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その8
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翌朝、サシャは温かいと思って目を覚ました。冷たい塔の中でも、1人で眠ることが多かった船の中でもない。柔らかなシーツの中、力強い腕がサシャを包み込んでいた。
もぞりと頭を動かすと、フラムが「…もう少し寝かせろ」とサシャを抱きしめなおす。肌と肌が触れ合う柔らかな温かさが心地良くて、サシャもフラムの腕の中に戻り、目を閉じる。サシャは、心も温かくなるのを感じながら、遠く離れた故郷のことを思った。
父さまも、こんな風に幸せでいてくださるだろうか。あの国の人々皆が、心穏やかでいられるように…。
サシャの願いは風に乗り、故郷の空で暖かな慈雨となって降り注いだ。
次の日には本当にパレードに連れて行ってくれ、屋台の食べ物と、子供たちが動物を真似をして背中に羽根をつけて踊る姿に大はしゃぎした。
かわいらしい小鳥のかっこうをした子供が、皆に配っていた飴をくれ、サシャはその甘さに驚いて「初めて食べました」とフラムに笑いかける。そして「こんなにパレードが楽しいなんて。連れてきてくれてありがとうございます」と礼を言うと、「礼は行動で示してくれ」とその場でキスを仕掛けられる。
隣にいたポートラムとボナポルトは呆れ顔をし、「若造め」「浮かれておる」とフラムに悪態をついていた。
その夜もフラムに抱きしめられ、翻弄され、気が付くと朝を迎えた。サシャは毎日、フラムが自分の中にそそぐものが、自分を変えていくような気がしてならなかった。
フラムは、我慢できなかった。この愛らしい生き物は何だと、笑いかけられ、名を呼ばれるたびに思った。
だからこそ、何も知らないサシャを抱いた。
すべてを自分のモノにするために。
すべてを自分のモノにしても、足りなかった。今までの女には感じなかった心の揺らぎ。
人は信じられない。特に女は、母以外に信じられるものなどいなかった。でも、本当に信頼できるものは裏切らない。兄や父たちに何度も殺されそうになった幼少期に、そうポートラムたちに教えてもらっていた。
だからこそ船員たちは自分についてきている。
サシャへ向かう思いは、信頼とはまた違ったものだった。
ポートラムには何でも話してきたが、これだけは話し辛かった。それでもサシャに向ける眼差しが異なることに、ポートラムは気づいていた。
「サシャ様は愛らしいお方ですな」
夜明け前、太陽の光が降り注ごうとする薄ぼんやりとした夕闇が街のあちらこちらに残るひととき、フラムがぼんやりとサシャについて考えているところに、ポートラムが酒をもってフラムに話しかける。
「…ああ。あんなに船員たちが懐くとは思わなかった。笑顔は柔らかなのに、芯は強い」
ぼそり、とつぶやくフラムにポートラムはふふと笑う。
「私は、あなたがあんな風に人を可愛がるのを見たのが初めてで、少し驚いています」
からかうように言うポートラムに、フラムはふっと右頬をゆがめる。
「まあ、解りますがね。あれほど純粋で、愛に飢えていて、朗らかな人はそうそういません。…いいのではないですか」
フラムは、「いい、とはどういうことだ」という目で睨む。
「あの方をおそばに置いた方が『いい』のではないですか。フラム様の癒しにもなりますゆえ。それに、人は守るものが多ければ多いほど強くなる。それを支えてくれる人も多い方が良いでしょう。あの方は、フラム様を支えてくれる大切な存在になると、思いますが」
ポートラムはニヤリと笑う。
「…解っている。愛らしくいるうちは、可愛がる。支え手となるかどうかは、これからだな」
潔く、愛をつぶやくことができない男の横顔をポートラムは「まだまだ若いの」と笑って見ていた。
船に戻ると、船員たちはニヤリと笑い、フラムに「とうとうモノにしちまったんだな」と声をかけた。
「うるさい。もともとコレは俺の戦利品だ」
そう言いながらも笑顔を見せていた。いつもの親しみ感のあるからかいだ。
フラムをからかう分、サシャには「かわいそうに手籠めにされて」と年配者たちがウソ泣きをしながら慰める。
フフフと笑って年配者たちの手を握り、「私は大丈夫ですよ」と言うと、「ますます愛らしくなって」と、さらに泣きが入る。
そんな部下たちを見て、フラムはいつの間にか誰もがサシャに魅了させていることに、今さらながらに驚く。そういう自身も、生娘で処女を奪ったとしてもただの捕虜にこれまで情などはわかなかったのに、無垢で清らかなサシャにほだされている自分がいることも確信する。それだけ、サシャは魅力的なのだと。
「フラム様っ。こんな愛らしい方、他にはいやしませんよっ。大切になさらないと」
そんな訴えにフラムも「サシャ、こいつらをそんなに懐かせるな」と言って、握っていた手をさらい、自分の手の中で握る。
「さあ、我が国に帰るぞ」
フラムの声で船員たちはそれぞれの仕事につく。サシャもフラムの手のぬくもりを感じながら、まだ見ぬフラムの母国に想いを馳せた。
岸に着くと、多くの国民が王子たちの帰還を歓迎した。
フラムは、用意されていた黒毛の馬に乗る。ゆっくりとした歩みを進め、その名を呼び、帰還を喜ぶ人たちに手を振る。そして数人の船員とともに城に向かった。
サシャはポートラムと共に船を下りた。そして、質素な馬車に乗せられる。
馬車は街を外れて城壁の下を縫うように作られた道を進む。にぎやかな大通りを避け、街外れを行くのは「大きな意味があるのです」とポートラムは語り始める。
「フラム様は王位継承第3位。第1位は王弟のアルハンドロ様、王のご長男であるダビット様が2位、そしてフラム様です。アルハンドロ様は心優しく、国民にも我々のような臣下にも隔たりがなく接してくださるような方で、フラム様も信頼されております。しかし、現王とダビット様は…。国土を広げよとフラム様に告げるだけで、自身は戦前に出ようともせず、負けた国から差し出された女に手を出しては捨ててきた人たちです」
そこまで説明されて、サシャにはなぜ自分が人目を避けてされて行かれているのかを察する。
「私は、塔の中でずっと過ごしてきましたから、王族の皆様にどういう態度をしていいのかも知りませんし、言葉も知りません。そんな私を人前に出さない方が良いのです。私はフラム様を信じていますから」
にっこりと笑うと、ポートラムは一瞬、目を見開く。思っていた以上の頭の回転の良さに。しかしそれをサシャに悟られる前に、元の少し厳しい顔に戻してさらに言い募る。
「あなたはフラム様の領地で過ごしていただきます。街から少し外れた郊外ですが、フラム様を慕う優しき人々が暮らしています。船員も陸ではそこにいますから、寂しい思いをすることはないでしょう。ただし、これからよほどのことがない限り、その地を離れることはできないことも分かっていてくださいませ」
サシャは再びにこりと笑い。
「はい」とだけ答えた。
サシャが連れてこられたのは街中にそびえていたものよりもこじんまりとした城だった。
「その昔、公妾でしたフラム様のお母上と小さき頃のフラム様が過ごした城です」
馬車は高い城壁を抜け、美しい緑をたたえる庭を抜けて、正面玄関前まで進んでいく。そこまで行くとポートラムはサシャを促し、馬車を下りる。
城の大きさや王族の暮らしを知らないサシャは、自分がいた塔よりも数倍大きな城と広い庭に驚き、入り口の頑丈そうな扉が開いているのを不思議そうに眺める。
「ようこそいらっしゃいました。サシャ様」
そう言ってうやうやしく頭を下げ、出迎えたのは動きやすそうな短い丈の上着とズボンを身に付けた、背が高くひげを生やした男だった。扉は屈強な兵士が4人で開け、ひげを生やした男の後ろには数人の女性が控えていた。
「クリフト。この方がサシャ様だ」
ポートラムが紹介すると、しかつめらしい顔を少し崩し、「どうぞこちらへ」と階段を上り、邸宅の中に招き入れる。
玄関の間は高い天井と頑丈そうな柱があり、奥には広間が見えた。
ひげの男はずらりと並んだ人々の少し前に立ち、「私はクリフトと申します。執事でございます」ときっちり45度に腰を曲げ、丁寧なあいさつをする。
「サシャと申します。私は世間のことをよく知らないため、教えていただくことが多いかもしれません。これから、よろしくお願いいたします」
同じように頭を下げ、女性たちにもにっこりと笑いかける。
子供と大人の中間にいるサシャの笑顔は、まるで教会の壁に描かれている天使を思わせた。
すると1人の女性がクリフトの少し後ろに立ち、「私は女中頭のアリシアと申します」と頭を下げる。そのほかの女性たちも一緒に頭を下げ、アリシアが1人ずつ名前を告げる。
サシャはそのたびに軽く頭を下げ、兵士たちの名前を聞いてから再度「皆さま、よろしくお願いします」と笑顔を向けた。
それだけでクリフトとアリシアはサシャの心根の美しさを見抜いた。
「サシャ様。あなた様のお部屋にご案内いたします。長旅でお疲れになったでしょう。湯あみなどの準備も致します」
「はい。ありがとうございます」
素直にクリフトの後ろについていくサシャを見送りながら、女中たちは「かわいらしい人」「これまで連れていらしたお姫様とは違うようね」「今までここに連れていらした方はいないのだから、当たり前よ」と噂話に花を咲かせた。
寝室は3階にあり、化粧室や衣裳部屋、主が来た際の書斎なども同じ階にあった。
湯あみの準備をしている短い間、簡単な案内を受ける。
「ここが、あなたの住まいとなるお部屋です」
案内された部屋は、塔の中の部屋より広く、大きなベッドが奥に、ドアから少し離れたところに色とりどりの糸で織られたラグ、窓際には大人が3人ほど座れそうな長椅子があった。長椅子にはラグに合わせた色合いのクッションが置かれ、座り心地も良さそうだった。
「わぁ」
サシャの口から喜びの声が思わず飛び出す。
「あ、ごめんなさい、はしたないですね。でも、あまりにかわいらしくて…。驚いてしまいました」
クリフトは少しだけ笑って「ありがとうございます。女中たちが張り切って考えましたから」と言いながら、窓際に案内する。
パタリと小さな音が開いて窓が開くと、森が広がっていた。
「わぁ」
もう一度、サシャは喜びの声を上げる。
そこからは鳥たちの「だれ、だぁれ」という愛らしい声が聞こえ、涼やかな風が届いた。
「船から、フラム様が鳥を使って伝令をよこしてくださいまして。サシャ様は自然が間近にあるこの部屋が一番、心地よく過ごせるだろうと。可愛らしいもので部屋を飾ってくれとも言っていらっしゃいました」
クリフトから告げられたフラムの心遣いがうれしくて、サシャはまだ国についてから顔を合わせていないフラムに届けるように「ありがとうございます」とつぶやいた。
湯あみを済ませ、用意されていた新しい服を着たサシャは、フラムの到着を待っていた。
「夕食までにはお戻りになるそうです」
クリフトから告げられたうれしい言葉に思わず笑顔がこぼれる。早く会いたい。会って直接、お礼が言いたい。
そして。
フラムの帰りはクリフトたちと一緒に玄関で出迎えた。
「サシャ」
フラムはサシャの姿を確認すると同時に、すっぽりと大きな腕にサシャを収めてしまった。
髪にキスを一つ落とし、両頬を手で包んで顔をあげさせられ、「部屋は見たか。気に入ったか」と笑いかける。
「はいっ。とても素敵なお部屋です。ありがとうございます」
サシャは喜びを言葉で、ぎゅっと抱きつくことで体で表現した。
「そうか。それは良かった」
玄関で抱きしめ合っているのを注意したのはクリフトだ。
「フラム様。いい加減になさいませ。湯あみの準備も夕食の準備もできてございます。サシャ様もお待ちでしたのに」
「ははっ。サシャ、クリフトはポートラム以上にこうるさいからな。うるさくされなかったか?」
と言いつつも、クリフトに促されて動き出すフラムは、よほどこの人を信頼しているのだろうなとサシャは思った。
船員たちはサシャに、フラムの伝説の一つとして語ってくれていた。「フラム様は本当に信頼がおける者しかそばに置かない」と。この城は小さいが、フラムが一番、心休まる場所だ。サシャはそこに自分の部屋を与えてくれたことに、心の底から喜びを感じていた。
夕食は質素でも華美でもなく、細部まで食べる人に対して心を配った料理で、サシャはいつも以上に食が進んだ。
「おいしくて、食べ過ぎてしまいます」
そんな一言をいうサシャに、コックは大喜びでサシャの好みを聞き出してくれと、クリフトにお願いするほどだった。
湯あみをしたフラムは、真っすぐにサシャの部屋に入る。
サシャは窓を開け、さっそく窓際に寄ってきたリスと話をしていた。
「サシャ」
声をかけると、リスは慌てて窓から飛び出していく。
「またね」
パタンと窓を閉めるるサシャを後ろから抱きしめる。
「何を話していた?」
「リスたちは、この森がとても居心地が良いんだと一生懸命に話してくれました。健やかな森なんですね」
ふふふ、と笑うサシャの愛らしさは、自分だけのものだ、誰にも渡さないとフラムは再度、思う。
過去、“払い下げられた”姫たちは傲慢知己の者が多かった。王位3位のフラムよりも兄たちの方が良いと、フラムを蔑むものすらあった。
時たま、兄の崩れた腹よりもフラムの美貌の方が良いと言い寄ってきても、一度抱けば飽きてしまうほど、寝台の上で寝転がっているだけの姫たち。自分に奉仕するのが当たり前だと言わんばかりの女たちは飽き飽きしていた。
おかげで、フラムの子供たちの母は後宮を追い出された。本城の敷地内に建てられた3つの後宮には、父王と兄王子の妾妃しかいない。フラムの子供たちはフラムが戦利品としてもらった領地にある別の城で健やかに育っている。
だからサシャをここに住まわせることにしたのだ。
ここは母との思い出が詰まった城。妾妃だった母は優しく、父王をいつも癒やす存在だった。フラムにもいつも笑顔を向け、使用人たちにも分け隔てなく接する人だった。
母のような優しさと、愛しい思いが無ければ、この城には連れてこれなかった。
フラムはサシャを抱き上げて寝台に連れていく。ぎゅっと抱きついてくる温かく柔らかな感触を生涯守ると、フラムは誓った。
もぞりと頭を動かすと、フラムが「…もう少し寝かせろ」とサシャを抱きしめなおす。肌と肌が触れ合う柔らかな温かさが心地良くて、サシャもフラムの腕の中に戻り、目を閉じる。サシャは、心も温かくなるのを感じながら、遠く離れた故郷のことを思った。
父さまも、こんな風に幸せでいてくださるだろうか。あの国の人々皆が、心穏やかでいられるように…。
サシャの願いは風に乗り、故郷の空で暖かな慈雨となって降り注いだ。
次の日には本当にパレードに連れて行ってくれ、屋台の食べ物と、子供たちが動物を真似をして背中に羽根をつけて踊る姿に大はしゃぎした。
かわいらしい小鳥のかっこうをした子供が、皆に配っていた飴をくれ、サシャはその甘さに驚いて「初めて食べました」とフラムに笑いかける。そして「こんなにパレードが楽しいなんて。連れてきてくれてありがとうございます」と礼を言うと、「礼は行動で示してくれ」とその場でキスを仕掛けられる。
隣にいたポートラムとボナポルトは呆れ顔をし、「若造め」「浮かれておる」とフラムに悪態をついていた。
その夜もフラムに抱きしめられ、翻弄され、気が付くと朝を迎えた。サシャは毎日、フラムが自分の中にそそぐものが、自分を変えていくような気がしてならなかった。
フラムは、我慢できなかった。この愛らしい生き物は何だと、笑いかけられ、名を呼ばれるたびに思った。
だからこそ、何も知らないサシャを抱いた。
すべてを自分のモノにするために。
すべてを自分のモノにしても、足りなかった。今までの女には感じなかった心の揺らぎ。
人は信じられない。特に女は、母以外に信じられるものなどいなかった。でも、本当に信頼できるものは裏切らない。兄や父たちに何度も殺されそうになった幼少期に、そうポートラムたちに教えてもらっていた。
だからこそ船員たちは自分についてきている。
サシャへ向かう思いは、信頼とはまた違ったものだった。
ポートラムには何でも話してきたが、これだけは話し辛かった。それでもサシャに向ける眼差しが異なることに、ポートラムは気づいていた。
「サシャ様は愛らしいお方ですな」
夜明け前、太陽の光が降り注ごうとする薄ぼんやりとした夕闇が街のあちらこちらに残るひととき、フラムがぼんやりとサシャについて考えているところに、ポートラムが酒をもってフラムに話しかける。
「…ああ。あんなに船員たちが懐くとは思わなかった。笑顔は柔らかなのに、芯は強い」
ぼそり、とつぶやくフラムにポートラムはふふと笑う。
「私は、あなたがあんな風に人を可愛がるのを見たのが初めてで、少し驚いています」
からかうように言うポートラムに、フラムはふっと右頬をゆがめる。
「まあ、解りますがね。あれほど純粋で、愛に飢えていて、朗らかな人はそうそういません。…いいのではないですか」
フラムは、「いい、とはどういうことだ」という目で睨む。
「あの方をおそばに置いた方が『いい』のではないですか。フラム様の癒しにもなりますゆえ。それに、人は守るものが多ければ多いほど強くなる。それを支えてくれる人も多い方が良いでしょう。あの方は、フラム様を支えてくれる大切な存在になると、思いますが」
ポートラムはニヤリと笑う。
「…解っている。愛らしくいるうちは、可愛がる。支え手となるかどうかは、これからだな」
潔く、愛をつぶやくことができない男の横顔をポートラムは「まだまだ若いの」と笑って見ていた。
船に戻ると、船員たちはニヤリと笑い、フラムに「とうとうモノにしちまったんだな」と声をかけた。
「うるさい。もともとコレは俺の戦利品だ」
そう言いながらも笑顔を見せていた。いつもの親しみ感のあるからかいだ。
フラムをからかう分、サシャには「かわいそうに手籠めにされて」と年配者たちがウソ泣きをしながら慰める。
フフフと笑って年配者たちの手を握り、「私は大丈夫ですよ」と言うと、「ますます愛らしくなって」と、さらに泣きが入る。
そんな部下たちを見て、フラムはいつの間にか誰もがサシャに魅了させていることに、今さらながらに驚く。そういう自身も、生娘で処女を奪ったとしてもただの捕虜にこれまで情などはわかなかったのに、無垢で清らかなサシャにほだされている自分がいることも確信する。それだけ、サシャは魅力的なのだと。
「フラム様っ。こんな愛らしい方、他にはいやしませんよっ。大切になさらないと」
そんな訴えにフラムも「サシャ、こいつらをそんなに懐かせるな」と言って、握っていた手をさらい、自分の手の中で握る。
「さあ、我が国に帰るぞ」
フラムの声で船員たちはそれぞれの仕事につく。サシャもフラムの手のぬくもりを感じながら、まだ見ぬフラムの母国に想いを馳せた。
岸に着くと、多くの国民が王子たちの帰還を歓迎した。
フラムは、用意されていた黒毛の馬に乗る。ゆっくりとした歩みを進め、その名を呼び、帰還を喜ぶ人たちに手を振る。そして数人の船員とともに城に向かった。
サシャはポートラムと共に船を下りた。そして、質素な馬車に乗せられる。
馬車は街を外れて城壁の下を縫うように作られた道を進む。にぎやかな大通りを避け、街外れを行くのは「大きな意味があるのです」とポートラムは語り始める。
「フラム様は王位継承第3位。第1位は王弟のアルハンドロ様、王のご長男であるダビット様が2位、そしてフラム様です。アルハンドロ様は心優しく、国民にも我々のような臣下にも隔たりがなく接してくださるような方で、フラム様も信頼されております。しかし、現王とダビット様は…。国土を広げよとフラム様に告げるだけで、自身は戦前に出ようともせず、負けた国から差し出された女に手を出しては捨ててきた人たちです」
そこまで説明されて、サシャにはなぜ自分が人目を避けてされて行かれているのかを察する。
「私は、塔の中でずっと過ごしてきましたから、王族の皆様にどういう態度をしていいのかも知りませんし、言葉も知りません。そんな私を人前に出さない方が良いのです。私はフラム様を信じていますから」
にっこりと笑うと、ポートラムは一瞬、目を見開く。思っていた以上の頭の回転の良さに。しかしそれをサシャに悟られる前に、元の少し厳しい顔に戻してさらに言い募る。
「あなたはフラム様の領地で過ごしていただきます。街から少し外れた郊外ですが、フラム様を慕う優しき人々が暮らしています。船員も陸ではそこにいますから、寂しい思いをすることはないでしょう。ただし、これからよほどのことがない限り、その地を離れることはできないことも分かっていてくださいませ」
サシャは再びにこりと笑い。
「はい」とだけ答えた。
サシャが連れてこられたのは街中にそびえていたものよりもこじんまりとした城だった。
「その昔、公妾でしたフラム様のお母上と小さき頃のフラム様が過ごした城です」
馬車は高い城壁を抜け、美しい緑をたたえる庭を抜けて、正面玄関前まで進んでいく。そこまで行くとポートラムはサシャを促し、馬車を下りる。
城の大きさや王族の暮らしを知らないサシャは、自分がいた塔よりも数倍大きな城と広い庭に驚き、入り口の頑丈そうな扉が開いているのを不思議そうに眺める。
「ようこそいらっしゃいました。サシャ様」
そう言ってうやうやしく頭を下げ、出迎えたのは動きやすそうな短い丈の上着とズボンを身に付けた、背が高くひげを生やした男だった。扉は屈強な兵士が4人で開け、ひげを生やした男の後ろには数人の女性が控えていた。
「クリフト。この方がサシャ様だ」
ポートラムが紹介すると、しかつめらしい顔を少し崩し、「どうぞこちらへ」と階段を上り、邸宅の中に招き入れる。
玄関の間は高い天井と頑丈そうな柱があり、奥には広間が見えた。
ひげの男はずらりと並んだ人々の少し前に立ち、「私はクリフトと申します。執事でございます」ときっちり45度に腰を曲げ、丁寧なあいさつをする。
「サシャと申します。私は世間のことをよく知らないため、教えていただくことが多いかもしれません。これから、よろしくお願いいたします」
同じように頭を下げ、女性たちにもにっこりと笑いかける。
子供と大人の中間にいるサシャの笑顔は、まるで教会の壁に描かれている天使を思わせた。
すると1人の女性がクリフトの少し後ろに立ち、「私は女中頭のアリシアと申します」と頭を下げる。そのほかの女性たちも一緒に頭を下げ、アリシアが1人ずつ名前を告げる。
サシャはそのたびに軽く頭を下げ、兵士たちの名前を聞いてから再度「皆さま、よろしくお願いします」と笑顔を向けた。
それだけでクリフトとアリシアはサシャの心根の美しさを見抜いた。
「サシャ様。あなた様のお部屋にご案内いたします。長旅でお疲れになったでしょう。湯あみなどの準備も致します」
「はい。ありがとうございます」
素直にクリフトの後ろについていくサシャを見送りながら、女中たちは「かわいらしい人」「これまで連れていらしたお姫様とは違うようね」「今までここに連れていらした方はいないのだから、当たり前よ」と噂話に花を咲かせた。
寝室は3階にあり、化粧室や衣裳部屋、主が来た際の書斎なども同じ階にあった。
湯あみの準備をしている短い間、簡単な案内を受ける。
「ここが、あなたの住まいとなるお部屋です」
案内された部屋は、塔の中の部屋より広く、大きなベッドが奥に、ドアから少し離れたところに色とりどりの糸で織られたラグ、窓際には大人が3人ほど座れそうな長椅子があった。長椅子にはラグに合わせた色合いのクッションが置かれ、座り心地も良さそうだった。
「わぁ」
サシャの口から喜びの声が思わず飛び出す。
「あ、ごめんなさい、はしたないですね。でも、あまりにかわいらしくて…。驚いてしまいました」
クリフトは少しだけ笑って「ありがとうございます。女中たちが張り切って考えましたから」と言いながら、窓際に案内する。
パタリと小さな音が開いて窓が開くと、森が広がっていた。
「わぁ」
もう一度、サシャは喜びの声を上げる。
そこからは鳥たちの「だれ、だぁれ」という愛らしい声が聞こえ、涼やかな風が届いた。
「船から、フラム様が鳥を使って伝令をよこしてくださいまして。サシャ様は自然が間近にあるこの部屋が一番、心地よく過ごせるだろうと。可愛らしいもので部屋を飾ってくれとも言っていらっしゃいました」
クリフトから告げられたフラムの心遣いがうれしくて、サシャはまだ国についてから顔を合わせていないフラムに届けるように「ありがとうございます」とつぶやいた。
湯あみを済ませ、用意されていた新しい服を着たサシャは、フラムの到着を待っていた。
「夕食までにはお戻りになるそうです」
クリフトから告げられたうれしい言葉に思わず笑顔がこぼれる。早く会いたい。会って直接、お礼が言いたい。
そして。
フラムの帰りはクリフトたちと一緒に玄関で出迎えた。
「サシャ」
フラムはサシャの姿を確認すると同時に、すっぽりと大きな腕にサシャを収めてしまった。
髪にキスを一つ落とし、両頬を手で包んで顔をあげさせられ、「部屋は見たか。気に入ったか」と笑いかける。
「はいっ。とても素敵なお部屋です。ありがとうございます」
サシャは喜びを言葉で、ぎゅっと抱きつくことで体で表現した。
「そうか。それは良かった」
玄関で抱きしめ合っているのを注意したのはクリフトだ。
「フラム様。いい加減になさいませ。湯あみの準備も夕食の準備もできてございます。サシャ様もお待ちでしたのに」
「ははっ。サシャ、クリフトはポートラム以上にこうるさいからな。うるさくされなかったか?」
と言いつつも、クリフトに促されて動き出すフラムは、よほどこの人を信頼しているのだろうなとサシャは思った。
船員たちはサシャに、フラムの伝説の一つとして語ってくれていた。「フラム様は本当に信頼がおける者しかそばに置かない」と。この城は小さいが、フラムが一番、心休まる場所だ。サシャはそこに自分の部屋を与えてくれたことに、心の底から喜びを感じていた。
夕食は質素でも華美でもなく、細部まで食べる人に対して心を配った料理で、サシャはいつも以上に食が進んだ。
「おいしくて、食べ過ぎてしまいます」
そんな一言をいうサシャに、コックは大喜びでサシャの好みを聞き出してくれと、クリフトにお願いするほどだった。
湯あみをしたフラムは、真っすぐにサシャの部屋に入る。
サシャは窓を開け、さっそく窓際に寄ってきたリスと話をしていた。
「サシャ」
声をかけると、リスは慌てて窓から飛び出していく。
「またね」
パタンと窓を閉めるるサシャを後ろから抱きしめる。
「何を話していた?」
「リスたちは、この森がとても居心地が良いんだと一生懸命に話してくれました。健やかな森なんですね」
ふふふ、と笑うサシャの愛らしさは、自分だけのものだ、誰にも渡さないとフラムは再度、思う。
過去、“払い下げられた”姫たちは傲慢知己の者が多かった。王位3位のフラムよりも兄たちの方が良いと、フラムを蔑むものすらあった。
時たま、兄の崩れた腹よりもフラムの美貌の方が良いと言い寄ってきても、一度抱けば飽きてしまうほど、寝台の上で寝転がっているだけの姫たち。自分に奉仕するのが当たり前だと言わんばかりの女たちは飽き飽きしていた。
おかげで、フラムの子供たちの母は後宮を追い出された。本城の敷地内に建てられた3つの後宮には、父王と兄王子の妾妃しかいない。フラムの子供たちはフラムが戦利品としてもらった領地にある別の城で健やかに育っている。
だからサシャをここに住まわせることにしたのだ。
ここは母との思い出が詰まった城。妾妃だった母は優しく、父王をいつも癒やす存在だった。フラムにもいつも笑顔を向け、使用人たちにも分け隔てなく接する人だった。
母のような優しさと、愛しい思いが無ければ、この城には連れてこれなかった。
フラムはサシャを抱き上げて寝台に連れていく。ぎゅっと抱きついてくる温かく柔らかな感触を生涯守ると、フラムは誓った。
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