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第二章
11-15.めでたし、めでたし。
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「ただいま、ベゼ。……珍しいですね、ラディア様がいるなんて」
正面から、己の主人の後ろに回ったレニウスへ。我が物顔でソファーに座る来客に視線を移し、クラロもウェルゼイの元に戻る。
机を挟んで対面、素直に戻ってきた恋人に喜ぶ主人に、クラロの笑みも深まる。
「また遊びに行っていたの?」
「一応、総監督ですから」
あなたがそう決めただろうと目で答えれば、そうだったっけと惚けるのもいつものこと。
ウェルゼイの専属兼、この王城にいる奴隷の総監督……というのが、今のクラロの仕事だ。
していることは、下級区間の見回りと、淫魔が喜びそうな奴隷を見繕う程度。
何も知らない新人にとっては、淫魔に一目置かれている大先輩。淫魔からすれば、奴隷に対して規則違反を犯していないかを見張る存在。
新魔王の代わりに実権を握っているウェルゼイの専属だからこそ、そこにいるだけで牽制になる。
とはいえ、普段の散歩が意味を持つようになっただけだ。していること自体は、この生活になった最初から変わっていない。
そう、ここに戻ってきて、全てを受け入れたあの日から……何一つとして。
「面白そうな奴はいたか?」
「管理区から来たのが一人。聖女の息子に会うため、自分から志願したらしいですよ」
「ははっ、そりゃあいい! まだ管理区のは食ってなかったな。骨がありそうならこっちに流せよ」
実際、上級奴隷でも相性がよさそうな者はラディアやフェインに知らせることもあるが、彼らばかり贔屓しては他の淫魔の楽しみが減る。
早い者勝ちとはいえ、多少のハンデも必要だろう。遅かれ早かれ口にするなら、順番に大差はない。
「ラディア様にはレニウスがいるでしょう?」
「そういうのは何人いてもいいんだよ。なぁ」
「えぇ、その間に仕事が進みますから」
強がりではなく遊び相手と認識しているからこそ、本当に何人居ても足りないと思っているのだろう。
ラディアは遊びすぎだが、フェインは飽きやすい。かといって、下級の奴隷ではそれこそ身がもたないだろう。
心身共に慣らすためにも、猶予期間は必要。これも、か弱い人間を守るための措置と言える。
「しっかし……そいつも可哀想になぁ」
とても哀れんでいるようには聞こえない声で。それこそ、楽しいと言わんばかりに顔はニヤつき、クラロを見つめる赤はギラギラと輝く。
「決死の思いで探しに来た聖女の息子が、まさか淫魔になっているなんて思ってないだろ」
「――っふふ」
ウェルゼイと同じ響きで漏れてしまったのは、それこそ無意識から。
奴隷は主人に似るのか、それとも与えられた魔力の関係か。単に感化されただけと納得する薄水色の瞳孔が狭まる。
その一瞬。瞳の奥が僅かに赤く色付いたのを、見逃した者はいない。
そう、あの日。クラロの呪いがとけ、繋がりあい、それでも満たされないと泣いたあの日。ウェルゼイが提案したのは、人から淫魔への転身であった。
クラロを見つけながらも迎えが遅くなったのは、その方法を確立するために尽力していたからだ。
危害をくわえた淫魔は一人残らず魔力を奪われ、あれだけ蔑んでいた人の身に。その魔力を転用し、人の身に馴染ませる方法を確立させ。万全を期してクラロを同胞に迎えるようになるまで、たった二ヶ月。
そう考えれば、いかにウェルゼイが全力を尽くしたか理解できるというもの。
人間であるかぎり捨てられると恐れるなら、人であるかぎり別れを考えてしまうなら。
そもそも、人でいる理由がないのなら、自分から捨ててしまえばいいのだと。
あまりの選択に、最初から素直に頷いたわけではない。
だが、結果としてクラロは淫魔になった。
今後も、聖女の息子の噂に希望を抱く人間は現れるだろう。
そして、彼らが真実に気付いた時、どんな反応をするのか。
そう考えて胸に湧くのが罪悪感でも恐れでもなく、愉悦である時点で、淫魔としての影響は受けているのだろう。
……あるいは、これこそがクラロが隠し続けていた本性だったのか。
「それも含めてのお楽しみでしょう?」
「ははっ、違いねぇ」
「失礼しまーっす! ……あれ、珍しいッスね、みんな揃ってるなんて。お茶会ッスか?」
ノック音と同時に開く扉。底抜けの明るい声。ウェルゼイの執務室でこんな無礼が許されるのは、クラロの記憶でも一人だけ。
るんるんと部屋に入るアモルの後ろ、見開かれる瞳に苦笑したのはクラロで、滲む不快感は机の向こうから。
「そこまで酔狂じゃねえよ。お前に用があったんだ」
「あぁ、レニウス君への新しい玩具ッスよね? オイラもその話がしたかったんッスよ~! あっ、これ報告書ッス」
話題に上がった本人は、やはり涼しい顔のまま。それはアモルの後ろで大人しく待ちながら、ギラギラとクラロを見つめている男を見ても変わることはない。
青い瞳が興奮で赤く染まり、瞳孔が開ききっても、命令に従っているのは専属奴隷としては完璧と言ったところ。
たとえ、それがクラロと同じく元人間で……今は、淫魔であったとしても。
「アモル。後ろのは?」
「ああ、そろそろご褒美あげとかないと可哀想かな~って。クラロ君がいいなら、ちょっと褒めてあげてほしいんッスけど」
不機嫌さを隠すつもりもないのか、瞳は冷たくアモルの背後を睨んでいるが、睨まれた当人はクラロに釘付けで一切怯える様子はない。
もし尻尾がついていたなら、千切れんばかりに振られていただろう。人間であった頃と変わりないと笑えば、それだけで輝く瞳に抱く、ほんの少しの愛らしさ。
「エリオット」
名を呼べば、あるはずのない耳がピンと立つのが見える。
喜ぶ姿に手招けば、それこそ犬のように駆け寄ってくる姿にいよいよ喉が鳴る。
「せ、先輩っ……!」
「くくっ……相変わらずだなお前。ちゃんとアモルの言うこと聞いてるか?」
言われずとも撫でやすいようにと屈むのは、アモルの教育の賜か。
そう、淫魔から魔力を抜くこと自体は問題なかったが、与えるとなれば話は別。なんせ前例がないことだ。下手をすれば死ぬことだってあり得た話。
研究所送りにする奴隷も数がいるわけではないし、いたとしても殺すだけの懲罰など早々にない。
故に、希望者……つまりは、エリオットが最初の実験体となったわけだが、難航するどころかあっさりと成功してしまったらしい。
クラロよりも淫魔の本能に引っ張られているのか、欲望に忠実になってはいるが命に別状はなく。成功したのなら面倒を見ねばと、アモルが専属奴隷として傍においているのが経緯だ。
アモルの言うことを聞けばご褒美……つまり、定期的にクラロに会わせると約束すれば、それも素直に聞き入れたのだとか。
なお、この会うというのは本当に面会するだけで、接触も頭を撫でるまで。
それ以上については、それこそウェルゼイの許可がなければ、クラロもしようとは思わない。
ここまでして自分に懐いていたことにも驚いたが、こうなってしまうと本当に犬のようだ。
まぁ淫魔にとって人間は愛玩物ではあるが、淫魔が淫魔を飼うようになるとは。
「はっ、はいっ! 聞いてますっ!」
「よしよし、いい子だ」
髪を撫で、頭皮を軽く引っ掻いて。それだけでトロリと緩む瞳と、視界に入る股間が盛り上がるのに、ほんの少しの哀れみも抱く。
本人が望んで幸せなら、それこそクラロが口に出すことではない。むしろ、これ以上与えれば、感情過多でそれこそ絶命しかねない。
「はい、そこまで」
「手厳しいッスね~!」
「これでも妥協した方だよ。ほら、連れ帰って」
時間にして、十数秒も経っていないだろう。それでも十分すぎると制止がかかれば、縋るような目はアモルに引かれて遠ざかっていく。
「うぁ、せ、せんぱい……っ……」
「またいい子にしてたら連れてきてあげるッスからね~。仕事に戻るッスよ、エリオット君」
エリオット、もとい専属兼助手を手に入れたことでアモルの研究も捗っているらしい。
別れを惜しむエリオットを見て息抜きになったのか、るんるんと去って行く足取りはそれこそステップを踏むかのよう。
「一段落したらまた来るッス! ラディア様も後で~!」
「では、我々も仕事が残っていますので」
「へいへい……面白いもんも見られたし、さっさと片付けるか」
ひらひらと手を振り、エリオットを引っ張りながら去って行く姿はまさしく嵐。
きゅーん、なんて犬の鳴き声のような幻聴が遠ざかれば、促されたラディアも重い腰を上げる。
「いつでも遊びに来いよクラロ。そうだな……一時間後なら丁度いいと思うぜ」
「そう言って、レニウスと遊んでいるところを見せつけたいだけでしょう?」
「分かってんじゃねえか。お前が来るとこいつが喜ぶんだよ」
「……語弊があります」
「ほらな?」
クラロに手を出すことはないが、クラロを使ってレニウスをからかいたいのだろう。
実際に奉仕の場に出くわしたことはないが、頻繁に誘うということは狙っているも同義。
これも冷静に流すかと思えば、案外図星だったらしい。訂正こそするも、否定しないあたりはレニウスも素直といったところ。
追い打ちに対し睨めつける視線ごと楽しんで、用は済んだと去る背を見送る。
「またな、レニウス」
「……ええ、また」
ひらりと手を振り、扉が閉まれば、残ったのは部屋の主人とその奴隷のみ。
ようやく二人きりだと振り返るよりも先に名を呼ばれ、見つめた赤に誘われるままウェルゼイの元へ。
「どうした?」
「僕も撫でてよ」
「エリオットに嫉妬したのか? 今は淫魔でも、元は人間だろ?」
機嫌が戻らぬ主人のお強請りに笑い、差し出された頭を存分に撫で回す。それこそ、犬と称した後輩よりも大袈裟に、遠慮無く。
整った髪が乱れていくのを、むしろ心地良いと細められる目に、未だ残る嫉妬の炎。
大人げない反応だが、元は人間とはいえ、今は淫魔。十分嫉妬の対象になるのだろう。
「人間だろうと淫魔だろうと、羨ましいのには変わりないよ」
頭から頬に。それから寄せられた眉間を伸ばせば、腰を引かれて膝の上に。抵抗なく乗り上げ、頬に触れる手から伝わる温度は熱い。
どうやら少し放置しすぎたらしい。普段よりも少し甘えたな恋人に喉を鳴らせば、首筋をそっと撫でられて吐息が零れる。
「君が楽しそうで僕も嬉しいけど、あんまり遊びすぎちゃダメだよ」
「エリオット? それともレニウス?」
「何も知らない、いたいけな奴隷をたぶらかすのもね。……ほんとに、後輩をどれだけ夢中にさせたら気が済むんだか」
咎めるように頬を摘ままれるが、痛みは全くなく。めっ、と怒るそれも子どもに対するような可愛いもの。
やっぱり、あの一連をウェルゼイも見ていたのだろう。否、見ていると知って行動しているのはクラロの方だ。
焚きつけるのに使ったとも言えるが、親切心であったことも事実。
「疑問に答えてあげただけだろ? それに、聖女の息子が上級区間にいるのも嘘じゃない。管理区から来たならなおのこと、何かに縋らないとすぐに潰れるだろ? ……俺のことを知る時には、耐えられるぐらいにはなってるだろうし」
言い訳ではなく、それは事実だ。
人間は淫魔に支配され、取り戻す術はとうに失い。それでも芽吹いた希望を手折ることも、摘むことも容易い。
だが、そんなことをしなくたって、いつか潰れてしまう。それなら、せめて楽しむべきだ。
真実を知って折れるか、受け入れるか。それは当人の資質次第。
そう。だから、どんな噂であろうと、クラロが否定する理由はないのだ。
それで楽しめるのであれば。それも含めて、ウェルゼイが喜ぶのなら。
「ねぇ、クラロ」
「ん?」
「本当にいいの? 何なら、今からでも噂の出所を締めるぐらいはするけど」
だが、当のウェルゼイは不安らしい。
未だはびこる聖女の息子の噂。囁いているのは、ルバ村で突き放したはずの故郷の人間たちか、まだ希望を持った他の村町の者か。
今も怯え暮らす彼らの面影は、クラロの中では無に等しい。
薄情、裏切り者、人でなし。あらゆる罵声が頭をよぎっても、後悔も自責の念もない。
そう、ようやくクラロは解放されたのだ。不安からも、苦痛からも、あの悪夢からも。そして、この場所を失うという恐怖からも。
ようやく満たされた今、これ以上何を求めるというのだろう。
「必要ない、ウェルゼイ」
手に擦り寄り、存分にその温度を甘受して笑う顔に、一切の憂いはない。
「もう何も怖くないし、何も後悔してない。まぁ、まだ淫魔としての在り方には戸惑っているけど……人間だった頃に比べれば、ずっといい」
結果として、過去にクラロが恐れた結果にはなってしまったかもしれない。
だが、捨てられたからではなく、求めた結果であれば、その意味だって大きく違う。
ウェルゼイは待ってくれただけだ。これまでのように、クラロが受け入れるのを。そうして、いつものようにクラロは受け入れただけ。
そこになんの不満があるというのか。
「それならよかった」
クラロの応えに満足したのか、笑う顔が近付き、緩んだ唇が重なり合う。
「……ダメ」
――寸前で、指が間に割り込む。
パチ、と瞬く赤の中。映り込むのは、見つめ返すクラロの瞳と上気する頬。
「なんで?」
久しく聞いていなかった拒絶にもめげず、妨害されながらもついばもうとする唇に、抵抗はないにも等しい。
本当に嫌な訳ではない。むしろ、いくらでもされたいぐらいだ。
淫魔になってから性欲も増して、持て余しているほど。……だからこそ。
「……我慢、できなくなる」
一回や二回で収まるはずがない。重ねれば重ねる程に欲しくなって、歯止めが利かなくなるのだ。
奴隷の仕事は淫魔の相手とはいえ、限度というものがある。
だから、今からはダメだと手を突っぱねても、手の平越しにクスクスと笑われるだけで、力が抜けてしまう。
「する必要があるの?」
「……ない、けど……し、ごと……」
「君が帰ってくるまでの暇つぶしだよ」
「……で、も」
「でも、なに?」
手を撫でられれば、重なり合う指輪の音に熱を煽られ、もう手遅れだと項垂れる。
「…………ここじゃ、ヤだ。ベッド、が、いい」
「――ふふっ」
まだアモルに見せつけられるほど割り切っていないと訴えれば、見つめた赤は瞬き、笑い、幸せそうに緩む。
「ほんと、君ってば。それこそ僕が我慢できなくなっちゃう」
「……する必要が?」
それこそ、そっちには無いはずだと笑い返せば、指を深く繋がれてもう逃げられない。
いいや、逃げる必要なんて、もうないのだ。
「煽るなんて悪い子だ」
「素直でいい子の間違いだろ? ……お仕置きじゃなくて、ご褒美がいい。ベゼ」
「まったく……」
やれやれと肩をすくめて、本当に諦めたのはどっちだったのか。クスクスと笑う声が触れ合って、そっと顎をすくわれる。
「悪い子でも、いい子でも。どっちの君も大好きだよ、クラロ」
だからずっと一緒にいてねと。変わらぬ願いを注がれた唇は甘く、熱は溶け合い、満たされていく。
幸せであるなら、物語の最後はこう締めくくられるべきだろう。
……こうして、世界は淫魔に支配されましたとさ。
----------------------------------------------
これにて本編終了となります。
長らくの閲覧、ありがとうございました!
番外編等の予定は現在未定ですが、好評であればいくつか余話を書こうと思っておりますので、メッセージなどいただけると活力になります。
今後の新作については、活動報告や旧Twitterの方で告知してまいりますので、よろしくお願いいたします。
正面から、己の主人の後ろに回ったレニウスへ。我が物顔でソファーに座る来客に視線を移し、クラロもウェルゼイの元に戻る。
机を挟んで対面、素直に戻ってきた恋人に喜ぶ主人に、クラロの笑みも深まる。
「また遊びに行っていたの?」
「一応、総監督ですから」
あなたがそう決めただろうと目で答えれば、そうだったっけと惚けるのもいつものこと。
ウェルゼイの専属兼、この王城にいる奴隷の総監督……というのが、今のクラロの仕事だ。
していることは、下級区間の見回りと、淫魔が喜びそうな奴隷を見繕う程度。
何も知らない新人にとっては、淫魔に一目置かれている大先輩。淫魔からすれば、奴隷に対して規則違反を犯していないかを見張る存在。
新魔王の代わりに実権を握っているウェルゼイの専属だからこそ、そこにいるだけで牽制になる。
とはいえ、普段の散歩が意味を持つようになっただけだ。していること自体は、この生活になった最初から変わっていない。
そう、ここに戻ってきて、全てを受け入れたあの日から……何一つとして。
「面白そうな奴はいたか?」
「管理区から来たのが一人。聖女の息子に会うため、自分から志願したらしいですよ」
「ははっ、そりゃあいい! まだ管理区のは食ってなかったな。骨がありそうならこっちに流せよ」
実際、上級奴隷でも相性がよさそうな者はラディアやフェインに知らせることもあるが、彼らばかり贔屓しては他の淫魔の楽しみが減る。
早い者勝ちとはいえ、多少のハンデも必要だろう。遅かれ早かれ口にするなら、順番に大差はない。
「ラディア様にはレニウスがいるでしょう?」
「そういうのは何人いてもいいんだよ。なぁ」
「えぇ、その間に仕事が進みますから」
強がりではなく遊び相手と認識しているからこそ、本当に何人居ても足りないと思っているのだろう。
ラディアは遊びすぎだが、フェインは飽きやすい。かといって、下級の奴隷ではそれこそ身がもたないだろう。
心身共に慣らすためにも、猶予期間は必要。これも、か弱い人間を守るための措置と言える。
「しっかし……そいつも可哀想になぁ」
とても哀れんでいるようには聞こえない声で。それこそ、楽しいと言わんばかりに顔はニヤつき、クラロを見つめる赤はギラギラと輝く。
「決死の思いで探しに来た聖女の息子が、まさか淫魔になっているなんて思ってないだろ」
「――っふふ」
ウェルゼイと同じ響きで漏れてしまったのは、それこそ無意識から。
奴隷は主人に似るのか、それとも与えられた魔力の関係か。単に感化されただけと納得する薄水色の瞳孔が狭まる。
その一瞬。瞳の奥が僅かに赤く色付いたのを、見逃した者はいない。
そう、あの日。クラロの呪いがとけ、繋がりあい、それでも満たされないと泣いたあの日。ウェルゼイが提案したのは、人から淫魔への転身であった。
クラロを見つけながらも迎えが遅くなったのは、その方法を確立するために尽力していたからだ。
危害をくわえた淫魔は一人残らず魔力を奪われ、あれだけ蔑んでいた人の身に。その魔力を転用し、人の身に馴染ませる方法を確立させ。万全を期してクラロを同胞に迎えるようになるまで、たった二ヶ月。
そう考えれば、いかにウェルゼイが全力を尽くしたか理解できるというもの。
人間であるかぎり捨てられると恐れるなら、人であるかぎり別れを考えてしまうなら。
そもそも、人でいる理由がないのなら、自分から捨ててしまえばいいのだと。
あまりの選択に、最初から素直に頷いたわけではない。
だが、結果としてクラロは淫魔になった。
今後も、聖女の息子の噂に希望を抱く人間は現れるだろう。
そして、彼らが真実に気付いた時、どんな反応をするのか。
そう考えて胸に湧くのが罪悪感でも恐れでもなく、愉悦である時点で、淫魔としての影響は受けているのだろう。
……あるいは、これこそがクラロが隠し続けていた本性だったのか。
「それも含めてのお楽しみでしょう?」
「ははっ、違いねぇ」
「失礼しまーっす! ……あれ、珍しいッスね、みんな揃ってるなんて。お茶会ッスか?」
ノック音と同時に開く扉。底抜けの明るい声。ウェルゼイの執務室でこんな無礼が許されるのは、クラロの記憶でも一人だけ。
るんるんと部屋に入るアモルの後ろ、見開かれる瞳に苦笑したのはクラロで、滲む不快感は机の向こうから。
「そこまで酔狂じゃねえよ。お前に用があったんだ」
「あぁ、レニウス君への新しい玩具ッスよね? オイラもその話がしたかったんッスよ~! あっ、これ報告書ッス」
話題に上がった本人は、やはり涼しい顔のまま。それはアモルの後ろで大人しく待ちながら、ギラギラとクラロを見つめている男を見ても変わることはない。
青い瞳が興奮で赤く染まり、瞳孔が開ききっても、命令に従っているのは専属奴隷としては完璧と言ったところ。
たとえ、それがクラロと同じく元人間で……今は、淫魔であったとしても。
「アモル。後ろのは?」
「ああ、そろそろご褒美あげとかないと可哀想かな~って。クラロ君がいいなら、ちょっと褒めてあげてほしいんッスけど」
不機嫌さを隠すつもりもないのか、瞳は冷たくアモルの背後を睨んでいるが、睨まれた当人はクラロに釘付けで一切怯える様子はない。
もし尻尾がついていたなら、千切れんばかりに振られていただろう。人間であった頃と変わりないと笑えば、それだけで輝く瞳に抱く、ほんの少しの愛らしさ。
「エリオット」
名を呼べば、あるはずのない耳がピンと立つのが見える。
喜ぶ姿に手招けば、それこそ犬のように駆け寄ってくる姿にいよいよ喉が鳴る。
「せ、先輩っ……!」
「くくっ……相変わらずだなお前。ちゃんとアモルの言うこと聞いてるか?」
言われずとも撫でやすいようにと屈むのは、アモルの教育の賜か。
そう、淫魔から魔力を抜くこと自体は問題なかったが、与えるとなれば話は別。なんせ前例がないことだ。下手をすれば死ぬことだってあり得た話。
研究所送りにする奴隷も数がいるわけではないし、いたとしても殺すだけの懲罰など早々にない。
故に、希望者……つまりは、エリオットが最初の実験体となったわけだが、難航するどころかあっさりと成功してしまったらしい。
クラロよりも淫魔の本能に引っ張られているのか、欲望に忠実になってはいるが命に別状はなく。成功したのなら面倒を見ねばと、アモルが専属奴隷として傍においているのが経緯だ。
アモルの言うことを聞けばご褒美……つまり、定期的にクラロに会わせると約束すれば、それも素直に聞き入れたのだとか。
なお、この会うというのは本当に面会するだけで、接触も頭を撫でるまで。
それ以上については、それこそウェルゼイの許可がなければ、クラロもしようとは思わない。
ここまでして自分に懐いていたことにも驚いたが、こうなってしまうと本当に犬のようだ。
まぁ淫魔にとって人間は愛玩物ではあるが、淫魔が淫魔を飼うようになるとは。
「はっ、はいっ! 聞いてますっ!」
「よしよし、いい子だ」
髪を撫で、頭皮を軽く引っ掻いて。それだけでトロリと緩む瞳と、視界に入る股間が盛り上がるのに、ほんの少しの哀れみも抱く。
本人が望んで幸せなら、それこそクラロが口に出すことではない。むしろ、これ以上与えれば、感情過多でそれこそ絶命しかねない。
「はい、そこまで」
「手厳しいッスね~!」
「これでも妥協した方だよ。ほら、連れ帰って」
時間にして、十数秒も経っていないだろう。それでも十分すぎると制止がかかれば、縋るような目はアモルに引かれて遠ざかっていく。
「うぁ、せ、せんぱい……っ……」
「またいい子にしてたら連れてきてあげるッスからね~。仕事に戻るッスよ、エリオット君」
エリオット、もとい専属兼助手を手に入れたことでアモルの研究も捗っているらしい。
別れを惜しむエリオットを見て息抜きになったのか、るんるんと去って行く足取りはそれこそステップを踏むかのよう。
「一段落したらまた来るッス! ラディア様も後で~!」
「では、我々も仕事が残っていますので」
「へいへい……面白いもんも見られたし、さっさと片付けるか」
ひらひらと手を振り、エリオットを引っ張りながら去って行く姿はまさしく嵐。
きゅーん、なんて犬の鳴き声のような幻聴が遠ざかれば、促されたラディアも重い腰を上げる。
「いつでも遊びに来いよクラロ。そうだな……一時間後なら丁度いいと思うぜ」
「そう言って、レニウスと遊んでいるところを見せつけたいだけでしょう?」
「分かってんじゃねえか。お前が来るとこいつが喜ぶんだよ」
「……語弊があります」
「ほらな?」
クラロに手を出すことはないが、クラロを使ってレニウスをからかいたいのだろう。
実際に奉仕の場に出くわしたことはないが、頻繁に誘うということは狙っているも同義。
これも冷静に流すかと思えば、案外図星だったらしい。訂正こそするも、否定しないあたりはレニウスも素直といったところ。
追い打ちに対し睨めつける視線ごと楽しんで、用は済んだと去る背を見送る。
「またな、レニウス」
「……ええ、また」
ひらりと手を振り、扉が閉まれば、残ったのは部屋の主人とその奴隷のみ。
ようやく二人きりだと振り返るよりも先に名を呼ばれ、見つめた赤に誘われるままウェルゼイの元へ。
「どうした?」
「僕も撫でてよ」
「エリオットに嫉妬したのか? 今は淫魔でも、元は人間だろ?」
機嫌が戻らぬ主人のお強請りに笑い、差し出された頭を存分に撫で回す。それこそ、犬と称した後輩よりも大袈裟に、遠慮無く。
整った髪が乱れていくのを、むしろ心地良いと細められる目に、未だ残る嫉妬の炎。
大人げない反応だが、元は人間とはいえ、今は淫魔。十分嫉妬の対象になるのだろう。
「人間だろうと淫魔だろうと、羨ましいのには変わりないよ」
頭から頬に。それから寄せられた眉間を伸ばせば、腰を引かれて膝の上に。抵抗なく乗り上げ、頬に触れる手から伝わる温度は熱い。
どうやら少し放置しすぎたらしい。普段よりも少し甘えたな恋人に喉を鳴らせば、首筋をそっと撫でられて吐息が零れる。
「君が楽しそうで僕も嬉しいけど、あんまり遊びすぎちゃダメだよ」
「エリオット? それともレニウス?」
「何も知らない、いたいけな奴隷をたぶらかすのもね。……ほんとに、後輩をどれだけ夢中にさせたら気が済むんだか」
咎めるように頬を摘ままれるが、痛みは全くなく。めっ、と怒るそれも子どもに対するような可愛いもの。
やっぱり、あの一連をウェルゼイも見ていたのだろう。否、見ていると知って行動しているのはクラロの方だ。
焚きつけるのに使ったとも言えるが、親切心であったことも事実。
「疑問に答えてあげただけだろ? それに、聖女の息子が上級区間にいるのも嘘じゃない。管理区から来たならなおのこと、何かに縋らないとすぐに潰れるだろ? ……俺のことを知る時には、耐えられるぐらいにはなってるだろうし」
言い訳ではなく、それは事実だ。
人間は淫魔に支配され、取り戻す術はとうに失い。それでも芽吹いた希望を手折ることも、摘むことも容易い。
だが、そんなことをしなくたって、いつか潰れてしまう。それなら、せめて楽しむべきだ。
真実を知って折れるか、受け入れるか。それは当人の資質次第。
そう。だから、どんな噂であろうと、クラロが否定する理由はないのだ。
それで楽しめるのであれば。それも含めて、ウェルゼイが喜ぶのなら。
「ねぇ、クラロ」
「ん?」
「本当にいいの? 何なら、今からでも噂の出所を締めるぐらいはするけど」
だが、当のウェルゼイは不安らしい。
未だはびこる聖女の息子の噂。囁いているのは、ルバ村で突き放したはずの故郷の人間たちか、まだ希望を持った他の村町の者か。
今も怯え暮らす彼らの面影は、クラロの中では無に等しい。
薄情、裏切り者、人でなし。あらゆる罵声が頭をよぎっても、後悔も自責の念もない。
そう、ようやくクラロは解放されたのだ。不安からも、苦痛からも、あの悪夢からも。そして、この場所を失うという恐怖からも。
ようやく満たされた今、これ以上何を求めるというのだろう。
「必要ない、ウェルゼイ」
手に擦り寄り、存分にその温度を甘受して笑う顔に、一切の憂いはない。
「もう何も怖くないし、何も後悔してない。まぁ、まだ淫魔としての在り方には戸惑っているけど……人間だった頃に比べれば、ずっといい」
結果として、過去にクラロが恐れた結果にはなってしまったかもしれない。
だが、捨てられたからではなく、求めた結果であれば、その意味だって大きく違う。
ウェルゼイは待ってくれただけだ。これまでのように、クラロが受け入れるのを。そうして、いつものようにクラロは受け入れただけ。
そこになんの不満があるというのか。
「それならよかった」
クラロの応えに満足したのか、笑う顔が近付き、緩んだ唇が重なり合う。
「……ダメ」
――寸前で、指が間に割り込む。
パチ、と瞬く赤の中。映り込むのは、見つめ返すクラロの瞳と上気する頬。
「なんで?」
久しく聞いていなかった拒絶にもめげず、妨害されながらもついばもうとする唇に、抵抗はないにも等しい。
本当に嫌な訳ではない。むしろ、いくらでもされたいぐらいだ。
淫魔になってから性欲も増して、持て余しているほど。……だからこそ。
「……我慢、できなくなる」
一回や二回で収まるはずがない。重ねれば重ねる程に欲しくなって、歯止めが利かなくなるのだ。
奴隷の仕事は淫魔の相手とはいえ、限度というものがある。
だから、今からはダメだと手を突っぱねても、手の平越しにクスクスと笑われるだけで、力が抜けてしまう。
「する必要があるの?」
「……ない、けど……し、ごと……」
「君が帰ってくるまでの暇つぶしだよ」
「……で、も」
「でも、なに?」
手を撫でられれば、重なり合う指輪の音に熱を煽られ、もう手遅れだと項垂れる。
「…………ここじゃ、ヤだ。ベッド、が、いい」
「――ふふっ」
まだアモルに見せつけられるほど割り切っていないと訴えれば、見つめた赤は瞬き、笑い、幸せそうに緩む。
「ほんと、君ってば。それこそ僕が我慢できなくなっちゃう」
「……する必要が?」
それこそ、そっちには無いはずだと笑い返せば、指を深く繋がれてもう逃げられない。
いいや、逃げる必要なんて、もうないのだ。
「煽るなんて悪い子だ」
「素直でいい子の間違いだろ? ……お仕置きじゃなくて、ご褒美がいい。ベゼ」
「まったく……」
やれやれと肩をすくめて、本当に諦めたのはどっちだったのか。クスクスと笑う声が触れ合って、そっと顎をすくわれる。
「悪い子でも、いい子でも。どっちの君も大好きだよ、クラロ」
だからずっと一緒にいてねと。変わらぬ願いを注がれた唇は甘く、熱は溶け合い、満たされていく。
幸せであるなら、物語の最後はこう締めくくられるべきだろう。
……こうして、世界は淫魔に支配されましたとさ。
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これにて本編終了となります。
長らくの閲覧、ありがとうございました!
番外編等の予定は現在未定ですが、好評であればいくつか余話を書こうと思っておりますので、メッセージなどいただけると活力になります。
今後の新作については、活動報告や旧Twitterの方で告知してまいりますので、よろしくお願いいたします。
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