世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

7-1.休日

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 軋む蝶番の音。踏み入れた瞬間に襲いかかるのは埃とカビの匂い。
 窓のない空間では、手元の蝋燭だけが唯一の光源。喉には悪そうだが、こっそり愉しむのであれば悪くない環境だろう。
 ここが誰からも忘れ去られた場所でなければ、の話だが。
 扉が閉まれば完全に一人。静かな空間の中、潜む影などいやしない。
 慢心ではなく、事実として。こんな所に来る変わり者は存在しないのだ。
 ……たった一人、クラロだけを除いて。

 件の『朝這い』事件から一週間。初めの数日はベッドから立ち上がることさえままならなかった。
 状態異常に対して発動する魔術の反動。本来は人が耐えられないはずの毒を無理矢理浄化し、正常に戻すだけの強制力。
 クラロの意思で発動できないとはいえ、そんなものを何十回と使用していたのだ。身体に負荷がかかるのは当然のこと。
 高熱と、それに伴う関節痛。倦怠感と、さらには意識の混濁まで。
 アモルに看病された記憶がうっすらとあるが、それもあの男の命令だろう。
 クラロが自力で動けるようになったのは四日目から。そこから今日までは、食事と薬のみが置かれていた状態。
 書き置きにて言い渡された休日は一週間。つまりは、今日がその最終日。
 熱は下がり、体調も万全……とは言えないが、動ける程度には戻った。
 本来なら大人しく部屋にいるべきところ。
 だが、薬の調合も終え、寝ることもできず。暇を潰すこともできないのなら、すべきことをしなければならない。
 普通の奴隷なら、休日でも淫魔様に奉仕したいと持ち場に向かうか、町に繰り出し使っていただける場所へ行くか。結局、随まで染みついた欲求に従うことには変わらない。
 淫魔に存在を忘れられた場所に来るのは、それこそクラロだけ。

 通称、旧映像室。淫魔の悪趣味な楽しみ方の、その代表格だった場所。
 文字通り、魔術によって石に記録した当時の光景を、同じく魔術を用いて再現させる仕組みだという。
 旧、と名前が付いているのでお察しの通り、既に新しい部屋は城の中枢部に置かれ、そちらは一日中大盛況であるという。
 映す光景の大半は記録しているご奉仕や、処刑の一部など。人間史の記録など、今は数える程も流されていない。
 ここに残されているのは、興味を失われた過去の遺産。どれだけ使われようと、飽きれば捨てられるのは物も人も同じ。
 ……いや、人間としての権利などとっくになかったか。

 埃の跡をたどり、印の残った位置から引き出しごと抜き取る。
 手の平サイズの箱の中。歩く度に揺れるのは、乱雑に詰められた、小指サイズの球。
 辿り着いた中央、テーブルとソファーのセット。そこに置かれた機械の前へ。 
 慣れた手つきで石を設置し、流した魔力によって映し出されるのは、今や日常となってしまった淫魔と奴隷のお楽しみの風景。
 分かりきっていたこと。だからこそ、交換する手つきもまた素早く、そして動じることもない。
 黒から白に。静寂に嬌声が響き、再び黒に戻る。一つの動作に必要な時間は十数秒。流れる映像の時系列は不明。その大半が、クラロにとっては外れでしかない。
 違うと確認するだけの作業。休日の過ごし方としては、あまりに無意味な時間。
 それでも違う引き出しを手に取るのは、クラロがそうしなければならないからだ。
 ここに来て間もない頃。まだこの部屋が使われていた当時。数秒だけ見た、あの光景。
 すぐに追い出されたが、今でも忘れることはできない。
 あれが、あれこそがクラロがこの生活を続けるに至った決定打。
 城下に紛れず、仲間を見つけることなく。この淫魔だらけの場所で、ただその時を待つようになった最たる理由。淫魔に向けるべき怒りをねじ曲げられた瞬間。
 たった数秒でも見間違うことはない。それでも探し続けているのは、確かに縋れる何かが欲しかったのだろう。
 見たところで何も変わらないし、何も解決しない。ここに残った全ては過去であり、求めたってどうしようもない。
 虚しい作業だ。理解している。これはただの自己満足であり、ただ逃げているだけなのだと。
 それでも……そう、少なくとも今は、部屋にいるよりはずっと有意義だ。
 延々と思い出し、考え込むくらいなら。こんな無駄な作業でもしないよりはマシ。
 魔力が乱れ、映像は流れず。分かりやすい動揺に息すら出ない。

 一週間。……そう、あの忌々しい事件から、まだ一週間。
 身体の影響が無くなっても、忘れ去るにはあまりにも日が浅すぎる。
 目覚めるなり襲われ、半日かけて弄ばれ。最後には結局、力尽くで鍵を奪われ。なのに、今もクラロは無事である。
 傷は深かったが、それでも最悪は免れている。本来ならとうにこの身は公然に晒され、他の奴隷同様見せしめにされていたはずだ。
 自害も許されず、奴らが飽きるまで。死を望むほどの苦痛を感じながら、永遠に。
 だが、実際は何も変わっていない。それどころか、まだ貞操さえも守れている。

 数日の内は都合のいい妄想と思っていたが、一週間も経てば現実を受け入れるしかない。
 理解はしても、納得はできず。何度も思い返す言葉に、今でも笑いがこみ上げる。
 ああ、本当に。なんて馬鹿馬鹿しい。あろうことか、淫魔が奴隷を愛しているなど。
 騙すにも適切な嘘があったはずだ。どんな浮かれた馬鹿でも、そんな言葉を誰が信じるというのか。
 まんまと信じた奴隷を嗤い、弄ぶぐらいしか考えられない。だが、それは普段から優しく接しているからこそ通用する手であり、最初から警戒している相手に通用するわけがない。
 あの男の行動は、単に好機を逃しただけ。
 鍵こそ返されたが、あの男のことだ。クラロの知らぬ間に複製しているだろう。あの錠が作り直せないことも分かっているはず。
 もはや、最後の砦は意味の無い物に成り下がってしまった。
 そう、だから。あの男が望めば、いつでもクラロを犯すことができる。クラロの意思に関係なく、この遊びに飽きたその時点で。
 逆に言えば、その時まで遊び続けることができるということだ。だから、あの時はまだ犯されなかっただけ。まだ遊ぶ価値があると思われているだけ。
 ……だとしても、なぜ犯さなかった?
 あの男にとっては絶好の好機。その為だけに専用のスライムを飼育し、半日もかけてクラロを追い詰めた。
 彼にとっては待ったにも入らない時間でも、その目的はクラロを犯すためだったはず。
 なのに、なぜ。

「――お兄ちゃん!」

 視界が突然明るくなり、壁が白に染まる。
 止まったままの手元、引き出しにかけたままだった指から、弾かれたように後ろへ振り返る。
 懐かしい声。だが、それに答えたのは自分ではなく、同じく聞き覚えのある少年。壁に映し出された少女たちが走り去る光景の中、見えたのは、あまりにのどかな村の光景。
 耕されていく畑。井戸の前に集まる女性たち。建てられた小屋の位置さえも、クラロは全て覚えている。
 もう見ることのない光景。もう、訪れることのない場所。ずっと暮らしていた、故郷の、

「探していたのはこれ?」

 それは、過去からではなく、今のクラロに対して投げられた。
 独りでに機械が動くはずがないと、考えなくても分かること。
 先ほどまで座っていたソファーの端、男がいつからそこにいたかなんて……それこそ、愚問。
 壁ではなく、呆然と立つクラロを見る赤い瞳。過去の映像は不自然に止まり、聞こえるのは己の鼓動ばかり。
 自分がどんな顔をしているかもわからず、唇を噛んでいては言葉も出ない。
 一週間ぶりの再会。まさに今考えていた相手との、望まぬ対面。

「もう調子はよさそうだね。……そこじゃ見えにくいだろう?」

 おいで、と。空いたスペースを撫でながら男が促す。否、それは命令だ。
 逃げられないとクラロは分かっている。足掻いたところで無駄。どうせ部屋も施錠されているのだろう。
 試すだけこの男を喜ばせるだけだと、身体は示された場所へ腰を落とす。
 素直に従ったクラロに満足したのか、男の視線は前に。
 かつての光景は時を取り戻し、虚しい喧騒は再び部屋を満たした。
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