シンママの私と、元地味眼鏡くん

吉野葉月

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三十二話

「ひとつ、提案があるんだ」
 
 翌朝、入浴を済ませたイヴァンは、深くソファに腰掛けた。
 
「う、うん、何?」
 
 昨日色事に耽った場所なのが気恥ずかしく、私は熱くなる頬を押さえながら返事をした。
 イヴァンは執事に、朝食は私と一緒に食べるから客間に運ぶよう指示したから、テーブルにはパイやクロワッサン、みずみずしいフルーツがたくさん並べられていた。
 イヴァンと一緒に朝食を摂るなんて初めてで、緊張で食が進まない。温かい紅茶をちびちびとすすりながら、朝の光に優しく照らされる彼の姿を眺めた。昨日より男らしく見えて落ち着かない。

「食べてる?」

 イヴァンはクロワッサンにジャムをつけると、ひとくちにちぎって私の口へ運んだ。

「た、食べてるよ」

「そう? 良かった。うちの料理人が、またローズにご飯を作ることができて張り切ってたんだ。いっぱい食べてね」

 イヴァンは柔らかく微笑んだ。
 口の中にブルーベリーの甘酸っぱさが広がる。バターを練り込んだクロワッサンの、まろやかな香ばしさと絶妙に混ざり合う。
 彼は頬杖を突きながら私の食事を見つめていたかが、紅茶を一気に流し込むと唐突に言った。

「僕たち、やっぱり結婚しない?」

「は?」

 私は思いきり咳き込んでしまった。
 
「大丈夫?」
 
「大丈夫じゃ……ないよ」
 
 イヴァンはたいして照れもせず、いつもと変わらない瞳を向けている。

「何言って……本気?」

「うん。本気」

 彼の眼差しはまっすぐで穢れがなく、嘘をついているようには見えない。美しい顔面に整った体躯、普通の女の子なら顔面だけでとっくに堕ちてしまうだろう。
 私もこのまま堕ちてしまいたい。
 好きな男性との愛にあふれた生活は、身も心も溶かされる程幸せなんだろう。
 しかし、流される訳にはいかない。
 私は絆されたい気持ちをグッと堪えて、喉に詰まったパンを飲み込んだ。
 
「あのね、イヴァン。気持ちは嬉しいけど、私は誰とも結婚しないと決めているの。私には前世の記憶があって、もう結婚はこりごりなのよ」
 
「……ローズの思う、結婚は、どんなもの?」
 
 イヴァンは棚からリュシアンが使っていたオモチャ箱を抱えてきた。テーブルのそばへドサッと置くと、再びソファに腰を下ろす。
 
「家事や育児を完璧にして、家で夫の帰りを待つようなもの?」
 
 彼はイヌ・ネコ・ライオンの三つのぬいぐるみを手にすると、ライオンのぬいぐるみだけを遠くへ動かした。

「ネコちゃんがイタズラっ子で、言う事を聞かなくて家がグチャグチャだったりすると、家に帰って来たライオンくんがイヌさんに怒るわけだね。どうして俺のご飯ができてないんだ、部屋が汚いんだ、家にいるんだからできるだろ、って」

 ネコのぬいぐるみが、オモチャの指輪をバラバラと撒き散らした。イヌのぬいぐるみはせっせと片付けるけど、片したそばから床が散らかっていく。
 そこに帰宅したライオン夫は、惨劇を見てハァ、とため息をつく。
 
 確かに、こんな感じだった。
 私の前世での生活は、狭い空間で息が詰まりそうだった。
 
「僕ならこうする」
 
 イヴァンは三つのぬいぐるみの輪に、クマとヒツジのぬいぐるみを加えた。

「今まで通り、リュシアンは執事やメイドが責任を持って見ていてくれる。安心していい、僕は彼らに育てられた」

 ライオンが仕事に出かけて家を出ると、クマとヒツジのぬいぐるみがネコを抱き上げる。

「君には、君の好きなことをして欲しいんだ」

 イヴァンはひとり残ったイヌのぬいぐるみを手に取った。さっきまで何もなかった場所に、古紙やレースのハンカチを置いていく。

「ハウスキーパーの仕事をしている君も、イキイキ していて大好きなんだ。旅行に行くのもいいね。僕も一緒に行きたいけど、ひとりで行くのも楽しいよね。お金や時間をかけて正規ルートで行ってもいいし、リュシアンの力で見知らぬ場所へこっそり侵入するのも、スリルがあって楽しそう」

 イヌのぬいぐるみはあっちに行ったり、こっちに戻ったり。一箇所に留まったりはしていなかった。

「このイヌが……私?」

「うん。結婚したって、何かを諦める必要はないんだよ。もし邪魔しようとする人がいるなら、僕が追い払う」

「……王族でも?」

「もちろん。僕はアルカナリア帝国で現在唯一魔力を操れる存在。……いわばチートだしね」

「あはは、ひどい」

 イヴァンが偉そうに胸を張るから、私は吹き出してしなった。

「私は綺麗な景色が好き、それに子どもも大好きなの」
 
 前世の娘も、今世の息子も。
 それから、他の子どもたちも大好きだ。
 
「いつも笑っていてほしいし、美しい自然や街並みのもとで、安全に健康に育っていって欲しいと思ってるわ」
 
 北部の住宅地でお世話になった、大家の子どもたちは今頃どうしているだろうか。騒がしいけどにぎやかな、北部での暮らしも悪くなかった。

「ハウスキーパーのお仕事は続けたい。私のことを重宝してくださっている貴重なお客様だもの。でも、それとは別に各地の子どもたちを笑顔にしたいわね」

 私はライオンのぬいぐるみの手を握った。
 私の知らないところで、しんどい思いをしている子どもたちも少なくないだろう。

「リュシアンが良ければだけど、あの子の魔法で荒廃した場所を変身させたいの。魔力制御できないぶん、徐々に放出すれば良いのでしょう? 花を咲かせたり、緑を増やしたり。リュシアンにとっても、他の人にとっても良いアイデアだと思うの」

 イヴァンは私を見てニコッと微笑んだ。

「魔力が有り余ってるし、良いかも知れないね。うん、きっとうまくいくよ」

「あなたと結婚すれば叶えられるってこと?」

「まぁね」

 イヴァンは紅茶にミルクを入れ、一気に流し込んだ。

「でも、確実に婚姻を結ぶことが条件だよ。公園の修理費、君にとっては莫大じゃない?」

「!!」

 すっかり忘れていた。

「うちは貴族だし、僕は第一騎士団所属の魔法使いでもあるから正直別に痛い金額じゃない。だけど、次期侯爵の僕がどこの誰とも分からない女性に金銭の援助をしたらおかしいでしょ? ローズには、確実に僕の妻になってもらう必要があるんだ」

「う……」

 紙とペンがふわりと宙に浮き、私の手元に置かれた。紙の上部には貴族の使用する婚姻証明の文言が記されており、あとは二人のサインを入れるのみになっている。……いや、すでにイヴァンは自分のサインは記入済みである。
 彼は私の髪の毛をサラリとすくい、匂いをかいだ。

「君と幸せになりたいんだ」

 澄んだ金色の瞳が私を見上げる。
 目の前にいるイヴァンは、もう根暗眼鏡と呼ばれた彼ではない。真面目でひたむきで、喋るのが苦手なところも好きだったけど、頼りになる今の彼も大好きだ。
 後悔はしないだろうか。
 私はゆっくりと息を吐き、自分自身に問いかける。

「わーん! ままー!」

 二階でリュシアンが泣く声がした。メイドはいるはずだが、寝起きに私の姿が見えないとまだ泣いてしまうのだ。

「僕が行くよ」

 イヴァンは席を立って、螺旋階段を登って行った。

「リュシアンー! 僕でいいかな!?」

「わーーーーん!!」

 ひときわ大きく泣かれ、イヴァンはお腹を抱えながら子供部屋へ向かって行った。
 大きな背中で、ひとつにまとめた銀の髪が揺れる。

「イヴァンがいてもいいかな」

 私はペンにインクをつけて、そっと紙に名前を書いた。
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