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月影に謡う 【三】

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「さて、では宴を始めよう。長く待たせてしまったから撫子が口を尖らせているし、建殿は居眠りを始めてしまわれた。夢の中でも微睡むことができるとは、器用で残念なお方だ。ふふっ」

 やっぱり夢みたい。私の肩を抱いて祝膳の前まで誘導しつつ、ふわっと柔い笑みを見せてくださる光成お兄様なんて、現実でお見かけしたことないもの。

「建殿! 起きてください! まだ宵の口ですよ! 何をどうしたら、よその邸でよだれを垂らして居眠りできるのでしょう。ほら、早く目を覚ましてください!」


 ――ぱちんっ!

「痛い! 光成、両手で頬をぶっ叩いたら痛い!」

「人聞きの悪い。優しく、覚醒の刺激を与えただけです。けれど、これで痛いとおっしゃるなら仕方がありません。特別に頬を撫でて差し上げますから起きてください。特別の特別、ですからねっ!」

「痛い、痛い! 撫でるなら、もっと優しく! ぐりぐりと握り拳をめり込ませてくるのは、撫でるとは言わんのだぁ!」

「ふふふっ。ちゃんと優しく撫でていますよ。右の頬だけは、ね。左の頬は……まぁ、眠気覚ましのご愛嬌という、あれ、です」

「『ご愛嬌のあれ』って、何だ。確かに右頬だけは優しく撫でてもらえてるが! 光成の手のひらのすべすべ感が私の肌に触れて、たいそう至福だが! 如何いかんせん、左頬にめり込んでくる拳がいわおのように殺傷能力に溢れているぞ!」

「知りませーん」

「光成ぃ、っ!」

「あははっ!」

 ……前言撤回。とても楽しそうに笑って、生き生きとなさっているお兄様も初めて見たわ。


 幼い頃、珠子と三人で遊んだ記憶はあるけれど、お兄様は微笑んでいてもどこか醒めていらしたから。

 やはり、同性を相手にしたほうが気が楽なのかしら。いいえ、私では駄目だったのかもしれない。

 私では、お兄様が心を許せる存在にはなれなかったのか……それとも――。

「それとも、源建様だけが特別、なのか……」





「篤子ー。私のそうの調べ、ちゃんと聴いていてねっ」

「えぇ、もちろん」

 楽奏が始まった。

 私は、奏者の皆様が居並ぶ横で、祝膳を前にひとりで座っている。

 珠子いわく、私のための宴だから、私は楽奏には加わってはいけないらしい。残念だわ。だって、とても珍しい楽奏なのに。

 そうの琴を、珠子と光成お兄様が。琵琶は礼都女《あやつめ》。笛は明親。源建様はお歌を担当。それから――。

「何かしら。あの赤い琵琶は。音色は琵琶とは似ても似つかないけれど」

 武弥が弾いている楽器は、躑躅つつじのように真っ赤な色が施された、びいんっと振動を響かせる、不思議なものだった。

 武弥自身も初めて手にすると言っていたけれど、これもうずら丸が妖術で演奏できるようにしているらしい。遠い未来さきの世から、今宵のために運んだのだと。 

「『えれきぎたー』という名称なのだと光成お兄様が教えてくださったけれど、本当に不思議な音色よねぇ」

 きっと、もう二度と体験できない貴重な楽奏のはずなのよ。ああぁ、私も和琴で参加したかったわっ。







イラスト:奈倉まゆみ様

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