世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

10-5.お茶会

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 お茶を飲め、というのはモノの例えだと思っていたが、眼前の光景を見るに冗談ではなかったようだ。
 細やかな装飾が施された茶器に満たされる赤茶色。揺れる水面に映る顔は、この状況に戸惑っていることを隠しきれていない。
 エリオット同様、適当な部屋か静かな場所に連れて行かれると思っていたのに、どう考えてもここは彼が仕える淫魔の執務室。
 ベゼの部屋と似ているが、圧倒的に置かれている物が少ない。執務机と椅子。以上。
 この場所を重視していないことがよく分かる。故に、立ったまま紅茶を頂くことになっているのも仕方のないこと。
 用意した男は、確かにこの部屋に入れる権利を持っている。あんなやり取りでも許可と言えば確かにそうだ。だが……いくら専属とはいえ、ここまで勝手にしていいものなのか。
 クラロの中で想像していた関係が揺らぎ、これも普通なのか、それとも異常なのか。区別がつかなければ、出されたカップに触れることもままならない。

「媚薬の耐性は?」

 そんなクラロを弄ぶよう、隣に並んだ男に問いかけられ、思わず聞き返さなかったことは褒められてもいいだろう。
 冗談を疑ったが、向けられる視線は真剣そのもの。極真面目に問われていると気付き、困惑は増すばかり。

「……あります、が、それが……?」
「いえ。いくつかお菓子もありましたが、どれが仕込まれたものか覚えていないので。……食べますか?」
「冗談ですか?」

 媚薬が入っていると知って食べるのは『食事会』だけで十分だ。新手の罠か。いや本当にこれがこちらでの冗談なのか?
 表情が変わらないせいで真意がわからない。現に、冗談ではないと首を傾げるそれは演技なのか、素なのか。

「では、お茶だけになりますが」
「……これには何も入っていませんよね?」
「仕込まれた記憶はありませんし、試すならまず私にですから」

 もはや何に突っ込むべきだろう。媚薬を盛られるのが日常茶飯事なことか。本気でお菓子を出そうと考えていたことか。冗談の欠片もなく、全て真面目に受け答えしていることなのか。
 微かな頭痛に眉間を押さえ、考えても無駄だとカップを傾ける。
 鼻をくすぐる香りに反して甘さはなく、紅茶特有の渋みを飲み込んで……身体の違和感がないのを確かめて、息を吐く。
 クラロに倣って同じくカップを傾ける仕草から、その真意は見えない。
 一つ括りの銀髪に、黒い瞳。細フレームの眼鏡。シンプルなワイシャツと黒のズボン。クラロが着せられている服と同じ仕組みが施されているようには見えない。
 ラディアの趣味か、男の嗜好か。後者として、奴隷の希望が通るものなのか。
 こうして勝手に紅茶を振る舞い、お菓子まで食べさせようとしている時点で普通ではない。
 そもそも下級ならともかく、上級での普通とはなんだ。専属だから許されるのか。どこまでが奴隷の……ああ、キリがない。

「レニウス様」
「レニウスでいいです。さっきの奴隷と話していた方が素なら、楽な方で喋ってかまいません」
「……わかった。で、俺に話って?」

 そもそも奴隷に先輩も後輩もないのだから押し問答は無駄と切り捨て、本題を優先させる。
 わざわざ話があると言ったぐらいだ。自分の正体を知っているなら、それは……聖女に関係することのはずで。

「特には」
「…………はぁ?」

 今度こそ、声に出してしまったクラロを誰も責めるまい。
 ごくごく真面目に、真顔のまま。いかにも真剣な話をするという雰囲気で、まさか何もないなど。

「あのまま留まっていたら、ラディア様のサボりを観察させられそうだったので、言い訳に使いました。……見たかったのなら戻りますか?」

 包み隠さぬあたりは潔いが、利用されたと考えれば思うところはある。かといって、見たかったわけではないし、離れられたのはクラロとしてもありがたい。
 互いの利益が一致した結果だと納得させれば、浮かび上がるのは新たな疑問。

「アンタはよかったのか? ……専属なのに」
「他の奴隷で遊ぶのはいつものことです。それに、喘ぎ方を覚えろと言われても、聞くだけで覚えられるならとっくに覚えています」
「……そもそも、なんで覚える必要が?」

 なぜ、どうしてと。質問攻めにしている自分がまるで幼子のように思えてくるが、掴めない答えのせいでどちらが子どもか分からなくなってきた。
 専属になるにはこれぐらい癖が強くなければいけないのか。それとも、王族の専属だからこそ癖が強いのか。
 だとしても、喘ぎ方を覚える? 全く意味が分からない。あんなの、出したくなくても出てしまうものなのに。

「ああ、そうか」

 怪訝な顔に、クラロの疑問を読み取ったか。やや沈黙し、それから思い至ったと上がる声は、これまでより数段高い声。

「不感症なんです、私」
「……ふかんしょう?」
「ええ。厳密に言うと、性行為が始まると身体は反応するのに、脳が認識しないみたいで。身体は感じているけど、快楽が伝わっていないというか……生きているような人形、と言えば分かりやすいかと」

 いまいちピンとはこない。だが、言いたいことは分かる。
 淫魔が行う処罰の中にも、快楽だけを遮断させて後から認識させるものがあった。レニウスの身体は、それが勝手に行われているのだろう。
 にわかには信じがたいが、クラロの媚薬耐性も特殊体質と言える。奴隷にとっては致命的なはずだが、それが逆に眼鏡に適ったのだろう。
 身体の反応は文句なし。だから、あとは喘ぎ方だけ……と言われれば納得もいく。

「王城に入った頃は既にこうだったので、生まれつきでしょう。専属になりたての頃には他の専属にも説明していたんですが、続く者が少ない割りに新しいのが次々とくるので……他の皆様は既に知っていたことも含め、失念していました」

 本当に忘れていたのだろう。専属奴隷の入れ替わりが激しいことはクラロも知っている。すぐいなくなるだろう相手に一々自己紹介など、それこそ無駄でしかない。
 クラロだって、下級にいた頃はそうだった。入ってきては早々に上級に成るか、別の配属になるか。望んであの最下層に居座っていたのだ、去る者を見送るのが多いのは当然。
 この男がクラロを利用したのもわかった。ラディアの発言の意味も理解した。では、どうしてクラロにそれを話したのか。
 その理論で言えば、クラロだってすぐに出ていく側のはずなのに。

「どうして、それを俺に?」

 世間話の一環。聞かれたから。特に意味はない。そんな回答だろうと踏みながら、問いかけたのは答えを確かめたかったからなのか。

「ウェルゼイ様の専属ですから」

 どれでもない答えに強張った表情は、瞬く黒にどう映ったのだろう。僅かに笑む唇に、嘲笑の意味はなかった。

「関わる機会は少ないですが、あの人が本気かどうかくらいは分かります」

 レニウスの手元でカップが傾き、クラロの指は動かないまま。喉の渇きを覚えても飲み込む気になれず、唇の力が緩まない。
 他者の目からしても分かるほどだ。実際にその猛攻を受けていたクラロに自覚がなかっといえば、嘘にはなる。
 ただの奴隷を、あんな手間をかけてまで追い詰めようとはしないだろう。だが、それはクラロが聖女の息子で、普通の奴隷ではなかったから。
 求めた理由はクラロ自身ではなく、面白かったから。他と違っていたから。変わり種がおいしいのは、初めのうちだけ。
 どんな珍味も、味わい尽くせばそれで終わり。

「……あんたは、専属になって、どれぐらいになるんだ」
「五年にはなるかと。たまたま通りかかったラディア様に面白がって拾われたので、正確には覚えていませんが……」

 一か月でも長いと言われるのに、年単位となればベテランとも言える。専属になる前から淫魔に仕えているなら、実際はもっと長く……それこそ、幼い頃からここにいたのだろう。
 淫魔に支配され、そのまま務めることになった者は多かったという。彼もその一人だったのだろう。
 だからなのか、他の奴隷に比べて落ち着いているように見える。それは時間が与えた余裕であり、その中に達観も含まれているはず。

「専属から下ろされることを考えたことは?」
「ありますよ。そのうち飽きられるとは思っていますし、仕方のないことかと」
「……怖くはないのか」

 今の人間にとっては、淫魔に仕えるのは何よりも勝る至高。レニウスがその思考に染まっていなくても、下級と上級の扱いの差はクラロも身をもって体験した。
 専属を外された奴隷は、その多くが下級に戻される。酷ければ町に放られ、それこそ物のように扱われ、最期には廃人だ。
 人としての尊厳を取り戻しかけたところで、再びモノとして扱われれば、心を折るには十分過ぎる。辿りたくはない末路。口に出さずとも、それを恐れている者はいたはずだ。
 だが、クラロの問いかけた男は首をすくめ、笑う。

「淫魔様の考えていることは、人間にはわかりませんから」

 だからもう諦めたと、穏やかに。それこそ、受け入れきったのだと、疑う余地もなく。
 クラロが自身に言い聞かせていた言い訳ではない、本心からの言葉に、これ以上何が言えたというのか。

「あなたは怖いんですか?」

 だからこそ、問いかけはクラロではなく、問われ続けていた男の口に引き継がれる。
 愚問だ。怖いに決まっている。もうクラロの命は、あの男に握られているのも同然だ。
 今はまだ面白いと思われているから、こうでもしないと堕ちないと思われているから、まだ生きていられている。
 聖女の息子と暴露され、逃げ道も全て塞がれて。あの男の保護下でなければ息もできない状態にまで追い詰められて。それで怖くないなんて、虚勢にも程がある。
 逃げて、逃げて、逃げ続けて。それでも捕まって、手を引かれて。いつ、突き落とされたっておかしくはないのに。
 口を開き、されど舌は突き出せず。噛むことを諦め、息だけが漏れる。
 ……どうせ、今のも止められると、分かっていたから。

「気休めになるかわかりませんが、私が覚えている限り、ウェルゼイ様は一度も専属を迎えたことはありませんでした」

 カップに落ちた視線がレニウスに戻る。黒は交差せず、見つめるのは思い出そうとする過去か。

「付き従っているわけではないので可能性はあるでしょうが、普段から遊んでいる様子もなかったですし、夜会でもアスリモディア様と一緒に傍観していることがほとんどでした。そう言った意味では、淫魔らしからぬ方ではありますが……」
「……アス……なんだって?」
「アスリモディア様。研究所局長の……あなたもよくご存知では?」

『オイラッスよ~!』と、頭のなかのアモルが満面の笑みで手を振る姿がよぎる。
 あれも偽名であったのかと納得し、到底覚えられそうにないと記憶の片隅に追いやる。
『いちいち奴隷にオイラの名前教えるのなんて面倒ッスからね~!』と、追い打ちのような幻聴も同様に。

「ウェルゼイ様には、それだけ相手にこだわりがあったんでしょう。実際物持ちもいいですし、他のお二方に比べれば丁寧に扱っています」

 だからと、向けられる黒は柔らかく。まるで、それが真実のように紡ぐ。

「そう簡単に捨てられることはありませんよ」

 ぱちり、瞬く。満足そうに言い切られて、咄嗟の否定は喉の奥に。
 確かに、クラロは恐れている。捨てられた先にある結末を。自分が人としての尊厳を失い、モノのように扱われることを。
 ただの肉の袋として、死ぬことも許されないモノに成り果てることを。
 せめて人として死ぬことを。最後の最後まで足掻き、その果てに得られる最期を。
 捨てられることは、その過程でしかない。クラロの呪いがとけて、彼の望む関係になって。そうして、満たされきった後に迎える結末が怖いのだ。
 だから、捨てられるのが怖いんじゃない。それは違う。違うはずだ。だって、それが怖ければおかしいじゃないか。
 それでは、まるで、

「おいおい、本当にやってたのかよ」

 声に弾かれ、見上げた先。帰ってきた部屋の主人に背を正す。呆れながらもどこか満たされているのは、エリオットが舌に合ったのだろう。
 それだけの時間が経っていたことを突きつけられ、冷めた紅茶はラディアの手に取られる。
 飲みかけも気にせず流し込み、唯一の椅子に座る動作は流れるように。その間、自分のカップを片付けるレニウスの動きもまた洗練されたもの。

「お前が他の奴隷を気にかけるなんてな。そんなに気に入ったか?」
「ウェルゼイ様に捨てられるのが怖いと言っていたので、励ましていたところです」
「ち、違っ……!」
「はぁ? ないない、あいつがどんだけ執着してると思ってんだ?」

 下手な冗談だと笑われ、否定が潰える。
 彼らの目には本気に見えているのだ。クラロがどう感じようと、それが真実なのだと。

「俺らにしちゃ多少長い方だが、十年も待つなんざ悪趣味すぎるだろ」
「……十、年?」
「あ? なんだお前、専属になったのに知らなかったのか? だったら言うことはねぇよ、下手に噛み付かれたくないからな」

 しっし、と手で払われ、問うことさえはね除けられる。
 十年。十年も、待った? 誰をなんて、この期に及んでとぼけるつもりはない。

「まぁ、そんでも怖いっつうなら、次は俺が拾ってやるよ。お前と絡ませるのも面白そうだ」
「……その場合、私は突っ込む方でしょうか。それとも突っ込まれる方でしょうか」

 この短時間でも、その質問が冗談ではなく本当に疑問であるのは理解できる。クラロとしてはどちらも遠慮したいが、大先輩にとってはどちらも大差ないと言わんばかり。

「そういやお前童貞だったか。奴隷同士なら文句言われないだろ。ヤっとくか?」

 もはやお茶でもするか、のノリである。半ば命令にも聞こえるが、まだ選択権があるだけ下級よりも待遇はいいのだろう。
 こんな場所でもまざまざと見せつけられ、首を振るのは否定か、諦めか。

「……いえ、そろそろ戻ろうかと」
「その気になりゃいつでも来な。遊んでやる」

 カップはペンに、ソーサーは書類へ。立ち位置が変わったのが、茶会が終わる合図だった。
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