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第1話 英雄は引きこもる、迷宮の最奥に
物語は終わってしまって、それはウォレスも知っている。今ここで横たわるウォレスも。黴臭い薄闇の中寝返りを打つウォレス、頭の下に硬い石畳、しかしそこに己から移った温もりと、慣れた寝心地の良さを感じるウォレスも。抱えたガラス瓶の中、眠たげに酒が揺れる。
と、ウォレスは目を開ける。同時に左手は酒瓶を置いて傍らに置いた剣の鞘をつかんでいたし、体は音も立てず起き上がり、片膝をついた姿勢になっていた。そのどれもが意図して行なったものではなく、ただの癖だった。背中へ、石畳を通して震動を感じたときの。
滑るような足取りで歩き、入口脇の石壁へ背をつける。瘤でもできたかのように筋肉が膨れた胸元へ、同じく膨れた左腕に抱えられた剣を寄せる。右手はその柄へ添えていた。柄を上、鞘を下へ引くことで、閉所であっても即座に抜き打てる体勢。
「くぁ……あ」
隙のなさとは裏腹に、ウォレスは一つ大あくびした。大げさ過ぎると自分を思った。寝転がっていたとき、石畳を通じて聞こえた足音は六人。鎧に身を包んだ者が三人、そうでない者のうち、小さく音を立てる細かな道具を持つ者――解錠師の類だ――が一人、杖の音を立てる者――魔導師か療術師辺り――が二人。
大げさ過ぎる。人間同士、害されるいわれなどウォレスにはない。仮にそうでなかったとしても、だ。人間相手に、こんな武装はあまりに過剰だ。
ため息をついて剣を壁に立てかける。腰を下ろし、下着一枚履いただけの尻を石畳につける。手探りに酒瓶を取り、栓を抜く。
あの足音の辺りから、直線距離でおよそ五十歩。仮にここまで来るとして、たどり着くには――ウォレス以外で――よくて一時間。幾枝にも分かれて曲がりくねる迷宮の石壁と、古の時代から仕掛けられただろう罠と、徘徊する竜やら悪魔やらの類を越えてここまで来るには。
もっとも、着くこともできるかどうか。素人ならこの階の五百階前にすら来られない。中堅ならこの辺りへ自分が寄りつけるとは考えない。ベテランが来たなら九割九分は死ぬだろうし、達人なら約半数の死者で済むだろう。そういう所だった、喪失迷宮の最下層は。地の底、ウォレス・ヴォータックの今の住処は。
「しかしま……今さら、来る奴もないはずだがね。こんなとこに」
ウォレス・ヴォータックはつぶやいて、酒を一口呑み込んだ。壁に背を預ける。身につけた袖なしシャツのにおいが気になり、そろそろ洗濯に行くべきかと思う。
二時間ほどして。入口の鉄扉が叩かれたのと同時、ウォレスはそれを引き開けた。足音で四人が来ているのは分かっていたし、その内二人には聞き覚えがあった。
「久しぶりだな、呑るか?」
下着姿のまま酒瓶を掲げてウォレスは笑い。ドアの前で彼らは、鎧兜の下から血を流し、あるいは杖に寄りかかった体を震わせて足を引きずり。肩を荒く上下させて、四人とも血走った目を見開いていた。
長い金髪を汗で額に張りつかせたまま、サリウス――魔導師だ、少なくともかつて組んでいたときは――は何も言わなかった。かくり、と口を開けたまま、荒く息をつくのみだった。
同じ様子でいたアラン――戦士だ、最後の戦いが終わった後はパン屋を継いだと聞いたが、今もそうだろうか――は、額の血を拭い、大きく息をついた。兜の端からは逆立った前髪が黒くのぞいている。
「ありがとう、その、それより――」
アランが後ろの二人に目を向ける。ひどく不安げに辺りの通路を見回す二人、片方は血の滴る脇腹を押さえた戦士。もう片方は青ざめて震える、療術師らしい男。仲間の傷を放っているところを見ると、もう魔力など使い果たしたのだろう。杖にすがりついて震えるばかりだった。
不精髭の伸びる顎を、ウォレスは部屋の中へ向けてしゃくる。
「そうだな、まず入れ。二人の死体は?」
気づいたときの足音は六人だったし今は四人。呑みながらの夢うつつではあったが、良くない物音も二度聞こえた。
言われて後ろの二人が、跳ねるように肩を震わせる。アランはうつむき、サリウスは硬い表情で口を開く。
「……喪失だ、飲まれちまった、一人は。できれば運びたかったけどよ……もう一人は頭から――」
「気の毒だ。ま、入れ」
笑ったままでそう言って、ウォレスは再び部屋の中を示す。
死にそうな戦士と震えるだけの療術師は、狂人を見る目でウォレスを見た。薄明かりの灯された部屋で、座らされたかと思うと手当てもなされずカップを突き出され、酒精の香る液体を注がれたから。
石畳の部屋に下着のまま、ウォレスはどっかと座りこむ。仲間だった二人の方へボトルを置き、床を手で示した。
「ま、適当に。カップそれしかなくてな、お前らはボトルで呑ってくれ」
二人は床に腰を下ろす。瓶の中で揺れる唐黍酎の琥珀色を見、手に取った瓶の口から匂いをかいで、弾かれたように顔を上げた。
「ウォレスお前……」
「まさかこれ、全部そうかよ……!」
「ああ、場所取るんで小瓶は捨てたが」
仲間だった二人は顔を見合わせた後、急き立てるように、他の二人へ呑み干すように言った。
不安げに顔を引きつらせながら顔を見合わせた後、戦士と療術師は一息に呑み込む。
焼けるようだ、と思っただろう。酒精で喉が、胃が。燃えるようだ、と思っただろう。血を流す傷口が。裂けていた肉が、ひびの入った骨が。燃え上がるようだったろう、疲れ切った腕が脚が、ちぎれそうだった肺が、縮こまっていた心臓が、血の足りない全身の肉と枯れ果てたような脳髄が。
思っただろう、燃え尽きて一度灰になって、それから生まれ直したようだと。
呑み干した二人は己の体をさすっていた。血を流していたはずの傷口を、折れかけていたはずの脚を探っていた。傷などどこにもなかったし、肌の荒れさえ一つもなかった。乱れ切っていた呼吸は傍から見ても、正常な速さに戻っていた。
ボトルの中身を見つめてアランが言う。
「『不死鳥の唐黍酎』……死人すら蘇る霊酒か」
固い顔でサリウスが言う。
「オレが呑んだのは三回だけだったな。最後の戦い直前と、その真っ最中。死にかけて一回……その後死んでから一回」
ウォレスは不精髭の散る頬を緩ませた。
「だったな、あんときゃ焦ったもんだ。今日は大丈夫だ、ゆっくりと味わえよ」
「いや、オレたちは大丈夫だ。こんな貴重なもんを」
ウォレスたちが共に戦っていた頃も、『不死鳥の唐黍酎』は貴重だった。稀に売られていたとしても高価過ぎたし――近衛兵の年収でいえば一年分余り――、魔物が――迷宮に潜む魔物は概して意地汚く、何かしらを溜め込む習性がある――宝として隠し持っていることも稀だった。三口分ほどが入った小瓶にして二十三本、入手できたのはそれだけだった。そしてそれらがあったから、どうにかこうにか邪神を倒せた。
ウォレスは何も言わず、横から木箱を引き寄せる。底の端が石畳の継ぎ目に引っかかり、横倒しになる。転がり出たボトルの中身はいずれも同じ琥珀色で、二本は盛大に割れて焼けつくような芳香をぶちまけた。
二人が割れたボトルの方へ、悲鳴を上げて跳びつくのも目にくれず。ウォレスは別の木箱を両手にそれぞれ抱え、二人の前に音を立てて置いた。そしてもう一度、別の木箱を抱えてきて置く。もう一度別の木箱を二つ。また二つ。また二つ。また二つ。最後に一つ。
そうして壁際に歩き、床に敷いた鉄板の上、横倒しに五つ並べた酒樽の上に腰を下ろす。
サリウスが震える手で樽を指差す。
「それ、まさかよ……」
ウォレスは何も言わず、樽の蓋に付けた木製の蛇口を捻る。同じ香りを立てる琥珀色の液体を掌で受け、溢れかけたところで口元へ運ぶ。音を立ててすする『不死鳥の唐黍酎』は、大部分が手から石畳へこぼれた。
「お前、どれだけ戦えば、こんなに……」
つぶやいて歩み寄ったアランは手前で急に立ち止まった。その目は樽でもウォレスでもなく、その向こう。部屋の奥へと向けられていた。
気づいたのだろう、敷かれた鉄板の上、辺り一面に並ぶ、背丈ほどもある棚に。というよりも、その棚に詰め込まれているものに。
まるで暖炉にくべる薪ででもあるかのように、ぎっしりと積み重ねられた剣。紐でくくられた槍の束。長柄斧と片手斧、大きさ順に並べようとして挫折したみたいに途中から向きさえばらばらに、柄があちらこちらに飛び出したまま詰め込まれた棚。それにすら飽いたとばかりに、投げ込むように置かれた鎧や魔導杖、しわくちゃの魔法衣、棚の側面に投げ刺された短剣の群れ。間の通路を塞いで積み重なる剣の杖の盾の鎖鎧の薬瓶の兜の大鎚の魔法書の篭手の宝石の鎖鎌の剣の槍の刀の、山。崩れでもすれば人など容易く飲み込む、文字通りの山。
アランは何も言わなかった。口を開けたまま、足元に転がる剣の一本を拾う。埃にまみれて靴跡すらついた鞘から抜き放たれたそれは、闇を裂いて白く澄んだ光を辺りへ投げかけた。反射などではなく、それ自体が光を、斬りつけるように放っていた。翼をかたどった鍔を持つそれはかつて、邪神と戦うため長く探し求めた剣と同じもの。今アランの腰にある、『絶聖剣』と同じもの。
ウォレスは頬を緩めた。
「おっ! 懐かしいなそれ。そうだ、予備に何本か持ってくか? 確かもっときれいなのが……」
ウォレスは棚に詰め込まれた武具を床へ放り出し始めた。上の方に手が届かず、それらを踏みつけて手を伸ばす。
悲鳴のようにアランが声を上げる。
「いや、いい、いいんだ! それより――」
懐をまさぐり、細い金属製の筒を出す。
「――用があって来たんだ。王宮からウォレスにだ、依頼だという話だけど……内容はおれたちも知らない」
手渡されたそれは赤い蝋で封じられ、王宮の印が押されていた。
「そうか、ありがとう」
ウォレスは蝋をちぎりながら栓をひねり、中の文書を取り出す。折り畳んでは破り捨てた。細かく、細かく。
「お前……」
「何やってんだ!」
二人はウォレスに怒鳴り、紙片を拾い集めようとかがみかけて、やめていた。無駄だと知っているからだ。喪失迷宮を旅した者なら当然、みんな無駄だと知っている。
ウォレスは掌を上に向け、弄ぶように振ってみせる。
「三年だっけ? 四年? もういいだろ、魔王はとっくに倒したんだ。奪われた秘宝もさらわれた姫も取り返した、召喚された邪神だって倒した。天変地異は治まって、結果、国は救われた。他に何を頼むことがある? することなんて何がある?」
強くしかめた顔を二人に寄せる。
「お前らだってそうだ、呑みにでも来たかと思やあ久々に会っていきなり用事だ? だいたい他の三人はどうした、戦友の顔を見たくもないってか」
サリウスは視線をそらす。
「忙しいんだよ、公務だ、二人は。近衛士団長と大司教だ、オレらみたいな民間とはそりゃ違うっての」
「ああそうかお偉くなったらキレイさっぱりか仲間の顔も迷宮の道順も! もう一人は」
アランが小さく笑う。腹の前で手を動かしてみせた。大きく丸くなでるように。
「これだよ、うちのは。三人目が腹にいる」
「ほーん……」
顎の髭をこすりながらウォレスは目をそらした。二人が当時つき合っていたとか、そういうことは記憶にない。結婚したとかどうとかも――いや、多分、聞くには聞いたのだろう。四年だか五年だかの歳月が記憶を押し流してしまっただけで。
遠くを見る目でアランが言う。
「もうすぐ九年か……最後の戦いが終わってから」
髭をこする手が止まる。ウォレスは慌てて何度もうなずく。
「あ、ああ、長いもんだな」
「けど」
アランが部屋の中を見渡す。うず高く詰まれた武具と転がる酒瓶を。
「それから……お前はどれだけ戦ってたんだ」
答えずウォレスは酒瓶を拾う。一本ずつ二人へ放った。
「それより友よ、乾杯しよう。そして帰れ」
二人は目を見合わせ、何も言わず、ウォレスとボトルをかち合わせた。
二人は一口呑んでボトルを置く。他の二人――王宮からつけられた兵士や宮廷療術師か、雇われた冒険者か――を促し、出口へと歩いた。
アランが振り返る。
「じゃあ、また。手紙を渡せって依頼はまあ、済んだしね。書かれてた中身は王宮行って聞いた方がいいと思うよ。そんときはついでに、うちのにも顔を見せてやってくれ」
流すようにそう言って扉に手をかけた。
「待て……待てよ、待ってくれ、ちょっとよ」
顔をそらしてそう言った、ウォレスの目がたまたま床の一角を横切る。石畳の上に敷いた鉄板、その上に脱ぎ散らかした衣服の山。
「送る、送ってくよ、なぁに。丁度洗濯に行きたかったんだ」
散らばる汚れものや何やらを籠に詰め込み、剣を差した剣帯を下着の上から着ける。その姿を療術師ともう一人の戦士が、狂人を見る目で見つめていた。
籠を揺すり、積み上がった汚れもののバランスを取る。その拍子に、下着に引っかかっていた文書の破片が床へと舞い落ちた。床に落ちたその一片はまるで雪が融けるように、床へ染み込んでいくように、石畳の上に消えた。不死鳥の唐黍酎をこぼした辺りも、瓶の破片が散らばる他は染みの跡すら残っていなかった。喪失迷宮はそういう場所で、住むに便利な所ではない。
と、ウォレスは目を開ける。同時に左手は酒瓶を置いて傍らに置いた剣の鞘をつかんでいたし、体は音も立てず起き上がり、片膝をついた姿勢になっていた。そのどれもが意図して行なったものではなく、ただの癖だった。背中へ、石畳を通して震動を感じたときの。
滑るような足取りで歩き、入口脇の石壁へ背をつける。瘤でもできたかのように筋肉が膨れた胸元へ、同じく膨れた左腕に抱えられた剣を寄せる。右手はその柄へ添えていた。柄を上、鞘を下へ引くことで、閉所であっても即座に抜き打てる体勢。
「くぁ……あ」
隙のなさとは裏腹に、ウォレスは一つ大あくびした。大げさ過ぎると自分を思った。寝転がっていたとき、石畳を通じて聞こえた足音は六人。鎧に身を包んだ者が三人、そうでない者のうち、小さく音を立てる細かな道具を持つ者――解錠師の類だ――が一人、杖の音を立てる者――魔導師か療術師辺り――が二人。
大げさ過ぎる。人間同士、害されるいわれなどウォレスにはない。仮にそうでなかったとしても、だ。人間相手に、こんな武装はあまりに過剰だ。
ため息をついて剣を壁に立てかける。腰を下ろし、下着一枚履いただけの尻を石畳につける。手探りに酒瓶を取り、栓を抜く。
あの足音の辺りから、直線距離でおよそ五十歩。仮にここまで来るとして、たどり着くには――ウォレス以外で――よくて一時間。幾枝にも分かれて曲がりくねる迷宮の石壁と、古の時代から仕掛けられただろう罠と、徘徊する竜やら悪魔やらの類を越えてここまで来るには。
もっとも、着くこともできるかどうか。素人ならこの階の五百階前にすら来られない。中堅ならこの辺りへ自分が寄りつけるとは考えない。ベテランが来たなら九割九分は死ぬだろうし、達人なら約半数の死者で済むだろう。そういう所だった、喪失迷宮の最下層は。地の底、ウォレス・ヴォータックの今の住処は。
「しかしま……今さら、来る奴もないはずだがね。こんなとこに」
ウォレス・ヴォータックはつぶやいて、酒を一口呑み込んだ。壁に背を預ける。身につけた袖なしシャツのにおいが気になり、そろそろ洗濯に行くべきかと思う。
二時間ほどして。入口の鉄扉が叩かれたのと同時、ウォレスはそれを引き開けた。足音で四人が来ているのは分かっていたし、その内二人には聞き覚えがあった。
「久しぶりだな、呑るか?」
下着姿のまま酒瓶を掲げてウォレスは笑い。ドアの前で彼らは、鎧兜の下から血を流し、あるいは杖に寄りかかった体を震わせて足を引きずり。肩を荒く上下させて、四人とも血走った目を見開いていた。
長い金髪を汗で額に張りつかせたまま、サリウス――魔導師だ、少なくともかつて組んでいたときは――は何も言わなかった。かくり、と口を開けたまま、荒く息をつくのみだった。
同じ様子でいたアラン――戦士だ、最後の戦いが終わった後はパン屋を継いだと聞いたが、今もそうだろうか――は、額の血を拭い、大きく息をついた。兜の端からは逆立った前髪が黒くのぞいている。
「ありがとう、その、それより――」
アランが後ろの二人に目を向ける。ひどく不安げに辺りの通路を見回す二人、片方は血の滴る脇腹を押さえた戦士。もう片方は青ざめて震える、療術師らしい男。仲間の傷を放っているところを見ると、もう魔力など使い果たしたのだろう。杖にすがりついて震えるばかりだった。
不精髭の伸びる顎を、ウォレスは部屋の中へ向けてしゃくる。
「そうだな、まず入れ。二人の死体は?」
気づいたときの足音は六人だったし今は四人。呑みながらの夢うつつではあったが、良くない物音も二度聞こえた。
言われて後ろの二人が、跳ねるように肩を震わせる。アランはうつむき、サリウスは硬い表情で口を開く。
「……喪失だ、飲まれちまった、一人は。できれば運びたかったけどよ……もう一人は頭から――」
「気の毒だ。ま、入れ」
笑ったままでそう言って、ウォレスは再び部屋の中を示す。
死にそうな戦士と震えるだけの療術師は、狂人を見る目でウォレスを見た。薄明かりの灯された部屋で、座らされたかと思うと手当てもなされずカップを突き出され、酒精の香る液体を注がれたから。
石畳の部屋に下着のまま、ウォレスはどっかと座りこむ。仲間だった二人の方へボトルを置き、床を手で示した。
「ま、適当に。カップそれしかなくてな、お前らはボトルで呑ってくれ」
二人は床に腰を下ろす。瓶の中で揺れる唐黍酎の琥珀色を見、手に取った瓶の口から匂いをかいで、弾かれたように顔を上げた。
「ウォレスお前……」
「まさかこれ、全部そうかよ……!」
「ああ、場所取るんで小瓶は捨てたが」
仲間だった二人は顔を見合わせた後、急き立てるように、他の二人へ呑み干すように言った。
不安げに顔を引きつらせながら顔を見合わせた後、戦士と療術師は一息に呑み込む。
焼けるようだ、と思っただろう。酒精で喉が、胃が。燃えるようだ、と思っただろう。血を流す傷口が。裂けていた肉が、ひびの入った骨が。燃え上がるようだったろう、疲れ切った腕が脚が、ちぎれそうだった肺が、縮こまっていた心臓が、血の足りない全身の肉と枯れ果てたような脳髄が。
思っただろう、燃え尽きて一度灰になって、それから生まれ直したようだと。
呑み干した二人は己の体をさすっていた。血を流していたはずの傷口を、折れかけていたはずの脚を探っていた。傷などどこにもなかったし、肌の荒れさえ一つもなかった。乱れ切っていた呼吸は傍から見ても、正常な速さに戻っていた。
ボトルの中身を見つめてアランが言う。
「『不死鳥の唐黍酎』……死人すら蘇る霊酒か」
固い顔でサリウスが言う。
「オレが呑んだのは三回だけだったな。最後の戦い直前と、その真っ最中。死にかけて一回……その後死んでから一回」
ウォレスは不精髭の散る頬を緩ませた。
「だったな、あんときゃ焦ったもんだ。今日は大丈夫だ、ゆっくりと味わえよ」
「いや、オレたちは大丈夫だ。こんな貴重なもんを」
ウォレスたちが共に戦っていた頃も、『不死鳥の唐黍酎』は貴重だった。稀に売られていたとしても高価過ぎたし――近衛兵の年収でいえば一年分余り――、魔物が――迷宮に潜む魔物は概して意地汚く、何かしらを溜め込む習性がある――宝として隠し持っていることも稀だった。三口分ほどが入った小瓶にして二十三本、入手できたのはそれだけだった。そしてそれらがあったから、どうにかこうにか邪神を倒せた。
ウォレスは何も言わず、横から木箱を引き寄せる。底の端が石畳の継ぎ目に引っかかり、横倒しになる。転がり出たボトルの中身はいずれも同じ琥珀色で、二本は盛大に割れて焼けつくような芳香をぶちまけた。
二人が割れたボトルの方へ、悲鳴を上げて跳びつくのも目にくれず。ウォレスは別の木箱を両手にそれぞれ抱え、二人の前に音を立てて置いた。そしてもう一度、別の木箱を抱えてきて置く。もう一度別の木箱を二つ。また二つ。また二つ。また二つ。最後に一つ。
そうして壁際に歩き、床に敷いた鉄板の上、横倒しに五つ並べた酒樽の上に腰を下ろす。
サリウスが震える手で樽を指差す。
「それ、まさかよ……」
ウォレスは何も言わず、樽の蓋に付けた木製の蛇口を捻る。同じ香りを立てる琥珀色の液体を掌で受け、溢れかけたところで口元へ運ぶ。音を立ててすする『不死鳥の唐黍酎』は、大部分が手から石畳へこぼれた。
「お前、どれだけ戦えば、こんなに……」
つぶやいて歩み寄ったアランは手前で急に立ち止まった。その目は樽でもウォレスでもなく、その向こう。部屋の奥へと向けられていた。
気づいたのだろう、敷かれた鉄板の上、辺り一面に並ぶ、背丈ほどもある棚に。というよりも、その棚に詰め込まれているものに。
まるで暖炉にくべる薪ででもあるかのように、ぎっしりと積み重ねられた剣。紐でくくられた槍の束。長柄斧と片手斧、大きさ順に並べようとして挫折したみたいに途中から向きさえばらばらに、柄があちらこちらに飛び出したまま詰め込まれた棚。それにすら飽いたとばかりに、投げ込むように置かれた鎧や魔導杖、しわくちゃの魔法衣、棚の側面に投げ刺された短剣の群れ。間の通路を塞いで積み重なる剣の杖の盾の鎖鎧の薬瓶の兜の大鎚の魔法書の篭手の宝石の鎖鎌の剣の槍の刀の、山。崩れでもすれば人など容易く飲み込む、文字通りの山。
アランは何も言わなかった。口を開けたまま、足元に転がる剣の一本を拾う。埃にまみれて靴跡すらついた鞘から抜き放たれたそれは、闇を裂いて白く澄んだ光を辺りへ投げかけた。反射などではなく、それ自体が光を、斬りつけるように放っていた。翼をかたどった鍔を持つそれはかつて、邪神と戦うため長く探し求めた剣と同じもの。今アランの腰にある、『絶聖剣』と同じもの。
ウォレスは頬を緩めた。
「おっ! 懐かしいなそれ。そうだ、予備に何本か持ってくか? 確かもっときれいなのが……」
ウォレスは棚に詰め込まれた武具を床へ放り出し始めた。上の方に手が届かず、それらを踏みつけて手を伸ばす。
悲鳴のようにアランが声を上げる。
「いや、いい、いいんだ! それより――」
懐をまさぐり、細い金属製の筒を出す。
「――用があって来たんだ。王宮からウォレスにだ、依頼だという話だけど……内容はおれたちも知らない」
手渡されたそれは赤い蝋で封じられ、王宮の印が押されていた。
「そうか、ありがとう」
ウォレスは蝋をちぎりながら栓をひねり、中の文書を取り出す。折り畳んでは破り捨てた。細かく、細かく。
「お前……」
「何やってんだ!」
二人はウォレスに怒鳴り、紙片を拾い集めようとかがみかけて、やめていた。無駄だと知っているからだ。喪失迷宮を旅した者なら当然、みんな無駄だと知っている。
ウォレスは掌を上に向け、弄ぶように振ってみせる。
「三年だっけ? 四年? もういいだろ、魔王はとっくに倒したんだ。奪われた秘宝もさらわれた姫も取り返した、召喚された邪神だって倒した。天変地異は治まって、結果、国は救われた。他に何を頼むことがある? することなんて何がある?」
強くしかめた顔を二人に寄せる。
「お前らだってそうだ、呑みにでも来たかと思やあ久々に会っていきなり用事だ? だいたい他の三人はどうした、戦友の顔を見たくもないってか」
サリウスは視線をそらす。
「忙しいんだよ、公務だ、二人は。近衛士団長と大司教だ、オレらみたいな民間とはそりゃ違うっての」
「ああそうかお偉くなったらキレイさっぱりか仲間の顔も迷宮の道順も! もう一人は」
アランが小さく笑う。腹の前で手を動かしてみせた。大きく丸くなでるように。
「これだよ、うちのは。三人目が腹にいる」
「ほーん……」
顎の髭をこすりながらウォレスは目をそらした。二人が当時つき合っていたとか、そういうことは記憶にない。結婚したとかどうとかも――いや、多分、聞くには聞いたのだろう。四年だか五年だかの歳月が記憶を押し流してしまっただけで。
遠くを見る目でアランが言う。
「もうすぐ九年か……最後の戦いが終わってから」
髭をこする手が止まる。ウォレスは慌てて何度もうなずく。
「あ、ああ、長いもんだな」
「けど」
アランが部屋の中を見渡す。うず高く詰まれた武具と転がる酒瓶を。
「それから……お前はどれだけ戦ってたんだ」
答えずウォレスは酒瓶を拾う。一本ずつ二人へ放った。
「それより友よ、乾杯しよう。そして帰れ」
二人は目を見合わせ、何も言わず、ウォレスとボトルをかち合わせた。
二人は一口呑んでボトルを置く。他の二人――王宮からつけられた兵士や宮廷療術師か、雇われた冒険者か――を促し、出口へと歩いた。
アランが振り返る。
「じゃあ、また。手紙を渡せって依頼はまあ、済んだしね。書かれてた中身は王宮行って聞いた方がいいと思うよ。そんときはついでに、うちのにも顔を見せてやってくれ」
流すようにそう言って扉に手をかけた。
「待て……待てよ、待ってくれ、ちょっとよ」
顔をそらしてそう言った、ウォレスの目がたまたま床の一角を横切る。石畳の上に敷いた鉄板、その上に脱ぎ散らかした衣服の山。
「送る、送ってくよ、なぁに。丁度洗濯に行きたかったんだ」
散らばる汚れものや何やらを籠に詰め込み、剣を差した剣帯を下着の上から着ける。その姿を療術師ともう一人の戦士が、狂人を見る目で見つめていた。
籠を揺すり、積み上がった汚れもののバランスを取る。その拍子に、下着に引っかかっていた文書の破片が床へと舞い落ちた。床に落ちたその一片はまるで雪が融けるように、床へ染み込んでいくように、石畳の上に消えた。不死鳥の唐黍酎をこぼした辺りも、瓶の破片が散らばる他は染みの跡すら残っていなかった。喪失迷宮はそういう場所で、住むに便利な所ではない。
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そのために努力を続け、順調に強くなっていくアベル。
しかしこの世界にはゲームには無かった知識ばかり。
戦闘もただスキルをブッパすればいいだけのゲームとはまったく違っていた。
「面白いじゃん?」
アベルはめげることなく、辺境最強の父と優しい母に見守られてすくすくと成長していくのだった。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。