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運命に花束を②
運命の単身赴任②
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翌日グノーの元へ訪れると、彼の傍らで娘が泣いており、そんな娘の頭を息子が一生懸命に「いい子いい子」と撫でていて、更にそんな2人の姿をグノーは困ったように見詰めていた。
「どうかしましたか?」
「パパ!」
叫ぶように娘は涙を零して腕の中に飛び込んでくる。
「何かあったんですか?」
「ごめん、それが、ちょっと……」
「ママがルイの事忘れちゃった! ルイの事、誰? って……」
そう言って娘はまた大泣きに泣き続けた。
「グノー、また?」
「いや、今はもうちゃんと分かってる。けど、どうも記憶がおかしくて……ここどこだっけ?」
そう言ってグノーは自分の髪を掻き上げようとして「あれ?」という表情を見せる。
「なんか前髪、短い?」
「ずいぶん前に切ったんですよ、覚えていないですか?」
「そうだっけ?」と彼は曖昧に笑い、これはどうにも様子がおかしいと改めて思った。
「ここムソンじゃないよな? どこ?」
「ここはイリヤですよ。それも覚えてはいないですか?」
「イリヤ……イリヤ、そっか、ここブラックの所か」
「そうですよ、すぐに戻りますので、少し待っていてくださいね」
子供達を外に連れ出そうとするのだが、息子のユリウスはそれを嫌がり首を振った。
仕方がないので泣き続ける娘ルイだけを部屋の外へと連れ出すと、娘は縋りつくようにして私に抱きついてきた。
「ママはルイの事忘れちゃうくらい、えっく、嫌いになったの?」
「そんな事、ある訳ないでしょう。ママは時々寝惚けて記憶が混乱してしまうだけです。すぐに治りますから大丈夫ですよ」
そうは言ってみたものの、今回はどうもいつもと様子が違う。
何もかも忘れて取り乱す訳ではなく、ある程度の記憶は持った上で所々が欠落している、そんな印象に首を捻った。
「ルイは心配しなくて大丈夫ですから、しばらくいい子で皆と遊んでいてくださいね」
ルイをブラックの妻レネーシャに預けると、彼女も心配そうな瞳をこちらに向けた。
「彼、何か悩んでいたのかしら? 私がもっと親身に聞いてあげていられたら……」
「ここ最近、何か変わった事はありましたか?」
「変わった事? 特には何もなかったけれど、一度子供達を遊ばせる約束の日に来なかった事があったわ。忙しくて忘れていたと翌日には謝りに来たけれど、顔色が悪くて少し心配していたのよ。どこか体調も悪かったのかしらね……」
レネーシャはそう言って「本当にごめんなさいね」と謝るので、こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ないと謝罪しつつ、グノーの休んでいる客室へと戻る。
その部屋に戻ると、グノーはベッドの上でぼんやりしていたのだが、こちらを向いてにっこり微笑んだ。その腕の中には息子のユリウスがいて、そんな光景は今までと何も変わらないように見える。
「グノー、ここが何処だか分かりますか?」
「ブラックの所だろ? さっき聞いた。でも、なんでムソンじゃなくてイリヤにいるのか思い出せない。また、俺ちょっとおかしくなってるな?」
「そう……ですね。イリヤに越して来た事は覚えていない?」
「え? いつ?」
「春先ですよ」
そんな事はまるで記憶にないという顔でグノーは首を捻った。
「子供達の事は? ユリウスの事ちゃんと分かります?」
「ルイもユリもちゃんと分かってる。でも、なんだろうなぁ……さっきはすこんと記憶が抜けてたんだよなぁ、本当になんでなんだか分からない」
ユリウスは何か不安を感じているのだろう、グノーの胸に顔を埋めるようにしていて離れようとしない。
そんな息子の頭を撫でて、グノーは溜息を零す。
「何か心当たりはありますか?」
「そう言われても……」
「イリヤに来た事を覚えていない……という事は、私がいない間に何かがあったのでしょうね」
「お前、いなかったのか? 仕事?」
「そうですよ、ちょっと長期で出掛けていました。もしかして寂しかったですか?」
「ん~? 覚えてねぇもん、分かんねぇよ」
「素直になればいいのに」
「うぬぼれんな!」
そんな強気な彼の発言はいつも通りで、何か重大な事が起こっていそうな感じはするのに、それがなんだか分からない。
「昨夜はちゃんと寝られましたか?」
「寝てた……と思う。起きてた記憶はない」
「昨日の事は覚えていますか?」
「お前の顔見た後の事ははっきりしてる、だけどその前の記憶が……よく分かんねぇや」
困惑の表情で彼はそう言う。
「ちゃんと整理しましょう。今あなたは自分はどこに暮らしているのが正解だと思いますか?」
「えっと……引っ越して来たって記憶がないから、ムソンだと思ってたけど……」
「ルイとユリの年齢、言えますか?」
「ルイが5歳でユリが2歳? あれ、でもなんか大きいか? ユリ今幾つ?」
ユリウスが無言で指を3本立てた。
「あれ、3歳? そうか、3歳かぁ……」
どうやらグノーはここ一年程の記憶飛んでいるらしい。
「なんでかなぁ……ここ最近はこんな事、全然なかったのに……」
「ちょっと疲れが溜まっていたのかもしれませんね、まずは体力を戻さないと。倒れたのは栄養失調だったみたいですし、私が見張っていないと食事も満足にできないなんて、困った人ですね」
「ルイとユリは大丈夫? 俺ちゃんと食べさせてた?」
「あなたの腕の中のユリを見る限りは痩せ細っている感じではありませんね」
人一倍食いしん坊のユリウスはよそのお宅の子供より体が大きく、ふくふくしている。
その姿はまるで変わっていないので、子供達にはちゃんと食べさせていた事が分かり、グノーは安堵したように笑みを見せた。
改めてグノーに食事を摂らせて寝かしつけ、息子を抱えて娘の元へと向かう。
ルイがまだ幼い頃、子育て経験も家庭という物の経験自体もそもそもなかった彼と娘を2人残して仕事に出る事に少し不安があった。
けれどムソンには彼等を理解し、面倒を見てくれる人が幾らもいてグノーも子育てが辛いなどと言った事は一度もなかった。なのに今回のこれはどうにもおかしい。愛しているはずの我が子の存在を忘れてしまうなんて、彼に限ってそんな事はありえない。
「ルイ」
娘はレネーシャの元で王子達と共に遊んでいたが、それはどこか上の空で、ナダールが声をかけるとぱっと顔を上げてこちらへと駆けて来た。
「ママは!?」
「大丈夫ですよ、今は寝ていますが、すぐに元に戻りますからね」
不安そうな表情を隠せない娘の頭を撫でて「心配ないよ」と笑みを見せる。
「……ママは、病気なの?」
「う~ん、そうですね。少しだけ心が疲れてしまったのかもしれませが、ゆっくり休めばすぐに治りますよ」
「本当?」
「あぁ、本当だよ」
ナダールのその言葉に少し安心したのか、娘はようやく微かに笑みを見せてくれた。
「ママね、最近少しおかしかったの……」
「どういう事ですか?」
「ママね、いつもルイやユリにはたくさん食べるんだぞってご飯用意してくれるんだけど、最近ママは全然食べてなかったの。お腹空くよ? ってルイが言っても、こっそりつまみ食いしてるから大丈夫って笑うばっかりで、全然食べてなかった……」
最初は全然普通だったの……とルイは続ける。
「でも、ママ、段々痩せてきて、段々ぼんやりが増えてきたの」
「それはいつ頃からか覚えていますか?」
「うんとね、パパがお仕事行ってしばらくしてから」
そのしばらくがどれくらいの期間なのか判然としないのだが、自分がルーンに赴任して3ヵ月だというのを思えば少なくとも1ヵ月程度はその状態だったのだろう事は想像に難くない。
「時々ママ泣いててね、大丈夫? って聞くと大丈夫って言うんだけど、ごめんなってルイの事ぎゅってするの」
その様子はずいぶん容易に想像ができた。
手紙には何もない、大丈夫だと繰り返し書かれていたのだが、全然全く大丈夫ではなかったのだと改めてそう思う。
ムソンにはサリサさんや長老、グノーの事を分かってくれている友人が何人もいた。しかし、ここイリヤには誰もいない……迂闊だったと悔やんでももう遅い。
「最近ね、おうちにお手紙が増えたの」
「お手紙?」
「ママが忘れちゃ駄目な事は自分にお手紙って、たくさん壁に貼ってたの。ルイ、それちょっと怖かった……」
実を言えば自分はまだイリヤに戻ってから自宅へは一度も戻っていない。
グノーや子供達の事が心配だったのも勿論なのだが、放ってきてしまった仕事の指示出しや、報告が山のように届くのだ。騎士団の詰所には簡易宿泊ができる施設も整っていて、子供達は城で預かってくれると言うし、いいかと思って自宅の様子も見に帰ったりはしていなかった。
だが、壁に手紙……恐らく自分がおかしくなっている事をグノーは自覚していたのだ。
「ママね、パパにはナイショって、心配かけると仕事も全部放って帰ってきちゃうって、足手纏いにはなりたくないって。ねぇ、足手纏いって何? ルイはよく分からなかったけど、パパが好きだから、会いたいけど我慢って、ママ言ってた」
娘は瞳を潤ませそう告げる。
もう、その姿もグノーの想いも胸に刺さって仕方がない。
「馬鹿ですね、我慢なんてしなくてもいいのに……」
「ルイがここに残りたいって言ったからなの? ママが死んじゃうのは嫌! ママは本当に大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ、ルイのせいではありません。ママはね、少し頑張り過ぎてしまったようです。そうですね……ルイ、少しだけムソンに帰りましょうか。その方がママにとってはいいように思うのだけど、ルイはどう思うかな? やっぱりここがいいですか?」
「ルイはママといる」
そう言って娘はぐいっと涙を拭った。
ムソンはカサバラ渓谷の谷底に隠れるように存在する小さな村だ。そんな場所に馬車など勿論入れる訳もなく、基本的に徒歩での行程となるのだが、体力の衰えてしまったグノーと幼い子供達を連れての帰郷は難しいように思われた。
だが、今回の事は自分にも非があるからとブラック国王陛下はナダールの前に別件の仕事でイリヤを訪れていたカズイとカズサを連れて来てくれた。
自分の仕事も休ませて貰っているのにそこまでして貰っては申し訳ないと固辞したのだが「こんな状態のグノーを連れて一人であそこに行くのは無理だ。ましてや幼子2人も連れて帰ろうなんて正気の沙汰じゃない。それに加えてお前も碌々休んでいないのだろう、お前にまで倒れられたら目も当てられん、しばらく家族で療養してこい」とそう告げられた。
ついでのように「騎士団辞めるって言うのは無しだから」と、釘を刺されて苦笑する。
彼自身もとても忙しいのだろう、それだけ言ってブラックは去って行ったのだが、その気遣いがとても嬉しかった。
「任務の途中だったのでしょう、申し訳ないです」
カズイとカズサの2人に頭を下げると、2人は笑って「ボスがいいって言っているのだから問題ない」とそう言った。
「それにしても、もっとマメに顔を出しておくべきだったわね。最近食欲がないっていうのは聞いていたのよ。指輪が指に嵌らないって溜息吐いていた時に、もう少しちゃんと話を聞いておけば良かったわ」
カズサはそう言って「ごめんなさい」と頭を下げた。
「あなたが謝る事ではありませんよ。私も気付かなかったのは同じです。ところで、その指輪の話っていつ頃の事ですか?」
「そうね、1ヵ月くらい前かしら。痩せたら指から抜けて落ちるから、ちゃんとしまっておかないと、って大事に首から提げてたわ。私、毎度の惚気だと思って普通にスルーしていたけど、指に嵌めてた指輪が抜けるって相当よね……」
「そうでしたか……」
グノーはその指輪を贈った当初はとても困ったような顔をしていたのだが、ずっとちゃんと指に嵌めてくれていた。
ここイリヤでは女性に間違われる事も増えていて、虫除けに丁度いいと笑ってもいたのだ。
「村には連絡を入れておいたから何時でも行けるぞ、いつ行く?」
「グノーの調子が良ければ明日にでも。急な話で申し訳ありません」
「別にいいさ。お前の所の子が戻ってくれば、うちの子達も喜ぶ。泊まる場所も我が家に来ればいい、気にするな」
カズイはそう言って安心させるように私の背を叩いてくれて、本当にムソンの人々には恩ばかりが増えていく。
「明日、あなたの調子が良ければ一度ムソンに帰ろうと思うのですけど」
グノーに告げると、グノーは困ったように「ここムソンじゃないんだっけ?」とそう言った。
「ここはイリヤですよ」
「イリヤ……イリヤ……あぁ、ブラックの所か」
それは覚えのある会話。
「あなたは何をそんなに頑張ってしまったのでしょうね。こんなになる前に、私に言ってくれたら良かったのに……」
「なんの事? 俺、またどっかおかしい?」
「大丈夫ですよ、少し記憶が混乱しているだけで、すぐに治ります」
「やっぱりまた何か忘れてるのか……本当、俺の頭、役に立たねぇなぁ……」
軽く頭を叩くようにして、彼は溜息を吐く。
「そういえばさ、俺の指輪見当たらないんだけど、知らね?」
「あれ? 首から提げてたんじゃないんですか?」
「そのつもりだったんだけど、気付いたらなくて、いつから無いかも分かんねぇの……」
大事な物なのに……と彼は悲しそうに瞳を伏せた。
「今度は今のあなたにぴったりの指輪を贈りますよ。そうしたら太った時、外したくても外れなくなりますからね」
元気付けるように冗談半分そんな事を言うと「馬鹿ばっかり言って」と彼は少しだけ笑みを見せた。
「ちゃんと今の指輪も探しておきますから、そんなにしょげない」
頬を撫でるように顔に触れると「お前の手は温かいな」と頬を摺り寄せられた。
「俺、こんなに体力落ちてるのに、ムソンの谷降れるかな……ちょっと不安」
「それなら大丈夫ですよ、カズイとカズサも一緒に来てくれる事になりましたから。もちろん子供達も一緒ですよ」
またグノーが困ったような瞳をこちらに向ける。
「もしかして、また忘れてしまいましたかね……」
「カズイとカズサは分かる……けど子供って、どこの子?」
「私達の子供ですよ、娘のルイと息子のユリウス。あなたがお腹を痛めて産んだ子供達ですよ」
「なんの冗談? 俺男なのに、産めるわけないじゃん……」
グノーはますます混乱の表情を見せる。どうやら今度は自分が男性Ωで子供が産めるという事自体を忘れてしまっているようだ。
これは説明に時間がかかるな、と混乱するグノーの身体を抱き上げ、落ち着かせるように抱きしめた。
それでも自分達が恋人同士、もしくは夫婦である事は理解しているようなので「大丈夫、大丈夫」と頭を撫でると、彼の様子は少し落ち着いた。
「俺、いつから記憶がないんだ? あのメリアの事件から何年経ってる?」
「無理に思い出そうとしなくていいですよ。今は体力を戻すのが先です」
「でも……」
「いいんですよ、あなたは何も心配する必要はありません」
「ごめん」
呟くようにそう言ってグノーは瞳を伏せた。
「どうかしましたか?」
「パパ!」
叫ぶように娘は涙を零して腕の中に飛び込んでくる。
「何かあったんですか?」
「ごめん、それが、ちょっと……」
「ママがルイの事忘れちゃった! ルイの事、誰? って……」
そう言って娘はまた大泣きに泣き続けた。
「グノー、また?」
「いや、今はもうちゃんと分かってる。けど、どうも記憶がおかしくて……ここどこだっけ?」
そう言ってグノーは自分の髪を掻き上げようとして「あれ?」という表情を見せる。
「なんか前髪、短い?」
「ずいぶん前に切ったんですよ、覚えていないですか?」
「そうだっけ?」と彼は曖昧に笑い、これはどうにも様子がおかしいと改めて思った。
「ここムソンじゃないよな? どこ?」
「ここはイリヤですよ。それも覚えてはいないですか?」
「イリヤ……イリヤ、そっか、ここブラックの所か」
「そうですよ、すぐに戻りますので、少し待っていてくださいね」
子供達を外に連れ出そうとするのだが、息子のユリウスはそれを嫌がり首を振った。
仕方がないので泣き続ける娘ルイだけを部屋の外へと連れ出すと、娘は縋りつくようにして私に抱きついてきた。
「ママはルイの事忘れちゃうくらい、えっく、嫌いになったの?」
「そんな事、ある訳ないでしょう。ママは時々寝惚けて記憶が混乱してしまうだけです。すぐに治りますから大丈夫ですよ」
そうは言ってみたものの、今回はどうもいつもと様子が違う。
何もかも忘れて取り乱す訳ではなく、ある程度の記憶は持った上で所々が欠落している、そんな印象に首を捻った。
「ルイは心配しなくて大丈夫ですから、しばらくいい子で皆と遊んでいてくださいね」
ルイをブラックの妻レネーシャに預けると、彼女も心配そうな瞳をこちらに向けた。
「彼、何か悩んでいたのかしら? 私がもっと親身に聞いてあげていられたら……」
「ここ最近、何か変わった事はありましたか?」
「変わった事? 特には何もなかったけれど、一度子供達を遊ばせる約束の日に来なかった事があったわ。忙しくて忘れていたと翌日には謝りに来たけれど、顔色が悪くて少し心配していたのよ。どこか体調も悪かったのかしらね……」
レネーシャはそう言って「本当にごめんなさいね」と謝るので、こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ないと謝罪しつつ、グノーの休んでいる客室へと戻る。
その部屋に戻ると、グノーはベッドの上でぼんやりしていたのだが、こちらを向いてにっこり微笑んだ。その腕の中には息子のユリウスがいて、そんな光景は今までと何も変わらないように見える。
「グノー、ここが何処だか分かりますか?」
「ブラックの所だろ? さっき聞いた。でも、なんでムソンじゃなくてイリヤにいるのか思い出せない。また、俺ちょっとおかしくなってるな?」
「そう……ですね。イリヤに越して来た事は覚えていない?」
「え? いつ?」
「春先ですよ」
そんな事はまるで記憶にないという顔でグノーは首を捻った。
「子供達の事は? ユリウスの事ちゃんと分かります?」
「ルイもユリもちゃんと分かってる。でも、なんだろうなぁ……さっきはすこんと記憶が抜けてたんだよなぁ、本当になんでなんだか分からない」
ユリウスは何か不安を感じているのだろう、グノーの胸に顔を埋めるようにしていて離れようとしない。
そんな息子の頭を撫でて、グノーは溜息を零す。
「何か心当たりはありますか?」
「そう言われても……」
「イリヤに来た事を覚えていない……という事は、私がいない間に何かがあったのでしょうね」
「お前、いなかったのか? 仕事?」
「そうですよ、ちょっと長期で出掛けていました。もしかして寂しかったですか?」
「ん~? 覚えてねぇもん、分かんねぇよ」
「素直になればいいのに」
「うぬぼれんな!」
そんな強気な彼の発言はいつも通りで、何か重大な事が起こっていそうな感じはするのに、それがなんだか分からない。
「昨夜はちゃんと寝られましたか?」
「寝てた……と思う。起きてた記憶はない」
「昨日の事は覚えていますか?」
「お前の顔見た後の事ははっきりしてる、だけどその前の記憶が……よく分かんねぇや」
困惑の表情で彼はそう言う。
「ちゃんと整理しましょう。今あなたは自分はどこに暮らしているのが正解だと思いますか?」
「えっと……引っ越して来たって記憶がないから、ムソンだと思ってたけど……」
「ルイとユリの年齢、言えますか?」
「ルイが5歳でユリが2歳? あれ、でもなんか大きいか? ユリ今幾つ?」
ユリウスが無言で指を3本立てた。
「あれ、3歳? そうか、3歳かぁ……」
どうやらグノーはここ一年程の記憶飛んでいるらしい。
「なんでかなぁ……ここ最近はこんな事、全然なかったのに……」
「ちょっと疲れが溜まっていたのかもしれませんね、まずは体力を戻さないと。倒れたのは栄養失調だったみたいですし、私が見張っていないと食事も満足にできないなんて、困った人ですね」
「ルイとユリは大丈夫? 俺ちゃんと食べさせてた?」
「あなたの腕の中のユリを見る限りは痩せ細っている感じではありませんね」
人一倍食いしん坊のユリウスはよそのお宅の子供より体が大きく、ふくふくしている。
その姿はまるで変わっていないので、子供達にはちゃんと食べさせていた事が分かり、グノーは安堵したように笑みを見せた。
改めてグノーに食事を摂らせて寝かしつけ、息子を抱えて娘の元へと向かう。
ルイがまだ幼い頃、子育て経験も家庭という物の経験自体もそもそもなかった彼と娘を2人残して仕事に出る事に少し不安があった。
けれどムソンには彼等を理解し、面倒を見てくれる人が幾らもいてグノーも子育てが辛いなどと言った事は一度もなかった。なのに今回のこれはどうにもおかしい。愛しているはずの我が子の存在を忘れてしまうなんて、彼に限ってそんな事はありえない。
「ルイ」
娘はレネーシャの元で王子達と共に遊んでいたが、それはどこか上の空で、ナダールが声をかけるとぱっと顔を上げてこちらへと駆けて来た。
「ママは!?」
「大丈夫ですよ、今は寝ていますが、すぐに元に戻りますからね」
不安そうな表情を隠せない娘の頭を撫でて「心配ないよ」と笑みを見せる。
「……ママは、病気なの?」
「う~ん、そうですね。少しだけ心が疲れてしまったのかもしれませが、ゆっくり休めばすぐに治りますよ」
「本当?」
「あぁ、本当だよ」
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「どういう事ですか?」
「ママね、いつもルイやユリにはたくさん食べるんだぞってご飯用意してくれるんだけど、最近ママは全然食べてなかったの。お腹空くよ? ってルイが言っても、こっそりつまみ食いしてるから大丈夫って笑うばっかりで、全然食べてなかった……」
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「お手紙?」
「ママが忘れちゃ駄目な事は自分にお手紙って、たくさん壁に貼ってたの。ルイ、それちょっと怖かった……」
実を言えば自分はまだイリヤに戻ってから自宅へは一度も戻っていない。
グノーや子供達の事が心配だったのも勿論なのだが、放ってきてしまった仕事の指示出しや、報告が山のように届くのだ。騎士団の詰所には簡易宿泊ができる施設も整っていて、子供達は城で預かってくれると言うし、いいかと思って自宅の様子も見に帰ったりはしていなかった。
だが、壁に手紙……恐らく自分がおかしくなっている事をグノーは自覚していたのだ。
「ママね、パパにはナイショって、心配かけると仕事も全部放って帰ってきちゃうって、足手纏いにはなりたくないって。ねぇ、足手纏いって何? ルイはよく分からなかったけど、パパが好きだから、会いたいけど我慢って、ママ言ってた」
娘は瞳を潤ませそう告げる。
もう、その姿もグノーの想いも胸に刺さって仕方がない。
「馬鹿ですね、我慢なんてしなくてもいいのに……」
「ルイがここに残りたいって言ったからなの? ママが死んじゃうのは嫌! ママは本当に大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ、ルイのせいではありません。ママはね、少し頑張り過ぎてしまったようです。そうですね……ルイ、少しだけムソンに帰りましょうか。その方がママにとってはいいように思うのだけど、ルイはどう思うかな? やっぱりここがいいですか?」
「ルイはママといる」
そう言って娘はぐいっと涙を拭った。
ムソンはカサバラ渓谷の谷底に隠れるように存在する小さな村だ。そんな場所に馬車など勿論入れる訳もなく、基本的に徒歩での行程となるのだが、体力の衰えてしまったグノーと幼い子供達を連れての帰郷は難しいように思われた。
だが、今回の事は自分にも非があるからとブラック国王陛下はナダールの前に別件の仕事でイリヤを訪れていたカズイとカズサを連れて来てくれた。
自分の仕事も休ませて貰っているのにそこまでして貰っては申し訳ないと固辞したのだが「こんな状態のグノーを連れて一人であそこに行くのは無理だ。ましてや幼子2人も連れて帰ろうなんて正気の沙汰じゃない。それに加えてお前も碌々休んでいないのだろう、お前にまで倒れられたら目も当てられん、しばらく家族で療養してこい」とそう告げられた。
ついでのように「騎士団辞めるって言うのは無しだから」と、釘を刺されて苦笑する。
彼自身もとても忙しいのだろう、それだけ言ってブラックは去って行ったのだが、その気遣いがとても嬉しかった。
「任務の途中だったのでしょう、申し訳ないです」
カズイとカズサの2人に頭を下げると、2人は笑って「ボスがいいって言っているのだから問題ない」とそう言った。
「それにしても、もっとマメに顔を出しておくべきだったわね。最近食欲がないっていうのは聞いていたのよ。指輪が指に嵌らないって溜息吐いていた時に、もう少しちゃんと話を聞いておけば良かったわ」
カズサはそう言って「ごめんなさい」と頭を下げた。
「あなたが謝る事ではありませんよ。私も気付かなかったのは同じです。ところで、その指輪の話っていつ頃の事ですか?」
「そうね、1ヵ月くらい前かしら。痩せたら指から抜けて落ちるから、ちゃんとしまっておかないと、って大事に首から提げてたわ。私、毎度の惚気だと思って普通にスルーしていたけど、指に嵌めてた指輪が抜けるって相当よね……」
「そうでしたか……」
グノーはその指輪を贈った当初はとても困ったような顔をしていたのだが、ずっとちゃんと指に嵌めてくれていた。
ここイリヤでは女性に間違われる事も増えていて、虫除けに丁度いいと笑ってもいたのだ。
「村には連絡を入れておいたから何時でも行けるぞ、いつ行く?」
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カズイはそう言って安心させるように私の背を叩いてくれて、本当にムソンの人々には恩ばかりが増えていく。
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「ここはイリヤですよ」
「イリヤ……イリヤ……あぁ、ブラックの所か」
それは覚えのある会話。
「あなたは何をそんなに頑張ってしまったのでしょうね。こんなになる前に、私に言ってくれたら良かったのに……」
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「やっぱりまた何か忘れてるのか……本当、俺の頭、役に立たねぇなぁ……」
軽く頭を叩くようにして、彼は溜息を吐く。
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「あれ? 首から提げてたんじゃないんですか?」
「そのつもりだったんだけど、気付いたらなくて、いつから無いかも分かんねぇの……」
大事な物なのに……と彼は悲しそうに瞳を伏せた。
「今度は今のあなたにぴったりの指輪を贈りますよ。そうしたら太った時、外したくても外れなくなりますからね」
元気付けるように冗談半分そんな事を言うと「馬鹿ばっかり言って」と彼は少しだけ笑みを見せた。
「ちゃんと今の指輪も探しておきますから、そんなにしょげない」
頬を撫でるように顔に触れると「お前の手は温かいな」と頬を摺り寄せられた。
「俺、こんなに体力落ちてるのに、ムソンの谷降れるかな……ちょっと不安」
「それなら大丈夫ですよ、カズイとカズサも一緒に来てくれる事になりましたから。もちろん子供達も一緒ですよ」
またグノーが困ったような瞳をこちらに向ける。
「もしかして、また忘れてしまいましたかね……」
「カズイとカズサは分かる……けど子供って、どこの子?」
「私達の子供ですよ、娘のルイと息子のユリウス。あなたがお腹を痛めて産んだ子供達ですよ」
「なんの冗談? 俺男なのに、産めるわけないじゃん……」
グノーはますます混乱の表情を見せる。どうやら今度は自分が男性Ωで子供が産めるという事自体を忘れてしまっているようだ。
これは説明に時間がかかるな、と混乱するグノーの身体を抱き上げ、落ち着かせるように抱きしめた。
それでも自分達が恋人同士、もしくは夫婦である事は理解しているようなので「大丈夫、大丈夫」と頭を撫でると、彼の様子は少し落ち着いた。
「俺、いつから記憶がないんだ? あのメリアの事件から何年経ってる?」
「無理に思い出そうとしなくていいですよ。今は体力を戻すのが先です」
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冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。
カクヨムに書き溜め。
小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
【完結】利害が一致したクラスメイトと契約番になりましたが、好きなアルファが忘れられません。
亜沙美多郎
BL
高校に入学して直ぐのバース性検査で『突然変異オメガ』と診断された時田伊央。
密かに想いを寄せている幼馴染の天海叶翔は特殊性アルファで、もう一緒には過ごせないと距離をとる。
そんな折、伊央に声をかけて来たのがクラスメイトの森島海星だった。海星も突然変異でバース性が変わったのだという。
アルファになった海星から「契約番にならないか」と話を持ちかけられ、叶翔とこれからも友達として側にいられるようにと、伊央は海星と番になることを決めた。
しかし避けられていると気付いた叶翔が伊央を図書室へ呼び出した。そこで伊央はヒートを起こしてしまい叶翔に襲われる。
駆けつけた海星に助けられ、その場は収まったが、獣化した叶翔は後遺症と闘う羽目になってしまった。
叶翔と会えない日々を過ごしているうちに、伊央に発情期が訪れる。約束通り、海星と番になった伊央のオメガの香りは叶翔には届かなくなった……はずだったのに……。
あるひ突然、叶翔が「伊央からオメガの匂いがする」を言い出して事態は急変する。
⭐︎オメガバースの独自設定があります。
女子にモテる極上のイケメンな幼馴染(男)は、ずっと俺に片思いしてたらしいです。
山法師
BL
南野奏夜(みなみの そうや)、総合大学の一年生。彼には同じ大学に通う同い年の幼馴染がいる。橘圭介(たちばな けいすけ)というイケメンの権化のような幼馴染は、イケメンの権化ゆえに女子にモテ、いつも彼女がいる……が、なぜか彼女と長続きしない男だった。
彼女ができて、付き合って、数ヶ月しないで彼女と別れて泣く圭介を、奏夜が慰める。そして、モテる幼馴染である圭介なので、彼にはまた彼女ができる。
そんな日々の中で、今日もまた「別れた」と連絡を寄越してきた圭介に会いに行くと、こう言われた。
「そーちゃん、キスさせて」
その日を境に、奏夜と圭介の関係は変化していく。
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