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金粉でキラキラと光る豪華なバレッタをつけて出勤した日は気分がいいことに気がついた。
アレクが自分のために時間をかけて直してくれたことが嬉しすぎて、もう二度と手放すことはできなさそうだ。
だけどそんな気分を害してくる人は、どうしても存在する。
きっとどんな組織の中にも他人の幸せが許せない人というのはいるんだろう。
「俺、佐藤さんに告白されたことあるんだよねぇ」
そんな声が聞こえてきたのは社食での出来毎だった。
幸がいつもの野菜定食に手をつけようとしたときのことだった。
自分の名前が出てきて振り向いて見ると、そこにいたのは中川と数人の男性社員だった。
今日は珍しく女性社員を引き連れてはいないようだ。
代わりに後輩たちに囲まれている。
「え、まじっすか」
中川の言葉に1人がすぐに反応した。
「佐藤さんって、佐藤幸さん?」
「あのひとキレイだよなぁ」
「目がクリッとしてるから、可愛い系だろ」
そんな声まで聞こえてきて幸はすぐに気が付かないふりをした。
食事に集中するふりをする。
体重が45キロまで落ちた幸は今体重をキープするために運動を継続するようになっていた。
ここまで痩せたことで心に余裕ができてきて、メガネもコンタクトに変えた。
ついでに今までメガネをかけていたからないがしろにしていたアイメークも勉強しはじめていた。
30手前になってメークの勉強なんて今更かと思うかもしれないけれど、幸にとってはどれも目新しくて面白いものだった。
以前はゴマだと言われていた目もパッチリしてきて、男性社員の中での人気が急上昇してきている。
それでも誰とも交際しない幸を、以前の幸をよく知らない社員たちは不思議がっていた。
「もしかしたら今でも好きなんじゃないかなぁって」
中川の言葉に口の中にある野菜を吹き出してしまいそうになり、慌ててお茶で流し込んだ。
信じられない気分で振り向くと視線があってしまい、慌ててそらす。
中川は今でも女子社員たちに人気の存在だけれど、部屋に戻れば中川よりもずっとカッコイイアレクが待っている幸にとってはもはやどうでもいい存在だった。
まだ好きとか、本気で考えているんじゃないだろうな?
聞こえないふりをして食事を続けていた幸の元へ中川が近づいてきた。
その自信に満ちた笑みを前にして幸は箸を持つ手を止める。
「今の君となら、付き合ってあげてもいいよ?」
爽やかな笑みを浮かべてそう言ってのける中川に幸は一瞬言葉を失った。
どうしてこんなにも上から目線で人に接することができるんだろうと、不思議に感じる。
思えば幸が告白したときもそうだった。
幸を散々な笑いものにするために、バレンタインの手紙を無関係な社員に見せていたのだ。
その頃のことを思い出すと急激に胸の奥から怒りが湧き上がってくる。
あのときの自分は確かに見た目が悪かった。
デブでブスで、目も小さくて。
だけどそれで誰かに迷惑をかけたとか、誰かに嫌がらせをしたことはなかった。
それなのに、中川は幸の気持ちを笑い者にしたのだ。
「なに言ってるんですか?」
できるだけ冷静に、感情的にならないように言葉を絞り出す。
本当はあんたなんか大嫌いだと怒鳴ってやりたかった。
「はぁ?」
中川の表情が険しいものに変わる。
幸を睨みつけてきているけれど、幸はそれを睨み返した。
「もうあなたのことは好きじゃありません。勝手なことを言わないで」
声が震えた。
怒りと、ほんの少しの恐怖もあったかもしれない。
中川が引き連れていた男性社員たちから笑い声が漏れる。
普段は中川のことを慕っている彼らも、鼻につくような性格をしている中川が女性にフラれるのを目撃して楽しんでいるのだろう。
幸はまだ残っている野菜定食のプレートを手に立ち上がった。
一気に食欲は失せていたし、このまま中川と同じ空気をすっていることも嫌だった。
料理を残してしまったことを申し訳なく感じながらも、幸は社食を後にしたのだった。
☆☆☆
昼間の出来事をアレクに伝えると、そのときの怒りがまた蘇ってきた。
「結局あの人って見た目だけで判断してたんだよね」
幸の人気が急上昇している今、幸と付き合うことができたら自慢できるとでも考えたのだろう。
さらには1度自分を好きになった女性は、今でもまだ自分のことを好きでいると思いこんでいる。
そんなはずはないのだ。
あれだけのフリ方をしておいて、今さらすぎる。
「中川か。あまり意識していなかったが、気をつけた方がいいかもしれないな」
アレクが顎に手を当ててつぶやいた。
「きっとプライドの高い男なんだろう。みんなの前で恥をかかされたと思っているかもしれない」
「そんな! 私はこれでも我慢したのに」
怒鳴ってやりたいのをどうにかこらえた。
本当なら、たったあれだけ言い返して終われるはずはなかったんだ。
「私は今までずっとひどいことをされてきたんだよ? どうして相手に気を使ってあげなきゃいけないの」
幸はそう言い放つと、ムスッとした表情でアレクにそっぽを向いたのだった。
☆☆☆
そう。
私は頑張っている。
努力を続けているし、その結果キレイになった。
人気だって手に入れたし、嫌がらせもなくなってきた。
それは全部自分自身が変化してきたからだ。
「そろそろいいんじゃない?」
ある日の休日、ジムから戻ってきた幸はアレクへ向けてそう言った。
「いいってなにがだ?」
「今日ジムで体重をはかったら43キロだったよ。ウエストも57センチになってた」
見事にくびれてほぢょく筋肉のついた腹部を見せる。
しかしアレクの反応は薄かった。
目を細めて「それがなにか?」と、聞き返してくる。
「私キレイになったよね? アレクがそれを望んだんだよ?」
そっとアレクに近づいて、その手に触れる。
けれどアレクは幸の手をゆっくりと解いた。
「確かに俺が望んだ」
「それなら、結婚してくれるんだよね?」
幸の目は輝いている。
いつだったかアレクは幸に『もっと別のものをプレゼントする』というようなことを言っていた。
それはきっと結婚指輪であると幸は信じていたのだ。
そして今の幸はそれにふさわしい人間になった。
アレクと並んで歩いていても、もう幸が笑われることはない。
「今のお前とは結婚できない」
その言葉に幸はえっと言ったきり固まってしまった。
全身が凍りついて動けない。
どうにか言葉を発しようとして「なんで?」と、絞り出すのがやっとだった。
何ヶ月もかけてダイエットをして、大好きなお酒もやめて、メークも勉強してここまできたのに。
結婚できないってどういうこと?
これ以上痩せるのは難しい。
ガリガリになってもそれは美しくない。
今の体重がちょうどいいくらいのはずだった。
肌も髪も以前より艷やかで、みんなが褒めてくれる。
そこまで変化した自分がダメだというなら、今までの努力は一体なんだったのか。
「見た目が変わっただけで、中身はほとんど変わってない」
「なによ、それ……」
ここまでキレイになったのにそれを拒絶された気がした。
アレクが言うから頑張ってきたのに、その努力が無駄になった気がした。
幸は拳を強く握りしめてアレクを睨みつけた。
「今のお前は……もしかしたら以前よりも醜いかもしれない」
☆☆☆
アレクに結婚を断られた幸は不機嫌さを隠すこともなく出勤していた。
みんな今日の幸には近寄りがたいようで、朝からずっと1人で仕事をしている。
「佐藤くん」
上司に呼ばれて幸はハッと我に返ってパソコン画面から顔をあげた。
朝からずっとアレクのことばかり考えていて、仕事はほとんど進んでいなかった。
「はい……」
のろのろと立ち上がって上司のデスクへと向かう。
するとしかめっ面の上司と視線がぶつかり、幸は思わず舌打ちしてしまいそうになった。
なにかミスでもしただろうかと心当たりを探すけれど、今日1日ぼーっとしていたから思い出せない。
「これ、間違えてるんじゃないのか?」
そう言って差し出された書類を見て幸は内心あっとつぶやいた。
それは今朝幸が一番に提出した書類だった。
そこに誤記があったのだ。
上司はそれを目ざとくみつけて幸を呼んだみたいだ。
こんな最低な気分の中仕事でも怒られるなんてまっぴらだった。
どうせまた幸にネチネチと説教を垂れるに決まっている。
そう思うと気分が重たくなり、咄嗟に「それは私じゃありません」と、答えていた。
言葉が口を出てから幸自身が驚いた。
そんなことを言うつもりはなかった。
すぐに謝って修正すれば済む話だった。
それでも今の幸は素直にはなれなかった。
今まで散々幸にミスを押し付けてきた朋香と和美の顔が脳裏に浮かんでくる。
振り向くとふたりとも今は真面目に仕事をしているみたいだ。
でも、だからなんだというのだろう。
幸だって真面目に仕事をしてきた。
そんな中で、何度も何度もミスをなすりつけられて仕事を中断してきたのだ。
同じことをして、なにが悪いの?
「藤本さんの仕事です」
和美の名前を出すことに抵抗はなかった。
幸はそれだけ言うと自分の席へ戻る。
上司はしばらく唖然として幸を見ていたが、我に返ったように和美を呼んだ。
和美はどうして自分が怒られるのかわからない様子でうろたえている。
それを横目で見ながら、幸は自分の仕事を再開したのだった。
☆☆☆
この日、珍しくお弁当を持参してこなかった明里が社食にいたので一緒に食べることになった。
「今朝は頭が痛くて寝坊したの」
という明里は確かに体調が悪そうだ。
「大丈夫?」
と、心配しつつも幸の頭の中にはアレクに断られたことが渦巻いている。
それを感じ取ったのか、明里は自分の体調よりも幸のことを心配してくれていた。
「ほんっと和美と朋香は使えないんだよね。入社何年目だっつーの」
大きな声で愚痴る幸に、朋香はうろたえた表情を浮かべる。
「そんなに使えないの? 本当に?」
「私が嘘ついたことなんてあった?」
「ない。けど……」
幸が大勢の中で人の陰口を言ったこともなかったので、明里はどう対応すればいいのか決めかねている様子だ。
それでも幸はお叶いなく話を続ける。
今まで同じように笑いものにされてきたんだ。
あのふたりが許されて、自分が許されないことなんてあるはずがない。
幸は細い足を組んで男性社員たちにみせびらかしながら「それにさぁ、人事部の中川さんいるじゃん? 確かにカッコイイよくて昔は好きだったけど、今は全然好きじゃないんだよねぇ。なのに勝手に告白してこられて本当に迷惑したんだよね」と、今度は中川のことを話題に出す。
「幸、それくらいにしときなよ」
「どうして? 私、本当のことを言ってるだけだよ?」
「でもさぁ……」
「私は間違ったことなんてしてない!」
幸は明里の言葉を遮るように叫んでいた。
イライラして仕方ない。
こんなに頑張ってキレイを手に入れた自分が幸せにならないわけがない。
「うん、そうだね……。ごめん、やっぱり体調が悪いから、先に行くね」
明里は青ざめた顔でそう言うと幸から離れていってしまったのだった。
☆☆☆
私は間違ったことなんてしてない。
絶対にしてない。
どうにか仕事をしてアパートに戻ると、そこに人影はなかった。
真っ暗な室内は寒々しくてアレクの『おかえり』という声も聞こえてこなかった。
「アレク?」
声をかけながら狭い室内を探してみても、やはりその姿を見つけることはできなかった。
どこかへでかけているんだろうか。
今までも幸が眠っている間に外にフラフラ出ていくことはあった。
だけど幸が帰る時間に部屋にいないのは、今回が初めてだった。
そう考えた瞬間スッと背筋が寒くなった。
なにがあってもアレクは自分の帰りを待っていてくれた。
それなのに……。
「まさか、家出?」
結婚を断られたときのことを思い出す。
それ以来アレクとの間に会話はほとんどなかった。
それでも大丈夫だと思っていたのは、アレクと自分が主従関係にあったからだ。
アレクは幸が召喚した悪魔。
だから幸から離れることはないと、タカをくくていた。
「待って、そんな」
だけど最近のアレクの呆れ顔は何度見ただろう。
あれだけ幸に対して呆れていたから、ついに我慢の限界が来たのかもしれない。
「アレクが出ていくなんてありえない。だって、私はご主人なんだから」
つぶやく声が虚しく空間に消えていく。
どれだけアレクの名前を呼んでも出てきてくれなかったのが、アレクが愛想をつかしてしまった証拠そのものだった。
今の状態でアレクまでいなくなったら私はどうすればいいの?
朋香も和美も中川も幸の味方じゃない。
明里だって、もう幸と一緒にはいてくれないかもしれない。
アレクがいなくなったらまた自分はひとりぼっち……?
「そんなのやだ!」
叫ぶと同時に部屋を駆け出していた。
外はいつの間にか雨になっていたけれど、気にせず外へ飛び出す。
傘もささずにアパートの周辺を探し始めた。
「アレク、アレクどこ!?」
叫んでも叫んでもアレクは見つからない。
道行く人々が好奇の目を幸へ向けるけれど、それを気にしている余裕もなかった。
雨はだんだん強さを増してきて視界も悪くなっていく。
雨音によって自分の声がかき消されないように懸命に名前を呼ぶ中、気が付かない家にまた涙がボロボロとこぼれだしていた。
また泣いていたんじゃアレクに怒られてしまう。
呆れて、帰ってきてくれないかもしれない。
だけど止められない。
「ごめんねアレク。私もう復讐なんてしない。他人に嫌な思いなんてさせないからぁ」
泣きながら叫ぶ。
その声はやっぱり雨音にかき消されてしまう。
「私が間違ってたの。同じことをやり返したってなんの意味もなかった。また同じように嫌がらせをされるだけだって、わかってなかった」
冷たい雨に打たれながら空を見上げる。
アレクがどこからか自分を見ていないだろうかと期待して。
「だからぁ……戻ってきてぇ……」
膝から崩れ落ちてしまいそうになったとき、スッと黒い傘が差し出された。
幸の前で誰かが立ち止まる。
幸がパッと顔を上げたとき、そこにいたのは……アレクではなく、中川だった。
アレクが自分のために時間をかけて直してくれたことが嬉しすぎて、もう二度と手放すことはできなさそうだ。
だけどそんな気分を害してくる人は、どうしても存在する。
きっとどんな組織の中にも他人の幸せが許せない人というのはいるんだろう。
「俺、佐藤さんに告白されたことあるんだよねぇ」
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ここまで痩せたことで心に余裕ができてきて、メガネもコンタクトに変えた。
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それでも誰とも交際しない幸を、以前の幸をよく知らない社員たちは不思議がっていた。
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信じられない気分で振り向くと視線があってしまい、慌ててそらす。
中川は今でも女子社員たちに人気の存在だけれど、部屋に戻れば中川よりもずっとカッコイイアレクが待っている幸にとってはもはやどうでもいい存在だった。
まだ好きとか、本気で考えているんじゃないだろうな?
聞こえないふりをして食事を続けていた幸の元へ中川が近づいてきた。
その自信に満ちた笑みを前にして幸は箸を持つ手を止める。
「今の君となら、付き合ってあげてもいいよ?」
爽やかな笑みを浮かべてそう言ってのける中川に幸は一瞬言葉を失った。
どうしてこんなにも上から目線で人に接することができるんだろうと、不思議に感じる。
思えば幸が告白したときもそうだった。
幸を散々な笑いものにするために、バレンタインの手紙を無関係な社員に見せていたのだ。
その頃のことを思い出すと急激に胸の奥から怒りが湧き上がってくる。
あのときの自分は確かに見た目が悪かった。
デブでブスで、目も小さくて。
だけどそれで誰かに迷惑をかけたとか、誰かに嫌がらせをしたことはなかった。
それなのに、中川は幸の気持ちを笑い者にしたのだ。
「なに言ってるんですか?」
できるだけ冷静に、感情的にならないように言葉を絞り出す。
本当はあんたなんか大嫌いだと怒鳴ってやりたかった。
「はぁ?」
中川の表情が険しいものに変わる。
幸を睨みつけてきているけれど、幸はそれを睨み返した。
「もうあなたのことは好きじゃありません。勝手なことを言わないで」
声が震えた。
怒りと、ほんの少しの恐怖もあったかもしれない。
中川が引き連れていた男性社員たちから笑い声が漏れる。
普段は中川のことを慕っている彼らも、鼻につくような性格をしている中川が女性にフラれるのを目撃して楽しんでいるのだろう。
幸はまだ残っている野菜定食のプレートを手に立ち上がった。
一気に食欲は失せていたし、このまま中川と同じ空気をすっていることも嫌だった。
料理を残してしまったことを申し訳なく感じながらも、幸は社食を後にしたのだった。
☆☆☆
昼間の出来事をアレクに伝えると、そのときの怒りがまた蘇ってきた。
「結局あの人って見た目だけで判断してたんだよね」
幸の人気が急上昇している今、幸と付き合うことができたら自慢できるとでも考えたのだろう。
さらには1度自分を好きになった女性は、今でもまだ自分のことを好きでいると思いこんでいる。
そんなはずはないのだ。
あれだけのフリ方をしておいて、今さらすぎる。
「中川か。あまり意識していなかったが、気をつけた方がいいかもしれないな」
アレクが顎に手を当ててつぶやいた。
「きっとプライドの高い男なんだろう。みんなの前で恥をかかされたと思っているかもしれない」
「そんな! 私はこれでも我慢したのに」
怒鳴ってやりたいのをどうにかこらえた。
本当なら、たったあれだけ言い返して終われるはずはなかったんだ。
「私は今までずっとひどいことをされてきたんだよ? どうして相手に気を使ってあげなきゃいけないの」
幸はそう言い放つと、ムスッとした表情でアレクにそっぽを向いたのだった。
☆☆☆
そう。
私は頑張っている。
努力を続けているし、その結果キレイになった。
人気だって手に入れたし、嫌がらせもなくなってきた。
それは全部自分自身が変化してきたからだ。
「そろそろいいんじゃない?」
ある日の休日、ジムから戻ってきた幸はアレクへ向けてそう言った。
「いいってなにがだ?」
「今日ジムで体重をはかったら43キロだったよ。ウエストも57センチになってた」
見事にくびれてほぢょく筋肉のついた腹部を見せる。
しかしアレクの反応は薄かった。
目を細めて「それがなにか?」と、聞き返してくる。
「私キレイになったよね? アレクがそれを望んだんだよ?」
そっとアレクに近づいて、その手に触れる。
けれどアレクは幸の手をゆっくりと解いた。
「確かに俺が望んだ」
「それなら、結婚してくれるんだよね?」
幸の目は輝いている。
いつだったかアレクは幸に『もっと別のものをプレゼントする』というようなことを言っていた。
それはきっと結婚指輪であると幸は信じていたのだ。
そして今の幸はそれにふさわしい人間になった。
アレクと並んで歩いていても、もう幸が笑われることはない。
「今のお前とは結婚できない」
その言葉に幸はえっと言ったきり固まってしまった。
全身が凍りついて動けない。
どうにか言葉を発しようとして「なんで?」と、絞り出すのがやっとだった。
何ヶ月もかけてダイエットをして、大好きなお酒もやめて、メークも勉強してここまできたのに。
結婚できないってどういうこと?
これ以上痩せるのは難しい。
ガリガリになってもそれは美しくない。
今の体重がちょうどいいくらいのはずだった。
肌も髪も以前より艷やかで、みんなが褒めてくれる。
そこまで変化した自分がダメだというなら、今までの努力は一体なんだったのか。
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「なによ、それ……」
ここまでキレイになったのにそれを拒絶された気がした。
アレクが言うから頑張ってきたのに、その努力が無駄になった気がした。
幸は拳を強く握りしめてアレクを睨みつけた。
「今のお前は……もしかしたら以前よりも醜いかもしれない」
☆☆☆
アレクに結婚を断られた幸は不機嫌さを隠すこともなく出勤していた。
みんな今日の幸には近寄りがたいようで、朝からずっと1人で仕事をしている。
「佐藤くん」
上司に呼ばれて幸はハッと我に返ってパソコン画面から顔をあげた。
朝からずっとアレクのことばかり考えていて、仕事はほとんど進んでいなかった。
「はい……」
のろのろと立ち上がって上司のデスクへと向かう。
するとしかめっ面の上司と視線がぶつかり、幸は思わず舌打ちしてしまいそうになった。
なにかミスでもしただろうかと心当たりを探すけれど、今日1日ぼーっとしていたから思い出せない。
「これ、間違えてるんじゃないのか?」
そう言って差し出された書類を見て幸は内心あっとつぶやいた。
それは今朝幸が一番に提出した書類だった。
そこに誤記があったのだ。
上司はそれを目ざとくみつけて幸を呼んだみたいだ。
こんな最低な気分の中仕事でも怒られるなんてまっぴらだった。
どうせまた幸にネチネチと説教を垂れるに決まっている。
そう思うと気分が重たくなり、咄嗟に「それは私じゃありません」と、答えていた。
言葉が口を出てから幸自身が驚いた。
そんなことを言うつもりはなかった。
すぐに謝って修正すれば済む話だった。
それでも今の幸は素直にはなれなかった。
今まで散々幸にミスを押し付けてきた朋香と和美の顔が脳裏に浮かんでくる。
振り向くとふたりとも今は真面目に仕事をしているみたいだ。
でも、だからなんだというのだろう。
幸だって真面目に仕事をしてきた。
そんな中で、何度も何度もミスをなすりつけられて仕事を中断してきたのだ。
同じことをして、なにが悪いの?
「藤本さんの仕事です」
和美の名前を出すことに抵抗はなかった。
幸はそれだけ言うと自分の席へ戻る。
上司はしばらく唖然として幸を見ていたが、我に返ったように和美を呼んだ。
和美はどうして自分が怒られるのかわからない様子でうろたえている。
それを横目で見ながら、幸は自分の仕事を再開したのだった。
☆☆☆
この日、珍しくお弁当を持参してこなかった明里が社食にいたので一緒に食べることになった。
「今朝は頭が痛くて寝坊したの」
という明里は確かに体調が悪そうだ。
「大丈夫?」
と、心配しつつも幸の頭の中にはアレクに断られたことが渦巻いている。
それを感じ取ったのか、明里は自分の体調よりも幸のことを心配してくれていた。
「ほんっと和美と朋香は使えないんだよね。入社何年目だっつーの」
大きな声で愚痴る幸に、朋香はうろたえた表情を浮かべる。
「そんなに使えないの? 本当に?」
「私が嘘ついたことなんてあった?」
「ない。けど……」
幸が大勢の中で人の陰口を言ったこともなかったので、明里はどう対応すればいいのか決めかねている様子だ。
それでも幸はお叶いなく話を続ける。
今まで同じように笑いものにされてきたんだ。
あのふたりが許されて、自分が許されないことなんてあるはずがない。
幸は細い足を組んで男性社員たちにみせびらかしながら「それにさぁ、人事部の中川さんいるじゃん? 確かにカッコイイよくて昔は好きだったけど、今は全然好きじゃないんだよねぇ。なのに勝手に告白してこられて本当に迷惑したんだよね」と、今度は中川のことを話題に出す。
「幸、それくらいにしときなよ」
「どうして? 私、本当のことを言ってるだけだよ?」
「でもさぁ……」
「私は間違ったことなんてしてない!」
幸は明里の言葉を遮るように叫んでいた。
イライラして仕方ない。
こんなに頑張ってキレイを手に入れた自分が幸せにならないわけがない。
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明里は青ざめた顔でそう言うと幸から離れていってしまったのだった。
☆☆☆
私は間違ったことなんてしてない。
絶対にしてない。
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「アレク?」
声をかけながら狭い室内を探してみても、やはりその姿を見つけることはできなかった。
どこかへでかけているんだろうか。
今までも幸が眠っている間に外にフラフラ出ていくことはあった。
だけど幸が帰る時間に部屋にいないのは、今回が初めてだった。
そう考えた瞬間スッと背筋が寒くなった。
なにがあってもアレクは自分の帰りを待っていてくれた。
それなのに……。
「まさか、家出?」
結婚を断られたときのことを思い出す。
それ以来アレクとの間に会話はほとんどなかった。
それでも大丈夫だと思っていたのは、アレクと自分が主従関係にあったからだ。
アレクは幸が召喚した悪魔。
だから幸から離れることはないと、タカをくくていた。
「待って、そんな」
だけど最近のアレクの呆れ顔は何度見ただろう。
あれだけ幸に対して呆れていたから、ついに我慢の限界が来たのかもしれない。
「アレクが出ていくなんてありえない。だって、私はご主人なんだから」
つぶやく声が虚しく空間に消えていく。
どれだけアレクの名前を呼んでも出てきてくれなかったのが、アレクが愛想をつかしてしまった証拠そのものだった。
今の状態でアレクまでいなくなったら私はどうすればいいの?
朋香も和美も中川も幸の味方じゃない。
明里だって、もう幸と一緒にはいてくれないかもしれない。
アレクがいなくなったらまた自分はひとりぼっち……?
「そんなのやだ!」
叫ぶと同時に部屋を駆け出していた。
外はいつの間にか雨になっていたけれど、気にせず外へ飛び出す。
傘もささずにアパートの周辺を探し始めた。
「アレク、アレクどこ!?」
叫んでも叫んでもアレクは見つからない。
道行く人々が好奇の目を幸へ向けるけれど、それを気にしている余裕もなかった。
雨はだんだん強さを増してきて視界も悪くなっていく。
雨音によって自分の声がかき消されないように懸命に名前を呼ぶ中、気が付かない家にまた涙がボロボロとこぼれだしていた。
また泣いていたんじゃアレクに怒られてしまう。
呆れて、帰ってきてくれないかもしれない。
だけど止められない。
「ごめんねアレク。私もう復讐なんてしない。他人に嫌な思いなんてさせないからぁ」
泣きながら叫ぶ。
その声はやっぱり雨音にかき消されてしまう。
「私が間違ってたの。同じことをやり返したってなんの意味もなかった。また同じように嫌がらせをされるだけだって、わかってなかった」
冷たい雨に打たれながら空を見上げる。
アレクがどこからか自分を見ていないだろうかと期待して。
「だからぁ……戻ってきてぇ……」
膝から崩れ落ちてしまいそうになったとき、スッと黒い傘が差し出された。
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