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第五章
君に、捕らわる 【10−4】
しおりを挟む二の腕から肩へ、肩から今度は肘まで。小さな手がそっと上下していく。彼女の神妙な表情を見ながら、その手の感触をただ感じる。
俺に触れている手と反対側。繋いでいたほうの指がするりと解けて、今度は両手で左の肘が掴まれた。
ゆっくりと近づいてくる、目を伏せた顔。二の腕にそっと額がつけられて、そのまま動きが止まった。
何分、経っただろう。いや、ほんの十数秒か?
ここだけ、時の流れが変わったかのようだ。ただ、静かに時間が過ぎていく。肘を掴んでる手に、きゅっと力が込められて。彼女の額が、俺の腕に擦りつけられるように少しずつ左右に動いていく。
「はぁぁ……」
そうして、満足げな吐息が薄桃色の唇から白く零れた。それを合図のように、俺の口が開く。
「こういうの、したかったの?」
「うん。だって、ずるいもの。みいこ先生にばっかり」
「え?」
先生が、何だって?
「だからね? 私、〝上書き〟するの」
斜め下から見上げられた視線は、まるで俺を射抜くよう。
なんて瞳だ。君、こんな表情もするの?
恥ずかしげに目を伏せた、柔らかな笑み。明るく溌剌とした弾けるような笑顔。今まで知っていた、そのどれとも違う彼女の表情に思わず息を呑む。
その瞳は真っ直ぐに強い光を宿して。口元に浮かんだ笑みは、艶めかしい、としか言えない。
「上書き?」
「うん、そう」
「もう、出来た? 上書き」
「えーと。まだ、全然足りない、かな」
「じゃあ、どうする?」
続き、する? いいよ。しても。
「んー。続きは、明日にとっとく」
俺としては、迎えが来るまでこのままでいても良かったんだが。強い執着を見せたかと思えば、案外淡白なところもある彼女によって。小さな、愛しい手の感触は、するりと解けていった。
名残惜しいじゃないか。
「土岐くん、あのね?」
「ん? 何?」
いったん離れた指が、ツンと袖を引っ張ってくる。
「えと、やっぱり……眼鏡、かけてもらえる? 駄目?」
ふっ。
君の頼みで、駄目なことなんて無いのに。
そんな上目遣いで「駄目?」とか、いちいち可愛すぎる。
「いいよ。こっちでいいの?」
バックパックから眼鏡ケースを出して、中身を見せた。
「う、うん。それ」
そのまま、彼女の前で眼鏡をかけて、顔を見合わせた。視線が絡まって、息が止まるような感覚を覚える。
数秒の後。ほぅ、と、小さな溜め息が零れて。朱に染まった頬と、蕩けるような笑みが向けられる。
「何?」
「えーと、私、やっぱり……土岐くんの眼鏡姿が好きだなぁと思って」
「……へぇ」
そんなこと言うの?
なぁ。本当に、俺をどうしたいんだ?
何の裏もなさそうな、真っ直ぐな瞳を見つめ返す。
想いが通じ合う前も、この子の放つひと言、目線ひとつで、心が揺れていた。それは、片想いのせいなんだろうと心のどこかで思っていて。想いが成就すれば、無くなるもののようにも思っていた。
けど、どうだ。想いを交わし合った今も。彼女が与えてくれるたったひと言で、こんなにもグラグラと揺さぶられてる。
揺らされて。煽られて。振り回されて。堕ちていく。
あぁ。良いな、この感覚。
必ず手に入れると誓った彼女に、俺自身が堕ちきってしまったことを実感している。そのことに、これ以上ない満足感を感じていた。
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