恋知らずの聖女は結婚のために竜を殺せとは言っていない!

丸みそ

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「私は『恋知らずの聖女』です。ヴァールハイトさまに恋することはありません」

 ジジ、と音を立てて角灯の火が揺れた。黙ってエレオラを見るヴァールハイトのかんばせに、不吉な陰影が刻まれる。

「ですが、妻としての責務は果たします。どんな夜になさっても構いません。これが私の答えです」

 震えそうな喉を押さえ言い切った。ヴァールハイトが口元に笑みを残したまま、目だけを鋭く細める。

 寝室には肌を刺すような沈黙が広がる。

 空気が重くなって喉を塞いでしまうのではないかと錯覚し始めた頃、ヴァールハイトがようやく口を開いた。

「……初夜に可愛い妻の口から聞きたい台詞ではないな」

 エレオラもそう思う。彼には申し訳なささえ感じる。可愛いかは置いておいて。

 だが、エレオラだって退くわけにはいかなかった。

 聖女エレオラは恋をしない。ノア・エレオノーレのようには絶対にならない。不幸にならないで、と祈った母の顔を覚えている。

 様子のおかしいヴァールハイトにこんなことを馬鹿正直に告げるのは恐ろしかった。どんな反応が返ってくるのか読めないのだから。夫に恋する可愛い妻の図を演じた方がよほど楽だったかもしれない。

(でも、そんなアンフェアなこと、立派な聖女はしないでしょう?)

 かちかち鳴りそうになる歯を必死に食いしばって、エレオラはヴァールハイトを見つめ続けた。

 ヴァールハイトは相変わらず微笑んだまま。唯一、細められた瞳だけが、荒れ狂う感情を映す鏡のように不穏な光を宿している。

「どんな夜にしてもいい、と言ったな」

 こくりと頷くエレオラに、ヴァールハイトがベッドに乗り上げた。隅に逃げていたエレオラの腕を掴み、

「……なら、とびきり優しい夜にしてやろうな」

 糖蜜のような声でささめいて、思いのほか柔らかな所作で腕を引く。あ、と思ううちに、エレオラの体がぽすんとヴァールハイトの胸元に収まった。長い腕に閉じ込められ身じろぎ一つできない。耳元でどくどくと心臓が波打つ音が聞こえる。これは自分のものか、それとも男のものか。

 ヴァールハイトはしばらく、じっとエレオラを抱きしめていた。それから大きく息を吐くと、わずかに身を離し、右手をエレオラの頬に滑らせる。その熱さにエレオラは肩を縮めてうつむいた。

「エレオラ、顔を上げろ」

 命ずるような口調なのに、どこか甘い響きが伴う。おずおずと目だけを上げると、満たされたように微笑むヴァールハイトと視線がかち合った。

 男の指先が、エレオラの唇を撫でる。

「誰かと夜を過ごすのは初めてか?」
「わっ、私は『恋知らずの聖女』ですよ」
「つまり? エレオラから教えてほしい」
「ぜ、全部、ヴァールハイトさまが初めてです……」

 だから上手くやれないかもしれない、と続けようとしたとき、ぐっと顔を上向かされた。

 唇が触れ合った。

 びっくりして、エレオラはぱちぱちと目を瞬かせる。マリエッタの言うほど気持ちの良いものではなかった。デイジーの言うほど痛いものではなかった。ああ、何か柔らかいものが唇に触れているなあ、という感想だった。

 唇が離される。エレオラは胸を撫で下ろした。

(い、意外と上手くやれるかも……?)

 ヴァールハイトはそんなエレオラの様子をじぃっと見ていたかと思うと、

「まだいけるな?」
 確認するように言った。

「ええ、もちろんです」
(何が?)

 胸を張って答えながらも、エレオラは何も理解していなかった。聖女としての習い性だ。求められると頷いてしまう。

 ヴァールハイトの紅瞳に、獰猛な気配がよぎったような気がした。ぞく、と首筋の産毛が逆立つ。

「あのっ、んっ」

 言いかけたエレオラの言葉はヴァールハイトの唇に呑み込まれた。ついさっきの触れるだけのキスとはまるで違う。エレオラの抵抗を封じるような荒々しさでヴァールハイトが口づける。下唇を柔く食まれ、ぞくぞくと背筋が粟立つ。思わず口を開けたところで熱い舌が口内を侵した。

「ふっ……んぅっ」

 舌を絡め取られ、エレオラの唇から呻きとも喘ぎともつかぬ声が漏れる。自分でも聞いたことのない濡れた響きに、エレオラはとっさに顔を背けようとした。未知の感覚に完全にパニックに陥っていた。とにかく一度やめたかった。いけるな、とヴァールハイトは問いかけたが、そしてエレオラはもちろん、などと答えてしまったが、どこにたどり着くのか果ても見えない。

 だがヴァールハイトが抗いを許すはずもなかった。彼の左手はがっちりとエレオラの後頭部を押さえ、エレオラの逃げ道を塞ぐ。そのまま角度を変えて、ますます深く唇を重ねた。

 逃げることもできず、暴力的とも言えるほどの甘い熱を一身に与えられ続ける。だんだんエレオラの体がほどけていった。ヴァールハイトの腕に身を委ね、湿った吐息を漏らす。

(私は……私、は、誰なんだっけ)

 何もちゃんと考えられない。唇に熱が触れるたびにピリピリと肌が痺れ、押さえきれない声があがる。エレオラが短く喘ぐたびに、口づけは激しさを増した。

 息をする方法を忘れてしまった、とエレオラは白く霞がかった頭で思う。もはや呼吸さえエレオラの意思ではできなかった。ときおり唇がわずかに離され、許可を与えるようにヴァールハイトが頬を撫でる。それでやっと、エレオラは呼吸という存在を思い出し、濡れた唇から空気を取り入れられた。そうするとヴァールハイトが「いい子だ」と耳朶を甘噛みしながら囁きかけるので、エレオラの体の奥がジンと疼く。

 それを見透かしたように、ヴァールハイトが意地悪げに言った。

「もっと欲しいか?」
「ふぁ……?」

 ギシ、とベッドが軋んだ。

 エレオラの体がシーツの上に横たえられる。白い頬は紅潮し、碧の瞳は潤んで焦点が定まっていなかった。寝衣がその肢体を包み、女性らしい体の輪郭をあらわにしている。

 その上に覆いかぶさるようにして、ヴァールハイトはエレオラに顔を近づけた。エレオラ
はもう怖いともなんとも思わずに、ぼうっと捕食のときを待っていた。

 ヴァールハイトの手がエレオラの鎖骨をなぞる。その指先が寝衣に引っかかって、隠された柔肌を明らかにしようとして——。

「でも、聖女エレオラは俺に恋をしないんだろう?」

 やけに晴れやかな笑顔で、ヴァールハイトが手を止めた。一拍置いて、エレオラは目を瞬かせる。

「え……?」

 熱っぽい吐息とともに答えた声がずいぶん物欲しげに響いた。しかしヴァールハイトはいかにも物分かりの良さそうな口ぶりで、

「俺はエレオラには優しい男だ。嫌がる妻を無理やり抱いたりしない」
「は……?」

 急な展開に目を白黒させるエレオラの額に、ヴァールハイトはあやすようなキスを落とした。

「おやすみ、俺の愛しい妻。……この先が欲しければ、エレオラから俺に乞え」
「この先……?」

 ぼんやりしているうちに角灯の火が落とされ、寝室を闇が包む。もう返事はない。

 ひどく熱い体を持て余しながら、エレオラは冷たい掛布にくるまり、この熱の行き先を考えていた。
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