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第二章 孤立の城
第九集 川と銅貨とクソ道士
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漢陽から関中へは南北に連なる隴山に阻まれ、抜ける道はそう多くはない。最短距離となるのは山中を抜ける大河である渭水に沿った渓谷で、早馬で駆けるなら長安まで早ければ三日で到達できる。
もうひとつ選択肢があるとすれば、北方に大きく迂回して街亭の地から隴関に抜け、支流河川である汧水に沿って北側から関中に入る道である。
汧水は東南へ向かって流れ、関中盆地西側の玄関口である陳倉で渭水と合流し、平地を東へ流れて関中一帯の土地を潤してきた。
長安は関中盆地の東側、その渭水の畔にある。渭水はそこに至るまでに灃水、涇水、灞水、洛水といった南北の山脈から流れる支流と次々に合流し、東の潼関で黄河本流と合流。これにより東の中原一帯に巨大な黄河下流域を形作っているわけだ。
当然ながら冀城から長安まで直線的に進める渭水に沿う道に、馬超軍は多くの部隊を配しているはずで、突破は容易ではない。早くて三日というのは何も障害がなく、馬を体力の限界まで走らせた場合での事。当然ながら倍以上の時間がかかるはずだ。
一方で街亭から隴関へ抜ける道は敵軍の防備も薄いが、山中を数百里は余計に通らねばならず、こちらはこちらで障害が無くとも十日はかかるだろう。
余談だが、この街亭から隴関へ抜ける道は、これより十数年後に蜀漢の諸葛亮が第一次北伐にて長安へ向け進軍しようとした道でもある。
その二箇所以外はそもそも道が整備されておらず、続いているかどうかも分からぬ険しい山間や断崖絶壁しかない。山中の修行者でもないかぎり、まず立ち入らない場所だ。
涼州より東へ向かった事がない呼狐澹を例外として、趙英と緑風子は実質上の二択である事を初めから理解していた。
決めあぐねていた様子の趙英に、緑風子が渭水の方を指差しながら言う。
「何も二択ってもんでもないさ。多分あれが一番楽だと思うよ」
彼が指さした先には川辺の小さな村があり、船着き場には大小複数の渡し船が停泊していた。
「本来は対岸へ渡る為のものだけど、少し多めに払うものを払えば、長安まで川下りしてくれる船頭もいるんじゃないかな。人が三人、馬が三頭。大きめの船なら充分に乗れる。同じ渭水に沿っていくにしても、水の上なら兵士に呼び止められる事もほとんど無いし、これが一番早いんじゃないかな?」
村に入ると馬超軍と思われる巡回兵が数人いたが、旅人でございとばかりに堂々としていると、ほとんど声もかけられなかった。
船頭たちに当たってみると、さすがに長安までの川下りと聞いた時点でほとんど断られた。何せおよそ千里。現代の距離で言えば三百キロ近くもある。流れに沿って下るだけで数日はかかる上、仕事を終えた後に戻って来るにはさらに日数がかかる。断られて当然であろう。
そんな中で潘という若い船頭だけは、値段次第では構わないと答えた。緑風子はそれを聞いて、荷物の中から複数の緡銭(穴の開いた貨幣を紐などに通して棒状に束ねた物。同じ文字で「さしぜに」とも読む)を取り出した。潘船頭はもちろん、交渉を見守っていた趙英らも驚いた様子だった。
ここで古代中華においての貨幣を簡単に振り返ってみると、紀元前の殷・周の頃は、鼈甲や佩玉などの宝飾品が通貨代わりに使用されていた。中でも当時庶民にも一般的だったのは貝殻であり、「貨、販、買、財、費、貴、賤」など、金銭に関わる漢字に「貝」の字が入っているのは、この時代の名残りである。
その後の春秋戦国期には、宝飾よりも実用性が重視され、貝殻から次第に金属へ、特に青銅を鋳造した物が主流となる。後に秦の始皇帝が「珠玉亀貝銀錫の属は、あくまでも宝として保管されるもので、貨幣ではない」と宣言した事で、宝飾品を通貨とする事は完全に廃れた。
余談だが、始皇帝がここで金銀も宝飾品扱いとして宣言している為、中華及びその影響下にあった東アジア全般では銅貨が中心となり、西洋のように金銀は主流の通貨にはならなかった。
もちろん金貨や銀貨が存在しなかったわけではないが、ほとんどは特別に作らせたもので、あくまでも贈答品の一種としてである。ただし金銀の贈答品であれば、むしろ人や動物をかたどった像が主流であった。
ちなみに千年以上後世の宋代以降ともなれば、金子や銀子なども登場してくるが、そこでもやはり王侯貴族の取引に使われる事が主であり、庶民にとっては銅貨が主流のままである。
さて青銅製の貨幣が登場した春秋戦国期は、計測単位が統一されていなかった事もあって、国によって貨幣の形状・単位などもバラバラであったのだが、始皇帝による統一後、それ以前から秦が使用していた半両銭に貨幣を統一する事とされた。
この半両銭は全体の形状が正円形、中心に正方形の穴が開いているもので、この形が東アジアにおける貨幣形状の主流となったのである。
秦の時代には半両銭普及の為に、民間で勝手に銅を鋳造する事を厳しく取り締まったが、秦滅亡後に項羽と劉邦が争った楚漢戦争期においては、戦時下の政権であるため造幣力がほとんど無かった。その時期は民間の銅貨(私鋳銭)鋳造が横行するが、漢の劉邦などはそれを黙認していた。
劉邦が項羽を打ち倒し、漢帝国として統一された後、ようやく国内も安定し始めていた第七代・武帝の時代に、五銖銭が公布され、これが漢王朝の正式な流通通貨となった。
以後は五銖銭が全国各地に広まって定着していたのだが、二十年ほど前の董卓が朝廷を牛耳っていた頃、貨幣経済にも一波乱があった。董卓は貨幣制度にも手を出していたのである。
贅沢三昧の生活、宮殿の新築、軍事費の増加などで足りなくなった朝廷の収入を、貨幣改革の名の下に新銅貨を鋳造して補填するという短絡的な政策である。
董卓小銭と言われるその新銅貨は刻印も縁もなく、形の乱れた円形の銅板に四角い穴をあけただけという、五銖銭はもとより秦の時代の半両銭にすら劣る粗悪な物だった。
ただでさえ粗製濫造された董卓小銭だが、その粗悪さゆえに素人が密造した私鋳銭とも見分けが付かず、結果として貨幣価値の暴落と、物価の異常な上昇を招いたわけである。
董卓が勢力基盤を築いていた長安周辺から涼州にかけては、董卓の死後二十年経った今でも影響が大きく残っていた。正式通貨である五銖銭はなかなか見かけず、他の土地では銅の金属片としてしか扱われない董卓小銭で取引するしか無く、貨幣価値暴落も手伝って、村によっては物々交換の時代に逆戻りしていたのである。
さて、ここで緑風子が潘船頭に見せた緡銭は、董卓小銭ではなく、その束の全てが綺麗に磨かれた五銖銭であった。
それを見た瞬間に、潘船頭は慌ててそれを両手で隠すように覆い、早くしまうように促した。他の船頭に見られたくないといったところであろう。
「それで、受けてくれるのかな?」
緑風子は笑顔のまま穏やかに訊ねると、潘船頭は当然のように承諾した。
もうひとつ選択肢があるとすれば、北方に大きく迂回して街亭の地から隴関に抜け、支流河川である汧水に沿って北側から関中に入る道である。
汧水は東南へ向かって流れ、関中盆地西側の玄関口である陳倉で渭水と合流し、平地を東へ流れて関中一帯の土地を潤してきた。
長安は関中盆地の東側、その渭水の畔にある。渭水はそこに至るまでに灃水、涇水、灞水、洛水といった南北の山脈から流れる支流と次々に合流し、東の潼関で黄河本流と合流。これにより東の中原一帯に巨大な黄河下流域を形作っているわけだ。
当然ながら冀城から長安まで直線的に進める渭水に沿う道に、馬超軍は多くの部隊を配しているはずで、突破は容易ではない。早くて三日というのは何も障害がなく、馬を体力の限界まで走らせた場合での事。当然ながら倍以上の時間がかかるはずだ。
一方で街亭から隴関へ抜ける道は敵軍の防備も薄いが、山中を数百里は余計に通らねばならず、こちらはこちらで障害が無くとも十日はかかるだろう。
余談だが、この街亭から隴関へ抜ける道は、これより十数年後に蜀漢の諸葛亮が第一次北伐にて長安へ向け進軍しようとした道でもある。
その二箇所以外はそもそも道が整備されておらず、続いているかどうかも分からぬ険しい山間や断崖絶壁しかない。山中の修行者でもないかぎり、まず立ち入らない場所だ。
涼州より東へ向かった事がない呼狐澹を例外として、趙英と緑風子は実質上の二択である事を初めから理解していた。
決めあぐねていた様子の趙英に、緑風子が渭水の方を指差しながら言う。
「何も二択ってもんでもないさ。多分あれが一番楽だと思うよ」
彼が指さした先には川辺の小さな村があり、船着き場には大小複数の渡し船が停泊していた。
「本来は対岸へ渡る為のものだけど、少し多めに払うものを払えば、長安まで川下りしてくれる船頭もいるんじゃないかな。人が三人、馬が三頭。大きめの船なら充分に乗れる。同じ渭水に沿っていくにしても、水の上なら兵士に呼び止められる事もほとんど無いし、これが一番早いんじゃないかな?」
村に入ると馬超軍と思われる巡回兵が数人いたが、旅人でございとばかりに堂々としていると、ほとんど声もかけられなかった。
船頭たちに当たってみると、さすがに長安までの川下りと聞いた時点でほとんど断られた。何せおよそ千里。現代の距離で言えば三百キロ近くもある。流れに沿って下るだけで数日はかかる上、仕事を終えた後に戻って来るにはさらに日数がかかる。断られて当然であろう。
そんな中で潘という若い船頭だけは、値段次第では構わないと答えた。緑風子はそれを聞いて、荷物の中から複数の緡銭(穴の開いた貨幣を紐などに通して棒状に束ねた物。同じ文字で「さしぜに」とも読む)を取り出した。潘船頭はもちろん、交渉を見守っていた趙英らも驚いた様子だった。
ここで古代中華においての貨幣を簡単に振り返ってみると、紀元前の殷・周の頃は、鼈甲や佩玉などの宝飾品が通貨代わりに使用されていた。中でも当時庶民にも一般的だったのは貝殻であり、「貨、販、買、財、費、貴、賤」など、金銭に関わる漢字に「貝」の字が入っているのは、この時代の名残りである。
その後の春秋戦国期には、宝飾よりも実用性が重視され、貝殻から次第に金属へ、特に青銅を鋳造した物が主流となる。後に秦の始皇帝が「珠玉亀貝銀錫の属は、あくまでも宝として保管されるもので、貨幣ではない」と宣言した事で、宝飾品を通貨とする事は完全に廃れた。
余談だが、始皇帝がここで金銀も宝飾品扱いとして宣言している為、中華及びその影響下にあった東アジア全般では銅貨が中心となり、西洋のように金銀は主流の通貨にはならなかった。
もちろん金貨や銀貨が存在しなかったわけではないが、ほとんどは特別に作らせたもので、あくまでも贈答品の一種としてである。ただし金銀の贈答品であれば、むしろ人や動物をかたどった像が主流であった。
ちなみに千年以上後世の宋代以降ともなれば、金子や銀子なども登場してくるが、そこでもやはり王侯貴族の取引に使われる事が主であり、庶民にとっては銅貨が主流のままである。
さて青銅製の貨幣が登場した春秋戦国期は、計測単位が統一されていなかった事もあって、国によって貨幣の形状・単位などもバラバラであったのだが、始皇帝による統一後、それ以前から秦が使用していた半両銭に貨幣を統一する事とされた。
この半両銭は全体の形状が正円形、中心に正方形の穴が開いているもので、この形が東アジアにおける貨幣形状の主流となったのである。
秦の時代には半両銭普及の為に、民間で勝手に銅を鋳造する事を厳しく取り締まったが、秦滅亡後に項羽と劉邦が争った楚漢戦争期においては、戦時下の政権であるため造幣力がほとんど無かった。その時期は民間の銅貨(私鋳銭)鋳造が横行するが、漢の劉邦などはそれを黙認していた。
劉邦が項羽を打ち倒し、漢帝国として統一された後、ようやく国内も安定し始めていた第七代・武帝の時代に、五銖銭が公布され、これが漢王朝の正式な流通通貨となった。
以後は五銖銭が全国各地に広まって定着していたのだが、二十年ほど前の董卓が朝廷を牛耳っていた頃、貨幣経済にも一波乱があった。董卓は貨幣制度にも手を出していたのである。
贅沢三昧の生活、宮殿の新築、軍事費の増加などで足りなくなった朝廷の収入を、貨幣改革の名の下に新銅貨を鋳造して補填するという短絡的な政策である。
董卓小銭と言われるその新銅貨は刻印も縁もなく、形の乱れた円形の銅板に四角い穴をあけただけという、五銖銭はもとより秦の時代の半両銭にすら劣る粗悪な物だった。
ただでさえ粗製濫造された董卓小銭だが、その粗悪さゆえに素人が密造した私鋳銭とも見分けが付かず、結果として貨幣価値の暴落と、物価の異常な上昇を招いたわけである。
董卓が勢力基盤を築いていた長安周辺から涼州にかけては、董卓の死後二十年経った今でも影響が大きく残っていた。正式通貨である五銖銭はなかなか見かけず、他の土地では銅の金属片としてしか扱われない董卓小銭で取引するしか無く、貨幣価値暴落も手伝って、村によっては物々交換の時代に逆戻りしていたのである。
さて、ここで緑風子が潘船頭に見せた緡銭は、董卓小銭ではなく、その束の全てが綺麗に磨かれた五銖銭であった。
それを見た瞬間に、潘船頭は慌ててそれを両手で隠すように覆い、早くしまうように促した。他の船頭に見られたくないといったところであろう。
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