世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

10-4.愚者と支配者

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 甲高い耳鳴りは、うなじの痛みを伴わず。純粋な声量によってもたらされたものだ。
 脳内に反響する四文字。顔を真っ赤に染め、目を潤ませ、決死の思いで叫んだことは瞳からも掴む腕からも、文字通り痛いほどに伝わってくる。
 パチリ、瞬き、噛み合っていく違和感。ただ懐いているだけでは説明できない執着。何度も痴態を見て、当然だと思うことも、受け入れるでもなく。それなのに、関わってこようとした理由。

「あなたのことが、ずっとっ……初めて会ったときから! あなたを愛しているんですっ! 淫魔様じゃなくて、あなたをっ!」

 整理している間も、エリオットの訴えは止まらない。強調するのは、いつぞや淫魔に恋慕していると言ったことへの裏返しか。
 食い込む指。震える腕。真っ赤になりながら、瞳はギラギラと輝いて、そこだけが異様。
 呆気にとられるクラロをどう捉えたか、エリオットはますます必死に声を荒らげる。

「俺はっ、俺にできることは少ないかもしれないけど、でもっ! あなたを、助けたいんですっ!」

 夢中なあまり、自分が何を口走っているかも分かっていないのだろう。
 それとも、それは耳鳴りに遮られた故の聞き間違いだったのか。

「あなただってっ……本当はこんなこと、望んでいないはずだっ!」

 そうやって誤魔化そうとしても勢いは止まらず、瞬きは細められる。
 ああ、ああ。確かにこれは、外では言えないことだ。
 あろうことが奴隷が、淫魔に仕えることを拒否するなどと。従っているフリをして本当は嫌がっているなんて、罰を与えられて然るべきだ。
 見つかったが最後、それこそ磔だけでは済まないだろう。上級奴隷から晒し者へ転落するなんて、普通なら考えただけでもおぞましい。
 だからこそ、思い込みとはこれほどまでに、人を愚かにしてしまうのだ。

「あ、あなたが望むならっ、僕はなんだってできます! レジスタンスの力がなくてもっ、僕にだって……!」

 信じてほしいと。嘘ではないのだと。まるで子どものように駄々を捏ねるエリオットは、まだ過ちに気付かない。

「ここから、あなたと逃げることだって――!」

 そこで、いよいよ耐えかねた。抑えられなかった音は喉から漏れ、断続的に響く。
 肩が揺れ、喉が震え、笑う音はエリオットの言葉を遮るに十分だったらしい。

「く、くくっ……」
「せ……先輩……?」
「ははっ。……エリオット、お前、そんな冗談も言えたんだな」

 ただでさえ真っ赤になった顔が濃度を増す。これでは本当に子どもの癇癪のようだ。
 年はそう離れていなかったはずと、どうでもいい記憶を引っ張り出せる程度には、クラロは冷静なのだろう。
 そうでなければ、こんな発言を笑い飛ばすなんて到底できなかった。

「冗談じゃありません! 僕は本当にっ……!」
「なら、どうやって?」

 揺れる青に映り込む笑顔。交差する薄水色に温度はあったのか。映り込む姿からは読み取れず、自分自身でもわからない。

「どう、って……」
「聞いているのは俺だ、エリオット」

 顔を近付ければ、一歩距離を開けられる。更に一歩と縮めれば、面白いぐらいに追い詰められていく様を水色が嗤う。
 人間である自分に対しても怖じ気付くのに、何を、どうすると?

「お前も見た通り、俺はウェルゼイ様の専属になり、お前は上級奴隷。そして、ここは淫魔サマの中でも魔力の高い方々が集う中枢だ」

 やがて退路はテーブルに阻まれ、逃げ場を求めた手は天板に触れる。いよいよ距離は詰まり、強張る青は逸れず。

「下級の淫魔どころか、俺にさえ怖じ気付くちっぽけな人間が、俺をどうするって?」

 肩を押せば容易に倒れる身体。股の間に膝を乗せれば、呑まれた息に含まれた熱を鼻で嗤う。
 ずっと逃げたいと思っていた自分が、逃げられないと悟ってから突きつける側に回るなど。なんて、馬鹿馬鹿しい。

「イかされてる所を見て、俺の正体を知って、可愛がられている所も見て。……それで、全部分かったつもりか?」
「せ、せん、ぱ……」
「淫魔をなすりつけるために利用されたとも気付かなかったくせに」

 僅かに見開く瞳が、それを何よりも裏付けている。
 元より知らせるつもりはなかった。そもそも、そんな機会などないと分かっていたから。
 ほとんどの奴隷は上級に成ればクラロのことを忘れ、淫魔へのご奉仕に夢中になる。
 本当は彼も怯えていたと、そう望んでいなかったと知ったって……それが想いに答えなければならない理由にはならないのだ。
 だって、結局は誰も逃げられないのだから。

「お前のそれは、心細いときに親切にしてくれた相手に対する依存であり、好意じゃない。傍にいれば安心するなんて理由だけで付き纏うなんて、本当に犬みたいだな。……いや、まだ犬の方が利口か」

 滑らせた手は、胸の上。皮膚を破らんとけたたましく鳴る心臓を押さえつけるように添え、息が触れ合うほどの距離から囁く。
 刻み込むように。忘れないように。その感情がいかに愚かで、馬鹿馬鹿しいことか、理解できるように。

「お前は俺を助けられないし、俺は誰も助けない」

 熱が離れ、見下ろした先にいるのは支配される側の存在だ。間違っても己を奮わせ、無謀に立ち向かえるような姿ではない。
 だが、指摘されなければ気付けなかったのだ。エリオットも。そして、そうだと分かっていたクラロだって。
 これではただの八つ当たりだと、唇は醜く歪み、笑みの形を作る。青が滲む様を見ても、胸にのしかかる重さからは解放されない。

「おいおい、もう仕舞いか?」

 低音が耳を撫でる。聞き慣れずとも覚えのある声。肌を舐めるのは強い魔力と吹き出た汗の感触。
 弾かれるように振り返った先。開かれた扉の前、入り込む影はまだ記憶に新しい。
 連鎖して思い出すのは、忌々しい『散歩』の記憶。無意味な会議。そして、ウェルゼイから兄と呼ばれた存在。

「……ラディア、様」
「面白そうなことやってんじゃねえか。いいぜ、続けろよ」

 重々しい足音が近づけば、後に控えていた銀髪が視界に入り込む。表情を変えずに男の背を見つめる姿もまた、あの時と変わらぬ姿。

「どうした? 別に悪い事してたわけじゃないだろ」

 まさしく面白い玩具を見つけたと言わんばかりに赤は爛々と輝き、吊り上がる唇は愉しそうに歪む。注がれる視線はクラロではなく、慌てて起き上がったエリオットに対して。
 何故ここに、なんて愚問だ。騒ぎに気付いて様子を見に来たのだろう。
 ああ、だから静かにしろと言ったのに。

「……いいえ。もう話は終わりましたので」
「なら、俺が使ってもいいわけだな?」

 背後で響くのは、性懲りもなく後退ろうとした音だろう。狭い部屋の奥、既に足は宙に浮き、さながら食卓に載せられた皿の上。一体、どこに逃げられるというのか。

「えぇ、俺の分まで可愛がってあげてください」
「な、っ……!」
「全く、ウェルゼイのじゃなけりゃ一緒に喰ってやったのに……まぁ、そっちのも不味くはないだろ」

 淫魔にとって、聖職者の血が流れた者はご馳走に分類される。
 聖女の血が流れているクラロほどでなくとも、エリオットもまた系統は同じ。
 だからこそ彼はここにいて、まさにその欲を満たすための餌になっている。
 道を譲れば、すれ違った赤がクラロと交わることはない。
 これもあの男の専属であることの恩恵かと考える中に、エリオットへの心配は僅かにもない。

「ひ……っ……!」
「おいおい、どうした。まだ何もしてないだろ? する前から嬉しくて勃ってんのか?」
「あっ、ち、ちがっ……お、俺っ……!」
「……ラディア様。まだ仕事が残っていますので、程ほどになさってください」

 苦言は扉の外で待っている、彼の専属奴隷から。眼鏡越しに咎める黒い瞳は、やはり奴隷にしては気安いもの。
 それはクラロも同じかと隣に並べば、笑う声は後から投げかけられる。

「暇そうな奴隷にご奉仕させんのも仕事のうちだろ? なんならお前もそこで見て、ちょっとは喘ぎ方でも覚えたらどうだ?」
「ありがたいお申し出ですが、彼と話がしたいので。……この後、予定は」

 彼、と示され、水色は瞬く。話を振られると思っていなかったと顔に出せば、向き直った黒に淡々と問われる。

「な、にも」
「それなら俺の執務室で茶でも飲めばいい。暫くはこっちに忙しいからな」
「では遠慮無く。……行きましょう、クラロ」
「まっ……待って、先輩っ!」

 背を向けた途端、投げかけられた叫びに足をとめかけて、意味のないことだと前を向いたまま。
 そんなクラロを先導する男も同じく、これが普通だと示すように進み続ける。
 そう、これは日常の延長。然るべきもの。おかしいのは、逃げようとしている自分たちだったのだと。
 ああ、だから言ったのだ。関わるべきでは、ないのだと。

「先輩っ――!」

 開け放たれたままの扉から聞こえる懇願も、無駄な足掻きへの嗤いも。忠告を受け入れなかった愚か者への溜め息でさえも日常に溶けていくのだ。
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