僕は君だけの神様

神原オホカミ

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第一章

第3話

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 美空がやっと落ち着いてきたところで、夕はよしよしと美空の背中を撫でながら、ふうと息を吐く。一仕事終えたかのような、心底ほっとしているような深い呼吸だった。

「――君が死ぬのはまだ早いと思うんだよね」

 ありきたりな、しかし心地良い言葉を囁かれて、落ち着いてきた美空は天使のような人物にすがりついたまま、その顔を見上げた。覗き込んでくる瞳はキラキラと美しい生命力で満ち溢れている。

 虹彩まで瞳孔と同じように真っ黒な珍しい瞳。その底無しの黒曜石のような瞳が、美空を何とも言えない表情で見つめていた。

「実はね、君の寿命は、あと三ヶ月あるんだ。今死んでもいいけれど、三か月後でもいいんじゃないかな」

 涼やかな声音は、いつもは体育館でマイク越しに聞いているからか、今日はいつもよりも人間っぽく聞こえた。言葉尻に、ほんの少し掠れが混じる。耳だけではなくくっついた身体からも夕の声が聞こえてきていた。

「私の寿命? なんで、そんなことが分かるんです?」

「さっきも言ったでしょう。僕は神様だって」

「そんなこと……」

「あるわけないと思えば、あるわけない。そうだと思えば、そう」

 涼やかな声は耳に心地がよくて、日陰に移って背中を壁に預けながら、夕は眩しそうに青い空を見上げて目を閉じた。風が前髪を揺らしていく。美空も落ち着きを取り戻して、そして、彼の胸から涙を拭きながら離れた。

 恥ずかしいところを見られてしまったから、これ以上恥ずかしがることはないように思えた。なぜか、この目の前の人は、美空のことを受け入れてくれるのではないかと、そう思えてくる。

 その場に正座をして、めちゃくちゃになった顔をごしごしと腕で拭きながら、美空は夕を見つめた。

「先輩は、本当に神様……?」

 美空は恐る恐る、目の前の人物を見つめる。心地よさそうに目を閉じながら、人形のように整ったその人は、呼吸さえしていなければ作り物のように見えた。風に揺れる前髪でさえ、作り物のように見える。

「ほんとに?」

 閉じていた瞳が、ゆっくりと開けられた。半分ほど開けたところで、まつ毛に縁どられた瞳が美空を見つめる。幻想的なその雰囲気に、美空は息をするのをつい忘れそうになった。

 そんな美空を見つめながら、夕はふと小さく笑みを口元に乗せる。いつもみんなの前で見せる、アルカイックで穏やかなほほ笑みだった。

「そうだよ。なんでも分かるわけじゃないけどね。僕は、人の寿命が分かるんだ」

 そんな馬鹿なことあるわけない、と声を大にして否定することができなかった。夕は神秘的で、ほほ笑まれるとつい力が抜けてしまう不思議な力がある。美空は眼鏡の底から、夕の透き通った素肌をきれいだなと思いながら見ていた。

「神様だから、私の寿命も分かるんですか……?」

「そう。君は寿命を待たずに死のうとしていたけれど。やっぱり寿命は三ヶ月後だから、僕が誘ったのに死ななかったね」

 確かに、夕に誘われてその手を握り、一緒に飛び降りてしまえば良かったのに、美空にはそれができなかった。夕が手を離した瞬間に、自分を襲ったあの恐怖を思い出すと、いまだに震えが尾てい骨から押し寄せてくる。

「人の寿命は、そうそうに変えることはできないんだね」

 言われたことが妙に信憑性を帯びてきた――目の前の青年が、神様というにわかには信じがたい事実に。

 この世の中には、人の物差しでは測り切れないことというのがごまんとある。超常現象や、解明できない古代ミステリー。そしてそれと同時に、人が想像できることは、全て実現できるという話だってある。

 つまり、世の中は美空の知らないことで溢れ返っている。目に見える者だけが全てではないように、自分の常識では考えられないことだって、たくさん世界には転がっているのだ。

 だとしたら、目の前に神様がいることなど、そうおかしくない話なのかもしれない。科学で説明ができない話なんて、世界中にたくさんあるのだから。

 だとしたら、自分はなんて幸運なのだろうと美空は思う。目の前の青年が、学校の生徒会長が神様だったなんて、まるでおとぎ話かファンタジーのようだ。ぼんやりと、思考を巡らせていると、夕が瞬きをしてから美空をじっと見つめた。

「美空くん、君の寿命はあと三ヶ月――――さあ、どうする?」

 美空の目の前に現れた神様がそう言う。優しくも悲しく、そして美しい瞳で美空を見つめる。

「どうするって……」

 そこまで言われてやっと、美空は大きく息を吐いた。息をするのを、つい忘れていたのだが、美空は数回深呼吸をした。そこで握りしめていた手を解く。緊張してぎゅっと握っていた手のひらには、爪の跡がくっきりと残っていた。そして後からやってくる痛み、皮膚の下を流れている血液を感じる。

 そんな美空を見てから、夕は視線をまたもや頭上を流れる雲へと戻し、ふと目を細める。微笑が浮かんでいるのか、口角が上がっているのか、柔らかな口元だった。

「人はね、死ぬときになって必ず後悔するんだ……やりたかったことに対してね。美空くんは、もう死んじゃっていいの?」

「やりたかったこと……」

 やり残したことがあると言われていたら、おそらくそんなものはないと言えた。この世に自分が生まれて、やるべきことがあったとはこれっぽっちも思えなかったから。

 しかし、やりたかったこことと言われれば、美空はやりたかったけれどもやらなかったことが、すぐにいくつか思いつく。

 美空の乏しい表情から素早く何かを察知した夕は、目を瞬かせる。それはまるで、ほら、あるでしょう?とでも言わんばかりのいたずらっぽい笑みだった。途端に、夕の表情が人間じみて見えてきた。

「美空くん、僕と約束しよう」

 子どもが宝箱を見つけたような笑みで、神様は美空の手を握った。その手はとても心地よい冷たさを持っている。瞬時に心が冷静になるような、そんな冷たさだ。

「約束、ですか?」

「そう、僕と一緒に、やりたいことを最低でも毎週一つずつ叶えて行こう。今週はまずやりたいこと十個は考える週。二週目からはやりたいことを消化する週、最後の一週間はまとめだよ――どうかな?」

 神妙に言われて、紳士的な眼差しに言葉が返せなくなり、美空は思わず小さくうなずいた。すると、嬉しそうに夕の腕が伸びてくる。伸びてきた手の先には、小指が立っていた。

「君の寿命があと三ヶ月なのは、僕と美空くんだけの秘密だ。じゃないと、周りに影響が出てしまうからね。そして、君のお願いを叶えるのが、僕の使命。放課後にまたここで逢おう、美空くん」

 美空は夢見心地でうなずくと、神様の冷たくも優しい小指と、指切りをした。夕はそんな美空を見て、極上の笑みを顔に乗せていた。
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