おまじない屋の魔法使い

ラブ

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風にはためく

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 車輪が小石にのりあげるたび、反動で脊髄がしびれそうになる。
 手まではねあがってずるっとすべり、おれはあわててイバラの肩をつかまえなおす。
 おれとイバラにふりかかる木洩れ日は、目にも留まらないはやさで駆け去る。
 鼻先をくすぐる匂いも次々に色を移ろわせる。エメラルドの新緑、オパールの花の蜜。ひんやりした水の匂い、木陰の匂い、太陽が照らす土ぼこり。
 またガタンと大きく身がはねた。おれは思わずぎゅっとしがみついた。足がはずれてすべり、全身を冷たい稲妻がかけ抜ける。
 おれが肩にとびついた反動でイバラもバランスを崩した。ハンドルが瞬時に大きく曲がり、とたん全体が大きくかしいだ。
 足先から一気に危険信号が走り抜ける。イバラの身に力がみなぎり、腰をおとして大きく一回足をついた。
 ざっと砂をはねちらす音と同時に水がはねちり、そのなかを力任せにイバラは突っ切っていく。
 倒れたほうとは逆にわざとハンドルをきり、ぐらぐらと何度か揺れていたが、やがて安定した走りにかわる。
 イバラはわずかにふりむいた。
 -ごめん!びっくりした?!
 -いいから前見ろお!
 思わずひっくりかえった声で応える。
 イバラがまったくスピードをころさずに立て直したのに驚いていた。驚いた、などというものではない。確実に今、顔じゅうから血の気がひき切っている。
 ぐい、とからだが加速を強めた。おいていかれそうな錯覚がして、あわててイバラの腰をつかまえた。
 ふと、イバラが楽しそうなのに気づいた。
 イバラはさらなる加速を求めるように、今にも立ち上がりそうに力を入れてペダルをこいでいる。顔は見えないけれど、きっと今、生き生きした光が瞳に踊っているのだ。
 ごく、とつばを飲み込み、おれはイバラの肩にひたいをこする。
 乗り心地は最悪だ。ガタガタ揺れるだけでなく、震動は神経にひびく痛みを伴っている。ちょっとはずむとすぐに手足が投げ出されそうになる。
 車輪がまた何かを踏みつけた。内臓もろともつきあげるような痛みで、吐きそうになった。
 ひたいを支えるイバラの肩先は温かい。その脇腹に爪をたてながら、顔をあげた。
 梢が眠たげに通りすぎていく。その向こうに青い空。まるで透き通ったアクアマリンのような色だ。雲はひとつもない。
 ばしゃ、とはねをあげた音が聞こえて、思わず肩がひきつった。
 -うわっ、ごめん。はねた?
 焦ったイバラの声。見ると、イバラのズボンの足首あたりに盛大に泥水がはねている。おれはと見ると、何の被害もない。
 イバラの足がゆったりといったりきたりを繰り返すたび、そのしみはゆっくりひろがっていった。
 -つーめたーっ、ははっ。
 軽やかな声で、イバラはリズミカルに背中を揺らして笑い出した。背中から肩から、からだじゅうへ、その笑いがさざ波のようにひろがる。
 おれは思わず目をみはった。イバラは笑いやむどころか、だんだん笑い声を高く大きく響かせて、その顔をあげた。
 きっと、空を見たのだと思う。その一瞬、イバラは静かになった。おれも見あげた。青くて遠くて、透き通った空をふちどる、新芽のアーチ。
 風が甘く通りすぎていく。頬をそっと寄せると、風の香にまぎれて一瞬、イバラの匂いがした。冬咲く花のような、甘く淡い不思議な匂い。
 ここがどこだが、わからなくなる。顔をおしつけると、世界はきえて、がたがた揺れる車輪のきしみと、きいきいきこきこ、というペダルの音だけ。
 イバラといっしょに、どこかわからない世界へ、すべりこんでいく。首すじに、やわらかな陽光とつやめいた葉陰がさらさらと触れていく。
 とたん、がすっと身がはねた。横隔膜に衝撃がぶつかり、おれはごほっとうめいた。
 痛みの余韻で足がぶるぶるふるえる。おれは目に涙を感じて、顔をふりもぎった。思わず大声をあげる。
 -痛いぞイバラ、さっきからがったんがったん、がったんがったん!おまえは楽しくてもおれは痛いっ!
 さっとイバラがこちらをふりかえった。見る間に、広く大きかった背中がしゅんと小さくなった。おれはしまったと思った。口をぽかんとあけたまま。
 -えっ。あ、うそ。ごめん、ごめんね。おれ。
 濃い日影に入りこみ、イバラの声はだんだん細くなった。声がとぎれると、イバラは肩をおとし、ペダルから足をはなした。減速していく。
 急速に冷えていく胸の火。イバラはとうとう地に足をついた。ざり、と砂をこすりながら、跡をひいていく。速度がどんどん落ちていく。
 -あーーーーーっ!
 おれは目をつぶって大声を出した。イバラの耳元で吠える。
 -止まれなんて言ってないだろおおっ!そうじゃなくて、もっと静かに漕げ、痛くするな。痛くしないでフルスピード出して走れ!
 小石にのりあげたときよりもっと、内臓がひっくりかえりそうだった。おれはほとんどイバラの背中に爪をたてていた。ぜいぜいと息がきれる。
 ふわ、とイバラが顔をあげたとき、唐突にまた陽ざしがふってきた。木陰がとぎれた。さっと開けた視界に、空よりも濃い青をたたえた湖がとびこんできた。
 イバラは腰を折って力を入れた。足がぬかるみを蹴飛ばし、もう一度砂利をはね、勢いよく地をはなれる。
 吸い上げられるようにイバラは立ち上がった。ひっかかった爪ごともっていかれそうになったおれは慌てて伸び上り、イバラのベルトに手をひっかけなおした。
 イバラはハンドルに体重を押しこむようにして、前のめりに身体をつかって漕いでいく。ひとこぎするたびに、からだが前へ前へと進む。
 ガシャン、と派手な音がしてひざから衝撃がはねあがったが、おれはイバラの腰にかじりついて耐えた。
 走りが急になめらかにかわった。見ると、砂利道から舗道に変わっている。速い川の流れよりもっとはやく流れ去っていく軌跡に思わず見入った。
 顔をあげると、前方に見えていた湖は今、左手に大きく広がっている。空がひろびろとして、水面は陽を浴びて、濃い青に白い光の群れをちらつかせる。
 ぐん、ぐんと速度があがっていく。
 イバラの背中が息をきらしている。イバラは片手をあげ、ぐい、と額をぬぐった。ハンドルを握りなおしたとき、かすかにぎゅっという音が聞こえた。
 -あ。
 小さな声が聞こえた。同時に、イバラの片手がハンドルから外れ、おれの手を探り当てて、自分の腰にしっかりまきつけた。
 イバラはサドルに深く腰をおとした。いやな予感が血流とともにかけめぐる。
 ふいに腹のそこが抜けたような感覚がした。イバラの手がぎゅっとおれの手をおさえつけ、素早く離れる。
 イバラはしがみついているおれごと前のめりになり、一気にペダルを押しこんだ。
 体がうなりをあげて風を切りはじめた。音が激しくなり、その中をびゅんびゅんと裂くように突き進む。
 イバラが突然吠えた。
 ー下り、からの、この加速ーっ!
 ほとんど同時にイバラが腰を浮かせて力を入れ、ペダルを漕いだ。回転する音が、聞いたことのないリズムへかけあがる。
 スピードがあがって、信じられないが一瞬空に浮いたような気がした。
 皮膚の感覚がふわっととけた。吸いこまれるように加速して、おいてきぼりを食った内臓がきゅっと鳴く。そのまま浮遊する。うかびあがり、急降下する。
 服が大げさにはためいて、風を切る翼のようだとふっと思った。
 胃が溶けてなくなったような感覚、恐ろしいほどの解放感。心まで軽くなる。このまま、何もかもを振り切って飛べたら、という思いが焼きついて去った。
 下り坂はあっけなく終わったが、そこから予想に反してスピードはぐんぐん伸びていった。
 -うわああ!
 イバラの裏返った声に肝がつぶれた。道は目の前で大きくカーブしている。
 -ひぇっ!
 イバラがハンドルをきるがはやいか車体が不自然に大きくゆれ、おれたちは急スピードのままカーブに突っ込んだ。
 心臓がぎゅっとちぢんで、おれがイバラに抱きついた瞬間、ふっと何もかもが軽くなった。
 首、肩、腰に衝撃。どんとぶつかり、かすってこすって転がった。遠くでガッシャンと派手な音。頭のなかがぐるぐる回った。上も下もわからない。
 しばらくして、脇腹と腰と耳がじーんとしびれてきた。
 ちょっとの間、何も考えられなかった。最初に浮かんできたのは、やっちまったな、と自分で自分を笑う声だった。
 やっと天地がはっきりしてくる。頬や手に、柔らかいような、それでいてちくちく刺さるような感触があたっている。草だ。草の上に倒れている。
 手をつき、うめく。触れた感触がひんやりとしめっていて、青臭いつんとした匂い。目を上げると、車輪がからからとまだまわっている。舗道を外れた木陰に、おれたちは投げだされていた。木洩れ日が知らん顔でちらちらとまたたいている。
 首筋を押さえながら起きあがる。ふと見ると、木の下生えを真っ二つに割って、イバラが突っ伏していた。
 -イバラ、
 立ち上がろうとして腰と足首に痛みがはしり、おれは手をついた。よろよろと四つ足をついて、イバラを受けとめた茂みに這っていった。
 イバラは頭をかすかにふって、手で額をこすり、ゆっくりと身をおこした。小さな枝があちこちにひっかかり、ぽきぽきと軽やかな音が鳴る。
 ーイバラ、平気か。
 声をかけると、ぼんやりしたイバラはおれを探し、あたりを見回した。おれと目があうと、イバラははっとして、目をぱっちり開いた。
 -リンゴ、あぁ、大丈夫?!
 イバラは、シャツをひっかけている小枝にかまわず動いたので、茂みからいっそうひどいパキパキという音が鳴った。イバラは服をひっぱって、無理やり身を引き抜くと、泣きそうな顔でおれの肩に手を触れた。あまり必死な顔をするので、心臓がぎゅっとした。
 おれの頬、こめかみから耳のあたりにイバラは指をのばした。目がさあっと濃い悲嘆にそまった。
 -ああ、血が。ごめんおれが、調子にのったから。
 言われて耳のあたりに手をやってみる。じんとしびれていて、よくわからない。
 イバラはひとまわり小さくなったようにうちひしがれた。しかしすぐに気をとりなおして、さっとポケットから白いハンカチをひっぱりだし、問答無用でおれの頬にあてた。
 耳から頬にかけて、ちくりと小さな痛みがはしる。
 イバラの顔の心配と悲嘆が、ますます濃くなった。何かをいいたそうにしていたが、顔を伏せて、イバラは離れ、かすかに血のついたハンカチを持ったままうなだれた。
 おれは、ゆっくりまばたきをした。何が起きたのか、状況をもう一度、整理してみる。
 下り坂にさしかかって、スピ-ドが加速して、カーブにつっこんで、曲がり切れずにふっとんで、今。ここでイバラとふたり、草に尻もちをついている。
 バカだな。
 おれは奥歯をかんだ。おかしさがつきあげてきて、吹きだす。笑いをかみ殺そうとしたが、ぜんぜんおさまらなくて逆にひろがっていった。
 手でまぶたをおおう。なにやってんだ、おれたちは。肩がふるえる。
 さんざん突き上げられた内臓がぴくぴくふるえて、痛かった。おれは腹をかかえて笑いだした。目に涙がしみだすのを感じる。
 イバラを見ると、とまどったように瞳を大きく見開いていた。声をかけるタイミングを失ってしまったみたいに、口を半開きにしている。
 その顔をみて、坂を下る直前、イバラが日頃出さないような大声で叫んだ言葉を思い出した。おれは再び噴出し、腹をおさえて横にころがった。あえぎながら、唖然としているイバラを指さす。
 -おま、おまえ、バッカでえー!なに?!『下りからの、この加速ー!』って!なにあれ、結果、コレかよっ!?
 酸素が足りなくなって、もっと言ってやりたかったが何も言えず、おれはつっぷした。
 腹筋がつって、しにそうだった。笑いの波が断続的におしよせて、そのたびにからだがひきつり、思わず地面をこぶしで打った。
 バカだ。バカすぎる。
 隣で、イバラがくすっと吹き出し、笑うのが聞こえた。
 -笑いすぎだよ、やめてよ。うつっちゃうじゃん。
 そんなことを言うのが聞こえた。
 イバラもそのうち、笑いをかみ殺すのをやめて、声にだして笑いだした。
 しばらく二人して笑ったあと、イバラも手でめじりをぬぐいながらおれを見た。目がきら、ときらめいた。
 -あれはね、ちょっと魔が差した、っていうか。うーん、なんだろう。なんか、楽しくて。そういう、叫びたい気分・・・ごめんって、ほんとに。
 おれが目を細めて凝視しているのに気づき、イバラは肩をすくめる。おれはにやりと口元をゆがめて笑う。
 ーふーん。楽しくて、ねえ。楽しすぎて、おれが後ろに乗ってることを忘れちゃったのかあ。
 -忘れてないって。忘れてないけど、えっと。・・・リンゴ、ほんっとにごめん。
 -何の罪もないおれが、投げ出されてこのざまなんですけど?ごめんで済むんですかねえ?
 -うわん、ごめんってば。リンゴ、怒らないで。悪かったって。もうしないから。
 -ふうん、そう。確か自転車出すとき言ってたよなあ、おまえ。とばさないし、変な走り方しない、って。これ、どう?超とばしてるし、おまけにふっとんだんだけど。それでよく言えるよなあ?もうしないとか。今さらおまえの約束があてになりますかねえ?
 おれが重ね重ね攻撃していくと、イバラはだんだんちぢこまり、しだいに笑顔はとけてなくなり、後悔の色が濃くにじんだ。
 -ごめん。
 深刻に謝られてようやく、おれはやりすぎた、と反省したが遅かった。
 軽く唇をかみしめ、まつげを伏せて沈黙してしまったイバラの、かたく握りしめられたこぶしを見て、おれは焦った。
 イバラに悪意がないのは千も承知だ。怒る気もとっくに失せているし、責めるつもりもない。ただ面白くてついいじめてしまっただけだ。
 なにか、フォローしないと。やばい、イバラ、泣きそう。泣かすつもりなんてなかったのに。言葉が浮かんでこない。何を言えばこの顔は元に戻るんだろう。
 自分の記憶をひっかきまわすように、何か気の利いた言い回しを探したが、見つからない。
 ふと、脳裏をよぎった一瞬の光景に、おれはハッと目を見開いた。
 青い空。澄んだ湖にはねる光。梢のきらめきや、風のうなり、ささやき。すぎさっていった色とりどりの軌跡、陽ざしの匂い。
 鮮やかに心の奥に焼きついている色や輝きに、宝石をいくつもいくつも、手のひらにのせているみたいに胸がおどる。まだ新しい、新鮮な記憶たち。
 ちょっとくらい、腰を打ったからってどうとういうことはない、と同時に思った。
 顔がくしゃっとゆがんだ。
 -楽しかったぜ。
 言うと、イバラがふっと顔をあげた。その瞳が、一瞬煌めくものをこぼした。
 大きく見張った目には、張りがあって、力強いものが静かに満ちていた。
 何か言おうとするイバラの胸に、おれはげんこつをつくって、とんとおいた。
 イバラはきょとんとして、おれとげんこつとを交互に見た。
 おれは鼻のあながふくらむのを感じた。あごをあげて言い放つ。
 -要はイバラ、おまえがヘタクソだからこういうことになったんだ。今後は、おれを乗せる前にちゃんと練習しろ。特に、下り坂とカーブは念入りにな。
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 思い出したからだ。おれを誘ってきたときのイバラの、きらきらとしたはしゃいだ目を。
 そんな彼を見て、楽しそうだからまあいっか、と思った自分の甘さのせいでもある。要は自業自得だ。
 そう思うと、なぜだか無性に腹が立つ。おれはそれらすべてをはらいおとし、せきばらいする。
 -とにかく、結果オーライだから、これはこれでまあ、水に流してやってもいい。
 イバラは笑いを浮かべた顔のまま、はてな?と首をかしげ、まわりを見回した。車輪を上にしてほったらかされている自転車を、じっと見る。
 -これ、オーライなの?
 ぶち、とこめかみで何かが切れた。
 -っせえ!
 おれはつかみかかる。
 -ぶちぶち文句言うんじゃねえ、とっととチャリンコ起こしてこいやっ。
 -ええ、文句言ってるのはリンゴじゃないか。
 -うるせえよ働けよ。いっとくけどおまえのせいだから、手、かさないからな。この未熟者めが。
 -うう、何も言えない。リンゴ、ひどい。
 そこで、ぴこん、とイバラの頭がはねた。イバラは目をいたずらっぽく光らせた。
 -今度は、リンゴが漕いだらいいんじゃないかな。
 ドキッと心臓がはねたおれは、すばやくイバラの後ろ頭をひっぱたいた。
 -いたっ!?
 -なんっで痛い目にあってるおれをこのうえ働かすんだ貴様っ!誘っといてそれか!いいからとっとと動けっ!
 肩をいからせて怒鳴ることで、内心ちょっと焦ったことをイバラに知られなければいい、と心底思った。
 苦虫を噛んで、のろのろと車体を起こそうとするイバラの背中をにらみつける。
 実は、認めたくないことだが、おれは自転車に乗れない。乗る機会がなかったし、乗ろうとも思わなかった。
 自分がアレにまたがり、さっきのおれたちのように無様に横倒しになる姿を想像し、おれは猛然と首をふった。恐ろしい醜態だ。耐えられない。
 大体おれは魔術師なのだから、あんなの使わなくても不自由はない。
 そう思った時、ふと、不思議な違和感を覚えた。違う。空を魔法で飛ぶのと、自転車で風をきるのは、違う。
 たしかに、飛んだと思ったあの一瞬、浮遊感につつまれて、背筋がぞくぞくして、なんともいえない、はばたいてしまいそうな感覚がして、それで。
 あんな風に感じたことは、一度もなかった。
 おれはふと、まばたいた。ガシャ、とにぶい音がして、イバラが自転車を舗道に押し戻すのが見えた。きいきい、とペダルがきしんで空回りする。
 -リンゴ。
 イバラが陽ざしを浴びて、まぶしそうに目を細めながらおれを手招く。
 おれはゆっくりとたちあがった。腰とひざの土くれをはらうと、つぶれた草の匂いがした。ひんやりした木影がゆれる。ここに倒れていなかったら、もっとひどいことになっていただろう。きっと、イバラもあのとき、とっさに同じことを思ったのに違いない。
 さあ、行こうか。
 イバラはひじをすりむいていた。足首はどろだらけで、白いシャツは土色、黄色、渋い草色、うぐいす色、と色とりどりの染みだらけだ。
 ーあーあ、おまえなんで白い服着てくるんだ、すごいことになってるぞ。
 もうサドルにまたがっていたイバラは、え?と目をまたたいて、自分の服のすそをひっぱる。ひじがあたるところに、血がこすれてついているのを見て、おれの身がきゅっと縮んだ。
 -うわー。すごい。
 イバラはどこか嬉しそうにつぶやいた。そして、ため息を空へ向かって大きくつき、いたずらっぽく笑った。
 -今日の記念にしよう。
 -バカ。
 そのシャツに刺さったままの小枝をつまんでほうりすて、おれは顔をそむけた。背中をつかもうとして、ふと、手に土がついているのを見てしまった。おれは顔がゆがむのを感じながらズボンで手のひらをこすり、もう一度イバラの背中につかまった。後輪の軸の、なけなしのとっかかりに足をひっかける。
 -リンゴ、降りて。
 突然、イバラが言うがはやいか、すとん、と自分が先におりた。
 ーちょ、おい!
 イバラがおりて軽くなった車体はあっけなくぐらつき、おれは慌てて飛び降りた。
 -何すんだよ。
 -乗って。
 イバラは真剣な目で、でも笑って、サドルをぱんぱんと叩いた。は?とおれは顔をしかめた。
 -乗れねえよ。
 うっかり告白してしまった。内心焦るおれに気づかず、イバラは首を横にふる。
 -いいから。座るだけ。おれが、立って漕ぐよ。
 -立って漕ぐ?
 おれが変な顔をしたのを見たのか、イバラは眉をさげ、とりなすように手をふった。
 -大丈夫。とばさないって約束するからさ。座ってたほうが、乗り心地がいいよ。危ないでしょ。
 だんだん言っている意味がのみこめてきて、同時に、むかっ腹がたった。
 -なんっでそれを最初に思いつかないんだこの、馬鹿!
 それを言うなら自分も同罪だが、この際それには気づかなかったふりをする。イバラはしゅんと首をたれた。
 -ごめん。ごもっとも。
 やがてイバラは顔をあげ、ハンドルを握って、サドルには座らずにまたがると、両足をついたままこちらを振り返った。
 -帰ったら、ちゃんと穴埋めするから。試しに乗ってみて。
 おれはしぶしぶ、イバラの腰に手をかけ、ペダルに足をひっかけて乗りあがった。座って見ると、一気に視界が高くなった。イバラのつむじがよく見える。
 なるほど、クッションがあるから、座り心地はたしかにわるくなかった。
 おれがちゃんと座ったのを見てイバラはハンドルに力をこめ、前振りもなく足を蹴りあげた。車体がすっとすべりだし、一瞬ぐらつく。イバラが立ち上がり、そのままぐいぐいとペダルをこいでいく。大きく右、左、とゆれ、蛇行しながら速度をあげていく。
 大きく上下するイバラの背中に風がまわりこみ、彩り豊かになったシャツをふわりとはためかせた。おれの鼻先にあたって、なであげていく。おれは目を閉じ、サドルの先っぽを両手でつかんだまま、加速にのめりこんでいった。
 さっきとは雲泥の差だった。揺れてもどこも痛くないし、あごさえしっかりひいていれば、衝撃もたいしたことはない。
 イバラはどんどんスピードをあげていく。とばさないって言ったのに、約束はもうなかったことになっているようだ。
 陽ざしに映えるイバラの白い背中がまぶしかった。おれは、はためいては頬や鼻をくすぐるその背中に、顔をつっこんで少しだけ笑った。
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