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第1章 カウントダウン
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婚姻届を、なんだかんだでとりあえずと、記入をした翌々日。
家に着いたところで携帯が震えた。電話の相手の名前を見て首を傾げる。
「もしもし?」
『あ、もしもし。今、電話大丈夫?』
「はい」
くすっと笑う気配があった。オレにまで敬語って、と呟いているのが聞こえる。
「尚さん?」
『ああ、ごめんごめん。悪いんだけど、今からメールを送る住所に、車で来てくれる?』
「車で?」
聞き返しながら、手を繋いでいる隼人と顔を見合わせた。まだ、玄関に靴を履いたままで2人とも立っている。
『そんなに時間はかからないんだけど。隼人、留守番できるかなぁ』
「ああ…」
首を傾げ、花音は隼人ともう一度目を合わせた。
「隼人、少しお留守番できる?」
電話中だから声を出さずにすぐに頷くのを見て、大丈夫、と電話の向こうに答えた。
普段、こんなことを頼んでくる相手ではないことを思えば、何かどうにもならない状況なのかとは想像できて。まあ、それならそれで言ってくれればいいのにと思うけれど。隼人の年齢を考えれば、少しでも一人で留守番をさせるのは抵抗があるが、年よりはるかにしっかりしているのも、承知している。
電話を切って口を開こうとしたところで、笑った隼人に先を越された。
「誰か来ても玄関は開けない、火は使わない、危ないことはしない」
「OK」
尚からのメールにあった住所をナビに打ち込んで、指示通り地下駐車場に車を入れると分かりやすい場所に尚が立っていた。車を降りるとすぐに近づいてきて苦笑いになる。
「ごめん、そう言えば、何も言わずに来てもらったな」
「何かあったんですよね?かまいませんよ」
「そこはかまおうか」
苦笑いになりながら花音を促した。
「悪いんだけど、兄貴、連れて帰ってくれる?」
翔のことだろうとは思ったけれど。
「連れて…具合、悪いんですか?」
「ちょっとね」
「朝、何も気がつかなかった…」
思いの外しょんぼりしているのに気がついて、尚は思わず笑いながらくしゃっと花音の頭を撫でた。年上のはずなのに、どうもそう見えないことが多い。
「たぶん、朝は普通だったと思う。昼に見かけた時はそんな風に見えなかったから」
でも、そんなに急にはならないだろうから、きっと具合は悪かったはずなのだと花音はため息をつく。自分のことばかりで、翔のことを気にかけていないなと反省する。自分のことに巻き込んで、生活も変えてしまって、きっとストレスになっているはずなのに、全然そんなことは見せずに過ごさせてくれているから。
「あの人、一応役者だよ。それに、オレたちに弱ってるところなんて見せたことなかったし。オレが具合悪いかなって見て取れるくらい、油断できる場所ができたってことだろ」
「そんなに具合が悪いんですね」
「そうとるか」
これは手強いな、と笑いながら尚はエレベーターで上がったフロアに並んだドアの1つを開けた。
ここで待ってろ、と尚に言われて椅子に座っていた。さっきまではマネージャーがいたが、今はマネージャーは目の前の女に追い出されて何かを買いに使いっぱしられている。
「翔、だいじょうぶ?具合悪いって聞いたわよ?」
妙に近い。なれなれしく呼び捨てにするな。そういらつく気持ちを抑え、営業用の笑顔を貼り付けた。弱みなんて、見せたくもない。
「そんなこと、誰かが言ってましたか?高木さん」
事務所の副社長の姪だとかいう彼女は、数ヶ月前に転職してきた。社内では新人でありながら、我が物顔に振る舞う。副社長は出来た人だというのに。
「ところで、浅井さんはどこに行ったんですか?」
自分のマネージャーの居場所を尋ねれば、目の前の女は肩を竦める。
高木は、目の前に座っている「事務所の商品」の肩に手を乗せた。たまたま、一緒にいた前の会社の同僚が、彼が今探しているマネージャーと、彼の弟が話しているのを耳にしたのだ。具合が悪いようだと。弟が席を外した隙に、マネージャーを追い出した。が、どう見ても具合が悪いようには見えない。いつも通りの、一分の隙もない彼は、笑顔を浮かべながらも冷徹な目を細めている。が、彼女には、極上の笑みを向けられているようにしか感じられない。
「あなたの具合が悪いので、何か飲み物を買ってくると言っていたわよ。その間、様子を見ていてほしいと頼まれたの」
「そうですか?」
翔は、目を細めて、腹の中で毒づく。浅井がそんなことをするはずがないのだ。こういう、毒を含んだ女を近づけるわけがない。翔がどれほど嫌うかが分かっているから。なれなれしく触れられている肩が気持ち悪い。手を払い除けたい。
そう思っていたところで、ドアが開く音がした。浅井が帰ってきたのかと、ほっとして顔を向け、翔の顔がこわばった。
(なんだ、そのツーショット)
尚が扉を開け、エスコートするように招き入れられたのは、花音。
いや、この女に花音を見られるのも嫌だった。接点はないが何かの拍子に花音に嫌な思いをさせそうで。嫌な思いをさせたら、花音は居なくなってしまいそうで。
「誰?」
冷たい声が翔の頭上から花音に向けられた。詰問の声に花音が戸惑う顔になる。翔と目が合えば、何を思ったのか花音の目が細められた。
「あんたこそ、誰?」
花音を背中に隠すようにして、尚が口を開く。その尚の仕草が腹立たしい。
「翔の事務所の人間よ。関係者以外立ち入り禁止よ。後ろのあなた、妹さんでもないわね」
「事務所の、どちらの部署の方で、うちの兄のどういった関係者なのか知りませんが、今日の仕事、もう終わりましたよね?弟のオレが一緒に帰ることになっててここにきたんで、とりあえず、出てってもらえます?仕事終わった以上、事務所の方に拘束される必要、ないですよね?」
にっこりと笑顔を浮かべ、尚がさらっと言いながらドアから出るように促した。
憮然とした顔に浮かんだ怒りに、怖い怖い、と肩を竦めながらも早く出て行け、と、無言で出口を尚がさらに示せば、足音荒く出て行く女は、予想通り花音を睨みながら当たろうとする。が、そこは尚が器用に花音を視線からも歩く動きからも隠した。
そうやって、3人だけになってみれば。
不機嫌そうな翔が二人を見上げていた。
「なに、そのツーショット。なんで尚が花音と一緒にいるの」
「花音に迎えにきてもらったんだよ」
尚がそう言う後ろから花音が翔に歩み寄った。椅子に座っている翔の前にしゃがみ、翔の顔を覗き込む。ふいっとそらされる目が熱っぽいのをしっかりと見て取りながら、ふう、とため息をついた。
「具合、悪かったんですね。気がつかなかったです…自分のことばかりで。ごめんなさい」
「花音が謝ることじゃない。それに、家にいる間はそんなことなかった」
「やっぱり、具合、悪いんですね」
翔は不機嫌そうに答えない。不機嫌な翔を見るのは初めてで、花音は困った顔で尚を振り返る。いや、振り返ろうとして、伸びてきた手に遮られた。頬に当たる手が熱い。
「何でそこで、尚を見るの?」
「兄貴、わがまま言って困らせるなよ。隼人、留守番させてるんだから」
「尚、うるさい」
「高嶺さん、ほんと、熱がありそうだから。帰りましょう?」
「やだよ」
「高嶺さん」
「その呼び方、やだ。昔みたいに呼んでくれないなら、動かない。その話し方も、やだ」
「……」
言葉に困って花音はこの、わがままを言い始めた大人を見上げる。ただ、早く休ませたいくらいに、自分の頬に触れている手は熱くて、先ほどの人が出て行ってから、顔にも熱のある様子がありありと浮かんでいて。
「翔くん、帰ろ?」
「うん」
言った瞬間に、この人、こんな顔をするのかと思うくらいに幸せそうな、子どものような顔で笑って、ふわりと花音の首に抱きついてきた。
その体が、熱い。
「翔くん、立てる?」
「このままでいい」
「よくないよ?帰れないから」
見かねて尚が手を貸して立たせようとすれば、巧みにその手をかわされる。
「兄貴、なにしてんだよ」
「やだよ。なんで、花音とお前が、共同作業みたいにオレのこと、運ぼうとするの?」
なに、この、わがままな大人。弟妹たちのことばかりで、しっかり者の顔ばかり見てきた尚にしてみれば新鮮ではあるのだが。花音の困った顔と、ちょっと辛そうな顔を見れば、多分、自分の体をまともに支えられていない翔の重みがかなりまともに花音にかかっている。
「オレが手を貸すのいやなら、とりあえず自分でもう少しちゃんと体支えろ。花音にそんなに体重かけるな。体に障るだろう」
苦虫を噛みつぶしたように尚に言われて、翔はああ、と、立ち上がる。が、立ちくらみをしたようにふらついて、それを一緒に立ち上がらされた花音が結局支えるようになって。
「…兄貴。花音はおあずけ。車まではオレと行くぞ」
「仕方ないな」
そうなった途端に、わりと自分でしっかり立つのだから、意味がわからない。
部屋から出たところで、戻ってきたマネージャーと顔を合わせ、帰る旨を伝えると、彼は困った顔で頷く。高木に追い出されたが気になってずっと近くにいたのだ。尚と入れ替わりに高木が出て行くのを確認していた。
「花音さん、お願いします」
「はあ…」
初対面の相手に名前を呼ばれてきょとんとしながらも頭を下げる花音の肘を掴んで、翔は引っ張る。
尚と並んで歩き、花音の肘を引いて行く翔の後ろ姿は、見ている分にはいつもどおりで。弱みを見せないよなぁ、と浅井は苦笑いで見送った。おそらく、どこかのタイミングで高木から今日のことで何か言われるだろうと憂鬱になりながら。
一緒に車に乗ろうとすれば、尚は来るなと翔に拒絶され。家に着いてからちゃんと歩けよと念を押して尚は諦めた。まあ、自分が送ると言えば、あの家に自分たちが行って花音と仲良くして、自分と彼女の時間を取られると嫌がる翔が頷くわけもなかったので、花音を呼んだわけだが。
だが、あの甘えぶりは想定外だった。まさか、花音に身を預け切ってしまうとは。
「花音、悪かったな」
「ううん、教えてくれてありがとうございました」
運転席を外からのぞいて言えば、花音はそう言ってから、小首を傾げた。そして、不意に手が伸びてきて、よしよし、と頭を撫でられる。
「尚くん、心配だったんですね。お兄ちゃんのこと。大したことできませんが、帰ってから1人じゃないだけ、安心できますか?」
「花音、オレ、年下だから。敬語、いらないからな?」
「尚、お前、帰れ」
少し背中を倒した助手席から身を起こした翔の手が伸びてきて、花音を抱え込むのを見て、尚は笑うしかなかった。この独占欲。どうしようもないな、と。
「翔くん、歩ける?」
助手席に回れば、手が伸びてくる。とりあえずそれを取って立ち上がるのを待てば、そのまま後ろから抱きついてきた。
「…さすがにおんぶはわたしにはできないんだけど。歩ける?」
「このまま歩く」
「…はいはい」
地下の駐車場から、そのままエレベーターで居住階に上がれる造りで良かったと思いながら、背中に張り付かせたまま花音は家に戻る。
迎えに出てきた隼人に、花音が声をかける前に翔が声をかけた。
「隼人、ただいま。お母さん借りてごめんな。でも、うつしちゃうからオレに近づくなよ?」
なんだ、しっかりしてるじゃん、と思っていたが、その顔はやっぱりしんどそうで。
とにかく寝室に連れてってベッドに横にならせた。すぐに目を閉じるのを見て、ずいぶん無理して体を動かしていたんだな、とため息をつく。
「着替え」
「うん」
生返事を聞いて、だめだな、と、部屋着を出してきて、着替えさせる。
お粥を作って、とりあえず市販の薬を持って部屋に行く。明日も熱が下がらなかったら、病院に連れて行くしかないなと思いながら。
「翔くん、お粥、食べれる?」
額に手を当てて、静かにそう尋ねれば、眠っていた目が開いた。
「手、冷たくて気持ちい」
「そう?」
「お粥どうする?薬飲むのに、少しお腹に何か入れて欲しいんだけど」
「食べる」
クッションを重ねて寄りかかれるようにして、起き上がるのを手伝ってそこに寄りかからせようとすれば、背中に回した腕を挟んだまま寄りかかられた。
「腕が抜けないのよね…」
「このままがいい。花音、食べさせて」
「それなら、両手使わせて」
「やだ」
だいぶ熱、高いな、と思いながらため息をつき、花音はベッドサイドに置いたお粥をなんとか一匙ずつとり、冷まして翔の口に運んだ。
「おいしい」
「よかった」
よかった、と浮かべた笑顔に、翔はもともとリラックスしていた気持ちがさらに落ち着くのを感じる。胸が温かくなる。
「花音にもうつしたら大変なのに…ごめん」
食べている間に頭が少し冷静になってきた。あの女のせいで、頭に血が上っていたせいもあったと思う。
「うつらないよ、大丈夫」
どんな根拠がと思うけれど、そう言って笑みを向けられればほっとしてしまう。
「ごちそうさま」
「きれいに食べてくれて、ありがとう」
そう言いながら、薬を渡してくれる。薬を飲むと、片付けに立とうとする花音が立てないように背中に体重をかけていた。
「翔くん」
「…ごめん」
困惑顔を見て、さすがに腕を抜けるように座り直した。困ったように、花音は立ち上がれずにいる。
そこに、そっと部屋の扉があいた。隼人とレンがのぞいている。
「隼人?」
「翔くん、お熱あるの?」
「そうみたい」
翔が返事をすれば、とことこと入ってきて、翔が空にした食器の乗った盆を持って、そっと歩いて扉まで戻る。
「ぼく、片付けておくよ。おかあさんここにいて?」
「隼人」
「お熱あるとき、1人はいやだから」
「隼人、ご飯は?」
翔が聞けば、翔のご飯を作りながら隼人の分も花音は作って、もう隼人は食べたという。じゃあ花音は、と見れば、作りながら食べたから大丈夫、と笑った。
考える前に、翔はベッドサイドに腰掛けている花音の腰に両腕を回し、しがみつくようにして、脚に頭を乗せていた。
「この格好?」
さすがに驚いた声が頭上から聞こえるけれど、もう、目を開けていられなかった。
布団が引き上げられて、肩までかけられ、その上からぽんぽんと優しく手が置かれるのを感じる。
先ほど額に当てられた手が心地良くて、一度手を離し、花音の手を自分の額に当てさせた。もう一度、腰に手を回せば、もう、心地良く眠りの中に意識は吸い込まれていった。
家に着いたところで携帯が震えた。電話の相手の名前を見て首を傾げる。
「もしもし?」
『あ、もしもし。今、電話大丈夫?』
「はい」
くすっと笑う気配があった。オレにまで敬語って、と呟いているのが聞こえる。
「尚さん?」
『ああ、ごめんごめん。悪いんだけど、今からメールを送る住所に、車で来てくれる?』
「車で?」
聞き返しながら、手を繋いでいる隼人と顔を見合わせた。まだ、玄関に靴を履いたままで2人とも立っている。
『そんなに時間はかからないんだけど。隼人、留守番できるかなぁ』
「ああ…」
首を傾げ、花音は隼人ともう一度目を合わせた。
「隼人、少しお留守番できる?」
電話中だから声を出さずにすぐに頷くのを見て、大丈夫、と電話の向こうに答えた。
普段、こんなことを頼んでくる相手ではないことを思えば、何かどうにもならない状況なのかとは想像できて。まあ、それならそれで言ってくれればいいのにと思うけれど。隼人の年齢を考えれば、少しでも一人で留守番をさせるのは抵抗があるが、年よりはるかにしっかりしているのも、承知している。
電話を切って口を開こうとしたところで、笑った隼人に先を越された。
「誰か来ても玄関は開けない、火は使わない、危ないことはしない」
「OK」
尚からのメールにあった住所をナビに打ち込んで、指示通り地下駐車場に車を入れると分かりやすい場所に尚が立っていた。車を降りるとすぐに近づいてきて苦笑いになる。
「ごめん、そう言えば、何も言わずに来てもらったな」
「何かあったんですよね?かまいませんよ」
「そこはかまおうか」
苦笑いになりながら花音を促した。
「悪いんだけど、兄貴、連れて帰ってくれる?」
翔のことだろうとは思ったけれど。
「連れて…具合、悪いんですか?」
「ちょっとね」
「朝、何も気がつかなかった…」
思いの外しょんぼりしているのに気がついて、尚は思わず笑いながらくしゃっと花音の頭を撫でた。年上のはずなのに、どうもそう見えないことが多い。
「たぶん、朝は普通だったと思う。昼に見かけた時はそんな風に見えなかったから」
でも、そんなに急にはならないだろうから、きっと具合は悪かったはずなのだと花音はため息をつく。自分のことばかりで、翔のことを気にかけていないなと反省する。自分のことに巻き込んで、生活も変えてしまって、きっとストレスになっているはずなのに、全然そんなことは見せずに過ごさせてくれているから。
「あの人、一応役者だよ。それに、オレたちに弱ってるところなんて見せたことなかったし。オレが具合悪いかなって見て取れるくらい、油断できる場所ができたってことだろ」
「そんなに具合が悪いんですね」
「そうとるか」
これは手強いな、と笑いながら尚はエレベーターで上がったフロアに並んだドアの1つを開けた。
ここで待ってろ、と尚に言われて椅子に座っていた。さっきまではマネージャーがいたが、今はマネージャーは目の前の女に追い出されて何かを買いに使いっぱしられている。
「翔、だいじょうぶ?具合悪いって聞いたわよ?」
妙に近い。なれなれしく呼び捨てにするな。そういらつく気持ちを抑え、営業用の笑顔を貼り付けた。弱みなんて、見せたくもない。
「そんなこと、誰かが言ってましたか?高木さん」
事務所の副社長の姪だとかいう彼女は、数ヶ月前に転職してきた。社内では新人でありながら、我が物顔に振る舞う。副社長は出来た人だというのに。
「ところで、浅井さんはどこに行ったんですか?」
自分のマネージャーの居場所を尋ねれば、目の前の女は肩を竦める。
高木は、目の前に座っている「事務所の商品」の肩に手を乗せた。たまたま、一緒にいた前の会社の同僚が、彼が今探しているマネージャーと、彼の弟が話しているのを耳にしたのだ。具合が悪いようだと。弟が席を外した隙に、マネージャーを追い出した。が、どう見ても具合が悪いようには見えない。いつも通りの、一分の隙もない彼は、笑顔を浮かべながらも冷徹な目を細めている。が、彼女には、極上の笑みを向けられているようにしか感じられない。
「あなたの具合が悪いので、何か飲み物を買ってくると言っていたわよ。その間、様子を見ていてほしいと頼まれたの」
「そうですか?」
翔は、目を細めて、腹の中で毒づく。浅井がそんなことをするはずがないのだ。こういう、毒を含んだ女を近づけるわけがない。翔がどれほど嫌うかが分かっているから。なれなれしく触れられている肩が気持ち悪い。手を払い除けたい。
そう思っていたところで、ドアが開く音がした。浅井が帰ってきたのかと、ほっとして顔を向け、翔の顔がこわばった。
(なんだ、そのツーショット)
尚が扉を開け、エスコートするように招き入れられたのは、花音。
いや、この女に花音を見られるのも嫌だった。接点はないが何かの拍子に花音に嫌な思いをさせそうで。嫌な思いをさせたら、花音は居なくなってしまいそうで。
「誰?」
冷たい声が翔の頭上から花音に向けられた。詰問の声に花音が戸惑う顔になる。翔と目が合えば、何を思ったのか花音の目が細められた。
「あんたこそ、誰?」
花音を背中に隠すようにして、尚が口を開く。その尚の仕草が腹立たしい。
「翔の事務所の人間よ。関係者以外立ち入り禁止よ。後ろのあなた、妹さんでもないわね」
「事務所の、どちらの部署の方で、うちの兄のどういった関係者なのか知りませんが、今日の仕事、もう終わりましたよね?弟のオレが一緒に帰ることになっててここにきたんで、とりあえず、出てってもらえます?仕事終わった以上、事務所の方に拘束される必要、ないですよね?」
にっこりと笑顔を浮かべ、尚がさらっと言いながらドアから出るように促した。
憮然とした顔に浮かんだ怒りに、怖い怖い、と肩を竦めながらも早く出て行け、と、無言で出口を尚がさらに示せば、足音荒く出て行く女は、予想通り花音を睨みながら当たろうとする。が、そこは尚が器用に花音を視線からも歩く動きからも隠した。
そうやって、3人だけになってみれば。
不機嫌そうな翔が二人を見上げていた。
「なに、そのツーショット。なんで尚が花音と一緒にいるの」
「花音に迎えにきてもらったんだよ」
尚がそう言う後ろから花音が翔に歩み寄った。椅子に座っている翔の前にしゃがみ、翔の顔を覗き込む。ふいっとそらされる目が熱っぽいのをしっかりと見て取りながら、ふう、とため息をついた。
「具合、悪かったんですね。気がつかなかったです…自分のことばかりで。ごめんなさい」
「花音が謝ることじゃない。それに、家にいる間はそんなことなかった」
「やっぱり、具合、悪いんですね」
翔は不機嫌そうに答えない。不機嫌な翔を見るのは初めてで、花音は困った顔で尚を振り返る。いや、振り返ろうとして、伸びてきた手に遮られた。頬に当たる手が熱い。
「何でそこで、尚を見るの?」
「兄貴、わがまま言って困らせるなよ。隼人、留守番させてるんだから」
「尚、うるさい」
「高嶺さん、ほんと、熱がありそうだから。帰りましょう?」
「やだよ」
「高嶺さん」
「その呼び方、やだ。昔みたいに呼んでくれないなら、動かない。その話し方も、やだ」
「……」
言葉に困って花音はこの、わがままを言い始めた大人を見上げる。ただ、早く休ませたいくらいに、自分の頬に触れている手は熱くて、先ほどの人が出て行ってから、顔にも熱のある様子がありありと浮かんでいて。
「翔くん、帰ろ?」
「うん」
言った瞬間に、この人、こんな顔をするのかと思うくらいに幸せそうな、子どものような顔で笑って、ふわりと花音の首に抱きついてきた。
その体が、熱い。
「翔くん、立てる?」
「このままでいい」
「よくないよ?帰れないから」
見かねて尚が手を貸して立たせようとすれば、巧みにその手をかわされる。
「兄貴、なにしてんだよ」
「やだよ。なんで、花音とお前が、共同作業みたいにオレのこと、運ぼうとするの?」
なに、この、わがままな大人。弟妹たちのことばかりで、しっかり者の顔ばかり見てきた尚にしてみれば新鮮ではあるのだが。花音の困った顔と、ちょっと辛そうな顔を見れば、多分、自分の体をまともに支えられていない翔の重みがかなりまともに花音にかかっている。
「オレが手を貸すのいやなら、とりあえず自分でもう少しちゃんと体支えろ。花音にそんなに体重かけるな。体に障るだろう」
苦虫を噛みつぶしたように尚に言われて、翔はああ、と、立ち上がる。が、立ちくらみをしたようにふらついて、それを一緒に立ち上がらされた花音が結局支えるようになって。
「…兄貴。花音はおあずけ。車まではオレと行くぞ」
「仕方ないな」
そうなった途端に、わりと自分でしっかり立つのだから、意味がわからない。
部屋から出たところで、戻ってきたマネージャーと顔を合わせ、帰る旨を伝えると、彼は困った顔で頷く。高木に追い出されたが気になってずっと近くにいたのだ。尚と入れ替わりに高木が出て行くのを確認していた。
「花音さん、お願いします」
「はあ…」
初対面の相手に名前を呼ばれてきょとんとしながらも頭を下げる花音の肘を掴んで、翔は引っ張る。
尚と並んで歩き、花音の肘を引いて行く翔の後ろ姿は、見ている分にはいつもどおりで。弱みを見せないよなぁ、と浅井は苦笑いで見送った。おそらく、どこかのタイミングで高木から今日のことで何か言われるだろうと憂鬱になりながら。
一緒に車に乗ろうとすれば、尚は来るなと翔に拒絶され。家に着いてからちゃんと歩けよと念を押して尚は諦めた。まあ、自分が送ると言えば、あの家に自分たちが行って花音と仲良くして、自分と彼女の時間を取られると嫌がる翔が頷くわけもなかったので、花音を呼んだわけだが。
だが、あの甘えぶりは想定外だった。まさか、花音に身を預け切ってしまうとは。
「花音、悪かったな」
「ううん、教えてくれてありがとうございました」
運転席を外からのぞいて言えば、花音はそう言ってから、小首を傾げた。そして、不意に手が伸びてきて、よしよし、と頭を撫でられる。
「尚くん、心配だったんですね。お兄ちゃんのこと。大したことできませんが、帰ってから1人じゃないだけ、安心できますか?」
「花音、オレ、年下だから。敬語、いらないからな?」
「尚、お前、帰れ」
少し背中を倒した助手席から身を起こした翔の手が伸びてきて、花音を抱え込むのを見て、尚は笑うしかなかった。この独占欲。どうしようもないな、と。
「翔くん、歩ける?」
助手席に回れば、手が伸びてくる。とりあえずそれを取って立ち上がるのを待てば、そのまま後ろから抱きついてきた。
「…さすがにおんぶはわたしにはできないんだけど。歩ける?」
「このまま歩く」
「…はいはい」
地下の駐車場から、そのままエレベーターで居住階に上がれる造りで良かったと思いながら、背中に張り付かせたまま花音は家に戻る。
迎えに出てきた隼人に、花音が声をかける前に翔が声をかけた。
「隼人、ただいま。お母さん借りてごめんな。でも、うつしちゃうからオレに近づくなよ?」
なんだ、しっかりしてるじゃん、と思っていたが、その顔はやっぱりしんどそうで。
とにかく寝室に連れてってベッドに横にならせた。すぐに目を閉じるのを見て、ずいぶん無理して体を動かしていたんだな、とため息をつく。
「着替え」
「うん」
生返事を聞いて、だめだな、と、部屋着を出してきて、着替えさせる。
お粥を作って、とりあえず市販の薬を持って部屋に行く。明日も熱が下がらなかったら、病院に連れて行くしかないなと思いながら。
「翔くん、お粥、食べれる?」
額に手を当てて、静かにそう尋ねれば、眠っていた目が開いた。
「手、冷たくて気持ちい」
「そう?」
「お粥どうする?薬飲むのに、少しお腹に何か入れて欲しいんだけど」
「食べる」
クッションを重ねて寄りかかれるようにして、起き上がるのを手伝ってそこに寄りかからせようとすれば、背中に回した腕を挟んだまま寄りかかられた。
「腕が抜けないのよね…」
「このままがいい。花音、食べさせて」
「それなら、両手使わせて」
「やだ」
だいぶ熱、高いな、と思いながらため息をつき、花音はベッドサイドに置いたお粥をなんとか一匙ずつとり、冷まして翔の口に運んだ。
「おいしい」
「よかった」
よかった、と浮かべた笑顔に、翔はもともとリラックスしていた気持ちがさらに落ち着くのを感じる。胸が温かくなる。
「花音にもうつしたら大変なのに…ごめん」
食べている間に頭が少し冷静になってきた。あの女のせいで、頭に血が上っていたせいもあったと思う。
「うつらないよ、大丈夫」
どんな根拠がと思うけれど、そう言って笑みを向けられればほっとしてしまう。
「ごちそうさま」
「きれいに食べてくれて、ありがとう」
そう言いながら、薬を渡してくれる。薬を飲むと、片付けに立とうとする花音が立てないように背中に体重をかけていた。
「翔くん」
「…ごめん」
困惑顔を見て、さすがに腕を抜けるように座り直した。困ったように、花音は立ち上がれずにいる。
そこに、そっと部屋の扉があいた。隼人とレンがのぞいている。
「隼人?」
「翔くん、お熱あるの?」
「そうみたい」
翔が返事をすれば、とことこと入ってきて、翔が空にした食器の乗った盆を持って、そっと歩いて扉まで戻る。
「ぼく、片付けておくよ。おかあさんここにいて?」
「隼人」
「お熱あるとき、1人はいやだから」
「隼人、ご飯は?」
翔が聞けば、翔のご飯を作りながら隼人の分も花音は作って、もう隼人は食べたという。じゃあ花音は、と見れば、作りながら食べたから大丈夫、と笑った。
考える前に、翔はベッドサイドに腰掛けている花音の腰に両腕を回し、しがみつくようにして、脚に頭を乗せていた。
「この格好?」
さすがに驚いた声が頭上から聞こえるけれど、もう、目を開けていられなかった。
布団が引き上げられて、肩までかけられ、その上からぽんぽんと優しく手が置かれるのを感じる。
先ほど額に当てられた手が心地良くて、一度手を離し、花音の手を自分の額に当てさせた。もう一度、腰に手を回せば、もう、心地良く眠りの中に意識は吸い込まれていった。
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『ベルトランはね、あたくしに相応しい爵位を得ようと必死なのよ。でも時間がかかるでしょう?だからその間、隠れ蓑としての婚約者、よろしくね』
可愛い見た目に反するフィロメナを貶める言葉に衝撃を受けるも、フィロメナはベルトランにも確認をしようとして、機先を制するように『マリルー王女の警護があるので、君と夜会に行くことは出来ない。今後についても、マリルー王女の警護を優先する』と言われてしまう。
更に『俺が同行できない夜会には、出席しないでくれ』と言われ、その後に王女マリルーより『ベルトランがごめんなさいね。夜会で貴女と遭遇してしまったら、あたくしの気持ちが落ち着かないだろうって配慮なの』と聞かされ、自由にしようと決意する。
『俺が同行出来ない夜会には、出席しないでくれと言った』
『そんなのいつもじゃない!そんなことしていたら、若さが逃げちゃうわ!』
夜会の出席を巡ってベルトランと口論になるも、フィロメナにはどうしても夜会に行きたい理由があった。
それは、ベルトランと婚約破棄をしてもひとりで生きていけるよう、靴の事業を広めること。
そんな折、フィロメナは、ベルトランから、魔法騎士の特別訓練を受けることになったと聞かされる。
期間は一年。
厳しくはあるが、訓練を修了すればベルトランは伯爵位を得ることが出来、王女との婚姻も可能となる。
つまり、その時に婚約破棄されると理解したフィロメナは、会うことも出来ないと言われた訓練中の一年で、何とか自立しようと努力していくのだが、そもそもすべてがすれ違っていた・・・・・。
この物語は、互いにひと目で恋に落ちた筈のふたりが、言葉足らずや誤解、曲解を繰り返すうちに、とんでもないすれ違いを引き起こす、魔法騎士や魔獣も出て来るファンタジーです。
あらすじの内容と実際のお話では、順序が一致しない場合があります。
小説家になろうでも、掲載しています。
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