悪魔なあなたと結婚させてください!

西羽咲 花月

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スパルタ

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仕事終わりにビールを飲まないなんて何年ぶりだろう。
幸は台所でキャベツのスープを作りながら考えた。

学生時代はアルコールに弱くてあまり飲まなかったけれど、仕事を初めてよく飲むようになった。

最初は社会人になって付き合いが増えたことが原因だったけれど、次第にストレスがかかると飲むようになった。

そのストレスは毎日繰り返される朋香と和美の存在に及んできて、それから先はもう毎日飲まないとやっていけない体になっていた。

今だって、料理をしながらももう飲みたくて仕方ない。
ビールひと缶だけでいいから飲みたい。

だけどそんなことを言えば悪魔がなにをしてくるかわからないから口に出すこともできず、仕方なくスープ作りに専念していた。


「料理はできるんだな」
幸の手際の良さを見て悪魔が関心したようにつぶやく。

「食べるのが好きだから、作るのも苦じゃないの」
昔はよく自分で自炊をしていた。

最近ではもうそれもほとんどなくなったけれど。
こうして久しぶりに包丁を持っていると、当時のことを思い出してくる。

まだ自分で毎日自炊していたころはこれほど吹き出物も多くなかったかもしれない。
「できた」

キャベツと玉ねぎとじゃがいもとベーコンの入ったコンソメスープだ。
お米がないから野菜を沢山入れて、具だくさんにした。

「うん。いいんじゃないか」
まるで教師みたいに立って隣で見ていた悪魔が満足そうに頷いている。

どうせだからと二人分を皿にいついで準備した。


「悪魔は人間のご飯を食べられるの?」
「あぁ。食べなくてもいいが、食べられなくもない」

どっちつかずで都合のいい感じにできているみたいだ。

向かい合って座ってできたてのスープを口にいれると野菜の甘味が広がっておいしい。

「おいしい」
我ながら上出来だったのでつい口に出して言ってしまった。

自画自賛するなと言われるかと思ったが、アレクもスープを飲んで満足そうな顔をしている。

どうやら料理の味は合格点だったみたいだ。
そう思ったときだった。

ふと我に返ってみると今自分はイケメンと一緒にご飯を食べているのだということに気がついた。

しかも向かい合って、まるで夫婦みたいに。


途端に恥ずかしくなって体温が急上昇してゆく。
顔も真っ赤になっているのが自分でわかった。

「どうした、食べないのか?」
手が止まった幸にアレクが声をかける。

幸は照れていることを悟られないようにそっぽを向いて「た、食べるよ」と、答えたのだった。


☆☆☆

毎日コンビニのお弁当トビールとおやつとおつまみを食べている幸にとって、野菜スープのみの夕飯というのは、はやり過酷だった。

どうしても空腹で目が覚めた幸がスマホで時間を確認すると夜中の2時だった。
こんな時間になにか食べたら絶対にまた吹き出物が増えてしまう。

そうわかっていてもさっきからグゥグゥなり続けているお腹を我慢することはできなかった。
ベッドから起き出して部屋の中を見回してみると、幸いアレクの姿が見えなかった。

また夜の街を散歩しているのだろう。
警察に捕まらなければいいけれどと思いながら、食器棚を開ける。

ここにはカップラーメンやお菓子を沢山ストックしてあるのだ。
少し減っては買い足しているので、今食べる分は十分にある。

「う~ん、どれにしようかな」
悩んでいる幸の視線の先にはカップラーメンが置かれていた。

しかも普通サイズじゃなくて大盛りだ。


体の大きな幸は普通サイズのカップラーメンで我慢できたためしがない。
大盛りのカップラーメンと大盛りのご飯を食べて、ようやくお腹がいっぱいになる。

「これにしようかな」
と、醤油ラーメンを手に取ったところで玄関ドアが開いてアレクが帰ってきた。

げっ。
と心の中でつぶやき、カップラーメンを背中に隠す。

だけどアレクはすべて見透かしているように幸に近づくと素早く背中側に回り込んでいた。

「嫌な予感がすると思って帰ってきてみれば、お前はこんな時間からこんなもんを食うつもりだったのか」

「だ、だって、お腹が空いたから……」
アレクにカップラーメンを取り上げられながらも弁明する。

空腹で眠れなければきっと明日の仕事になだって影響が出てくる。
「そうなると思ったんだ。ほら」


アレクが差し出してきたのはコンビニの袋だった。
幸はパチパチとまばたきをしてそれを見つめる。

「コンビニに行ってきたの?」
「あぁ。あ、金は借りた」

当然のようにそう言って財布を投げてよこす。
幸はそれを受け取ってからコンビニの袋の中を確認した。

入っていたのはサラダとお粥、それに豆腐だった。
どれもこれもヘルシーなものばかりで幸の頭がクラリとしてくる。

「これが夜食だ」
「で、でもラーメン……」

すっかりラーメンの口になっていた幸をアレクが睨みつけた。
「いいから食え。それでさっさと寝ないと体に悪いぞ!」

渋々お粥をレンジで温めでお皿にうつす。


こんなもので自分のお腹が膨らむとは思えないけれど、アレクがジッと見てくるから他のものを食べるわけにもいかない。

「いただきます」
と、手を合わせてスプーンでお粥をひとくちすくって口に入れた。

ゴクンッと飲み込んだとき、あれだけ感じていた空腹が和らぐのを感じた。
「どうだ?」

「……おいしい」
悔しいけれど、ほとんど味のついていないお粥が美味しく感じられる。

あれだけお腹が減っていたのに半分ほど食べたところで、もうお腹がいっぱいになっていた。

「ふぅ。もう食べられない」
と、自分でも信じられない気持ちでつぶやく。


「いつもは一気食いをして食べすぎてたんだろ。スプーンですくって少しずつ食べることで少量で満足できたんだ」

そんなもんなんだろうか?
お腹が膨れたことで、今度は眠くなってきてしまった。

もう夜中の3時が近い時間だし、目がトロンとしてくる。

幸は食べ残したお粥のお皿にラップをかけて冷蔵庫に入れると、そのまま倒れるようにしてベッドに寝転んだのだった。


☆☆☆

アルコールなしでもこんなにグッスリ眠ることができるんだ。
満腹になった幸は幸せな眠りを貪っていた。

出勤までにはまだまだ時間もあるしもう少しこうして……。
「おい、起きろ」

その睡眠は布団を剥ぎ取られることによって打ち消されてしまった。
薄目を開けてみると目の前にアレクの顔があって、思わず悲鳴を上げる。

朝からイケメンを目の前で拝めるなんて夢みたいな生活だけれど、ちょっと距離が近すぎる。

「なにを恥ずかしがってるんだ?」

当のアレクは幸が真っ赤になっている原因がわからずに怪訝そうな表情だ。

「な、なによ。もう少し時間はあるでしょう?」
まだアラームだって鳴っていない時間帯だ。

「もう遅いくらいだ」


そう言われて飛び起きて時間を確認してみると午前5時半だった。
やっぱりまだまだ余裕はある。

あと30分は眠ることができるはずだ。
アレクのいたずらだと思った幸は頬を膨らませて再び布団に潜り込んだ。

が、それもまたすぐに剥ぎ取られてしまった。

「これからランニングだ。それから朝ごはんをちゃんと作って食べて、仕事に行くんだ」

「はぁ?」
アレクの言葉に幸は目を白黒させる。

昨日から一体全体なんなんだ。
悪魔がそんなに健康的な生活をご主人に願うなんてどうかしてる。

「お願いだからもう少し寝かせてよぉ」


「ダメだ。俺はお前の願いを叶えないと帰れない。つまり、とっとと結婚してとっとと帰りたいんだ」

「だったら――」
「今のお前じゃ無理だ」

幸の次の言葉を言わせずに完全に否定するアレク。
朝っぱらからそんなことを言われたらさすがに凹む。

「お前をイジっている奴らを見返すことだってできるかもしれない」
その言葉に幸は顔を上げた。

「キレイになって見返すってこと?」
「わかりやすく言えば、そういうこともできるかもしれないってことだ」

そういうシンデレラストーリーはよくあるし、幸も好きでドラマなどで見てきた。

だけど現実でダイエットをするのは難しいし、なによりもずぼらな性格をしている自分がそんなことできるとは思えなかった。


「私今90キロあるんだよ? キレイになるなんて無理に決まってるじゃん」

ふくれっ面をして言えばアレクが「自分でわかっているくせに俺の嫁になりたいのか」と、突っ込んでくる。

それを言われたら返す言葉が出てこない。
アレクと自分では釣り合わないことくらい重々承知だ。

もしアレクが同じ人間であれば、決して幸なんかに近づいたりもしていないはずだ。
「そもそもお前は勘違いをしている」

「勘違い?」
なんのことだろうと首をかしげたところで、突然腕を掴まれていた。

イケメンに腕を掴まれた経験なんてない幸は驚いて目を白黒させる。
それでもアレクは容赦なくさ地を部屋の外へと連れ出した。

「ちょっと、私まだパジャマなんだけど」
顔すら洗っていない状態で外に出るのはさすがに恥ずかしい。

そこまで女を捨てたつもりもない!


と、思っている間にアレクに抱き寄せられていた。

なにもかもが突然の出来事でもやは反論もできずにただただ困惑する。
「少しの時間だけだから気にするな」

アレクはそう言ったかと思うとコートの下から大きな黒い翼を取り出して空高く舞い上がったのだ。

イケメンに抱きしめられて大空を飛ぶ幸はもはや気絶寸前。
刺激が強すぎて頭はとっくについていけなくなっていた。

「ここだ」
アレクが降り立ったのはひと気のない路地裏だった。

こんなところになにがあるのかと周囲を見回してみれば、スポーツジムの裏手であることがわかった。

小窓の中から人の声が聞こえてきている。


こんな早朝からジムが開いていることすら知らなかった幸は、興味深そうに窓から中の様子を確認した。

「朋香と和美?」
ジムで汗をかいているふたりの女性には見覚えがあり、幸は目を丸くする。

「そうだ。会社帰りにもここに立ち寄ってるみたいだぞ」
「な、なんでそんなこと知ってるの?」

「俺は今時間を持てあまりしてるんだ。この街の上を飛び回って色々と観察している」

そのときに偶然みかけたみたいだ。
「で、これがどうかしたの?」

あのふたりがジムで運動している様子をみせられてどうしろと言うのだろう。

するとアレクがマジマジと見つめてきたのでまた照れてしまいそうになった。

「お前、これを見てもなにも思わないのか?」


「朝っぱらからよくやるなぁ……とか?」
首をかしげて言うとアレクに盛大なため息をつかれてしまった。

だけど幸からすれば本当に意味がわからないことだった。
もしかしてお前もジム通いをしろとか言われるんだろうか。

だったら全力で断らないといけない。
運動と早起きはとてつもなく苦手なんだから。

「お前をバカにしているヤツらでも努力をして美を手に入れてるってことだろうが!」

叱責されてようやくアレクが言わんとしていることに気がついた。
「つまり、私にも努力しろっってこと?」

ジム通いしろと言われているのとほぼ同じことだったので落胆してしまう。
もっと簡単にキレイになる方法を教えてくれるのかと思った。

なんせアレクは悪魔なんだから。
「そうだ。美しさは作ることができるんだ」


「そんなこと言われても……」
きっと、彼女たちと自分では根気強さだって違う。

それなのに同じようにやれと言われても到底無理だ。
「お前の場合はまずはランニングから」

「でもぉ……」
まだ納得しかねて頬をふくらませる幸。

そんな幸にアレクが顔を近づけてきた。
それもなんだかとびきに決め顔だ。

あまりに至近距離で見つめられてあとずさりをしようとしたけれど、両腕を背中に回されて引き止められてしまった。

こんな状況は映画やドラマの中でしか見たことがないので、うろたえてしまう。
「俺のために頑張ってくれないか?」

まさしくアメとムチ。
アレクの甘いささやき声に幸の体から力が抜けていく。

「も、もちろん頑張るよ!」
まんまと乗せられて幸はそう答えていたのだった。


☆☆☆

とはいえど、普段運動をしない幸がいきなり長距離を走るのは無理がある。
まずは行き帰りで2キロの距離をランニングすることになった。

幸い、アパートの近くには大きな広場があるから、そこを走る場所に決めた。
「ほら、頑張れ!」

後方からアレクの応援が飛ぶ。

まさか一緒に走るとは思っていなかったので、途中でサボることも許されずに走り続けて、すでに汗だくの状態だ。

後1キロ走らないといけないと思うと気が滅入る。

そんなときにアレクが後ろから「頑張れば今晩は添い寝してやる」なんて言ってくるものだから、ついペースが上がってきてしまう。

この時間にはいつも眠っていたから知らなかったけれど、広場では同じように走っている人や、犬の散歩をしている人が多くいるみたいだ。

すれ違いざまにアレクと幸に声をかけてくれる人もいる。


見知らぬ相手を挨拶することなんて滅多にない幸にとって新鮮な出来事だった。

2キロという距離はとても長く感じられたけれど、どうにか完走してアパートまで戻ってきていた。

「あぁ……気持ちよかった!」
「最初はあれほど嫌がってただろ」

「それは、そうだけど」

早朝の空気が思いの外おいしくて驚いたのと、他にも頑張っている人がいることがわかっから自分も頑張れた。

幸は汗を流すために浴室へと入り、そこで少しだけ吹き出物が減っていることに気がついた。

昨日はお菓子やビールを控えたからかもしれない。
お風呂上がりの化粧でファンデーションのノリも違った。


「ふんっ。たまにはこういうのもいいかもね」
と口の中でつぶやいて野菜中心の朝ごはんを準備する。

もちろん、これもアレクに言われてやっていることだ。
1人だったらパンとコーヒーだけで終わらせてしまう。

今日はランニングしても十分時間が余るから、焦らずに朝食を作ることもできた。

ただ、これが毎日となるとさすがにしんどいだろうなぁと考える。
たまには息抜きも必要だと、アレクはわかってくれているだろうか。

それから会社へ向かうとなんだか体が軽い気がしてきた。

普段はでんしゃないでできるだけ座っているのだけれど、今日は席が開いていても立っていることにした。

すでに軽く運動をしているからか、体が動かしやすい。
気分よく出社したところで朋香と和美のふたりも出社してきた。


ふたりは幸に挨拶することなく通り過ぎていく。

普段ならそれだけでムッとしてしまう幸だけれど、今日はイラつくこともなかった。

ふたりが朝から努力している姿を見たからかもしれない。
とにかくいい気分で仕事をスタートさせたのだけれど、それも長くは続かなかった。

「佐藤くん」
と、仏頂面の上司に呼ばれて言ってみれば、昨日頼まれたコピーでミスがあったと言う。

それは朋香と和美のふたりに踏みつけにされて、コピーをやり直した書類だったので、幸のこめかみがピクリと動いた。

たしか、この上司もその場を見ていたはずだ。
「困るんだよこういう凡ミスされちゃあ! 佐藤くん何年この仕事してるんだ?」

グチグチと文句をこぼす上司を見て朋香と和美の笑い声が聞こえてくる。
振り向くとふたりがこちらを指差しているのが見えた。

元はと言えばふたりのせいなのに!


「あの、お言葉ですが――」

「全く困るよねぇ! 何年立ってもろくに仕事ができないんだから! ねぇ、君たちもそう思うよねぇ!?」

上司は幸の言葉を遮って大きな声で言う。
それはあからさまに朋香と和美へ向けられた言葉だった。

ふたりは上司に同意して「そうですねぇ」と、甘えた声を上げる。
その瞬間、上司の頬が満足そうに歪んだのを幸は見逃さなかった。

こいつ、女子社員から注目浴びたいからってわざとやってるんだ!
そう気がついても、もう遅い。

他の社員たちにもわらいが電線して上司は更に調子に乗る。
「だからさぁ。今度は気をつけるように!」

散々幸を悪者にしてスッキリしたのか、上司は最後にそう言うとようやく幸を解放したのだった。

☆☆☆

朝っぱらから上司の小言につきあわされて疲弊してしまった幸は昼ごはんだけが楽しみだった。

今日はなにを食べよう。
昨日はちょっと奮発したから、今日は安い定食で済ませようか。

色々考えながら財布を握りしめて社食へ向かう。
すると朋香たちはすでに食事をはじめていた。

横目で見てみると、ふたりとも野菜中心の食事を取っているのが見えた。

幸からすればお腹のたしにもならない量だ。
本当にあれだけでお腹が膨らむんだろうか?

半信半疑に思いながらも幸も同じ野菜定食を注文することにした。
「あれ、どうしたの? 今日は体調でも悪いのかい?」

食堂のおばちゃんが本気で心配してくるので幸は苦笑いを浮かべた。
「別にそんなんじゃないよ」


と、否定しながら定食を受け取る。
幸の茶碗だけ、どう見ても他の人よりも大盛りごはんがもられている。

おばちゃんに悪気がないだけあってなにも言えずにそのまま受け取って席へ向かった。

できるかけ朋香と和美から離れた場所を選んで座ったのだけれど、ふたりは目ざとく幸を見つけて近づいてくる。

「ちょっとなにこれ」
そう言ったのは和美だった。

和美は幸の持っている野菜定食を指差してすでに笑いそうな顔をしている。

「こんな山盛りご飯の野菜定食なんて見たことないんだけど!」
和美の声を引き金にしてどっと笑い声が社食に満ちる。

慌てて自分のご飯を隠そうとするけれど、もう遅かった。

幸の周りにはあっという間に人だかりができていて、漫画盛りにされたご飯を見てみんなが笑う。

「これじゃ野菜がメインなのか米がメインなのかわかんないねぇ? でも佐藤先輩にはちょうどいいんじゃないですかぁ?」

和美のそんな声を聞きながら幸は一番奥の席へと逃げたのだった。


☆☆☆

昨日の晩も今日の朝もヘルシーな食事に変えた。
普段はほとんどやることのない自炊までして頑張った。

だけど昼がこれじゃなんの意味もない!
そう思いながらも幸の箸は止まらない。

元々食べることが大好きだし、今朝上司から理不尽に怒られたことで食欲が加速していた。

漫画のように山盛りになったご飯も、気がつけばなくなってしまっていた。
少し残そうと思ってたのに……。

我慢できずに全部食べてしまった自分に嫌気が差してくる。
どうしよう。

これだけ食べたなんてことがアレクにバレたら、また呆れられる。
すべてキレイに平らげた食器を返却口へ持っていってから、幸はそのまま屋上へと向かった。

屋上には嫌な思い出ができてから一切足を向けていなかったのだけれど、今日は特別だ。
食べ過ぎたのだからその分を消費すればいい。


そう考えて誰もいない屋上で軽いランニングを始めた。
今日はこれで2度めのランニングだ。

1度目はアレクが一緒にいてくれたから2キロという距離を走ることができたけれど、今回は一緒に走ってくれる人が誰もいない。

1人で走っていると意識が疲れた、しんどい、足が痛い。
と、マイナスな方へと流れていく。

はたと気がついてマイナスな思考を振り払うのだけれど、単調に走っているだけだとどうしても妙なことばかりが頭に浮かんできてしまう。

「あぁ……疲れた」
1キロくらい走っただろうか。

灰色の屋上を何周かまわったとき幸はついに足を止めてしまった。

背中にジワリと汗をかいているし、全くの無駄な運動だとは思わないけれど、自分で想像していた以上に走れないことがわかった。

「頑張ってるね」

ベンチに座って休憩したいたとき、不意にそう声をかけられて顔をあげると、そこには同期入社の明里が立っていた。

明里は目立つタイプではないが淑やかで男性社員から密かに人気が高い社員だった。

「明里、いつの間にいたの?」

「少し前から。声をかけようと思ったんだけど、邪魔しちゃ悪いから階段のところから見てた」

だから幸から明里の姿は見えなかったみたいだ。
「遠慮せずに上がってくればよかったのに」

明里が隣に座って自作のお弁当を広げ始めたので幸はなんだか申し訳ない気持ちになってしまった。

自分に遠慮してご飯を食べる時間が遅くなってしまったみたいだ。
「ううん。幸が頑張ってる姿を見たら、なんだか勇気が出てきたからいいの」


お弁当に箸を伸ばしながら言う明里。
「勇気?」

「うん。私今度はじめて自分でプレゼンするの」
「え、本当に!?」

明里は新作文具を作る部署にいる。
幸も本当はその部署を希望していたのだけれど、念願は叶わなかった。

「私なんてダメだって思ってたけど、でも頑張んなきゃだよね」
前向きな明里の意見に幸はもう1度立ち上がった。

目標の2キロはまだ達成していない。
それなのに明里は自分を見て勇気を出さないといけないと思ってくれた。

それなら私は、もっともっと頑張ろう。
「私もう少しランニングするから、明里はそこで見てて」

そう言うと明里はちょっとだけ驚いた表情を浮かべて、そして微笑んだ。
「わかった。ここから応援してる」

「うん」
そうして幸はまた走り出したのだった。


☆☆☆

帰宅後もアレクとふたりで2キロをランニングした。

合計6キロもランニングしたことなんて、きっと人生で1度も経験したことがない。

「なかなかやるじゃないか」

走り終えた頃のアレクはなんだか満足げで、何度も何度も幸の頭を撫でてきた。

「こ、子供じゃないんだから」
と、文句をいいつつも幸の頬は赤く染まる。

まるでアメとムチで調教されているような気がしてくるけれど、アメ部分が好きすぎて拒否できないのは本当のところだった。

「料理のアプリでも取ろうかなぁ」
夕飯も野菜中心の料理を作っていたとき、幸はポツリとつぶやいた。

料理をすることは嫌いじゃないけれど、ずっと自結から遠ざかっていたからレシピがわからない。


炒めるとか煮るとか、焼くとか、簡単なことばかりだ。
「いい心がけだな」

「へへっ」
アレクに褒められてまた心がおどる。

そうだ。

どうせアレクの花嫁になるんだから料理を勉強しておいても損はないはずだ。

幸はさっそく料理系アプリをダウンロードしたのだった。
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