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第五章 きらきら涙の思い出カルボナーラ

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「お腹いっぱい、もう食べられないっす」

 二人前をペロリと完食した順平は、お腹をポンポンと叩いて苦しいアピールをする。実際に、はち切れそうなくらいだ。
 善はどうやら、パスタを少々多めにしたらしい。
 デザートの冷やし白玉も二人前おまけで食べて、順平は大満足だ。
 美味しくてつい無口になって食べているうちに、いつの間にか店内には順平のほかにあと一人お客さんがいるだけになっていた。
 自転車をこぐにはお腹がきつすぎる。順平は自転車を押して、独身寮まで帰ることに決めた。

「本当に、ごちそうさまでした」

 善に感謝を伝えると、いえいえ、と笑顔で返される。
 善はいつも不思議な雰囲気の人物で、彼の作る懐かしい味は食べると力が湧いてくる。
 最近は夜空の作ったデザートが、試作品として出されるようになった。評判がよければデザートセットのメニューにするらしい。
 それが『はぐれ猫亭』に新しい風を吹かせているようだ。デザートセットができたら、真っ先に食べに来ようと思っていた。

「じゃあ、また立ち寄りますね」
「はーい。順平くん、お仕事頑張ってください。この街の平和は、君にかかっていますから」

 手があいたので、夜空だけでなく善も見送りに来てくれる。
 二人が手をパタパタと振ってくれたのに振り返しながら、雨が降った跡があることに気がついた。
 気になって空を見上げれば、雨雲はすでに去っていったらしく、星がキラキラと瞬いている。
 月がぽっかりと浮かんでいて、気持ちのいい夜の空だった。

「はは、食べているうちに、雨降ってやんじゃったか」

 大きく息を吸うと、雨上がりの湿気を含んだ空気が肺に入ってくる。
 ラッキーと思うと同時に、その雨がモヤモヤする気持ちを洗い流してくれたような気がした。
 泣けない自分のかわりに、空が泣いてくれたのかもしれない。

「なんてな。俺にしたら、ロマンチックすぎるな」

 彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。作ってくれたカルボナーラの味を思い出す。過ぎた日々は戻ってこないけど、今だってじゅうぶん幸せだ。
 順平は来た時と同じように鼻歌をうたいながら、足取りも軽く帰宅した。


 *


 夜空は二十三時の閉店時間に、最後の一人を見送った。よく来る人で、この店の雰囲気とサイフォンで淹れる珈琲のファンだという。
 仕事終わりに自分時間を過ごすのにちょうどいいのだ、と言いながら笑顔で去っていく。
 自分がサラリーマンだった時に、あんなふうに余裕があったなら、なにか違っていたのだろうか。

「ないな。きっと。今が一番ベストだ」

 反省はしても後悔はしない。ただのアルバイトになってしまったが、夜空はひとつも後悔していなかった。
 店外の明かりを消し、入り口の黒板を中にしまう。扉にかけておいたオープンの札を、クローズに変えた。
 店内では善が洗い物を済ませ、道具類を片付けている。丁寧に油汚れが落とされたフライパンに、いくつものホーロー鍋。天然木のまな板も、毎日きちんと手入れをしている。
 夜空は店内のトルコランプを一つずつ消し、レコードを止める。波の音が店内により一層大きく聞こえてくる。木調の美しい床を掃き掃除し、椅子や机をきれいに吹きあげた。
 クローズ作業をすべて終えたところで、善が入り口から外へ出ていき伸びをし始める。夜空もつられるようにして外に出た。

「雨降ったんだね。湿っぽくて気持ちがいい」
「そうですね。そういえば、地面が濡れていました」

 善はそこで軽めのストレッチをしてから、真っ暗な海を眺め始める。夜空も善の視線の先を追う。
 雨が降ったので、ほんの少しだけ波がさざめいていたが、比較的穏やかな風景だ。波音に耳を済ませながら、夜空はぽつりと呟いた。

「善さん。俺、詐欺にあったってわかった時は、全世界で自分が一番不幸だって思っていました。自分以上に不幸な人は、この世の中に存在しないとさえ思っていました」

 夜空は深呼吸をする。

「でも、みんなそれぞれ、傷を抱えているんですよね。知らないだけで、知ろうとしないだけで……言わないだけで、みんな葛藤しながら生きている。この店にきて、やっとそれがわかりました」

 泣きそうなのをこらえてカルボナーラを食べる、心優しい青年の姿を思い出す。しかし、過去の恋の傷を抱える順平の後姿は、たくましかった。
 彼の負った傷は、彼にしかわからない深さと大きさで、順平を蝕んだことだろう。
 でも人は、誰かに頼らなくったって、自分自身で自分を癒し、治すことだってできるのだ。
 善はうん、と大きく頷いた。

「つらさは、誰かと比べるものじゃないよね。だって、つらいのはみんな同じだから」

 善だってきっと、傷を抱えているはずだ。彼の直感がはたらくのは、傷を抱えた人が来店する時で、そしてそれに共鳴している時なのかもしれない。

「自分が経験したつらさを、完璧に理解できる他人は誰もいない。痛みや傷を比較することはできない……だから、みんながみんな、違う苦しみを抱えていくしかないんだろうね」

 夜空は海のほうから吹いてくる風に目をつぶる。
 どうか、あの心優しい青年が、これからも優しくいられますように。傷が少しでも小さくなりますように。
 夜空は光り輝く月と星を見上げながら、強く強く願った。
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