女将軍 井伊直虎

克全

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本編

反撃の信長

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『尾張・伊藤城』
「殿、殿。信長様でございます。信長様が来られます」

 配下の一人が、信長が援軍来ると言う先触れの到着を知らせに来た。

「分かっておる」
「信盛殿。どうなされる御心算か」
「どうもせぬ。今の信長殿に、我らを切り捨てる余裕などない」
「ならば、今川に下る話は、なかったことにするのですな」
「織田が不利になれば、今川の味方をして裏切ればいい。そうすれば、今川も受け入れてくれるだろう」
「そのような不名誉な事‥‥‥」
「武士に不名誉などあるものか。朝倉宗滴殿も言っているではないか『武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つ事が本である』とな」
「それはそうでございますが‥‥‥」
「織田と今川に挟まれた我らには、生き残る事こそ武士の道じゃ」
「‥‥‥」
「とにかく、信長殿を迎える事だ。今川を撃退出来れば、それにこした事はない。山崎城を取り返してくれるなら、これまで通り忠誠を尽すだけじゃ」

 一時間後、五千の兵を引き連れ、信長が清州城から駆けつけて来た。

「盛次。信盛。出迎え御苦労」
「殿自ら援軍を率いて下さり、御礼の申しようもございません」
「我が力及ばず、戸部一色城、山崎城を奪われてしまいました。申し訳ございません」

 信長は何も言わずに信盛に近付くと、抜討ちで、一刀のもとに信盛の首を刎ね飛ばしてしまった。
刎ね飛ばされた信盛の首は、驚愕の表情を浮かべて地に転がり落ちた。

「何をなされます」

 盛次は咄嗟に刀に手を掛けて、怒鳴りつける暴挙に出た。

「善照寺砦、戸部一色城、山崎城では碌な抵抗もせず逃げ出した。その所為で上社城、下社城、一色城で地侍と足軽が寝返り、柴田一門が城を追われる事になった。その責を取らせただけじゃ」
「しかしながら、何の弁明も聞かぬとは、あまりのことではございませんか」
「盛次の妻は、柴田勝家の姉であろう。信盛の怯懦の所為で城地を失いながらも忠義を貫き、我の下に参った柴田の女衆に恥ずかしくないのか」
「それは‥‥‥」
「武士ならば、名を惜しみ名誉を大切にすべきであろう」
「はい‥‥‥」
「信盛の配下と城地は、盛次が引き継げ。山崎城を取り返したら、盛次のものじゃ」
「承りました」

 信長は、信盛を成敗するとすぐさま軍を移動させ、川名北城を囲んでいる鵜殿長照を夜襲した。
 清州城に逃げた信長が、反撃に転ずると思っていなかった長照勢は、闇の中での攻撃に狼狽して、脆くも崩れて逃げ出した。
 信長は長照勢を追わずに、隣の川名南城を囲んでいる、岡部元信を強襲した。
 しかし名将・岡部元信は、素早く手勢を纏めて、迎撃態勢をとろうとした。
 だが長照勢との戦いに勝ち勢いに乗る信長勢は、岡部勢を押しまくった。
 闇夜に強襲を受けたうえ、倍の兵力で押されると、雑兵から逃げ出す者が出て来た。
 そこに川名南城の佐久間彦五郎が城から討って出たのだ。
 名将・岡部元信も支えきれず、御器所西城に逃げ出した。
 今度も信長は追撃を行ったが、追首を取ることは事前に禁止されていた。
 今川勢を追いかけ、出来れば城に逃げ込む今川勢と共に入城し、奪われた川名南城と川名北城を取り返したかったのだ。
 だが岡部元信は名将だった。
 城に入る事なく、城外から籠城を指示すると、守備兵が態勢を整える時間を稼ぐ為に、城外で信長勢を迎え討ったのだ。
 その上で頃合いを見計らって、義元のいる山崎城に事の顛末を知らせる為、山崎城の方に落ちて行った。



 ここで首を取る理由を考えてみたい。軍事的に考えれば、敵を確実に討ち取った証拠として、どの敵を討ち取ったかという確認として、切断した頭部という物は最も確実である。そしてそれは主君に対して、最も確実な手柄の証となるのだ。つまり証拠としての首・「首級(しるし)」なのだ。

 そして首にも色々な価値があった。

 討ち取った首にも評価の違いがあり、全ての首に等しい価値が在るわけではない。

  まずは討ち取った相手の貴賤で違いがでてくる。当然のことなのだが、身分が高かったり、重要な将の首は価値が高いが、雑兵の首はあまり価値はない、そういう雑兵の首を「平首・数首」と言う。

  身元が明らかで有名な将の首なら評価は簡単だ、だがそれ以外にも幾つかの評価基準がある。

 「兜首」と言われる兜を被っている首がその1つだ。兜を被る事を許された身分の高い者の証拠になるのだ、だから兜を着けた首は当然評価が高くなる首なのだ。だから刈り取った首は兜の緒を締めたまま、兜と一緒に持ち帰る。

 だがここで「作首」と言う偽装工作が行われる事がある、その辺の「平首」に、適当な兜を着せて手柄を偽り褒美を貰おうとする行為だ。

  だが当時の日本には偽装を難しくする風習があった、それは当時の身分ある男性が鉄漿(かね)(お歯黒の事)を塗っていた事だ、だから鉄漿塗っていない者は青葉者と低く評価される。だがここでも偽装工作が行われ、討ち取った青葉者の首に、鉄漿を塗って「作首」をするのだ。

  次に戦況によっても首の評価に差が出てくる。「平首」であっても1番首・2番首は評価されるのだが、敵が逃げ出したのを追撃して取る首は「追首」といって最も評価が低くなる。設楽ヶ原で武田軍が逃げ出したところを追って狩りった首の評価などは低いのだ。

  つまり首の評価が違う以上、重くてかさばる首を沢山持つわけにはいかない、首実検してもらえない・評価されない・褒賞基準にならない、そんな「平首」は棄てられることになる。これを「捨首」という。自負心のある武士にとってこれは屈辱だろう、互いに名乗りを上げて戦えば「捨首」にされる可能性は低くなる、後述する首供養をしてもらえる可能性も、遺族の下に返して貰える可能性も高くなる。

 武士の中には取った首の数を競う者もいた。首を数多く取る事を誇りにし、質を問わず首取り合戦をする武士は、一定の量の首を取るごとに首供養の法要を行ったのだ。首取り合戦をしないまでも、取った首が多い方が武士として箔が付くし、主を変えねばならぬ時に評価される可能性もある。

  なにより武士にとっては首を1つも取らないのは恥である、最低限自分が働いた証拠にはなる。例え「平首」でも、とりあえず首があれば逃げ隠れしていなかった証拠になる。

 だから先にも書いたように偽装が行われる。

 病気で動けぬ敗残兵の首を取る「病首」
 死体から切り取る「川流首・死首・冷首」
 手柄を横取りをする為に、他人が討ち取った首を盗んだり、味方殺して首を奪う事まである「奪首」
 最低の奴なら非戦闘員の女子供を殺して首にする者もいる。

 一方評価する側にも都合がある、首を奪う時間を惜しむような速攻の時は首取を禁止する。また「平首」大量に持ち込まれては、手柄を評価する側としては褒賞や時間がかかりすぎる。そこで価値の低い首に対して足きりをしてしまい、在る程度価値のある首だけ首実検をする事があった。

 その反面、多く敵の首を取る事を評価すれば、それだけ士気があがり、果敢に敵に挑ませる効果がある、だから積極的に多くの首を取る様に煽る武将もいた。信長・信玄・政宗が根切りを行った際に、首の数が多いほど後々の威圧効果があっただろう。

  参考『刀と首取り』p.194~195


 先にも書いたが、大将が首を取る事を禁止する場合がある。

  迅速さを要求される戦闘局面では、首取りをしている余裕のない状況がある。先にも書いた速攻に加え、奇襲や撹乱を仕掛けている時や、逆に退却戦をしている時などだ。そんな時に、首取りや取ってきた首に対応している時間はない。物見(偵察)の時も、敵との交戦は極力避けないといけない、特別な理由が無ければ首取りはしない。

 また首取りに熱中していては前面戦力が低下するから、首を討ち捨てて行くよう命令が下る事がある。特に夜戦では奇襲撹乱が目的の上、暗闇では確かな証人も得難い。引き上げのタイミングも肝要なので、撤退の合図があれば敵と斬り結んでいようとも、速やかに退却しなければならない。敵の大将以外の首は打ち捨てにするのは普通で、1人2人の首にこだわることは出来ない。

  手柄は首取りだけでは無いが、兵隊達に取って最も身近な手柄が首取りなのだ。一方で大将の目的は首取りではない。大将と兵隊達の目的意識の違いをの埋めることが出来れば戦闘力は向上する。最初から首を取っても評価しない事が徹底出来ていれば、その時間を短縮する事が出来て、首取の隙を見せる事もなくなり、戦闘に専念できる。

 信長が、桶狭間で今川義元を討ち取った毛利良勝よりも、簗田出羽守の勲功第1とした理由もこの辺りにあるのかもしれない、簗田出羽守の功が情報を探ってきた事なのか、簗田だけが作戦決行を強硬に主張して家臣団の消極論を封殺したとする事なのかは分からない。ただ大将と家臣では視点が違う事だけは確かだ。

 参考『考証戦国武家事典』 
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