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散ずる桔梗に、宿る声 【十二】

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「……し、死ぬかと、思ったぁ……うぷっ」


「大丈夫ですか? 真守殿が水を汲んできてくださいましたよ。ほら、飲んでください」


「うぅ、済まない」


 木桶に入った水を柄杓《ひしゃく》で掬い、地面に腰をおろしている建殿にそのまま手渡した。


 行儀が悪いが、仕方がない。魚肉団子に入れた痺れ薬は、かなり強い作用を持ったものなのだ。


 建殿の口に思いっきり指を突っ込み、ひと欠片も残さず吐き出させたが、私がそうする前に少し飲み込んでしまったとおっしゃっていた。


 早く体内から出すためにも、水をたくさん飲んでいただかねば。


 柄杓を持って水を飲むことができているようだから、手足の痺れはないはず。本当に良かった。


「全く。なぜ、あそこで大口を開けて欠伸など……しかも、妖猫と対峙するという、危険と隣合わせの場所なのですよ。どうして、そのような呑気なことができるのです? あなたのなさることは、本当に理解に苦しみます。本当に!」


 本当に、大事《だいじ》に至らなくて良かった。


「その上、大げさに倒れ込むものだから、それに気を取られて、また妖猫を取り逃がしてしまったではありませんか。基射様と真守殿に、何と言ってお詫びすれば良いか、頭が痛いです」


 あなたが地に膝をつき、くず折れた姿を見た時は、生きた心地がしませんでした。


 私は、あなたしか見えなかったし、本当に心配したのですよ?


「う……済まない。心から反省している。光成、済まない」


「私に謝っても仕方ないでしょう? 謝罪は、陰陽寮の方々になされてください。度重なる失敗の原因を作ってしまったのですから、許していただけるかどうかは、わかりませんけどね。私は、もう知りません。呆れ果てました」


 少々きつい物言いになってしまったが、建殿にはこれくらいがちょうど良い。でなければ、この方はまた何かしでかして、心配事を増やしてくださるに違いないのだから。


「そんなに怒るなよ。私だって、本当に反省して……」


「あの、光成様? お話中にすみません。少し、よろしいでしょうか」


 何やら言い訳を始めた建殿に、さらなる小言を降らせようとした矢先、真守殿の声がそれに割り込んできた。


「はい、何でしょう」


 振り返れば、真守殿が深く頭を下げている。どうしたのだろう。


「源《げんの》蔵人様、申し訳ありません。俺が魚肉団子の管理をお願いしたばかりに、このようなことになってしまって……本当にすみません」


「えっ、真守殿が?」


 建殿に向かって頭を下げた真守殿だったが、つい口を挟んでしまった。


 知らなかった。いつの間にそのような段取りが組まれていたのだろう。私は、魚肉団子の鉢の傍に建殿が立っていたのは偶然だと思っていた。


「叔父上にも叱られました。一番悪いのは俺だと。本当にすみませんでした。光成様にもご迷惑おかけしました。申し訳ありません!」


 けれど、年少の陰陽生が身を縮めて謝罪する姿を見るのはしのびない。真守殿は、何も悪くはないのだ。


「え? 別に、陰陽生《おんみょうせい》が謝ることではないぞ?」


「そうです。真守殿は、何も悪くありません。悪いのは、大事な御役目の最中に大欠伸をしてしまった建殿です。あんなに大きな口さえ開けてなければ、一度に三個も口に入ることはなかったのですよっ」


 これ以上、真守殿を謝らせてはいけない。真守殿こそ何も悪くはないのだから、可哀想だ。


「真守殿、頭を上げてください。大丈夫ですよ。誰もあなたを責めたりしませんからね」


「光成様ぁ」


「みっ、光成! お前、何やってるんだ!」


「は? 何ですか。急に大声を出して。いじらしい年少の者を慰めているだけでしょう? 建殿こそ、喚く暇があるなら、きちんと反省なさってください」


 頭を下げ、謝罪の言葉を述べる真守殿の肩を抱き、烏帽子からはみ出ている髪に手を滑らせた。きっと傷ついているに違いない、その心を慰めるために。


 いつだったか、私がこうして頭を撫でて差し上げたら、『本当の兄君みたいで、気持ちが温かくなります』と言ってくれた真守殿だから。こうすれば、きっと、元気を出してくれる。


 そして、真守殿が謝罪せずに済めば、建殿も今日の恥ずかしい失敗のことをすぐに忘れられるはず。


 建殿。あなたの身に何事もなくて、本当に良かった。


 ひと晩ぐっすり寝て、明日また、呑気な笑顔を私に見せてください。





「――光成、お前……お前……私には酷い言葉ばかり投げつけてくるくせに、その少年にはとても優しいのだな。そんな慈愛溢れる温かな笑み、私には一度も見せてくれないくせに。その少年には……その少年だけには……」


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