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香夜葉ーかやはー
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僕は研究所に向かっている。
近衛を連れて森林を抜ける道を選んだ。
もう足元に雪はない、かわりに道端に芽を出す緑の草花達がかわいらしい。
パサっと小さな音がして時折草が揺れるのは、小動物が通るかららしい。
冬から始めた散歩は体力作りだけでなく、紗国の季節の移り変わりも目に見えて、とても有意義なものになっている。
さきほど学び舎に翠を送っていったところだ、時間がどうしても合わない時以外は連れて行くようにしているから、学び舎の先生や生徒達も僕に慣れてきて驚かれることも逃げられることもなくなった。
新緑の美しい黄緑の葉が揺れて心地よい風が吹いた。
髪が少し揺れておでこにも風が当たる。
乱れた耳横の髪を撫で付けて空を仰いだ。
今日の空も、きれい。
やがて、キラキラと日差しを反射して光る水面が見えてきて、研究所の瀟洒な西洋風建物が見えてきた。
門の前に立つ見慣れた衛兵が、嬉しそうに礼をしてくれた。
僕も一言労いの言葉をかけて玄関に入る、そしていつもどおり研究室のドアを開こうとした時、小さな泣き声を聞いた。
ドアノブを握ろうとしていた僕の手は止まり、泣き声がする方に顔を向けた。
荷物を持ってくれている侍女をその場に待たせ、僕はそちらの方へ歩いていく。
食堂の方へ抜ける回廊の先に、その子はいた。
……ああ、この子は……涼鱗さんが連れて帰ってきたという……
僕はそのことに思い至ったけれど、声をかけていいのか迷った。
翠のように畑で働いていたというその子。
港町の賭場の主が隠し持っていた畑は、森の奥深く、誰の目にも触れがたい場所にあって日のあたりも良く、クスリの原料を栽培するのに適した場所だったという。
そこで働いていたのは港町であぶれた不法入国の外国人乗組員や、賭場で全財産を失った者、そして外国から売られてきた犯罪人や、賭場の隅で売春を許されていた女達の子。
人間扱いされないその者たちの劣悪な環境は、肉体労働なのに食事は1食か2食、それなのに給与から食事代の名目で引かれているので雀の涙ほどの給金しかもらえない。
それでもそこでしか職に付けない者、そして売られてきたものはやるしかないのだ。
その中にいて過酷な労働に耐えてきた子どもが8人もいたという。
宰相としてその摘発に立ち会った涼鱗さんは、その現場で息も絶え絶えに倒れていた一人の男の子を見つけた。
体中傷だらけで、特にムチで叩かれているらしく、背と手、腕の傷が酷かったみたいだ。
涼鱗さんに帯同していた城の医師らがすぐに手当をしたが意識を戻さず、名簿や聞き込みから名を探り当て、娼婦の母を尋ねるも、その母はなんとすでに息を引き取っていたというから……なんとも悲しいことだ。
その子は母が亡くなったことを知らないまま昏々と眠り続け、涼鱗さんはほっとけなかったらしく、連れ帰ったのだと、蘭紗様から聞いた。
その子は孤児ではなく、母と暮らしていて親からの愛情は受けていた。
そのことだけでもこの子の人生において、きっと日の当たる場所だったんじゃないかと思った。
ただ……それだけにそれを亡くした今、その悲しみの強さは計り知れない。
「香夜葉……だよね?」
涼鱗さんが『かやは』という彼の名に、『夜に香る葉』という美しい字を付けたらしい。
親が初めて子に送るもの、それが名だ……
「……」
目に涙を浮かべたまま僕を振り返った少年は身体が小さくて、とても頼りなかった。
現在8才というが……とても留紗より年上だとは思えない。
「ごめんね突然話しかけて、僕は紗国の王妃、薫といいます。君のことは聞いているよ」
なるべくゆっくりと、静かに話しかけた。
目線を合わせるために香夜葉の横に一緒に腰掛けた。
中庭に面する位置に、不自然に置かれたふんわりしたソファー……
前からここに置いてあったのではないから、きっと涼鱗さんがここに置かせたのだろうね。
「ごめんなさい……泣いてごめんなさい」
舌足らずな喋り方で必死に謝る子の頭に手を置いた。
柔らかな薄茶色の小さな頭は震えていて、三角の耳は垂れていた。
「どうして謝るの?」
「泣いたら……怒られる」
「もう、誰も怒らないよ、ここにはそんな怖い人はいないんだ」
僕はその子の頬に手をやり、顔を上に向かせた。
きれいな澄んだ赤茶色の目にたくさんの涙が浮かんでいる。
その涙がひとしずく、僕の手を濡らした。
「泣きたいなら、泣いたっていいんだよ」
「……ん……」
閉じた唇が震えて嗚咽が漏れる。
僕が抱きしめてあげると、小さな体が震えながら僕に抱きついてきて大きな声で泣き始めた。
こんなかわいい子を残していったお母さんは、どれほど無念だっただろうね。
僕は背中をさすり、とんとんしながら何も言わずにしばらくそうしていた。
「薫、香夜葉が……世話になったようだね」
涼鱗さんが侍女を連れてやってきた。
この子の横にいた侍女が、僕のことを伝えにいったのだろう。
「うん、大丈夫だよ。悲しい時は泣かなくちゃね」
「ああ……そうだね」
涼鱗さんの声に反応して、真っ赤になった顔でぐずぐずになった香夜葉は顔を上げた、そしてじっと涼鱗さんを見つめた。
「香夜葉、この人はね、この国の王妃様だよ」
「おうひさま……」
「そして、私の友なんだよ」
「あは……はじめて言われた!」
「だけど、薫は友人じゃないか」
「そうだけど……面と向かってそう言われるとうれしいな」
僕と涼鱗さんが笑っているのを見て、キョトンとなった香夜葉もクスッと笑った。
「あ、笑った!」
「うん、笑ったねぇ」
「笑うとかわいい」
「本当に世界一かわいいねえ?」
「あら、もう自慢なんですか?」
「いけないかい?」
真顔の涼鱗さんに僕が吹き出すと、香夜葉も笑って涼鱗さんの差し出す腕に抱きかかえられた。
「さあ、香夜葉、ゆっくりでいいからちゃんと朝食を食べなさいよ。君は食が細すぎるんだからねえ……薫すまないね、この子の食事を世話をしてくるから、先に仕事をはじめていてくれないかい?」
「うん、そうするね」
僕は、涼鱗さんに抱っこされた時に香夜葉がホッとしたような、幸せがこぼれたような笑顔したことを見逃さなかった。
この子はきっと、涼鱗さんとカジャルさんに愛されて、幸せになれるとそう確信できる。
ちゃんと愛情を受け取ることのできる子だから。
ちゃんと、お母さんに愛されていた子だったから。
よかったね、香夜葉。
春風が気持ちよく吹いて新緑の匂いがした。
近衛を連れて森林を抜ける道を選んだ。
もう足元に雪はない、かわりに道端に芽を出す緑の草花達がかわいらしい。
パサっと小さな音がして時折草が揺れるのは、小動物が通るかららしい。
冬から始めた散歩は体力作りだけでなく、紗国の季節の移り変わりも目に見えて、とても有意義なものになっている。
さきほど学び舎に翠を送っていったところだ、時間がどうしても合わない時以外は連れて行くようにしているから、学び舎の先生や生徒達も僕に慣れてきて驚かれることも逃げられることもなくなった。
新緑の美しい黄緑の葉が揺れて心地よい風が吹いた。
髪が少し揺れておでこにも風が当たる。
乱れた耳横の髪を撫で付けて空を仰いだ。
今日の空も、きれい。
やがて、キラキラと日差しを反射して光る水面が見えてきて、研究所の瀟洒な西洋風建物が見えてきた。
門の前に立つ見慣れた衛兵が、嬉しそうに礼をしてくれた。
僕も一言労いの言葉をかけて玄関に入る、そしていつもどおり研究室のドアを開こうとした時、小さな泣き声を聞いた。
ドアノブを握ろうとしていた僕の手は止まり、泣き声がする方に顔を向けた。
荷物を持ってくれている侍女をその場に待たせ、僕はそちらの方へ歩いていく。
食堂の方へ抜ける回廊の先に、その子はいた。
……ああ、この子は……涼鱗さんが連れて帰ってきたという……
僕はそのことに思い至ったけれど、声をかけていいのか迷った。
翠のように畑で働いていたというその子。
港町の賭場の主が隠し持っていた畑は、森の奥深く、誰の目にも触れがたい場所にあって日のあたりも良く、クスリの原料を栽培するのに適した場所だったという。
そこで働いていたのは港町であぶれた不法入国の外国人乗組員や、賭場で全財産を失った者、そして外国から売られてきた犯罪人や、賭場の隅で売春を許されていた女達の子。
人間扱いされないその者たちの劣悪な環境は、肉体労働なのに食事は1食か2食、それなのに給与から食事代の名目で引かれているので雀の涙ほどの給金しかもらえない。
それでもそこでしか職に付けない者、そして売られてきたものはやるしかないのだ。
その中にいて過酷な労働に耐えてきた子どもが8人もいたという。
宰相としてその摘発に立ち会った涼鱗さんは、その現場で息も絶え絶えに倒れていた一人の男の子を見つけた。
体中傷だらけで、特にムチで叩かれているらしく、背と手、腕の傷が酷かったみたいだ。
涼鱗さんに帯同していた城の医師らがすぐに手当をしたが意識を戻さず、名簿や聞き込みから名を探り当て、娼婦の母を尋ねるも、その母はなんとすでに息を引き取っていたというから……なんとも悲しいことだ。
その子は母が亡くなったことを知らないまま昏々と眠り続け、涼鱗さんはほっとけなかったらしく、連れ帰ったのだと、蘭紗様から聞いた。
その子は孤児ではなく、母と暮らしていて親からの愛情は受けていた。
そのことだけでもこの子の人生において、きっと日の当たる場所だったんじゃないかと思った。
ただ……それだけにそれを亡くした今、その悲しみの強さは計り知れない。
「香夜葉……だよね?」
涼鱗さんが『かやは』という彼の名に、『夜に香る葉』という美しい字を付けたらしい。
親が初めて子に送るもの、それが名だ……
「……」
目に涙を浮かべたまま僕を振り返った少年は身体が小さくて、とても頼りなかった。
現在8才というが……とても留紗より年上だとは思えない。
「ごめんね突然話しかけて、僕は紗国の王妃、薫といいます。君のことは聞いているよ」
なるべくゆっくりと、静かに話しかけた。
目線を合わせるために香夜葉の横に一緒に腰掛けた。
中庭に面する位置に、不自然に置かれたふんわりしたソファー……
前からここに置いてあったのではないから、きっと涼鱗さんがここに置かせたのだろうね。
「ごめんなさい……泣いてごめんなさい」
舌足らずな喋り方で必死に謝る子の頭に手を置いた。
柔らかな薄茶色の小さな頭は震えていて、三角の耳は垂れていた。
「どうして謝るの?」
「泣いたら……怒られる」
「もう、誰も怒らないよ、ここにはそんな怖い人はいないんだ」
僕はその子の頬に手をやり、顔を上に向かせた。
きれいな澄んだ赤茶色の目にたくさんの涙が浮かんでいる。
その涙がひとしずく、僕の手を濡らした。
「泣きたいなら、泣いたっていいんだよ」
「……ん……」
閉じた唇が震えて嗚咽が漏れる。
僕が抱きしめてあげると、小さな体が震えながら僕に抱きついてきて大きな声で泣き始めた。
こんなかわいい子を残していったお母さんは、どれほど無念だっただろうね。
僕は背中をさすり、とんとんしながら何も言わずにしばらくそうしていた。
「薫、香夜葉が……世話になったようだね」
涼鱗さんが侍女を連れてやってきた。
この子の横にいた侍女が、僕のことを伝えにいったのだろう。
「うん、大丈夫だよ。悲しい時は泣かなくちゃね」
「ああ……そうだね」
涼鱗さんの声に反応して、真っ赤になった顔でぐずぐずになった香夜葉は顔を上げた、そしてじっと涼鱗さんを見つめた。
「香夜葉、この人はね、この国の王妃様だよ」
「おうひさま……」
「そして、私の友なんだよ」
「あは……はじめて言われた!」
「だけど、薫は友人じゃないか」
「そうだけど……面と向かってそう言われるとうれしいな」
僕と涼鱗さんが笑っているのを見て、キョトンとなった香夜葉もクスッと笑った。
「あ、笑った!」
「うん、笑ったねぇ」
「笑うとかわいい」
「本当に世界一かわいいねえ?」
「あら、もう自慢なんですか?」
「いけないかい?」
真顔の涼鱗さんに僕が吹き出すと、香夜葉も笑って涼鱗さんの差し出す腕に抱きかかえられた。
「さあ、香夜葉、ゆっくりでいいからちゃんと朝食を食べなさいよ。君は食が細すぎるんだからねえ……薫すまないね、この子の食事を世話をしてくるから、先に仕事をはじめていてくれないかい?」
「うん、そうするね」
僕は、涼鱗さんに抱っこされた時に香夜葉がホッとしたような、幸せがこぼれたような笑顔したことを見逃さなかった。
この子はきっと、涼鱗さんとカジャルさんに愛されて、幸せになれるとそう確信できる。
ちゃんと愛情を受け取ることのできる子だから。
ちゃんと、お母さんに愛されていた子だったから。
よかったね、香夜葉。
春風が気持ちよく吹いて新緑の匂いがした。
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