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発見
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ある日、いつもの様に1人で電車に乗っていたみのるは、息を飲んだ。遂にこの日が来たのだ。あの甘い香水の香りがする。恐る恐る顔を上げるが、一度に多くの乗客が乗ってきたため、誰からの香りか分からない。
(この香り、この香りって、お母さんの香水と同じだ)
真一のスーツについた残り香だけでは、イランイランの香りしか嗅ぎ取れなかったから、東京で陽子の香水を宙に撒いてみた時、違う香りだと思った。だが、正に今嗅いでいる香りは、母親の香水と同じだと確信できる。
運悪く、駅を跨いだ幾つかの商店街で、可愛い女の子達を育成するゲームのイベントが執り行われていた。地元の無料マガジンを発行する会社の主宰で行われた町おこしイベントで、限定フィギアを手に入れようと、多くの男性ファンが参加していた。そのため駅は混雑している。
5、6人の女性が乗車してきたが、誰1人としてみのるの視界には入らない。ちょうど遊んでいた携帯ゲーム機で時間を確認し、香気を漂わせる女性が乗ってきたこの駅の名をメモした。
それから1ヵ月以上再会する事は無かったが、みのるは鬼気迫る状況に追い詰められていた。
時々遊びに行く母のもとから戻ったある夕方、自宅に真一の姿は無かった。父親が家にいない事はいつもの事であったが、何故かあの香水の匂いがする。それは、みのるに呼吸を忘れさせるほどの衝撃を与えた。
自分が東京に行っている間に、真一は香水の女をこの家に連れ込んでいる。言い知れぬ怒りがこみ上げてきた。女に対する憤りと同時に、悲しさが溢れてくる。憤りはすぐに消えたが、悲しさは朝まで残った。一番つらかったのは、香水の女が自分の部屋にも入った事だ。
この香りの主が知らない人なら、真一は自分を捨てて、この女と生活するのだろうし、もし母親なら、自分を東京に連れ出す算段が付いているのかもしれない。どちらにしろ真一に捨てられるのだろう、と思わずにはいられなかった。
みのるにとって、お父さんは自分だけのお父さんでいてほしい。お父さんには男性でいてほしくない、と思っていた。だが、当の本人である真一は、そんなみのるの思いに気が付けずにいた。
みのるがそう思った時、頭に浮かんだのは早苗だった。
「みのる君にとってのお母さんは、とても大事な存在だと思いますよ。
何年も離れて暮らしているとはいっても、本当のお母さんなんですから、何にも代えがたい存在だと思います。
東京に行かなかったからといって、母親への愛情が無いわけではないと思いますよ。
新しい環境に不安を感じているんです。
父子家庭から母子家庭になる事よりも、転校先で友達が出来るかとか、そっちの方がストレスなんじゃないでしょうか。
私は、みのる君の好きにさせてあげた方が良いと思いますよ。
嫌がらせの件で、いつもお世話になっているし、私もみのる君が大好きですから、協力しますし。
それに・・・、それに、真一さんが楽になってくれたら、私も嬉しいですし」
聞き終わった後、真一は少し考えて言った。
「でも、最近また学校に行かなくなりつつあるみたいだし、心配なんだ。
元気が無いんだよ。疲れているっていうか、何か目が虚ろなときがあるんだ」
「そうですね、みのる君の話だと、お母さんが結構な教育ママらしいですし、お母さんから出された宿題のドリルをやらないといけないから、脳が疲れているんですよ。
慣れたら変わるかもしれませんけど、勉強で無理させすぎると潰れてしまう事もあるので、ほどほどにするようお母さんにもみのる君にも言った方が良いかもしれませんね。
実際、塾やお稽古を押し付け過ぎて、ふさぎ込んでしまうお子さんもいますから」
早苗は、なるべくポジティブな受け答えを心掛けたが、真一の心は晴れなかった。最近のみのるの目は、死んだ魚の様な時がある。目が座っているというより、眠くて瞼が閉じそうな見栄えだ。
真一は迷っていた。みのるが茨木に居たければいれば良いと言う早苗に対して、聖子は真逆の意見を言う。正確にはみのるの事を言っているわけではない。そもそも真一は、みのるの事情を聖子に話した事が無いから、彼女はみのるの行く末についての話はしない。
ただ、聞いていると、やはりみのるを東京へやった方が良いのではないか、と真一には思えてくる。
子供部屋まで聞こえてくる2人の声から、父親の考えを薄々感じ取っていたみのるは、早苗にすがるような想いを抱き始めていた。
みのるが早苗への気落ちを思い返していたちょうどその頃、真一は聖子を想っていた。
「真一さんは、最初の就職は東京だったんでしょう?もったいないですね、こっちに戻ってきちゃうなんて」
「どうして?」
「だって、転職しなければ、向こうで結婚して子供を生んで育てられたじゃないですか。
交通手段も発達しているから、ちょっと電車に乗れば自然の中にだって行けるしゃない?東京に自然が無いなんて言う人もいるけど、あんなの嘘ですよ。
23区外に行けば、奥多摩があるし、有名な高尾山だってあるでしょ。
やろうと思えば、大都市の良さも自然の良さも良いとこ取りに出来るじゃないですか。
人生の経験値はやりようで、東京の方が断然高く出来ますよ。
ここじゃデートもままならない、いつもこんなホテルじゃつまらないですよ。
かといって、遠くに行けるわけでも無いし。
東京だったら、真一さんともっと楽しく過ごせるのにな」
うつ伏せで話していた聖子は、真一の左腕に絡んで胸を押し当て、見つめ合ってにっこりとほほ笑む。
欲望から言えば、みのるを東京にやってしまいたい。かといって、父親としては早苗の言う様な親でいたい。真一は、早苗の所に居れば早苗の考えに染まり、聖子の所に居れば、聖子の考えに染まる。考えている様で、殆ど思考停止していた。
みのるはそんな父親の心の揺らぎを感じて、決心を決めかねていた。
「ねえ、おかあさん、お父さんと再婚する気はないの?」
「そうね、それは無いわね。
嫌いになったわけではないけど、また結婚するっていう愛情とは違うの。
結婚前は、ただ好きってだけで一緒に居られたけど、大人になるとそれだけじゃ一緒に居られないのね。
生活の事とか子育ての事とか」
「僕のせい?」
「違うわ、私達のせいよ。
親ってね、自分の人生観や夢を子供に託したくなるの。
子供に健やかに成長してほしいって思いは一緒なのに、その過程が違うから、心もすれ違ってしまうのね」
陽子の家には、知らない茨城県土産がある。たぶん会社の人にあげる物だろう。みのるは、両親の再婚があると期待しながらカマをかけてみたのだが、全くの空振りの様だ。
(もしかしたら、お姉ちゃんに僕が盗られるのが嫌だから、東京に引き取りたいのかな。
お父さんと会っているのは、僕をどうするか相談しているんだ)
みのるは、香水の匂いを好きになれなかった。何もつけない肌が放つ母性の香りに、みのるは飢えの渇きを覚えていた。真一と早苗が食器を洗っている時の疎外感が、子供部屋にいるみのるから安らぎを奪ってしまったからだ。
(この香り、この香りって、お母さんの香水と同じだ)
真一のスーツについた残り香だけでは、イランイランの香りしか嗅ぎ取れなかったから、東京で陽子の香水を宙に撒いてみた時、違う香りだと思った。だが、正に今嗅いでいる香りは、母親の香水と同じだと確信できる。
運悪く、駅を跨いだ幾つかの商店街で、可愛い女の子達を育成するゲームのイベントが執り行われていた。地元の無料マガジンを発行する会社の主宰で行われた町おこしイベントで、限定フィギアを手に入れようと、多くの男性ファンが参加していた。そのため駅は混雑している。
5、6人の女性が乗車してきたが、誰1人としてみのるの視界には入らない。ちょうど遊んでいた携帯ゲーム機で時間を確認し、香気を漂わせる女性が乗ってきたこの駅の名をメモした。
それから1ヵ月以上再会する事は無かったが、みのるは鬼気迫る状況に追い詰められていた。
時々遊びに行く母のもとから戻ったある夕方、自宅に真一の姿は無かった。父親が家にいない事はいつもの事であったが、何故かあの香水の匂いがする。それは、みのるに呼吸を忘れさせるほどの衝撃を与えた。
自分が東京に行っている間に、真一は香水の女をこの家に連れ込んでいる。言い知れぬ怒りがこみ上げてきた。女に対する憤りと同時に、悲しさが溢れてくる。憤りはすぐに消えたが、悲しさは朝まで残った。一番つらかったのは、香水の女が自分の部屋にも入った事だ。
この香りの主が知らない人なら、真一は自分を捨てて、この女と生活するのだろうし、もし母親なら、自分を東京に連れ出す算段が付いているのかもしれない。どちらにしろ真一に捨てられるのだろう、と思わずにはいられなかった。
みのるにとって、お父さんは自分だけのお父さんでいてほしい。お父さんには男性でいてほしくない、と思っていた。だが、当の本人である真一は、そんなみのるの思いに気が付けずにいた。
みのるがそう思った時、頭に浮かんだのは早苗だった。
「みのる君にとってのお母さんは、とても大事な存在だと思いますよ。
何年も離れて暮らしているとはいっても、本当のお母さんなんですから、何にも代えがたい存在だと思います。
東京に行かなかったからといって、母親への愛情が無いわけではないと思いますよ。
新しい環境に不安を感じているんです。
父子家庭から母子家庭になる事よりも、転校先で友達が出来るかとか、そっちの方がストレスなんじゃないでしょうか。
私は、みのる君の好きにさせてあげた方が良いと思いますよ。
嫌がらせの件で、いつもお世話になっているし、私もみのる君が大好きですから、協力しますし。
それに・・・、それに、真一さんが楽になってくれたら、私も嬉しいですし」
聞き終わった後、真一は少し考えて言った。
「でも、最近また学校に行かなくなりつつあるみたいだし、心配なんだ。
元気が無いんだよ。疲れているっていうか、何か目が虚ろなときがあるんだ」
「そうですね、みのる君の話だと、お母さんが結構な教育ママらしいですし、お母さんから出された宿題のドリルをやらないといけないから、脳が疲れているんですよ。
慣れたら変わるかもしれませんけど、勉強で無理させすぎると潰れてしまう事もあるので、ほどほどにするようお母さんにもみのる君にも言った方が良いかもしれませんね。
実際、塾やお稽古を押し付け過ぎて、ふさぎ込んでしまうお子さんもいますから」
早苗は、なるべくポジティブな受け答えを心掛けたが、真一の心は晴れなかった。最近のみのるの目は、死んだ魚の様な時がある。目が座っているというより、眠くて瞼が閉じそうな見栄えだ。
真一は迷っていた。みのるが茨木に居たければいれば良いと言う早苗に対して、聖子は真逆の意見を言う。正確にはみのるの事を言っているわけではない。そもそも真一は、みのるの事情を聖子に話した事が無いから、彼女はみのるの行く末についての話はしない。
ただ、聞いていると、やはりみのるを東京へやった方が良いのではないか、と真一には思えてくる。
子供部屋まで聞こえてくる2人の声から、父親の考えを薄々感じ取っていたみのるは、早苗にすがるような想いを抱き始めていた。
みのるが早苗への気落ちを思い返していたちょうどその頃、真一は聖子を想っていた。
「真一さんは、最初の就職は東京だったんでしょう?もったいないですね、こっちに戻ってきちゃうなんて」
「どうして?」
「だって、転職しなければ、向こうで結婚して子供を生んで育てられたじゃないですか。
交通手段も発達しているから、ちょっと電車に乗れば自然の中にだって行けるしゃない?東京に自然が無いなんて言う人もいるけど、あんなの嘘ですよ。
23区外に行けば、奥多摩があるし、有名な高尾山だってあるでしょ。
やろうと思えば、大都市の良さも自然の良さも良いとこ取りに出来るじゃないですか。
人生の経験値はやりようで、東京の方が断然高く出来ますよ。
ここじゃデートもままならない、いつもこんなホテルじゃつまらないですよ。
かといって、遠くに行けるわけでも無いし。
東京だったら、真一さんともっと楽しく過ごせるのにな」
うつ伏せで話していた聖子は、真一の左腕に絡んで胸を押し当て、見つめ合ってにっこりとほほ笑む。
欲望から言えば、みのるを東京にやってしまいたい。かといって、父親としては早苗の言う様な親でいたい。真一は、早苗の所に居れば早苗の考えに染まり、聖子の所に居れば、聖子の考えに染まる。考えている様で、殆ど思考停止していた。
みのるはそんな父親の心の揺らぎを感じて、決心を決めかねていた。
「ねえ、おかあさん、お父さんと再婚する気はないの?」
「そうね、それは無いわね。
嫌いになったわけではないけど、また結婚するっていう愛情とは違うの。
結婚前は、ただ好きってだけで一緒に居られたけど、大人になるとそれだけじゃ一緒に居られないのね。
生活の事とか子育ての事とか」
「僕のせい?」
「違うわ、私達のせいよ。
親ってね、自分の人生観や夢を子供に託したくなるの。
子供に健やかに成長してほしいって思いは一緒なのに、その過程が違うから、心もすれ違ってしまうのね」
陽子の家には、知らない茨城県土産がある。たぶん会社の人にあげる物だろう。みのるは、両親の再婚があると期待しながらカマをかけてみたのだが、全くの空振りの様だ。
(もしかしたら、お姉ちゃんに僕が盗られるのが嫌だから、東京に引き取りたいのかな。
お父さんと会っているのは、僕をどうするか相談しているんだ)
みのるは、香水の匂いを好きになれなかった。何もつけない肌が放つ母性の香りに、みのるは飢えの渇きを覚えていた。真一と早苗が食器を洗っている時の疎外感が、子供部屋にいるみのるから安らぎを奪ってしまったからだ。
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