところである。
 事実上の人質を取られているにもかかわらず、馬超はその劣等感や疎外感から、父と弟を見殺しにした不義不忠の輩と評する者もいる。
 いずれにしても、馬超は自らの行動によって一族二百人の命を奪ってしまった事実は覆らない。

 だが分かっていた事とはいえ、いざ報告を聞いて憤った馬超は、漢陽郡の支配権を一気に奪うべく上邽で蜂起するに至ったのである。

 もとより馬超軍に呼応していた漢陽郡の各県城は号令一下、馬超軍の旗が翻る事になる。唯一それに抵抗したのが、涼州刺史・韋康の駐留する冀城。その下には元の上邽県令・閻温を始め、先の潼関の戦いで曹操軍にて献策をした楊阜ようふ、そして趙昂ちょうこう、すなわち趙英の父もいた。
 その抵抗を当然のように予期していた馬超は、全軍を以って冀城を包囲し、韋康に開城を迫った。

 隴西の襄武じょうぶ城に駐留していた趙英ら一行に報告が届いたのはこの段階である。
 趙英の家族の住む冀城は、まさに馬超軍数万が包囲する戦火の只中となったのである。





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