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第34話 喪失迷宮の続き
しおりを挟むアレシアは言う。
「休眠時の餌のためにね。龍は喚び寄せるの、異界の魔物を。彼らが持つ宝も一緒に。そうして彼ら自身や、それを狩りにくる人を。龍は食べるの、彼らのうちで死んだものや――生餌は食べられないからね――、体内器官――罠のようなね――で仕留めたものを」
ウォレスはあの日へ向け、片手を掲げ返してみせた。
後ろでアレシアは言う。
「そうして今。わたしが龍を目覚めさせたのはね。迷宮の正体を知って怯え、邪魔する魔王もいなくなって。召喚された、邪神も死んで餌になって。それらを殺した、君が立派に育ったから。立派な餌に育ったから」
笑ったまま、ウォレスはあの日を見上げていた。
「へえ」
餌だのなんだのはどうでもいい。元々そういう関係だった、互いを食いものにしかしてこなかった、冒険者と迷宮は。
しかしまあ、どうだ、あれは。
あれのどこなんだ、覇王樹亭は? あれほどに振り回されては、店主といえど生きてはいまい。王女は――あるいは首のない魔王も――どうしたか。召使妖精館の女たちは住み込みではないだろうが、いなければいい。いたらまあ、気の毒に。
俺の部屋はどこだ、うなるほどに不死鳥の唐黍酎を貯め込んだ部屋は? 今頃は全てぶちまけられているだろうが。あれの一番端だろうが――どこなんだ?
あのひやりとした床に寝そべりたい。俺のにおいが染みついた部屋で朝となく夜となく――迷宮にそんなものはない――呑んだくれたい。あるいは覇王樹亭のカウンターで、麦酒をあおってぐだぐだと、げっぷを吐いて突っ伏したい。それに召使妖精館で、恥ずかしくなるほどのもてなしを受けながら長々と呑みたい、みんなで。笑い合って、乾杯しあって。
天の一角で体をくねらせ続けたまま、あの日がウォレスに顔を向けた。多分顔だろう、一番端で一番上だ。それはただの四角い、石の集まりで。ただ申し訳程度に、角のような二本の柱と小さな口――迷宮の入口――が見えた。
後ろでアレシアが言う。
「ねえ。……ねえ、ぼく」
返事をせずに見上げたままでいると、アレシアは前に回ってきた。
「ねえ。せっかく出てきた後でさ、こう言うのも悪いけど。喰われたらどう、ぼく。大人しく喰われたら」
目を向ければ、アレシアはうつむいていた。斬り落とされた手と指を絡め、胸の前で握り直していた。
「それがいいよ。だって、それで一番幸せじゃない、みんなが。龍が、君が、ついでにわたしも。君はそれで、ずっと一緒にいられるよ、わたしと、あの迷宮と。わたしも君と一緒がいいよ、知らない人より少しはね。一人はあんまり得意じゃないんだ」
笑ってウォレスの目をのぞき込む。
「ね、そうしよ、だいじょうぶ。苦しいのはほんの一瞬、わたしのときとは違ってさ」
ウォレスはアレシアの目を見返し、目をつむる。かぶりを振った。
「よせ。君はアレシアじゃない。俺は喰われたりしない」
アレシアの肩を押しのけ、前へ出る。風が緩く吹く中、大地のかけらがゆっくりと降る。
長く長く空でうごめく、あの日を見返して。ウォレスは刀を握り直した。口の端が吊り上がり、犬歯まで歯がのぞく。肩が、背が震えた。
しかし、なるほど。確かにこれはあの日かもしれない。だって、きっと大冒険だ。
つぶやく。
「来いよ、やろうぜ。望むところさ、続きならな」
あの日の続きなら。
それが聞こえたかのように、あの日は大きく頭を上げた。地鳴りのような声を上げ――声なのかは分からないが、少なくともそれは天を揺らし、ウォレスの鼓膜と刀を震わせ、肺の底さえ痺れさせた――、ウォレスへ向けて雪崩れ墜ちた。
天の端で小さかったそれが、ただ長いそれが近づくにつれて。ウォレスの顔が正直引きつる。
大きかった、それは。大きいという言葉で十分表現できる程度ではあったが、大きかった。視界を覆うほどだ、ウォレスの足で縦横約三百二十歩、それが迷宮の、一階層分の面積だった。あの日の――龍の――太さだった。
地を蹴って横へ跳び、連続で何度も跳び続け、あの日の突進からどうにか身をかわしたが。地の砂と共に巻き上がる風圧に、ウォレスの体が浮き上がる。地面へ、不様に腹から落ちた。
顔をしかめて立ち上がり、駆けて、さらに後へ続いて流れるあの日の胴――なのか、まだ胸なのかもう尾なのか――から身を離す。頭の方は地面すれすれを飛びながら、砂と一緒に森を――木々を、粉々に――巻き上げ。その先、離れた行く手には。街があった。ウォレスの生まれ育った街。王城の下、ディオンやアランたちが暮らす街。
「おい……!」
まだ続く尾――そうであって欲しい、胸や腹ではなく――から身をかわし、走り続けながら。あの日の――龍の――大きさを、ウォレスはそのとき初めて知った。天にあるときは分からなかった。遠かったからだけではない。周りに何もなかったから。比べるものがなかったから。
今やそれははっきり分かった。王城と大聖堂、それらを重ねても届くかどうかの高さ――その体の太さ――だった。そして横にも、きっちりと同じ幅。
あの日の頭は街を進んだ。石造り煉瓦造り土壁造りの家々が、みっしりと建ち並ぶ街を。行く手に何もないかのように、速度を落とすこともなく。まるで髭を剃るように、街は手もなく剃られていった。積み石を連ねたその体に、巻き起こす風に、壁を砕かれ屋根を巻き上げられ、その中のものもまとめて、ぞりぞりぞりと剃られていった。
ようやくあの日の尾がウォレスの前を過ぎた頃。あの日の行く手、高台の王城の上から、そのふもと、大聖堂の辺りから。それぞれ一斉に幾つも幾つも、数え切れないほどいくつもいくつも、炎の弾が放たれた。王宮や教会の魔導部隊か。
あの日の頭で爆ぜたそれらは、しかしわずかに石の破片を散らせただけで。唸りも上げず進むあの日に、王城は積み木のように崩されて。曲がりくねるその体が軽く触れ、大聖堂もへし折られて。砂埃のような破片が漂う中を、三尖塔がそれぞれに落ちていった。
ウォレスの唇が震える。
「おい。……おい……!」
ディオンは王城にいただろう。守備の指揮を取っていたはずだ、魔導部隊まで仕切っているかは知らないが。シーヤは大聖堂の方か。アランの店はどこだ? ヴェニィはあの腹で逃げられるか? サリウスと店は、俺たちの山獅子亭は?
街の方へと走りながら、ウォレスの顔が、手の指先が足が震える。体の温度が逃げていく、ただ高い空へ逃げていく。ひとしきり震え終わった後。息を吐いて歯を噛み締める。
「……おい」
知っている。ろくでもないとは知っている、迷宮が。待ち受ける幾多の罠に襲い来る異界の魔物、それでいて甘く惹きつける宝。その全てがろくでもない。
それはいい、知っている、お互い様だ。ウォレスも。ディオンたちも。アレシアも、王女も、何人もの――もう名前も、顔すら出てこない者もいる――昔の仲間も、他大勢の同業者も、喪失されていった者たちも。全員が全員、ろくでもない。
だが、とウォレスは思う。
お前は待っていただろう。ただ待っていただろう、俺たちがお前の中へ降りるまで、じっと待っていただろう。酒のようにただじっと。辛抱し切れない俺のような者にはともかくとして。それがどうだ、このざまは? その外でこのざまは?
迷宮じゃない。あの日じゃない、お前はもう。
ウォレスは唾を吐き捨てた。転移の呪文を唱え始める。
お前がそれでも、あの日だともしも言うのなら。今日で終いだ、悪ふざけは。あの日の続きは。
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