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第六章 青い春と甘辛美味しいぜいたくすき焼き

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 梅雨が明け始めると、海辺の街はにぎわいが溢れ始める
 いよいよ暑い夏の到来、海の街は忙しい季節の始まりとなる。
 海水浴場がいくつもあるこの辺りでは、夏になれば浜に海の家が建ち、海水浴客も増える繁忙期となる。
 真夏の兆候が表れ始めた時に、事件は起きた。

「きゃあ――!」

 小さな悲鳴とともに、老人の横を二人の人影が通りすぎた。
 『はぐれ猫亭』のオープンの準備をしていた夜空と善は、異様な雰囲気の悲鳴に手を止める。

「俺、見てきます!」

 夜空はカウンターから早足で店外に出る。
 すると、自転車に乗って巡回をしてた順平が、しりもちをついた女性に、大慌てで駈け寄ったのが見えた。

「大丈夫ですか!?」

 女性は「鞄が、鞄……」と呟きながら、指を差す。
 ロードバイクに乗った影が走り去っていくのが見えた。順平がすぐさま無線で、ひったくりがあったことを知らせて応援を呼ぶ。
 騒ぎを聞きつけて、何人かの人が駆け寄ってきた。

「順平さん!」

 名前を呼ぶと、順平がびっくりした顔をこちらに向けてきた。

「順平さん、追って、早く!」

 夜空は駆け寄って女性に手を差し伸べつつ、順平に伝えた。

「おばあちゃんはこっちで見ておくから!」
「あ、はい――救急車をお願いします!」

 順平は横に放り出していた自転車に乗り込むと、ひったくり犯が走り去っていった方向に全速力で漕いで追いかける。
 それを確認すると、夜空は倒れ込んだ女性を覗き込んだ。

「おばあちゃん、大丈夫ですか?」
「あいたたたた……足が……」
「足ですね。ちょっと待ってくださいね。善さん、善さん!」

 夜空が大声で呼ぶと、扉の内側からひょっこりと善が顔を出す。状況を一目見るや否や、駆け出してきて女性に肩を貸してひょいと立ち上がらせた。

「救急車が来るまでお店でちょっと休みましょう」
「ありがとうございます」

 女性は足を引きずるようにしながら歩く。転んだ時にひねったか、打ってしまったのかもしれない。夜空は善の反対側に回り込んで肩を貸し、彼女を店内に運び入れた。

「落ち着いてくださいね。すぐに病院に行きましょう」

 縁石に足を強く打ったようで、ぱっと見なんともなっていないが腫れあがるのも時間の問題だ。善はすぐに氷水を作ってきて、女性の患部に当てる。
 夜空はコップに入れた水を手渡した。
 女性は額に汗をにじませて、ゆっくりと首を縦に振る。ありがとうと、かすれた声が喉から漏れてきた。
 二人は開店準備をいったん中止し、女性の手当てに集中する。

「俺、病院まで付き添って来ます……心配だから」
「そうだねぇ、そうしようか。あとは僕がやっておくし、なにかあれば連絡くれればいいよ」

 ご家族は居るのかどうかなどを聞かなければならないのだが、女性はショックだったようで呆然としてしまっている。
 痛みも強いのか、顔色が悪くなっていた。
 ハンカチで口元を押さえている姿から、大変品の良い女性なのが窺える。涼しそうな衣服に日傘、肩で切りそろえられたグレーヘアをカチューシャで整えており、まさしくマダムという言葉が似合う。

「大変でしたね。救急車が来ますから、それまで気持ちを楽にしてください」
「ありがとうございます。ご迷惑を……」

 夜空は首を横に大きく振る。
 両親を早く亡くした夜空は、祖父母に育ててもらった。同い年くらいに見える女性を、心配しないわけがない。
 オットマン代わりにクッションを積み重ね、脚を伸ばしてもらう。しばらくすると、少し落ち着いてきたのか、女性の顔色が少々良くなってきた。それでもまだ真っ白なので、夜空は気持ちが落ち着かない。
 大丈夫なのでと言われたので、オープンの作業をしている時に、一番乗りの来客があった。

「――あれ、今日は早く始まるのかい?」

 開いていた扉から、いつもの見知った中折れ帽が見える。
 それをひょいと持ち上げて挨拶しながら、大きな袋を持った光治が店内を覗き込んでいた。

「光治さんこんにちは。お店はまだなんですけれど……さっきそこでひったくりの被害にあっちゃったかたがいて、お店で休んでもらっています」
「えっ、それは大変だ」

 善は手を止めてから、事情を口にした。失礼するよと言いながら光治は入ってきた。

「庭で穫れたベビーリーフなんだけどね、サラダにいいかと思って持ってきたんだが……その人は大丈夫そうかい?」

 光治が袋いっぱいの新鮮な野菜を善に渡し、それからソファで休んでいた老婦人を心配そうに見つめた。

「今さっき順平さんが犯人を追いかけて行きました。彼女は足を強く打ってしまったそうで、救急車が来たら俺が付き添おうと思ってて」
「付き添うって、これから開店準備だろう?」
「そうですけど、善さんの許可も下りていますし、放っておけないです」

 ショックから回復してきた老婦人に訊けば、家族と離れてこの近くで一人暮らしをしていると言う。夜空としては、ますます放っておけない。

「ご家族の人はいらっしゃらないのかい?」

 光治の声に、女性は顔をあげた。

「すみません、ご迷惑をおかけして。実は一人暮らしをしていまして、娘も息子たちも他県に居ります。なので、病院は一人で行けます」

 老婦人の口調は落ち着きを取り戻している。しかし、平気だと思っているととんでもない時だってある。ここは救急隊員を待つのが無難だった。

「そんなこと言わないでください。俺が付き添いますから」

 これ以上のご迷惑は、と老婦人が言うが、夜空は絶対に引かないつもりだった。
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