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第8章
9話 失意の心を照らすもの
しおりを挟む手鏡の中に映った自分の顔を見つめる事数秒。
深いため息をひとつ零し、アドラシオンが「ありがとう、よく分かった」と言いながら、マイナに手鏡を差し出すと、今にも泣きそうな顔をしたマイナはただ一言、辛うじて「勿体ないお言葉です」とだけ返し、手鏡を受け取って深々と頭を下げた。
「……旦那様……」
主に向かって気遣わしげな目を向けるアルマソンに、アドラシオンが苦笑しながら「なに、大丈夫だ。気にするな」と返す。
「流石に、なにも感じない訳ではないが、特に痛みはないし、目も見える。戦場での負傷と思えば可愛いものだ。手に残る若干の痺れを伴う重だるさも、いずれ治まるだろう。ただ……」
その脳裏に、大切な想い人である妻、ニアージュの笑顔を思い描いたアドラシオンは、わずかに眉根を寄せる。
「このような有り様となった顔、到底ニアに見せられたものではないな……。今後は、この醜い顔を彼女の前で晒さぬよう、包帯で顔を隠して過ごすしかないが、果たしてそれで納得してくれるものか……」
「……。恐れながら、旦那様」
眉根を寄せたまま、苦しげに呟くアドラシオンに、アルマソンが遠慮がちに声をかけた。
「なんだアルマソン。すまないが、気休めや慰めなら間に合って」
「いえ、そうではなく」
「? なら、なんだと言うんだ」
「旦那様は奥様の前で、今のお顔を晒す事を避けようとお考えなのでしょうが、それについてはもはや手遅れにございます。
旦那様が、意識のないまま当家へお戻りになられた時、既に奥様は旦那様のお顔をご覧になられておりますれば」
「え゙」
神妙な顔をしたアルマソンにそう告げられ、アドラシオンが思わず呻く。
「その後、事情をお聞きになられた奥様は、それはそれはお怒りになり……「今すぐパルミアに乗り込み、この手で魔女を討ち取って火炙りにしてやる」と、息巻いておられました。
流石に場所が場所でございますので、そのご行動については全力でお止めして、どうにか思い留まって頂きましたが、納得はされていないご様子です。なにせ、お庭で剣の素振りをなさっておられる際の、奥様のあの顔つきの険しさたるや……。
それこそいつ何時、魔女に対する怒りが再燃し、爆発するやら分かりません。つきましては、病み上がりの所大変お手数でございますが、旦那様の方からも、何とか奥様を諭して頂ければと」
「ちょっ……待て、アルマソン。本当にそれだけなのか? 彼女は……ニアは俺のこの顔を見たのだろう? それについては何も言っていなかったのか?」
「いえ。特に何も。ただ、「痛そうだ」、「お可哀想に」とは仰られておりましたかな。その事についても、きちんと旦那様の口から奥様へご説明下さいますよう、お願い致します。
多少の痺れはあれど痛みはない、とお分かりになれば、奥様も幾分かは安心され、お心も落ち着かれるかと思いますので」
「いや、痛みのあるなしを説明した程度で、心が落ち着く訳がないだろう!? この有り様なのだぞ!? 当事者の俺でさえ、あまりの醜さに一瞬言葉を失ったというのに!」
「旦那様。……どうやら旦那様の方が、よほどお心が千々に乱れておいでのようでございますな」
思わず声を荒らげるアドラシオンに、アルマソンがたしなめるような口調と声色で語りかける。
「確かに、現在の旦那様のご心痛たるや筆舌に尽くし難く、お辛いご心境もまた、察するに余りあるものと言えましょう。
しかしながら奥様は……我が家の女主人は非常に懐深く、また、大層肝が太いお方でございました。今日この時、旦那様がお目覚めになられるまでの間、一体誰が旦那様のお顔の清拭を行い、包帯を取り換えておられたとお思いですか」
「……っ、あ……。まさ、か……」
「そのまさかでございます。本来ならば、そのような細々とした身の回りの世話は、侍女の仕事でございますが、奥様は、今の旦那様には何もして差し上げられない、だからどうしても自分がやりたいと、そのように仰られて……。家の切り盛りや領地管理の職務の合間、ご自身のプライベートのお時間まで削り、ずっと旦那様のお傍についておられたのです。
それに……旦那様が幾日もお目覚めになられない事を、さぞや不安に思っておられたでしょうに、私共の前ではそれをおくびにも出さず、留守を預かる女主人として、いつも明るく前向きに振る舞っておいででした。奥様のその立ち居振る舞いに、我々もどれほど励まされ、心奮い立たされた事か。
だというのに、旦那様は単なる見てくれだけに踊らされ、塞ぎ込んで心を閉ざし、奥様の言動の全てを無下にして、そのお心映えまでお疑いになると言うのですか」
半分以上、叱責に近い物言いをするアルマソン。
一方のアドラシオンは、アルマソンの言葉を反芻するかのように目を閉じて項垂れ、数秒黙り込むと、浅い吐息を吐き出しながら顔を上げた。
「……。すまない、アルマソン。俺が間違っていた。そして礼を言う。よくぞ不甲斐ない俺を叱り付け、正し、前を向かせてくれた」
「……いいえ、いいえ。私など、なにも。旦那様は、ご自分の意志の力によってご自分を正され、ご自身のお心の強さを持ってして、前を向かれたのです。家令の身でありながら、仕える主に不遜な物言いを致しました事、心よりお詫び申し上げます」
アドラシオンに対し、深々と頭を垂れるアルマソン。
いつの間にか、ベッドの傍から数歩後ろに下がっていたマイナは、右の手で口元を覆い、潤む双眸を静かに伏せていたが、やがて呼気を整えて顔を上げ、静かに口を開く。
「……なんにせよ、無事旦那様がお目覚めになられた事を、奥様にお知らせせねばなりませんね。今奥様は、邸の書庫で調べ物をされておいでのはずですので、お呼びして参ります」
「ああ、頼むマイナ。ニアにも、心から礼を言わねばならないからな」
未だ目を潤ませたままながら、微笑んで言うマイナに、アドラシオンも目を細め、微笑みながらうなづいた。
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