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第五章 隴西の帝王
第四十一集 旗未動
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西都で緑風子と何冲天が対峙した頃、冀城でもひとつの騒動が起こっていた。
隴西に於ける韓遂との戦いが膠着しており、業を煮やした馬超が、龐徳らを含めた主力軍を率いて出兵した事が発端であった。
これを好機と見た旧涼州派の兵士たち十数人が、馬超の妻である浥雉とその子供たちを人質にして政庁に立て籠もった。
そして彼らは殺害された涼州刺史・韋康の仇を討つと声高に叫んで、旧涼州派の集結を求めたのである。
その事態が起こってすぐ、楊阜、尹奉の二人が趙家を訪ねてきた事で、趙昂、王異、そして趙英の耳にも入ったわけである。
彼らの一致した結論としては、時期尚早という事。
主力軍が留守の冀城には、留守居を任された小規模な部隊しかおらず、確かに旧涼州派の者が全員決起すれば冀城の奪還は可能だろう。だがその先が問題である。
他の城と連携が出来ていない状態で主力軍が戻ってくれば、それこそ先の包囲戦をもう一度繰り返す事になってしまい、馬超を涼州から放逐する事は不可能である。
更にそうなれば、今まで積み上げてきた反客為主の計(敵に従属したと見せかけて内部から崩す計略)も全てが水泡に帰する。こうして反乱の意思を見せた彼らに情けを掛けるような素振りすら許されないのだ。
この事態を打開する為には、志を同じくする彼ら反乱兵を自分たちの手で斬るしかなかった。
会議に参加していた趙英はかつての藍田での戦いをふと思い出す。「嘘つき」と罵って首を落とされた梁興の顔が、今でも趙英の脳内に焼き付いている。
戦争という物は善悪だけで測れる物ではない。最終的な勝利、そして犠牲者を増やさない為には、時として嘘をつき、手を血で汚し、今度のように志を同じくする者すらも斬らねばならないのだ。
趙昂らもまたそうした苦渋の決断に心を痛めているようであったが、王異だけは冷たく言い放つ。
「大局の見えぬ者は、所詮は駒にしか使えません。ましてや眼前の餌に飛びつくような愚か者なれば、下手をすれば味方の足を引っ張るだけです。ここで韋刺史に殉じさせてやる方が彼らの名誉も全うできましょうし、またそれを以って我らの勝利の礎とならば無駄死ににもなりません。ここで殺してやる方が彼らの為になるのです」
相変わらず歯に衣を着せぬ正論である。だが正論であるが故に誰も反論しようがない。母の言い回しに内心で反感を覚えた趙英であったが、今ならばその本質も理解はできる。
さて、留守居の部隊を任されていたのは、馬超の族弟にあたる馬岱である。都で一族郎党が処刑されたという報を聞いた馬超が上邽で決起した際に、数少ない生き残りの同族として馳せ参じた、まだ二十歳前後の若武者であった。
彼はすぐさま前線の馬超に知らせを送り、反乱兵が立て籠もった政庁を部隊で包囲したが、人質の存在を考えれば攻めかかる事も出来ない。
幸か不幸か、反乱兵の呼びかけに答えた兵や民は非常に少なかった。彼らの気持ちは理解できても、勝算が見えない戦いに身を投じれば破滅しかないと分かっている為だ。特に先の包囲戦で飢えに苦しんだ記憶も新しい。皆が互いの顔色を伺いながら誰も名乗りを上げないという状態であった。
趙英は、父らに同行して政庁周辺の包囲部隊に合流した。
馬超率いる主力軍が戻れば、そこに至る犠牲はどうあれ反乱兵は皆殺しにされるであろう。
ならば今の内に、趙昂ら旧涼州の者の手によって解決する方が良い。それにより馬超からの信頼は劇的に高まり、周辺の城への手回しとてやりやすくなる。先の王異の言葉通り、それこそ彼ら反乱兵を無駄死にさせない最大の方策である。しかし正面突破をかければ、人質は確実に殺害される。それでは意味が無い。
そんな状況の中、趙英は単身で侵入してみせると自ら名乗りを上げたのだった。実際、政庁内部で分散している兵士が十数人程度、趙英の腕があれば敵ではない。その点を理解している趙昂は、ただ黙って娘に託した。
「人質が殺害されないように無力化するだけでも構わんぞ」
そう声をかけた父に、趙英は黙って包拳して政庁の裏へと駆け出す。
趙昂の言葉の意味は趙英にも理解できていた。娘の手を汚すのは忍びないという事だ。だが当の趙英の考えは全く逆であった。
父・趙昂をはじめ、楊阜、尹奉と言った役人たちは、決起の際に将兵や民をまとめ上げねばならない。それも涼州刺史・韋康の仇討ちを掲げてである。
そんな彼らが同じ題目を掲げた反乱兵を斬る姿を、冀城の兵や民に見せてはならない。
だからこそ趙英は、自分自身の手で反乱兵の全員を斬り伏せるつもりであった。最終的な勝利の為、長期的に最も犠牲の少ない道を進む為、罪業は全て自分が背負うという覚悟だった。
政庁を取り囲んでいる土壁を軽功で苦も無く飛び越えた趙英は、足音を立てず静かに歩く。物陰から兵士が現れれば、相手が反応を示す暇すら与えず、冰霄の一閃により、血飛沫と共に首を飛ばしていく。
反乱兵たちはどう転ぼうと全員殺さねばならない。ならば苦しませぬ事がせめてもの情けである。
政庁の執務室では、馬超の妻子が縄で縛りあげられて床に座らされていた。まだ幼い子供たちは状況への恐怖から泣き叫んでおり、母である浥雉は「必ず父上が助けに来る」と羌語で励ましていた。
そんな母子に刀を向けているのは、反乱兵を指揮した楷という男である。
他の兵たちは周囲の警戒の為に巡回しており、執務室で人質を見張っているのは楷だけであった。その事が、楷にとっては不運と言えた。
執務室の扉が唐突に開かれ、室内の一同が同時に目を向けると、そこには全身に返り血を浴びた細身の侠客が立っていた。青白い直剣を手にし、その表情には一切の感情が見えない。
背筋に氷柱を差し入れられたような戦慄を覚えた楷は大声を張り上げて仲間たちを呼ぶが、政庁は静まり返っており誰もその声に応えない。
「もうお前だけだ……」
そう呟いた血まみれの侠客、すなわち趙英は、ゆっくりと楷に向けて歩き出した。
楷は咄嗟に足元にいる幼子に手を伸ばそうとするが、その瞬間に伸ばした左腕が床にボトリと落ちた。趙英の振るった冰霄の一撃である。
志を同じくする者として苦しませず一撃の下に斬ってきた趙英であるが、この時はそうしなかった。例え仇敵の縁者と言えど、子供を盾にする真似は許せなかった。
「おのれ、馬超の手の者か……!」
血を流す左腕を押さえながら叫んだ楷に、趙英は表情を変えることなく答えた。
「いや、お前と同じ涼州の者さ」
そこは答えねばならなかった。少なくとも馬超の妻である浥雉の前で、そこを明言しておく事に意味があると、趙英も理解していたからだ。
だがそれを聞いた楷の反応もまた予想通りの物である。
「ならば何故、侵略者を助けるような真似をする! 韋刺史の死に様を知らんのか!? この不義不忠の裏切り者めが!!」
趙英はただ黙って冰霄を薙ぎ、楷の首を落とした。
彼の最後の罵倒も完全に予想通りだった。この言葉を、民衆の前で父たちに向かって吐かせるわけにはいかなかったのだ。
政庁の正門が開かれた。包囲軍の馬岱を始め、趙昂や楊阜らも、そして兵士たちも一斉に視線を送る。そこには無事な姿の浥雉と、その傍らに立つ血塗れの趙英の姿があった。
人質に犠牲を出す事なく、反乱兵を一人も逃がす事なく、単身それも無傷で事態を解決させた趙英を皆が褒め称えたが、当の趙英は笑顔を見せる事は無かった。
趙家に戻った後、趙英は改めて自身の両手に視線を送る。そこにはすでに固まりかけた兵士たちの血がこびりついていた。
水場で洗い落としていると、それまで意図的に麻痺させていた感情が徐々に戻って来る。いつの間にか両の目から自然と涙があふれ、止まらなくなった。
趙英は自身が背負った業の重さに、そのまま眠る事もできず嗚咽して泣き通したのであった。
隴西に於ける韓遂との戦いが膠着しており、業を煮やした馬超が、龐徳らを含めた主力軍を率いて出兵した事が発端であった。
これを好機と見た旧涼州派の兵士たち十数人が、馬超の妻である浥雉とその子供たちを人質にして政庁に立て籠もった。
そして彼らは殺害された涼州刺史・韋康の仇を討つと声高に叫んで、旧涼州派の集結を求めたのである。
その事態が起こってすぐ、楊阜、尹奉の二人が趙家を訪ねてきた事で、趙昂、王異、そして趙英の耳にも入ったわけである。
彼らの一致した結論としては、時期尚早という事。
主力軍が留守の冀城には、留守居を任された小規模な部隊しかおらず、確かに旧涼州派の者が全員決起すれば冀城の奪還は可能だろう。だがその先が問題である。
他の城と連携が出来ていない状態で主力軍が戻ってくれば、それこそ先の包囲戦をもう一度繰り返す事になってしまい、馬超を涼州から放逐する事は不可能である。
更にそうなれば、今まで積み上げてきた反客為主の計(敵に従属したと見せかけて内部から崩す計略)も全てが水泡に帰する。こうして反乱の意思を見せた彼らに情けを掛けるような素振りすら許されないのだ。
この事態を打開する為には、志を同じくする彼ら反乱兵を自分たちの手で斬るしかなかった。
会議に参加していた趙英はかつての藍田での戦いをふと思い出す。「嘘つき」と罵って首を落とされた梁興の顔が、今でも趙英の脳内に焼き付いている。
戦争という物は善悪だけで測れる物ではない。最終的な勝利、そして犠牲者を増やさない為には、時として嘘をつき、手を血で汚し、今度のように志を同じくする者すらも斬らねばならないのだ。
趙昂らもまたそうした苦渋の決断に心を痛めているようであったが、王異だけは冷たく言い放つ。
「大局の見えぬ者は、所詮は駒にしか使えません。ましてや眼前の餌に飛びつくような愚か者なれば、下手をすれば味方の足を引っ張るだけです。ここで韋刺史に殉じさせてやる方が彼らの名誉も全うできましょうし、またそれを以って我らの勝利の礎とならば無駄死ににもなりません。ここで殺してやる方が彼らの為になるのです」
相変わらず歯に衣を着せぬ正論である。だが正論であるが故に誰も反論しようがない。母の言い回しに内心で反感を覚えた趙英であったが、今ならばその本質も理解はできる。
さて、留守居の部隊を任されていたのは、馬超の族弟にあたる馬岱である。都で一族郎党が処刑されたという報を聞いた馬超が上邽で決起した際に、数少ない生き残りの同族として馳せ参じた、まだ二十歳前後の若武者であった。
彼はすぐさま前線の馬超に知らせを送り、反乱兵が立て籠もった政庁を部隊で包囲したが、人質の存在を考えれば攻めかかる事も出来ない。
幸か不幸か、反乱兵の呼びかけに答えた兵や民は非常に少なかった。彼らの気持ちは理解できても、勝算が見えない戦いに身を投じれば破滅しかないと分かっている為だ。特に先の包囲戦で飢えに苦しんだ記憶も新しい。皆が互いの顔色を伺いながら誰も名乗りを上げないという状態であった。
趙英は、父らに同行して政庁周辺の包囲部隊に合流した。
馬超率いる主力軍が戻れば、そこに至る犠牲はどうあれ反乱兵は皆殺しにされるであろう。
ならば今の内に、趙昂ら旧涼州の者の手によって解決する方が良い。それにより馬超からの信頼は劇的に高まり、周辺の城への手回しとてやりやすくなる。先の王異の言葉通り、それこそ彼ら反乱兵を無駄死にさせない最大の方策である。しかし正面突破をかければ、人質は確実に殺害される。それでは意味が無い。
そんな状況の中、趙英は単身で侵入してみせると自ら名乗りを上げたのだった。実際、政庁内部で分散している兵士が十数人程度、趙英の腕があれば敵ではない。その点を理解している趙昂は、ただ黙って娘に託した。
「人質が殺害されないように無力化するだけでも構わんぞ」
そう声をかけた父に、趙英は黙って包拳して政庁の裏へと駆け出す。
趙昂の言葉の意味は趙英にも理解できていた。娘の手を汚すのは忍びないという事だ。だが当の趙英の考えは全く逆であった。
父・趙昂をはじめ、楊阜、尹奉と言った役人たちは、決起の際に将兵や民をまとめ上げねばならない。それも涼州刺史・韋康の仇討ちを掲げてである。
そんな彼らが同じ題目を掲げた反乱兵を斬る姿を、冀城の兵や民に見せてはならない。
だからこそ趙英は、自分自身の手で反乱兵の全員を斬り伏せるつもりであった。最終的な勝利の為、長期的に最も犠牲の少ない道を進む為、罪業は全て自分が背負うという覚悟だった。
政庁を取り囲んでいる土壁を軽功で苦も無く飛び越えた趙英は、足音を立てず静かに歩く。物陰から兵士が現れれば、相手が反応を示す暇すら与えず、冰霄の一閃により、血飛沫と共に首を飛ばしていく。
反乱兵たちはどう転ぼうと全員殺さねばならない。ならば苦しませぬ事がせめてもの情けである。
政庁の執務室では、馬超の妻子が縄で縛りあげられて床に座らされていた。まだ幼い子供たちは状況への恐怖から泣き叫んでおり、母である浥雉は「必ず父上が助けに来る」と羌語で励ましていた。
そんな母子に刀を向けているのは、反乱兵を指揮した楷という男である。
他の兵たちは周囲の警戒の為に巡回しており、執務室で人質を見張っているのは楷だけであった。その事が、楷にとっては不運と言えた。
執務室の扉が唐突に開かれ、室内の一同が同時に目を向けると、そこには全身に返り血を浴びた細身の侠客が立っていた。青白い直剣を手にし、その表情には一切の感情が見えない。
背筋に氷柱を差し入れられたような戦慄を覚えた楷は大声を張り上げて仲間たちを呼ぶが、政庁は静まり返っており誰もその声に応えない。
「もうお前だけだ……」
そう呟いた血まみれの侠客、すなわち趙英は、ゆっくりと楷に向けて歩き出した。
楷は咄嗟に足元にいる幼子に手を伸ばそうとするが、その瞬間に伸ばした左腕が床にボトリと落ちた。趙英の振るった冰霄の一撃である。
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「おのれ、馬超の手の者か……!」
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「いや、お前と同じ涼州の者さ」
そこは答えねばならなかった。少なくとも馬超の妻である浥雉の前で、そこを明言しておく事に意味があると、趙英も理解していたからだ。
だがそれを聞いた楷の反応もまた予想通りの物である。
「ならば何故、侵略者を助けるような真似をする! 韋刺史の死に様を知らんのか!? この不義不忠の裏切り者めが!!」
趙英はただ黙って冰霄を薙ぎ、楷の首を落とした。
彼の最後の罵倒も完全に予想通りだった。この言葉を、民衆の前で父たちに向かって吐かせるわけにはいかなかったのだ。
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人質に犠牲を出す事なく、反乱兵を一人も逃がす事なく、単身それも無傷で事態を解決させた趙英を皆が褒め称えたが、当の趙英は笑顔を見せる事は無かった。
趙家に戻った後、趙英は改めて自身の両手に視線を送る。そこにはすでに固まりかけた兵士たちの血がこびりついていた。
水場で洗い落としていると、それまで意図的に麻痺させていた感情が徐々に戻って来る。いつの間にか両の目から自然と涙があふれ、止まらなくなった。
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