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神楽坂 ~森の奥に迷い込んだら、そこは妖精が集うカフェでした~

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 陽気でポップなアフタヌーンの足取り。所用を済ませて坂道を下る僕のステップは、とても軽やかだ。
 なんせ普段こっちには来ないし、思いの外早く用事が済んだので時間がある。だから、久しぶりにガレットでも食べていこう、と心が踊った。
 あと少しで道玄坂に出るという所。ふと見ると、歩道の隅に小さな黒い看板が立っている。もしやと思って顔を上げると、民家の間にコンクリート敷きで、通路と言うには広めの、遊歩道と言うには狭めの、不思議な肉厚の観葉植物が出迎える敷地の向こうに、薄片鎧を思わせるダークグレーのスマートな建物がある。
 可愛いドワーフの子供のようなA型看板の案内に誘われて足を踏み入れてみると、木目の風味を浮かび上がらせる透き通ったブラウングレーに染められた店構えのカフェスタンドを見つけた。
 順番を待つ間に、僕は鼻で大きく深呼吸をした。回りをコの字に囲まれているせいか、この一角は、淹れる前のコーヒー豆が放つ香り混じりのよい匂いが立ちこれめていた。風が吹いても途切れることのないその香りは、とても濃厚で深みを感じる。
 イートインは無いが、休日はテラス席を使用できるらしい。見ると、奥にテーブル席が二つと、三つのベンチ席が設けられていた。
 ここ最近、酸味が微かなコーヒーを飲む機会が多かったので、酸味を楽しめるコーヒーを選ぶことにした。
 春うららかな菜の花畑を舞う黄蝶のようにまばたきをして、羽ばたく黄色い翅の一瞬一瞬をカメラにおさめたかのような視線をもって、僕の好みに合う豆を説明した女の子の店員に、エチオピア産のハンドドリップコーヒーとクッキーをお願いした。
 クッキーは二種類あって、見た目はスコーンの弟みたい。味はプレーンと抹茶。残念ながら抹茶はSOLD OUT。注文が終わると僕はテーブル席を目指したが、四段からなる階段を下りるる途中で、すぐ右側がガラス張りのギャラリーになっていることに気がついて、その反対にあるベンチに座った。
 しばらくして、小さなプレートに乗ったコーヒーとクッキーが運ばれてきた。基本テイクアウトだから、紙コップ。真っ先に飲み口を開けて香りを嗅ぐと、フルーティーな紅茶を思わせる爽やかな香り。一口飲むと、とろみのある酸味が口一杯に広がる。とても軽い感じで、飲みやすい。
 風通りがよく、歩道からリズム良く吹くそよ風。ときおり反対からの風に吹き変わる度に、羽衣ジャスミンを思わせる香りが鼻に届く。
 ライトな味わいのコーヒーだからか、ジャスミンの甘い香りがほどよく合う。その香りに誘われてテーブル席の方を見やると、森歩きをしているとたまに見る、ひらけた木陰の草原(くさはら)のように見える。僕が今いる所は、さながら現実世界とおとぎの世界を隔てる境界のようだった。
 青空から降り注ぐ光のベールに包まれたおとぎの広場で楽しくおしゃべりをするフェアリーテイルや、ピクシーたちがはしゃぎ回っている。僕はそれを柔らかい苔むした木の陰から眺めていた。心の目で。そんな気分だ。
 正面に見える欧米風の一コマまんがに似たカラフルな絵を眺めながら、数口飲む。
 モノクロの絵もあったが、それすらカラフルに見えた。面白い絵だが、どことなく心の闇をかい間見たような印象。席の後ろのオフィスに所有者か画家さんがいるみたいだった。
 口が苦味で満たされたので、クッキーに手をのばす。まるで日焼けした乳白色のわんぱく少年のようだ。ちょうど成長期といったプレーンクッキーはとてもカリカリで、うまい具合に焼き上げたトーストのようだった。バターがきいていて、仄かな塩味。その見た目とは裏腹に、随分と大人びた味だ。
 あたかも、いつまでも子供だと思っていた元気っ子が、いつの間にか青年めいていたことに気がついた時に感じる物悲しさが混じった感動に似た味。コーヒーで思い出の中の瞬きを流すと、塩味が際立つ。
 少しコーヒーを残しておいて、ギャラリーを鑑賞した。ガラス越しに見えるヘリンボーンの床が矢印となって指し示すように、僕を絵に導いたからだ。
 コーヒーをベンチに残して中に入ると、真っ先にむくの木の香りを感じた。その香りは、喉の奥に残るコーヒーの風味を思い出させる。その時僕は思った。ああ、コーヒーをまだ残しておいて本当に良かった、と。
 神楽坂が近いのにとても静かな雰囲気だった。箱庭チックな閉ざされた環境に心が安堵する。落ち着いていて満ち足りた空間。ちょっと闇め(wackyな)の絵がアクセント。
 ガレットはまた今度にしよう。満足感が溢れる中で食べても幸せ半分だ。また来る楽しみができた。いつになるかは分からないけれど。
 僕は最後の一口を飲みきった。いつもだったら舌の上で転がすけれど、そうせずに。後味としてはっきりと残る澄みきった酸味が恋しくて。
 離れるのを寂しく思って余韻に浸る。ジャスミンの香りがまた訪れるのを待ったけれど、彼女たちは舞い飛んでは来なかった。でもそれで良い。記憶の中で鮮明に舞っている。
 そう思いながら、店を後にして歩道に出た。もうすぐそこが神楽坂だ。でも僕は下りて行かなかった。賑わいに背をむけて、さっき下りて来た道を戻って行った。
 舌に残ったフルーティーな酸味が影のように延びている。その余韻は、いつかまたここに来るその時まで残るだろう。心の片隅に映る思い出に控えめなテイストを添えて。


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