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運命に祝福を
最後の審判 ③
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「もし空から襲撃できたら楽なんだけれどな」
それを言ったのはセイだった。ランティスで行われる婚礼の儀式、その盛大に行われる式典は当たり前だが警備の数が多い。仲間を捕らえられ減らされ続けている私達は多勢に無勢で分が悪い。
アギトは最初のうちこそ仲間など幾らでも増やせると豪語していたが、王家に反目する仲間などそう一朝一夕に増やす事は出来なかった。
そもそも仲間を増やす為に使われていた薬物の量が既に心許ない状態で、正常な思考の持ち主ならばアギトのしようとしている事は自分達の安寧をも脅かす所業だという事を理解できてしまう。
どんなに頭の悪い連中でも、そんな実入りの少ない泥船に乗り込みたがる人間はいない、当然仲間など集まる訳もなく仲間の数は減っていくばかりだった。
そんな中で正攻法での正面突破は難しいとなった時、セイが発したのがその言葉だった。
「空ってことは、上空か?」
「ああ」
「人間は空など飛べない何を絵空事を……」
数少ない仲間がそう言った時「それ、いいんじゃないですか」と私は頷いた。
「セイさんが言ってるのは飛翼を使うって事ですよね?」
「あぁ、ファルスの国王が秘密裏に活用している秘密兵器だ、使えればこれ以上に使える兵器はない。ただアレは渓谷を吹き抜ける風があってこその乗り物だから……」
そこまで言ってセイがはっとこちらを向いた。私はそれに「風なら吹きますよ」と静かに頷く。
「できるのか?」
「今の私なら恐らく可能です」
ミーアの死を知り、我が子に会って以降、私の思考は驚くほどにクリアで心は凪いでいる。今の私には恐れるものなど何もなく、例えどんな無理難題を言われても出来てしまうのではないかという自信があった。
「仲間全員の飛翼を操る事になるが……」
「やります、いえ、やれます」
私に宿ったこの力、自在に操る事が出来れば飛翼を飛ばす事のできる気流を作る事も可能である。そして今の私にはそれを確実にこなせる自信があった。
「兵器に転用できるからこそ、国王はあれを世に出すことをしなかった。だから逆にそんな物がある事を知っている者はとても少ない。奇襲を仕掛けるなら、これ以上の策はないな」
「ただ、飛翼の調達はどのように? アレの管理は黒の騎士団できっちりとされているのでしょう?」
「図面がありさえすれば量産は可能だ。俺は設計図の保管されている場所を知っている」
そう言ってセイはムソンの長老の自宅に保管されていた設計図をいとも容易く手に入れてきた。
「悪用されれば危険な物だと分かっていながら、管理はずさんそのものなのはあの男らしいと俺は思うよ。この設計図にしても俺達の扱いにしても、な」
そうして量産された飛翼に乗って、私達はメルクードへとやって来た。
教会の屋根の上に降り立った私達は眼下を見下ろし、右往左往する警備の者達に向かって爆弾を投げつけた。
まさか空からやって来るとは思わなかったのであろう、面白いように奴らは混乱して笑いが止まらない。
「まるで蟻の子を散らすようだな」
アギトはそう言って嗤い、逃げ惑う人々に追い打ちをかけるように幾つもの爆弾を投げつけた。そうやって手も足も出ない眼下の人間を嘲笑っていると、屋根裏部屋の天窓がばん! と開け放たれた。
「お、意外と早かったな……」
窓は開いたが、そこから即座に顔を出すほど相手は馬鹿ではないのだろう、向こうがこちらを窺っているのが分かる。それを見たアギトはジェスチャーで爆弾を投げ込めと、指示を出した。
投げ込まれる爆弾、すぐに室内から爆音が響き窓は吹っ飛び、一部壁も崩れた為、私達はそこから屋根裏へと飛び込んだ。
室内には、爆撃にやられたのだろう人物が床に伏していた。
「ん? メリア人か?」
その伏した人物の髪は真っ赤な赤髪。ここランティスでは忌避されているメリア人がこんな場所にいるのは不自然だなと思ったのだが、なにせ今日はランティスの王子とメリアの姫の婚礼だ、メリア人がいたとしても不思議ではない。ぴくりとも動かないそいつは死んだのだろうと判断し仲間も次々に室内へと入ってくる。
ふいに辺り一面に甘い匂いが広がった。それは身構えるよりも早く鼻腔に届き、しまったと思った時には仲間の何人かが寝返るように私達の前にふらりと出て来た。
「おい、これはどういう事だ!?」
少しだけ戸惑ったようなアギトの声、だが私はそれ所ではない。私はこの匂いを知っている、それはひどく懐かしい母の……
「こんの、不良息子がっ! 他人様に迷惑かけてんじゃねぇぞっ! 俺はお前をそんな風に育てた覚えはねぇっ!!」
飛び起きた赤髪のメリア人、女性と見まごう美貌のその人の額からは血が流れ頬を伝い流れ落ちた。
「母さん……」
「ユリ、お前は自分が何をやらかしているのか分かっているのか!? ザガでどれだけの人間が命を落としたと思っている!? 昨年のメルクードでの襲撃事件もそうだ、俺はこれまでお前には人を助ける術を叩き込んできたつもりだ、なのに……お前はっ!!」
まるで走馬灯のように記憶が流れ込んでくる。これは何だ? 今まで朧気にしか思い出せなかった記憶の断片が次々と浮かび上がってきて、私は戸惑った。
「母さん、これは……」
「なんだ!? 言いたい事があるならはっきり言え!」
私は何の言い訳をするつもりだ? まるで幼子に戻って母に叱られているような錯覚に陥って頭を振った。私は新しい世界を作り出さなければならないのだ。それは私の使命と言ってもいい。
大事な者を護る為に戦う事を教えてくれたのは両親だ、これは私にとって妻であったミーアの弔い合戦。そしてこれからは愛する我が子を自由に歩ませるための聖戦でもある。
先に仕掛けてきたのはそちらであって、私は間違った事などしていない!
「私達の邪魔をするのは止めてください」
「んだとっ! 子供が間違った事をしているのを正すのは親の役目だ!」
「私は間違った事などしていない!」
「これのどこが間違った事じゃねぇって言うんだよ!? お前達が攻撃を仕掛けているのは誰だ! お前たちが本当に倒したいのは何だ!? はっきりと俺に説明してみろ!」
母の怒りは収まらない。元々自分は恐らくこんな風に母を怒らせた事はほとんどなかったのではないかと思うのだ。私は子供の時分とても大人しい『良い子』だった。それは私の生き方を縛り、私の世界を狭めていた。
理想論だけでは世界を変える事はできない、それは母も分かっているはずで、私は母の言葉にもやっとした憤りを感じて母を睨みつけた。
「いつまでも子離れできない親に子供は辟易するものだ、私はあなたのお利口な人形ではない」
瞬間母がぐっ、と言葉に詰まり逡巡するように口を動かす。
「お……俺はお前たちを俺達の人形だなんて思っていない」
「それでも、私のする事に口を挟むとあなたは言う」
「そ、れは……親として間違っている事を正すのには、親離れ子離れ関係ねぇだろう!」
「あなたの価値観で私を計るのはやめてください、私はあなた方の教えを違えてはいない、私は私の大事な者を守る為に私のやるべき事を成しているだけ。正される事など何もない!」
自分はこんな風に母に反論した事が今まで一度でもあっただろうか? 何故か少しだけ胸がすいた。
「私だとて親殺しはしたくない、そのフェロモンをしまってください、私には成さねばならない事がある」
「是が非でも行くって言うのか」
「勿論です、私の正義はそこにある」
私は己のフェロモンを開放する、使いようによっては他者をも操る事ができると教えてくれたのはこの母だ。
「ぐっ……」
並外れたフェロモン量を誇る母はオメガでありながら他人を魅了してきたが、元来アルファは他者を支配する為に生まれてきた存在だ、オメガである母に引けを取るなどあり得ない。
「ユリウス、行くなっ」
見えない縄で縛られたように身動きできなくなった母を見下ろして、私は哀れだなとそう思った。
母は傍若無人な俺様で何人ものアルファに囲まれ生きている、まるで女王様のように彼らを支配しているようでいて、それでもやはり王者であるアルファには逆らえないのだ。
母が母で居続けたのは、周りのアルファ、特に私の父親が母に譲歩し守り慈しんでいたからで、実際の彼は息子のフェロモンに屈する程度なのかとそう思った。目の前に立ちはだかる両親という大きな壁はここまで脆弱な物だったのかと笑いが込み上げた。
「さよなら、母さん」
「ユリウスっ!」
母を置き去りに促すように階下へと向かう、だが下から警備兵が上がって来るのは予想通り。私達は事前に入手していた図面の通りに教会内部を走り抜ける。この教会には巨大なステンドグラスの天窓がいくつもあるのだ、その手入れの為の足場が屋根の上や、教会内部にいくつも組まれていて、私達はその細い足場を駆け抜ける。
高さに臆する者など誰もいない、誰もが死など恐れていないのだ。
天窓のステンドグラスのひとつ、そのステンドグラスを叩き割り、爆弾を放り込んだ。そこは教会の挙式を行っている場所の真上。眼下からの爆音と悲鳴、私達は彼らの前に姿を現し、奴らをぐるりと見回した。
私は躊躇いなくその天窓から眼下へと飛び降りる。常人では恐らく怪我ではすまない高さだが、今の私は常人などではありはしない。私の中には神の力が宿り、私の身体をふわりと持ち上げる。
「お前は一体……」
黒髪の男が私に対峙する。これは一体誰だったか? しばし考えふと思う、あぁ、これは父が大事に護っているファルス国王その人だ。
「私の名前はユリウス・デルクマン、神の力の宿りし者」
「神の力、だと?」
「えぇ、神は私に特別な力を分け与えた。私には成すべき事があるのです、それにはあなた方は邪魔なのですよ」
「ユリウス、お前は何を言っている!?」
目の前に飛び出してきた大きな男「父さん、久しぶり」と笑みを零すと、厳しい表情で父がこちらを睨みつけた。
「お前は自分が何をしているのか分かっているのか! これは重大な犯罪で、お前は極刑を免れない。私はお前の父として、せめて引導は私が渡すと決めてここへ来た」
「へぇ、そうなんだ。それでさっき母さんもあそこに現れたって訳か」
「ユリウス、お前グノーに何を!」
「別に何もしてませんよ、しょせん母さんもか弱いオメガで、圧倒的なアルファの力には敵わなかった、それだけの事だ」
「その力は他人をむやみに屈服させることに使ってはいけないと、私はお前に教えてきたはずです」
「使える力を使わずに遠回りしていたら、この世界はいつまでも変わりはしない」
私達の数は少ない、けれど私達はこの世界の誰よりも強い。
「私達はこの世界を変えてみせる。それは父さんも望んできた事で、私達は間違った事など何もしてやしない。国という枠組みが邪魔なのですよ、こんな腐った王族の私利私欲で動く組織などもうこの世界には不必要なのです」
「だからと言って、これは正当なやり方ではありません!」
「父さんの言う正当なやり方って何? 世界の構造は弱者と強者で成っている、弱者はいつまでも弱者のまま日の当たる場所に出る事も出来ない、そんな世界の何が正しいのか、私にはまったく理解できない!」
「そこまでだ、ユリウス。お前の言っている事は正しい、だがそれに関係のない人間を巻き込む事は間違っている。お前は自分を正しいと思うのなら、まずは俺を倒していけ」
前に出てきたのはファルスの国王ブラックだ。手には剣を携えてにやりとこちらに流し目をくれるのだが、そこに「あんたの相手はユリウスじゃなく、この俺だ!」と、割って入ったのはスランの長、アギトだった。
「お前、アギトか!?」
「あぁ、ようやく会えたなブラック。俺はずっとこの日を待ちわびていたんだ、お前をこの手で殺す日を指折り数えて待っていた」
アギトの瞳は仄暗い、それは復讐者の瞳だ。アギトはブラックを王族の人間の誰よりも憎んでいた、アギトの歓喜の心が伝わってくるようだ。
いつの間にか、私達の周りを取り囲む人間の数が増えている。
「兄貴……何をとち狂ったのかは知らないが、俺達はあんたの行動に迷惑してるんだ」
セイの前には彼の弟達が相対し、兄に容赦のない攻撃をぶつける。セイはちっと舌打ちを打ちながらも弟達と対峙するのは彼の中では想定済みだったのだろう、何の躊躇いも見せずに弟達に反撃を繰り返している。
数で勝つ事は出来ないと最初から分かっていた、だから私はここにいる。
私が手を振上げると曇天から俄かに雨が降り出した。それは割れたステンドグラスの間から降り注ぎ辺りを濡らしていく。この数か月で私はこの力を完全に自分の物として扱う事を覚えた、辺りには一面雨水が広がっていくが私達がその雨に触れる事はない。
「くっ、なんだこれは……」
「全員これで終わりです」
雷鳴が近付いてくる、そしてその次の瞬間ピンポイントで雷はステンドグラスを弾き飛ばし、教会内部に落雷した。
眩しいほどの光、ステンドグラスはその光を反射してとても美しく光輝いた。
雨の中に立ち尽くしていた者達は全員地に伏せて倒れ込んでいた。それは目の前の父もブラック国王も、セイの兄弟も皆等しく神の鉄槌を食らったのだ。
「化け物だ!」
誰かの叫び声と共に我先にと逃げ出す者達。けれど扉は開かない。その扉はこちらから押し開けて開くタイプの扉だが、扉の反対側から圧力をかければ開く事はない。大気を操る私にはそんな事も造作ないのだが、そんな事も分らない者達は逃げ惑う。
「逃げる事は叶いません、あなた方は全員ここで死ぬのですから」
「そんな事、誰がさせるか!」
目の前に飛び出してきたのは黒髪の少女。
「おや? お前は女として生きる事に決めたのですか?」
ドレスの裾をたなびかせ、ツキノが目の前で剣を構える、そしてその傍らにはカイトがそんなツキノを守ろうとでもするように2人仲良く私の前に現れた。大人しくしていれば苦しむ事もなくあの世へ送ってやったものを……
「男とか女とか、アルファだとかオメガだとか、そんなもん一々うるせぇんだよ! 俺は俺で他の誰でもない。俺はツキノだ、どんな枠にも括られない俺はただ一人の俺という存在だ、それを他人にとやかく言われる筋合いはねぇんだよっ! 王族なんて括りも同じだ、俺はそんな括りで殺されるなんて御免だね、それになぁ、だったらお前の身体に流れるその血はなんだ! お前こそがメリア王国の正当な王家の血を引く人間なんじゃねぇかっ!!」
私の中に流れる血、確かにそれは母から受け継ぎ私の中に脈々と流れている。
「おい、ユリウス! 今の話は本当か!?」
ツキノの言葉に反応したアギトが濡れた床をずかずかと踏みしめこちらへとやって来る。
おかしいな? この人には言ってあったと思うのだが? あぁ、そう言えばそんな話をしようとした時、セイに止められたのだったか……
「王家の血が流れていたとしても、私は王家とは無関係です。今までもそうでしたし、これからもずっと」
「だったら、俺だってお前と同じだ、俺は王家とは無関係で生きてきた。これからも王家の人間として生きる気はない。これは命乞いなんかじゃねぇぞ、あんたの頭の中は矛盾だらけなんだよ、それに気付かず力だけを振りかざす、あんたはただの我儘な子供なんだよっ!」
「知ったような事を……」
「お前は大事な者を守る為に世界を変えると言っていたが、だったら今、俺の腹にも新しい命が宿っている、俺にはこいつを守る使命があるんだよ、お前にこいつを殺させてたまるか!」
ゆるりとツキノが自身の腹を撫でた。ツキノの腹に子供? オメガのカイトにではなくアルファのツキノに? それでさっきからカイトはツキノを守るようにツキノの前に出ようとしているのか? オメガがアルファの嫁を守る、か……それはひどく滑稽だ。
「何を笑う!」
「支配すべきオメガに支配されるアルファがあまりにも滑稽で」
「ユリウス兄さんはそんな事を言うような人間じゃない、女性だろうとオメガだろうとあなたは今まで蔑むことなく対等に扱ってくれた! 今のあなたはまるであなたの言う差別主義者そのものだ、あなたのしようとしている事はこの世界の変革なんかじゃない、ただ自分の望むように弱者と強者を入れ替えようとしているだけだ!」
「本当に、お前たちはやかましい……昔から寄ると触ると喧嘩ばかりしているくせに、いつの間にかいつも仲直り、そして何故仲良く私の邪魔をするのか」
幼い頃からそうだった。いたずら坊主のツキノとカイト、私はいつでも喧嘩の仲裁役、そしてこちらがやきもきしているのを知ってか知らずかいつの間にか仲直りしては私に2人がかりでちょっかいをかけてくる。私はそんな2人が……
「兄さんが妻子の為に僕達を殺すと言うのなら、僕はツキノと子供の為にそれを阻止するし、意地でも家族で生き延びてやる!」
「果たしてお前にそんな力があるのでしょうかね? 言っては何ですがあなたは私達身内の中では誰よりも弱い。ツキノに守られている事に気付きもせずに図に乗るんじゃない、このオメガ風情が!」
「兄さんが居なくなってからの一年半、僕が何の成長もしていないと思うのなら、それは兄さんの思い上がりだよ」
あぁ、なんと煩わしい。ああ言えばこう言う、口の回るカイトには私は口で勝てた試しがない。ぎらりと2人を睨みつけた所で、その背後に見覚えのある赤色が映った。母さん、いや違う、アレは……
「生きて……いたのか」
目の前に飛び出してきた赤い髪。それは亡くしたと思っていたノエルの赤髪だ。胸に湧き上がる安堵の感情と、それを煩わしく邪魔だと思う感情が同時に湧いてくる。
「意外としぶとくて、ごめんね」
皮肉を込めて放たれたであろう彼の言葉になんと返していいか分からず「いや」と一言呟いて彼を凝視した。
「ねぇ、もう止めよう。ツキノの言う通りだろ? あなたの意見は何処までも矛盾だらけだ、俺達はきっとどこかで何かを履き違えてしまっているだけなんだ。だからさ、もっとちゃんと話し合いを……」
「ユリウス! そいつの言葉に耳を傾けるな!!」
まるで叱るように飛んできたセイの声がノエルの声に重なった。それと同時にノエルへと飛んだセイの飛び道具である短刀を私はとっさに払い落した。
「な、ユリウス!」
「一度ならず二度までも、何故あなたは彼を攻撃するのですか……」
胸の内にどろりとした感情が沸き起こる。我が子であり番相手でもある赤子に相まみえることで凪いでいたはずの、正しく言えば封じ込める事ができていたはずの怒りの感情が脳を埋め尽くす。
「そんなの、そいつが敵だからに決まっているだろう!」
ああ、確かにそうだ。確かに彼は敵として私達の前に立っている。けれど、今彼と対峙しているのは私であってお前ではない。まるで私から彼を横取りするかのように手を出してくるセイを私は許せない。
「確かにあなたの言う通りです、彼は敵、ですが私の獲物です、手を出さないで」
凄むように言った私の言葉にセイは一瞬言葉を詰まらせたのだが、すぐに開き直ったように「そいつは俺の敵でもあり、獲物でもある」とそう返して寄こした。
「是が非でも私から獲物を奪うと?」
「お前にそいつは殺せない、俺がやる! お前は俺の言う事だけ聞いていればいいんだ!」
確かにこれまでセイの言う通りにしていれば私は何も考えなくて良かった。激しい頭痛と倦怠感に苛まれ続けている私にとってそれはとても頼もしく頼れる存在であったセイだが、今回ばかりは譲れない。
「嫌です」
ノエルの前に立ち塞がるように立った私に、セイは驚いたように目を見開く。
「お前、俺達を裏切る気か!」
「そんな事はしません」
「だったら何故、お前はそいつを護ろうとする!」
「護っているんじゃない、獲物の横取りを防いでいるだけ。それよりも何故あなたはそれ程までに彼に固執するのです?」
「それはお前も同じだろう、ユリウス!」
同じ……だろうか? 確かに私は彼を気にかけている。思い出せない彼との記憶が胸に引っかかり続けているのは間違いない。けれどセイのように、是が非でも彼を殺そうとするのはどうかと思うのだ。何故なら彼は私達と敵対していたとしても、少なくとも殺すべき王族ではない。
邪魔をするのなら排除する、それは正しい行動だ。けれどそれにしてもセイはノエルに対してあからさまな敵愾心を見せるのが不思議で仕方がないのだ。
ノエルはこちらの話も聞かずに私達を一方的に排除しようとはしていないし、話し合いをしようとまで言っているのに、それをセイは「聞くな」と言い話も聞かずに「殺せ」と言う。
それでは彼の言う通り、私達は一方的に殺戮を繰り返すただの悪者ではないか。
今まで私は自分の行いに何の疑問も持たずに来た。むしろ自分の行いは善であると信じてきた。「お前は何も考えなくていい」と言われてきたし、アギトもセイも自分達の言う事をただ黙って聞いていろというスタンスだったからそれがすべて正しいのだと思っていた。私自身もそれがとても楽で、それでいいと思っていた、が、ほんの少しの我を通しただけで即座に裏切りだと決めつけられるのに私はとても納得がいかない。
「私は裏切ってなどいない、けれど彼は私の獲物です」
もう一度はっきりとそう告げると、セイの顔が歪む。
「お前はそいつを捨てて俺達を選んだんだろうが!」
何故だ、何故分かってくれない? 私は裏切ってなどいない、ただノエルを攻撃するのは止めてくれと言ってるだけ、それだけなのに……
「ユリ兄、危ないっっ!」
完全にセイに気がいっていて周りの警戒が疎かになっていた私の身体に衝撃が走る。思い切り体当たりされたようなその力によろめき、状況を理解しようと背後を見やると、そこには剣に腹を刺されたノエルと、それを無表情に見やるアギトの姿があって愕然とした。
「は……?」
瞬間何が起こったのか理解が出来なかった、ノエルの腹から抜かれていく剣先、その剣を携えたアギトがこちらを睨みつける。その剣に纏わりつく真っ赤な鮮血に目を見開いた。降りしきる雨水に赤い色が広がっていく。それは渓谷で見たあの時の光景とダブって心が千々に乱れる。
ノエルは私を庇ってアギトの剣に貫かれたのか? でも何故? 何故アギトが私を……?
「な、にを……」
「お前は裏切り者だ」
「!?」
「お前は俺を裏切った。その力、返してもらうぞ。お前はその力にふさわしくない」
まるで意味が分からない。いつ私が彼等を裏切った? ノエルを庇った事がそれ程までに重大な裏切り行為になるとでも言うのか? いや、私はそもそもノエルを庇った訳ではない、ただ「獲物を横取りするな」とそう言っただけだ!
「お前は俺に隠していた」
「何を……」
「お前が王族の血を引いているという事を、だ。その力は神から我らに与えられたモノで王族の人間に与えられるべきものではない、返してもらうぞ、ユリウス」
血に濡れた剣先を向けられ混乱は増すばかりだ。
一体何を言っているのだこの人は……それにこれは私が神から預かった力で、私が死んだ所でアギトに返る物でもない。これは私が直接神に与えられた力であって、アギトからもらい受けたモノですらない。
目の前に倒れ伏すノエルの腕が弱々しくこちらへと伸ばされて私の名を呼んだ。
何なのだ、どうなっている?! 一体誰が私の敵で、誰が私の味方なのかが分からない。
ただでさえ激しい豪雨に変わっていた雨が、私の感情に呼応するように荒れ狂う。
「お前、ずいぶんこの小僧に執着があるようだったな」
こちらへ向いていた剣先が、またしてもノエルへと向けられて血の気が引いた。アギトは倒れ蹲るノエルの髪を掴み引き上げて、その剣先をノエルの喉元へと持っていく。
「目の前で大切な者を失くす気持ちを、お前は知っているか?」
「その子は私の獲物だと……!」
「獲物ならば俺に譲れ、お前の主人は誰だ? 俺だろう? 下僕は主人の言う事に従うものだ」
髪を掴まれたノエルの顔色は血の気が引いて蒼白だ。刺された腹からは血が滲み苦悶で顔を歪めたノエルの表情を見た瞬間、身体中の毛が総毛だった。
「やめろ! 止めてくれ!!」
私の叫びにアギトは瞳を細め、楽しそうに「嫌だね」と返して寄こす。
「お前はさっさとお前のすべきことをすれば良い、まずはそこにいる生意気な口をきく王族のガキどもを殺せ」
目の端でツキノとカイトがじっとこちらを凝視しているのが分かる。
「ユリ……兄、ダメだ、よ」
荒い息を吐きながらもノエルは私の名を呼び、真っ白な顔で涙を零す。一体どうすればいい、訳も分からず叫び出しそうな気持ちを叱咤して、アギトの瞳をじっと見返すと「やはり言う事がきけないのか?」と、アギトが更にノエルを上へと持ち上げた。くぐもったような呻き声と共にノエルの口は血を吐き出し、それを見た私の鼓動は跳ね上がる。
「やめろ、死んでしまう……」
「別にガキの一人や二人死んだ所で大義の前では些事でしかない」
本当にそうなのか? 彼を殺す事の一体何処に大義があるのかが分からない。私が彼の命と引き換えに王族の子供達を殺す事が大義なのか? だが、その大義の為に何故彼がこのような扱いを受けなければならない?
今までアギトの言葉は何事も全て受け入れてきた、けれどそれはミーアの望みで、けれどそんな彼女も今はもうこの世にはいない。
何処で狂った? 何がいけなかった? 全ての思考を他人に委ね、楽をしてきたツケが今になって回ってきたのか?
「ぐぅぅ……アギト、お前、いい加減にしろっ!」
雷に撃たれ倒れたファルスの国王が、満身創痍で倒れ込みながらも叫んだ。
「殺すなら、俺を殺せ。お前の目的は俺達王族だろう! その子はファルスの一国民で護るべき民だ、お前達にとっても敵ではないはずだ!」
「死にぞこないが、やかましいな」
所々焼け焦げた衣装をはぎ取るようにして、国王は何度も起き上がろうとするのだが、身体が痺れて思うように動かないのだろう何度もがくりと濡れた床へと身を沈める。それでも何度もそんな事繰り返しつつも国王は「護るべきものを持たないお前など、所詮何者にもなれやしないっ!!」と吠える。
するとアギトはノエルを放り出し、つかつかとブラック国王陛下の元へ歩み寄り、その頭を思い切り蹴り上げた。
「その俺の護るべき者を殺したのは誰だ?」
「ぐっ!」
「俺の故郷を、家族を、友人を、恋人を奪ったのは誰だ!? ああ!」
何の躊躇いも見せず国王へと暴行を繰り返すアギト、だが私はそんな事よりも放り出されたノエルの方へと駆け寄り、その身体を抱き上げた。
「ああ、ユリ兄……だ」
こんな殺伐とした空気の中で、彼は嬉しそうに笑って私の頬へと腕を伸ばす。
「こんなに、雨が降ってるのに……ユリ兄は、やっぱり濡れないんだね、不思議だ、ねぇ……これも、神様の……力、なの?」
「喋らないで! 傷に障る!!」
「……いいよ」
ふわりと笑った彼の笑みに雷のような衝撃が走る。私は知っている、覚えている。どうして忘れていられたのかが分からない、何故私はこれほどまでに彼を傷付けた!
走馬灯のように思い出される彼との愛しい記憶が、浮かんでは消え、浮かんでは消え、そのひとつひとつを反芻する間もなく彼の瞳の色が消えていく。
頬に添えられた彼の腕が落ちる。
何故だ、どうして……
「駄目だ! お願いだから目を開けてっ!!」
息ができない、身体が震える。腕の中のノエルの身体はどんどん熱を失って、その冷たさに心が凍えた。
雨に濡れているから余計に冷えるのだと、彼の身体を乾かしても、彼の瞳は開かないし、温もりが戻ってこないことに絶望する。
「なんで……嘘だ……こんな……」
私は一体今まで何をしていた? 大事な人を傷付けて、こんな場所で殺す事を自分は望んでいたとでも? 嘘だ、違う、私はそんな事、望んでなどいなかった!!
雨は私だけを避けて降り注ぐ。
「許さない」
低く響いた呻きにも似た声にアギトがようやくこちらを向いた。私は静かに片手を上げる。
「あ? なんだよ、俺に文句でもあんのかよ?」
「……先に手を出したのはそちらですからね、悔やむのなら己の短慮を恨むがいい」
私が腕を降り降ろしたと同時に、どん! と、アギトの身体に直撃する雷。辺りに肉の焼け焦げる匂いが充満した。先程の雷は水を伝った感電だったが、今度のこれは直撃だ、恐らく彼はもう生きてはいまい。
「お前、なんて事を……」
落雷の余波を受け、動けなくなっているであろうセイが呆然とこちらを見やる。ボスを失くした我々は目的を失った烏合の衆か? だが、今となってはその何もかもがどうでもいい。
「化け物だ!」という叫び声が聞こえる。あぁ、きっとそうなのだろう、私は既に化け物だ。この力は神に与えられたモノだとアギトは言ったが、本当にこれは神に与えられたモノなのか? こんな誰も救えない力が? この力は奪うばかりで何も救えない。だが、もしこの力が本当に神に与えられたモノであるのならば……
身体の周りに風の渦が巻く。私はその腕に弛緩したノエルの身体を抱きかかえふわりと浮き上がった。
それを言ったのはセイだった。ランティスで行われる婚礼の儀式、その盛大に行われる式典は当たり前だが警備の数が多い。仲間を捕らえられ減らされ続けている私達は多勢に無勢で分が悪い。
アギトは最初のうちこそ仲間など幾らでも増やせると豪語していたが、王家に反目する仲間などそう一朝一夕に増やす事は出来なかった。
そもそも仲間を増やす為に使われていた薬物の量が既に心許ない状態で、正常な思考の持ち主ならばアギトのしようとしている事は自分達の安寧をも脅かす所業だという事を理解できてしまう。
どんなに頭の悪い連中でも、そんな実入りの少ない泥船に乗り込みたがる人間はいない、当然仲間など集まる訳もなく仲間の数は減っていくばかりだった。
そんな中で正攻法での正面突破は難しいとなった時、セイが発したのがその言葉だった。
「空ってことは、上空か?」
「ああ」
「人間は空など飛べない何を絵空事を……」
数少ない仲間がそう言った時「それ、いいんじゃないですか」と私は頷いた。
「セイさんが言ってるのは飛翼を使うって事ですよね?」
「あぁ、ファルスの国王が秘密裏に活用している秘密兵器だ、使えればこれ以上に使える兵器はない。ただアレは渓谷を吹き抜ける風があってこその乗り物だから……」
そこまで言ってセイがはっとこちらを向いた。私はそれに「風なら吹きますよ」と静かに頷く。
「できるのか?」
「今の私なら恐らく可能です」
ミーアの死を知り、我が子に会って以降、私の思考は驚くほどにクリアで心は凪いでいる。今の私には恐れるものなど何もなく、例えどんな無理難題を言われても出来てしまうのではないかという自信があった。
「仲間全員の飛翼を操る事になるが……」
「やります、いえ、やれます」
私に宿ったこの力、自在に操る事が出来れば飛翼を飛ばす事のできる気流を作る事も可能である。そして今の私にはそれを確実にこなせる自信があった。
「兵器に転用できるからこそ、国王はあれを世に出すことをしなかった。だから逆にそんな物がある事を知っている者はとても少ない。奇襲を仕掛けるなら、これ以上の策はないな」
「ただ、飛翼の調達はどのように? アレの管理は黒の騎士団できっちりとされているのでしょう?」
「図面がありさえすれば量産は可能だ。俺は設計図の保管されている場所を知っている」
そう言ってセイはムソンの長老の自宅に保管されていた設計図をいとも容易く手に入れてきた。
「悪用されれば危険な物だと分かっていながら、管理はずさんそのものなのはあの男らしいと俺は思うよ。この設計図にしても俺達の扱いにしても、な」
そうして量産された飛翼に乗って、私達はメルクードへとやって来た。
教会の屋根の上に降り立った私達は眼下を見下ろし、右往左往する警備の者達に向かって爆弾を投げつけた。
まさか空からやって来るとは思わなかったのであろう、面白いように奴らは混乱して笑いが止まらない。
「まるで蟻の子を散らすようだな」
アギトはそう言って嗤い、逃げ惑う人々に追い打ちをかけるように幾つもの爆弾を投げつけた。そうやって手も足も出ない眼下の人間を嘲笑っていると、屋根裏部屋の天窓がばん! と開け放たれた。
「お、意外と早かったな……」
窓は開いたが、そこから即座に顔を出すほど相手は馬鹿ではないのだろう、向こうがこちらを窺っているのが分かる。それを見たアギトはジェスチャーで爆弾を投げ込めと、指示を出した。
投げ込まれる爆弾、すぐに室内から爆音が響き窓は吹っ飛び、一部壁も崩れた為、私達はそこから屋根裏へと飛び込んだ。
室内には、爆撃にやられたのだろう人物が床に伏していた。
「ん? メリア人か?」
その伏した人物の髪は真っ赤な赤髪。ここランティスでは忌避されているメリア人がこんな場所にいるのは不自然だなと思ったのだが、なにせ今日はランティスの王子とメリアの姫の婚礼だ、メリア人がいたとしても不思議ではない。ぴくりとも動かないそいつは死んだのだろうと判断し仲間も次々に室内へと入ってくる。
ふいに辺り一面に甘い匂いが広がった。それは身構えるよりも早く鼻腔に届き、しまったと思った時には仲間の何人かが寝返るように私達の前にふらりと出て来た。
「おい、これはどういう事だ!?」
少しだけ戸惑ったようなアギトの声、だが私はそれ所ではない。私はこの匂いを知っている、それはひどく懐かしい母の……
「こんの、不良息子がっ! 他人様に迷惑かけてんじゃねぇぞっ! 俺はお前をそんな風に育てた覚えはねぇっ!!」
飛び起きた赤髪のメリア人、女性と見まごう美貌のその人の額からは血が流れ頬を伝い流れ落ちた。
「母さん……」
「ユリ、お前は自分が何をやらかしているのか分かっているのか!? ザガでどれだけの人間が命を落としたと思っている!? 昨年のメルクードでの襲撃事件もそうだ、俺はこれまでお前には人を助ける術を叩き込んできたつもりだ、なのに……お前はっ!!」
まるで走馬灯のように記憶が流れ込んでくる。これは何だ? 今まで朧気にしか思い出せなかった記憶の断片が次々と浮かび上がってきて、私は戸惑った。
「母さん、これは……」
「なんだ!? 言いたい事があるならはっきり言え!」
私は何の言い訳をするつもりだ? まるで幼子に戻って母に叱られているような錯覚に陥って頭を振った。私は新しい世界を作り出さなければならないのだ。それは私の使命と言ってもいい。
大事な者を護る為に戦う事を教えてくれたのは両親だ、これは私にとって妻であったミーアの弔い合戦。そしてこれからは愛する我が子を自由に歩ませるための聖戦でもある。
先に仕掛けてきたのはそちらであって、私は間違った事などしていない!
「私達の邪魔をするのは止めてください」
「んだとっ! 子供が間違った事をしているのを正すのは親の役目だ!」
「私は間違った事などしていない!」
「これのどこが間違った事じゃねぇって言うんだよ!? お前達が攻撃を仕掛けているのは誰だ! お前たちが本当に倒したいのは何だ!? はっきりと俺に説明してみろ!」
母の怒りは収まらない。元々自分は恐らくこんな風に母を怒らせた事はほとんどなかったのではないかと思うのだ。私は子供の時分とても大人しい『良い子』だった。それは私の生き方を縛り、私の世界を狭めていた。
理想論だけでは世界を変える事はできない、それは母も分かっているはずで、私は母の言葉にもやっとした憤りを感じて母を睨みつけた。
「いつまでも子離れできない親に子供は辟易するものだ、私はあなたのお利口な人形ではない」
瞬間母がぐっ、と言葉に詰まり逡巡するように口を動かす。
「お……俺はお前たちを俺達の人形だなんて思っていない」
「それでも、私のする事に口を挟むとあなたは言う」
「そ、れは……親として間違っている事を正すのには、親離れ子離れ関係ねぇだろう!」
「あなたの価値観で私を計るのはやめてください、私はあなた方の教えを違えてはいない、私は私の大事な者を守る為に私のやるべき事を成しているだけ。正される事など何もない!」
自分はこんな風に母に反論した事が今まで一度でもあっただろうか? 何故か少しだけ胸がすいた。
「私だとて親殺しはしたくない、そのフェロモンをしまってください、私には成さねばならない事がある」
「是が非でも行くって言うのか」
「勿論です、私の正義はそこにある」
私は己のフェロモンを開放する、使いようによっては他者をも操る事ができると教えてくれたのはこの母だ。
「ぐっ……」
並外れたフェロモン量を誇る母はオメガでありながら他人を魅了してきたが、元来アルファは他者を支配する為に生まれてきた存在だ、オメガである母に引けを取るなどあり得ない。
「ユリウス、行くなっ」
見えない縄で縛られたように身動きできなくなった母を見下ろして、私は哀れだなとそう思った。
母は傍若無人な俺様で何人ものアルファに囲まれ生きている、まるで女王様のように彼らを支配しているようでいて、それでもやはり王者であるアルファには逆らえないのだ。
母が母で居続けたのは、周りのアルファ、特に私の父親が母に譲歩し守り慈しんでいたからで、実際の彼は息子のフェロモンに屈する程度なのかとそう思った。目の前に立ちはだかる両親という大きな壁はここまで脆弱な物だったのかと笑いが込み上げた。
「さよなら、母さん」
「ユリウスっ!」
母を置き去りに促すように階下へと向かう、だが下から警備兵が上がって来るのは予想通り。私達は事前に入手していた図面の通りに教会内部を走り抜ける。この教会には巨大なステンドグラスの天窓がいくつもあるのだ、その手入れの為の足場が屋根の上や、教会内部にいくつも組まれていて、私達はその細い足場を駆け抜ける。
高さに臆する者など誰もいない、誰もが死など恐れていないのだ。
天窓のステンドグラスのひとつ、そのステンドグラスを叩き割り、爆弾を放り込んだ。そこは教会の挙式を行っている場所の真上。眼下からの爆音と悲鳴、私達は彼らの前に姿を現し、奴らをぐるりと見回した。
私は躊躇いなくその天窓から眼下へと飛び降りる。常人では恐らく怪我ではすまない高さだが、今の私は常人などではありはしない。私の中には神の力が宿り、私の身体をふわりと持ち上げる。
「お前は一体……」
黒髪の男が私に対峙する。これは一体誰だったか? しばし考えふと思う、あぁ、これは父が大事に護っているファルス国王その人だ。
「私の名前はユリウス・デルクマン、神の力の宿りし者」
「神の力、だと?」
「えぇ、神は私に特別な力を分け与えた。私には成すべき事があるのです、それにはあなた方は邪魔なのですよ」
「ユリウス、お前は何を言っている!?」
目の前に飛び出してきた大きな男「父さん、久しぶり」と笑みを零すと、厳しい表情で父がこちらを睨みつけた。
「お前は自分が何をしているのか分かっているのか! これは重大な犯罪で、お前は極刑を免れない。私はお前の父として、せめて引導は私が渡すと決めてここへ来た」
「へぇ、そうなんだ。それでさっき母さんもあそこに現れたって訳か」
「ユリウス、お前グノーに何を!」
「別に何もしてませんよ、しょせん母さんもか弱いオメガで、圧倒的なアルファの力には敵わなかった、それだけの事だ」
「その力は他人をむやみに屈服させることに使ってはいけないと、私はお前に教えてきたはずです」
「使える力を使わずに遠回りしていたら、この世界はいつまでも変わりはしない」
私達の数は少ない、けれど私達はこの世界の誰よりも強い。
「私達はこの世界を変えてみせる。それは父さんも望んできた事で、私達は間違った事など何もしてやしない。国という枠組みが邪魔なのですよ、こんな腐った王族の私利私欲で動く組織などもうこの世界には不必要なのです」
「だからと言って、これは正当なやり方ではありません!」
「父さんの言う正当なやり方って何? 世界の構造は弱者と強者で成っている、弱者はいつまでも弱者のまま日の当たる場所に出る事も出来ない、そんな世界の何が正しいのか、私にはまったく理解できない!」
「そこまでだ、ユリウス。お前の言っている事は正しい、だがそれに関係のない人間を巻き込む事は間違っている。お前は自分を正しいと思うのなら、まずは俺を倒していけ」
前に出てきたのはファルスの国王ブラックだ。手には剣を携えてにやりとこちらに流し目をくれるのだが、そこに「あんたの相手はユリウスじゃなく、この俺だ!」と、割って入ったのはスランの長、アギトだった。
「お前、アギトか!?」
「あぁ、ようやく会えたなブラック。俺はずっとこの日を待ちわびていたんだ、お前をこの手で殺す日を指折り数えて待っていた」
アギトの瞳は仄暗い、それは復讐者の瞳だ。アギトはブラックを王族の人間の誰よりも憎んでいた、アギトの歓喜の心が伝わってくるようだ。
いつの間にか、私達の周りを取り囲む人間の数が増えている。
「兄貴……何をとち狂ったのかは知らないが、俺達はあんたの行動に迷惑してるんだ」
セイの前には彼の弟達が相対し、兄に容赦のない攻撃をぶつける。セイはちっと舌打ちを打ちながらも弟達と対峙するのは彼の中では想定済みだったのだろう、何の躊躇いも見せずに弟達に反撃を繰り返している。
数で勝つ事は出来ないと最初から分かっていた、だから私はここにいる。
私が手を振上げると曇天から俄かに雨が降り出した。それは割れたステンドグラスの間から降り注ぎ辺りを濡らしていく。この数か月で私はこの力を完全に自分の物として扱う事を覚えた、辺りには一面雨水が広がっていくが私達がその雨に触れる事はない。
「くっ、なんだこれは……」
「全員これで終わりです」
雷鳴が近付いてくる、そしてその次の瞬間ピンポイントで雷はステンドグラスを弾き飛ばし、教会内部に落雷した。
眩しいほどの光、ステンドグラスはその光を反射してとても美しく光輝いた。
雨の中に立ち尽くしていた者達は全員地に伏せて倒れ込んでいた。それは目の前の父もブラック国王も、セイの兄弟も皆等しく神の鉄槌を食らったのだ。
「化け物だ!」
誰かの叫び声と共に我先にと逃げ出す者達。けれど扉は開かない。その扉はこちらから押し開けて開くタイプの扉だが、扉の反対側から圧力をかければ開く事はない。大気を操る私にはそんな事も造作ないのだが、そんな事も分らない者達は逃げ惑う。
「逃げる事は叶いません、あなた方は全員ここで死ぬのですから」
「そんな事、誰がさせるか!」
目の前に飛び出してきたのは黒髪の少女。
「おや? お前は女として生きる事に決めたのですか?」
ドレスの裾をたなびかせ、ツキノが目の前で剣を構える、そしてその傍らにはカイトがそんなツキノを守ろうとでもするように2人仲良く私の前に現れた。大人しくしていれば苦しむ事もなくあの世へ送ってやったものを……
「男とか女とか、アルファだとかオメガだとか、そんなもん一々うるせぇんだよ! 俺は俺で他の誰でもない。俺はツキノだ、どんな枠にも括られない俺はただ一人の俺という存在だ、それを他人にとやかく言われる筋合いはねぇんだよっ! 王族なんて括りも同じだ、俺はそんな括りで殺されるなんて御免だね、それになぁ、だったらお前の身体に流れるその血はなんだ! お前こそがメリア王国の正当な王家の血を引く人間なんじゃねぇかっ!!」
私の中に流れる血、確かにそれは母から受け継ぎ私の中に脈々と流れている。
「おい、ユリウス! 今の話は本当か!?」
ツキノの言葉に反応したアギトが濡れた床をずかずかと踏みしめこちらへとやって来る。
おかしいな? この人には言ってあったと思うのだが? あぁ、そう言えばそんな話をしようとした時、セイに止められたのだったか……
「王家の血が流れていたとしても、私は王家とは無関係です。今までもそうでしたし、これからもずっと」
「だったら、俺だってお前と同じだ、俺は王家とは無関係で生きてきた。これからも王家の人間として生きる気はない。これは命乞いなんかじゃねぇぞ、あんたの頭の中は矛盾だらけなんだよ、それに気付かず力だけを振りかざす、あんたはただの我儘な子供なんだよっ!」
「知ったような事を……」
「お前は大事な者を守る為に世界を変えると言っていたが、だったら今、俺の腹にも新しい命が宿っている、俺にはこいつを守る使命があるんだよ、お前にこいつを殺させてたまるか!」
ゆるりとツキノが自身の腹を撫でた。ツキノの腹に子供? オメガのカイトにではなくアルファのツキノに? それでさっきからカイトはツキノを守るようにツキノの前に出ようとしているのか? オメガがアルファの嫁を守る、か……それはひどく滑稽だ。
「何を笑う!」
「支配すべきオメガに支配されるアルファがあまりにも滑稽で」
「ユリウス兄さんはそんな事を言うような人間じゃない、女性だろうとオメガだろうとあなたは今まで蔑むことなく対等に扱ってくれた! 今のあなたはまるであなたの言う差別主義者そのものだ、あなたのしようとしている事はこの世界の変革なんかじゃない、ただ自分の望むように弱者と強者を入れ替えようとしているだけだ!」
「本当に、お前たちはやかましい……昔から寄ると触ると喧嘩ばかりしているくせに、いつの間にかいつも仲直り、そして何故仲良く私の邪魔をするのか」
幼い頃からそうだった。いたずら坊主のツキノとカイト、私はいつでも喧嘩の仲裁役、そしてこちらがやきもきしているのを知ってか知らずかいつの間にか仲直りしては私に2人がかりでちょっかいをかけてくる。私はそんな2人が……
「兄さんが妻子の為に僕達を殺すと言うのなら、僕はツキノと子供の為にそれを阻止するし、意地でも家族で生き延びてやる!」
「果たしてお前にそんな力があるのでしょうかね? 言っては何ですがあなたは私達身内の中では誰よりも弱い。ツキノに守られている事に気付きもせずに図に乗るんじゃない、このオメガ風情が!」
「兄さんが居なくなってからの一年半、僕が何の成長もしていないと思うのなら、それは兄さんの思い上がりだよ」
あぁ、なんと煩わしい。ああ言えばこう言う、口の回るカイトには私は口で勝てた試しがない。ぎらりと2人を睨みつけた所で、その背後に見覚えのある赤色が映った。母さん、いや違う、アレは……
「生きて……いたのか」
目の前に飛び出してきた赤い髪。それは亡くしたと思っていたノエルの赤髪だ。胸に湧き上がる安堵の感情と、それを煩わしく邪魔だと思う感情が同時に湧いてくる。
「意外としぶとくて、ごめんね」
皮肉を込めて放たれたであろう彼の言葉になんと返していいか分からず「いや」と一言呟いて彼を凝視した。
「ねぇ、もう止めよう。ツキノの言う通りだろ? あなたの意見は何処までも矛盾だらけだ、俺達はきっとどこかで何かを履き違えてしまっているだけなんだ。だからさ、もっとちゃんと話し合いを……」
「ユリウス! そいつの言葉に耳を傾けるな!!」
まるで叱るように飛んできたセイの声がノエルの声に重なった。それと同時にノエルへと飛んだセイの飛び道具である短刀を私はとっさに払い落した。
「な、ユリウス!」
「一度ならず二度までも、何故あなたは彼を攻撃するのですか……」
胸の内にどろりとした感情が沸き起こる。我が子であり番相手でもある赤子に相まみえることで凪いでいたはずの、正しく言えば封じ込める事ができていたはずの怒りの感情が脳を埋め尽くす。
「そんなの、そいつが敵だからに決まっているだろう!」
ああ、確かにそうだ。確かに彼は敵として私達の前に立っている。けれど、今彼と対峙しているのは私であってお前ではない。まるで私から彼を横取りするかのように手を出してくるセイを私は許せない。
「確かにあなたの言う通りです、彼は敵、ですが私の獲物です、手を出さないで」
凄むように言った私の言葉にセイは一瞬言葉を詰まらせたのだが、すぐに開き直ったように「そいつは俺の敵でもあり、獲物でもある」とそう返して寄こした。
「是が非でも私から獲物を奪うと?」
「お前にそいつは殺せない、俺がやる! お前は俺の言う事だけ聞いていればいいんだ!」
確かにこれまでセイの言う通りにしていれば私は何も考えなくて良かった。激しい頭痛と倦怠感に苛まれ続けている私にとってそれはとても頼もしく頼れる存在であったセイだが、今回ばかりは譲れない。
「嫌です」
ノエルの前に立ち塞がるように立った私に、セイは驚いたように目を見開く。
「お前、俺達を裏切る気か!」
「そんな事はしません」
「だったら何故、お前はそいつを護ろうとする!」
「護っているんじゃない、獲物の横取りを防いでいるだけ。それよりも何故あなたはそれ程までに彼に固執するのです?」
「それはお前も同じだろう、ユリウス!」
同じ……だろうか? 確かに私は彼を気にかけている。思い出せない彼との記憶が胸に引っかかり続けているのは間違いない。けれどセイのように、是が非でも彼を殺そうとするのはどうかと思うのだ。何故なら彼は私達と敵対していたとしても、少なくとも殺すべき王族ではない。
邪魔をするのなら排除する、それは正しい行動だ。けれどそれにしてもセイはノエルに対してあからさまな敵愾心を見せるのが不思議で仕方がないのだ。
ノエルはこちらの話も聞かずに私達を一方的に排除しようとはしていないし、話し合いをしようとまで言っているのに、それをセイは「聞くな」と言い話も聞かずに「殺せ」と言う。
それでは彼の言う通り、私達は一方的に殺戮を繰り返すただの悪者ではないか。
今まで私は自分の行いに何の疑問も持たずに来た。むしろ自分の行いは善であると信じてきた。「お前は何も考えなくていい」と言われてきたし、アギトもセイも自分達の言う事をただ黙って聞いていろというスタンスだったからそれがすべて正しいのだと思っていた。私自身もそれがとても楽で、それでいいと思っていた、が、ほんの少しの我を通しただけで即座に裏切りだと決めつけられるのに私はとても納得がいかない。
「私は裏切ってなどいない、けれど彼は私の獲物です」
もう一度はっきりとそう告げると、セイの顔が歪む。
「お前はそいつを捨てて俺達を選んだんだろうが!」
何故だ、何故分かってくれない? 私は裏切ってなどいない、ただノエルを攻撃するのは止めてくれと言ってるだけ、それだけなのに……
「ユリ兄、危ないっっ!」
完全にセイに気がいっていて周りの警戒が疎かになっていた私の身体に衝撃が走る。思い切り体当たりされたようなその力によろめき、状況を理解しようと背後を見やると、そこには剣に腹を刺されたノエルと、それを無表情に見やるアギトの姿があって愕然とした。
「は……?」
瞬間何が起こったのか理解が出来なかった、ノエルの腹から抜かれていく剣先、その剣を携えたアギトがこちらを睨みつける。その剣に纏わりつく真っ赤な鮮血に目を見開いた。降りしきる雨水に赤い色が広がっていく。それは渓谷で見たあの時の光景とダブって心が千々に乱れる。
ノエルは私を庇ってアギトの剣に貫かれたのか? でも何故? 何故アギトが私を……?
「な、にを……」
「お前は裏切り者だ」
「!?」
「お前は俺を裏切った。その力、返してもらうぞ。お前はその力にふさわしくない」
まるで意味が分からない。いつ私が彼等を裏切った? ノエルを庇った事がそれ程までに重大な裏切り行為になるとでも言うのか? いや、私はそもそもノエルを庇った訳ではない、ただ「獲物を横取りするな」とそう言っただけだ!
「お前は俺に隠していた」
「何を……」
「お前が王族の血を引いているという事を、だ。その力は神から我らに与えられたモノで王族の人間に与えられるべきものではない、返してもらうぞ、ユリウス」
血に濡れた剣先を向けられ混乱は増すばかりだ。
一体何を言っているのだこの人は……それにこれは私が神から預かった力で、私が死んだ所でアギトに返る物でもない。これは私が直接神に与えられた力であって、アギトからもらい受けたモノですらない。
目の前に倒れ伏すノエルの腕が弱々しくこちらへと伸ばされて私の名を呼んだ。
何なのだ、どうなっている?! 一体誰が私の敵で、誰が私の味方なのかが分からない。
ただでさえ激しい豪雨に変わっていた雨が、私の感情に呼応するように荒れ狂う。
「お前、ずいぶんこの小僧に執着があるようだったな」
こちらへ向いていた剣先が、またしてもノエルへと向けられて血の気が引いた。アギトは倒れ蹲るノエルの髪を掴み引き上げて、その剣先をノエルの喉元へと持っていく。
「目の前で大切な者を失くす気持ちを、お前は知っているか?」
「その子は私の獲物だと……!」
「獲物ならば俺に譲れ、お前の主人は誰だ? 俺だろう? 下僕は主人の言う事に従うものだ」
髪を掴まれたノエルの顔色は血の気が引いて蒼白だ。刺された腹からは血が滲み苦悶で顔を歪めたノエルの表情を見た瞬間、身体中の毛が総毛だった。
「やめろ! 止めてくれ!!」
私の叫びにアギトは瞳を細め、楽しそうに「嫌だね」と返して寄こす。
「お前はさっさとお前のすべきことをすれば良い、まずはそこにいる生意気な口をきく王族のガキどもを殺せ」
目の端でツキノとカイトがじっとこちらを凝視しているのが分かる。
「ユリ……兄、ダメだ、よ」
荒い息を吐きながらもノエルは私の名を呼び、真っ白な顔で涙を零す。一体どうすればいい、訳も分からず叫び出しそうな気持ちを叱咤して、アギトの瞳をじっと見返すと「やはり言う事がきけないのか?」と、アギトが更にノエルを上へと持ち上げた。くぐもったような呻き声と共にノエルの口は血を吐き出し、それを見た私の鼓動は跳ね上がる。
「やめろ、死んでしまう……」
「別にガキの一人や二人死んだ所で大義の前では些事でしかない」
本当にそうなのか? 彼を殺す事の一体何処に大義があるのかが分からない。私が彼の命と引き換えに王族の子供達を殺す事が大義なのか? だが、その大義の為に何故彼がこのような扱いを受けなければならない?
今までアギトの言葉は何事も全て受け入れてきた、けれどそれはミーアの望みで、けれどそんな彼女も今はもうこの世にはいない。
何処で狂った? 何がいけなかった? 全ての思考を他人に委ね、楽をしてきたツケが今になって回ってきたのか?
「ぐぅぅ……アギト、お前、いい加減にしろっ!」
雷に撃たれ倒れたファルスの国王が、満身創痍で倒れ込みながらも叫んだ。
「殺すなら、俺を殺せ。お前の目的は俺達王族だろう! その子はファルスの一国民で護るべき民だ、お前達にとっても敵ではないはずだ!」
「死にぞこないが、やかましいな」
所々焼け焦げた衣装をはぎ取るようにして、国王は何度も起き上がろうとするのだが、身体が痺れて思うように動かないのだろう何度もがくりと濡れた床へと身を沈める。それでも何度もそんな事繰り返しつつも国王は「護るべきものを持たないお前など、所詮何者にもなれやしないっ!!」と吠える。
するとアギトはノエルを放り出し、つかつかとブラック国王陛下の元へ歩み寄り、その頭を思い切り蹴り上げた。
「その俺の護るべき者を殺したのは誰だ?」
「ぐっ!」
「俺の故郷を、家族を、友人を、恋人を奪ったのは誰だ!? ああ!」
何の躊躇いも見せず国王へと暴行を繰り返すアギト、だが私はそんな事よりも放り出されたノエルの方へと駆け寄り、その身体を抱き上げた。
「ああ、ユリ兄……だ」
こんな殺伐とした空気の中で、彼は嬉しそうに笑って私の頬へと腕を伸ばす。
「こんなに、雨が降ってるのに……ユリ兄は、やっぱり濡れないんだね、不思議だ、ねぇ……これも、神様の……力、なの?」
「喋らないで! 傷に障る!!」
「……いいよ」
ふわりと笑った彼の笑みに雷のような衝撃が走る。私は知っている、覚えている。どうして忘れていられたのかが分からない、何故私はこれほどまでに彼を傷付けた!
走馬灯のように思い出される彼との愛しい記憶が、浮かんでは消え、浮かんでは消え、そのひとつひとつを反芻する間もなく彼の瞳の色が消えていく。
頬に添えられた彼の腕が落ちる。
何故だ、どうして……
「駄目だ! お願いだから目を開けてっ!!」
息ができない、身体が震える。腕の中のノエルの身体はどんどん熱を失って、その冷たさに心が凍えた。
雨に濡れているから余計に冷えるのだと、彼の身体を乾かしても、彼の瞳は開かないし、温もりが戻ってこないことに絶望する。
「なんで……嘘だ……こんな……」
私は一体今まで何をしていた? 大事な人を傷付けて、こんな場所で殺す事を自分は望んでいたとでも? 嘘だ、違う、私はそんな事、望んでなどいなかった!!
雨は私だけを避けて降り注ぐ。
「許さない」
低く響いた呻きにも似た声にアギトがようやくこちらを向いた。私は静かに片手を上げる。
「あ? なんだよ、俺に文句でもあんのかよ?」
「……先に手を出したのはそちらですからね、悔やむのなら己の短慮を恨むがいい」
私が腕を降り降ろしたと同時に、どん! と、アギトの身体に直撃する雷。辺りに肉の焼け焦げる匂いが充満した。先程の雷は水を伝った感電だったが、今度のこれは直撃だ、恐らく彼はもう生きてはいまい。
「お前、なんて事を……」
落雷の余波を受け、動けなくなっているであろうセイが呆然とこちらを見やる。ボスを失くした我々は目的を失った烏合の衆か? だが、今となってはその何もかもがどうでもいい。
「化け物だ!」という叫び声が聞こえる。あぁ、きっとそうなのだろう、私は既に化け物だ。この力は神に与えられたモノだとアギトは言ったが、本当にこれは神に与えられたモノなのか? こんな誰も救えない力が? この力は奪うばかりで何も救えない。だが、もしこの力が本当に神に与えられたモノであるのならば……
身体の周りに風の渦が巻く。私はその腕に弛緩したノエルの身体を抱きかかえふわりと浮き上がった。
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そんな折、伊央に声をかけて来たのがクラスメイトの森島海星だった。海星も突然変異でバース性が変わったのだという。
アルファになった海星から「契約番にならないか」と話を持ちかけられ、叶翔とこれからも友達として側にいられるようにと、伊央は海星と番になることを決めた。
しかし避けられていると気付いた叶翔が伊央を図書室へ呼び出した。そこで伊央はヒートを起こしてしまい叶翔に襲われる。
駆けつけた海星に助けられ、その場は収まったが、獣化した叶翔は後遺症と闘う羽目になってしまった。
叶翔と会えない日々を過ごしているうちに、伊央に発情期が訪れる。約束通り、海星と番になった伊央のオメガの香りは叶翔には届かなくなった……はずだったのに……。
あるひ突然、叶翔が「伊央からオメガの匂いがする」を言い出して事態は急変する。
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