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2. 必要なもの
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6時25分。
走り出した電車に揺られる、青白い刀川の服装は、安価な膝までの黒いズボンに、黒い半袖のTシャツ。
元々身体がやや細いこともあり、Tシャツはだぼだぼだった。
一度もオシャレと言われたことはないが、一目で分かるような長所は、美点ではないと信じている。
いや、自分に信じ込ませている。
――そうである、あの時には、今のような服装が最適だ。黒い服なら目立たないだろう、闇に溶けるのだ。
その時。
「た、た、刀川くんじゃ、じゃないですか……へ、へ、見つけたからき、き、きちゃいましたよ、へ、へ!」
不意に刀川の視界の外から、にたにたした気色の悪い笑い声が聞こえた。
彼は黙考―といってもぶつぶつと独語していたが―から呼び覚まされた。
「瀬踏か」
席に座る刀川の右斜め前に立っていたのは、挙動不審な小太りの男。
白い丸えりのTシャツをジーパンにイン。
とあるアニメのキャラクターが描かれたバンダナとリュックサック。そして丸メガネ。
これらがもし男らしさの象徴であれば、彼は大学の人気者に違いない。
この男は、刀川と同じ読書同好会に所属する瀬踏だ。
一人暮らしで不摂生をしているせいか、不健康な体型をしている。
「た、刀川くんもこっち、ほう、方面の電車でしたね、へ、へ!」
丸メガネのフレームを両手で触りながら刀川に言う。
「そうである。…ところで、ところで瀬踏。あ、甘井さんを見かけなかったかい?」
自分と同じ大学1年生のあの子も、同じ方面行きの電車に乗るはずだ、もしかしたら見かけられるかもしれない、と刀川は期待していた。
乗車前にパンとコーヒーを買いにコンビニへ立ち寄ったため、彼女を見逃していたのだ。
仮に彼女を見つけたとしても、話しかける勇気は一切ないのだが。
「へ、へ、あ、あま、甘井さんは、見かけませんでしたね」
立ったままの瀬踏が返す。
「そうか、ありがとう」
「で、や、やっぱり刀川くんも甘井さんを、へ、へ! す、好いているんですね!」
と、目を見開いて瀬踏。
冷房の効いた車内にもかかわらず、汗を大量にかいている。
脇のパッドは意味がないようだ。
「とんでもない。私は落ち着いた清廉な黒髪一筋であり、うむ、私は、この点に関しては、瀬踏、私は堪忍不抜の態度を取り続けてきた。あの、あのようなボブカットの柔らかな茶髪、見た目からして浮ついている女性には興味もない。仮に、仮にあの子に告白したって振られるのが目に見えているからね。あの子は未踏の峻嶮、先日も男を振ったそうだから、これであの子は7人連続で男を振っていることになる」
静かに否定する。ただし、口数は多く、早口となった。
「な、7人って、また1人増えたんですか、へ、へ!」
瀬踏は、1つのつり革に両手で掴まりつつ声を荒げる。顔はにやついたままだ。
「振矢先輩が告白したようだからね」
「あ、あの、ま、真面目そうな先輩ま、までですか……で、では彼も読書同好会の活動に、も、もう来ないでしょうね、へ、へ」
「そうかもしれないな…。おかげで私たちの同好会の会員も減った……。あの子に告白して、振られて、同好会を辞める。この流れで20人近くいた会員も……振矢先輩も来ないとなると……少なくなった」
彼らの所属する読書同好会には、女性が一人だけ所属している。
「甘井さん」という小柄でボブカットのふんわりした茶髪の女性だ。
チャームポイントは、不思議な甘い雰囲気と、独特なワードセンス。
読書同好会での彼女の人気ぶりはすさまじい。
例えば、彼女が冷房を苦手としているということが分かってから、同好会の活動中は冷房をつけずに、窓を開けることになったほどだ。
例え今日のように、降り注ぐ太陽の光が同好会の教室を照らしていたとしても。
読書同好会の会員減少の原因が発覚したのはつい先日。
同好会の皆で、喫茶店に行った時のことだった。
「なぜか6月から、同好会の会員が減り続けている」という話になった際、ちょうど6月から入会した彼女が口を開いた。
「もしかしたら……?」と、辞めた男性会員の全員が彼女に告白していたことを明らかにしたのだ。
決して彼女が悪いわけではない。
だが、どこか申し訳なさそうな表情で、彼女は想いを告げられたことを語った。
つまり、彼らは彼女に告白し、断られ、気まずくなり同好会を辞めていったのだ。
「そ、それにしても、へ、へ、甘井さんはどんな男性がタイプなんでしょうね?」
顎を二重にしながら瀬踏が問いかける。
「さあ、どうだろうね」
と、興味のない素振りを見せようとする刀川。
――あの子のタイプの男、か。私はすでにその情報を仕入れている。
――この前の飲み会で、哀れな、名前の通り振られた振矢先輩が、あの子に好きなタイプを訪ねていたのをこの目で聞いていたからね。
――好きなタイプは気の利く人と言っていた。
――だからこそ、あれを実行すれば、私に軍配があがるだろう。
――少なくとも、告白した際に軍配の上がる確率が上がるはずだ。
――うむ、道理に照らして合点のゆかない話ではあるまい。こいつは算術だ。
――しかし、しかしあれを実行するには……必要なものが1つ…。
「…うむ、瀬踏、そ、そういえば、経済確率論の講義のノートを貸してくれないか? 期末試験の勉強をしたいのだが、あの講義を数回欠席してしまってね」
「そ、そろそろ、し、試験の時期ですしね」
――性急だったか?
「瀬踏は毎回出席していただろう?」
「へ、へ、そ、そうですが……そ、そのノート、本当に勉強に使うんですかね、へ、へ!」
「…どういう意味だい?」
と、眉を吊り上げて刀川。
「ぼ、ぼ、ぼくのノートを写してから、あま、あ、甘井さんに、ノ、ノートを貸す気ではないですか、へ、へ」
と、にやにやしつつ、レンズの奥から目をぎょろっとさせて瀬踏。
目というより、顔に大きな丸い皿が2つくっついているようだ。
「………とんでもない」
刀川は驚きのあまり何も考えられなかった―恐らく13秒ほどだろうか―が、とりあえず否定した。
「あ、甘井さんは、へ、へ、講義を数回お休みになられていましたからね。そ、それに、そ、そもそも、刀川くんは、へ、へ、ぼ、僕や甘井さんと違って、文学部じゃないですか、経済確率論の講義なんて…」
「私は、私は、あの経済確率論の講義をとっていたからね。他学部履修、という制度を使って」
「へ、へ、初耳ですね! 一度も講義中に刀川くんを見かけたことはありませんけどね、へ、へ!」
「………あれは、うむ、教養として経済確率論に興味があったから受講の申し込みをしたんだが、諸々忙しくて講義に行けていないんだ」
「あ、あま、そ、へ、へ、それで、結論としては、甘井さんに貸すためのノートを、作成する必要が、あ、あるんですね」
また両目を皿のようにして瀬踏が言う。
「…あの子、あの子は関係無い、欠席してノートをとりそこねた回があるから、確認したいだけだ」
そう否定するが、瀬踏は既に懐疑派だった。
「へ、へ、甘井さんは数回欠席していたから、ノ、ノートが欲しいでしょうね」
「確かにそうかもしれない、無論、あの子のことは関係ないけれども。うむ。まあ、仮にあの子が困っているなら、ノートを貸してしまうかもしれない。なぜなら――」
私は紳士だからね、と付け加えようとした。ところが。
「あ、ぼ、ぼ、僕はここで下車なので、失礼します、へ、へ!」
瀬踏は言下に言い、丁度到着した駅に降り、夕焼けの中に消えていった。
走り出した電車に揺られる、青白い刀川の服装は、安価な膝までの黒いズボンに、黒い半袖のTシャツ。
元々身体がやや細いこともあり、Tシャツはだぼだぼだった。
一度もオシャレと言われたことはないが、一目で分かるような長所は、美点ではないと信じている。
いや、自分に信じ込ませている。
――そうである、あの時には、今のような服装が最適だ。黒い服なら目立たないだろう、闇に溶けるのだ。
その時。
「た、た、刀川くんじゃ、じゃないですか……へ、へ、見つけたからき、き、きちゃいましたよ、へ、へ!」
不意に刀川の視界の外から、にたにたした気色の悪い笑い声が聞こえた。
彼は黙考―といってもぶつぶつと独語していたが―から呼び覚まされた。
「瀬踏か」
席に座る刀川の右斜め前に立っていたのは、挙動不審な小太りの男。
白い丸えりのTシャツをジーパンにイン。
とあるアニメのキャラクターが描かれたバンダナとリュックサック。そして丸メガネ。
これらがもし男らしさの象徴であれば、彼は大学の人気者に違いない。
この男は、刀川と同じ読書同好会に所属する瀬踏だ。
一人暮らしで不摂生をしているせいか、不健康な体型をしている。
「た、刀川くんもこっち、ほう、方面の電車でしたね、へ、へ!」
丸メガネのフレームを両手で触りながら刀川に言う。
「そうである。…ところで、ところで瀬踏。あ、甘井さんを見かけなかったかい?」
自分と同じ大学1年生のあの子も、同じ方面行きの電車に乗るはずだ、もしかしたら見かけられるかもしれない、と刀川は期待していた。
乗車前にパンとコーヒーを買いにコンビニへ立ち寄ったため、彼女を見逃していたのだ。
仮に彼女を見つけたとしても、話しかける勇気は一切ないのだが。
「へ、へ、あ、あま、甘井さんは、見かけませんでしたね」
立ったままの瀬踏が返す。
「そうか、ありがとう」
「で、や、やっぱり刀川くんも甘井さんを、へ、へ! す、好いているんですね!」
と、目を見開いて瀬踏。
冷房の効いた車内にもかかわらず、汗を大量にかいている。
脇のパッドは意味がないようだ。
「とんでもない。私は落ち着いた清廉な黒髪一筋であり、うむ、私は、この点に関しては、瀬踏、私は堪忍不抜の態度を取り続けてきた。あの、あのようなボブカットの柔らかな茶髪、見た目からして浮ついている女性には興味もない。仮に、仮にあの子に告白したって振られるのが目に見えているからね。あの子は未踏の峻嶮、先日も男を振ったそうだから、これであの子は7人連続で男を振っていることになる」
静かに否定する。ただし、口数は多く、早口となった。
「な、7人って、また1人増えたんですか、へ、へ!」
瀬踏は、1つのつり革に両手で掴まりつつ声を荒げる。顔はにやついたままだ。
「振矢先輩が告白したようだからね」
「あ、あの、ま、真面目そうな先輩ま、までですか……で、では彼も読書同好会の活動に、も、もう来ないでしょうね、へ、へ」
「そうかもしれないな…。おかげで私たちの同好会の会員も減った……。あの子に告白して、振られて、同好会を辞める。この流れで20人近くいた会員も……振矢先輩も来ないとなると……少なくなった」
彼らの所属する読書同好会には、女性が一人だけ所属している。
「甘井さん」という小柄でボブカットのふんわりした茶髪の女性だ。
チャームポイントは、不思議な甘い雰囲気と、独特なワードセンス。
読書同好会での彼女の人気ぶりはすさまじい。
例えば、彼女が冷房を苦手としているということが分かってから、同好会の活動中は冷房をつけずに、窓を開けることになったほどだ。
例え今日のように、降り注ぐ太陽の光が同好会の教室を照らしていたとしても。
読書同好会の会員減少の原因が発覚したのはつい先日。
同好会の皆で、喫茶店に行った時のことだった。
「なぜか6月から、同好会の会員が減り続けている」という話になった際、ちょうど6月から入会した彼女が口を開いた。
「もしかしたら……?」と、辞めた男性会員の全員が彼女に告白していたことを明らかにしたのだ。
決して彼女が悪いわけではない。
だが、どこか申し訳なさそうな表情で、彼女は想いを告げられたことを語った。
つまり、彼らは彼女に告白し、断られ、気まずくなり同好会を辞めていったのだ。
「そ、それにしても、へ、へ、甘井さんはどんな男性がタイプなんでしょうね?」
顎を二重にしながら瀬踏が問いかける。
「さあ、どうだろうね」
と、興味のない素振りを見せようとする刀川。
――あの子のタイプの男、か。私はすでにその情報を仕入れている。
――この前の飲み会で、哀れな、名前の通り振られた振矢先輩が、あの子に好きなタイプを訪ねていたのをこの目で聞いていたからね。
――好きなタイプは気の利く人と言っていた。
――だからこそ、あれを実行すれば、私に軍配があがるだろう。
――少なくとも、告白した際に軍配の上がる確率が上がるはずだ。
――うむ、道理に照らして合点のゆかない話ではあるまい。こいつは算術だ。
――しかし、しかしあれを実行するには……必要なものが1つ…。
「…うむ、瀬踏、そ、そういえば、経済確率論の講義のノートを貸してくれないか? 期末試験の勉強をしたいのだが、あの講義を数回欠席してしまってね」
「そ、そろそろ、し、試験の時期ですしね」
――性急だったか?
「瀬踏は毎回出席していただろう?」
「へ、へ、そ、そうですが……そ、そのノート、本当に勉強に使うんですかね、へ、へ!」
「…どういう意味だい?」
と、眉を吊り上げて刀川。
「ぼ、ぼ、ぼくのノートを写してから、あま、あ、甘井さんに、ノ、ノートを貸す気ではないですか、へ、へ」
と、にやにやしつつ、レンズの奥から目をぎょろっとさせて瀬踏。
目というより、顔に大きな丸い皿が2つくっついているようだ。
「………とんでもない」
刀川は驚きのあまり何も考えられなかった―恐らく13秒ほどだろうか―が、とりあえず否定した。
「あ、甘井さんは、へ、へ、講義を数回お休みになられていましたからね。そ、それに、そ、そもそも、刀川くんは、へ、へ、ぼ、僕や甘井さんと違って、文学部じゃないですか、経済確率論の講義なんて…」
「私は、私は、あの経済確率論の講義をとっていたからね。他学部履修、という制度を使って」
「へ、へ、初耳ですね! 一度も講義中に刀川くんを見かけたことはありませんけどね、へ、へ!」
「………あれは、うむ、教養として経済確率論に興味があったから受講の申し込みをしたんだが、諸々忙しくて講義に行けていないんだ」
「あ、あま、そ、へ、へ、それで、結論としては、甘井さんに貸すためのノートを、作成する必要が、あ、あるんですね」
また両目を皿のようにして瀬踏が言う。
「…あの子、あの子は関係無い、欠席してノートをとりそこねた回があるから、確認したいだけだ」
そう否定するが、瀬踏は既に懐疑派だった。
「へ、へ、甘井さんは数回欠席していたから、ノ、ノートが欲しいでしょうね」
「確かにそうかもしれない、無論、あの子のことは関係ないけれども。うむ。まあ、仮にあの子が困っているなら、ノートを貸してしまうかもしれない。なぜなら――」
私は紳士だからね、と付け加えようとした。ところが。
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