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piece4 裏切り
俺は、どこで間違えたんだろう
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***
健斗の気配が消え、体育館の中に自分ひとりであることを悟ると、剛士は力なく、その場に両膝をついた。
たったいま、裏切りを約束した唇は、カサカサに乾いていた。
――俺は、どこで間違えたんだろう
ぼんやりと、考える。
どうすれば、あの子を守れたかな。
どうすれば、一緒にいられる未来を掴めたかな。
どうすれば、彼女を裏切らずに済んだのかな……
こんなふうになる前に、彼女と恋人同士になっていれば、良かった?
告白するチャンスは、たくさんあったと思う。
2月14日、剛士の誕生日を祝ってくれた日。
拓真と彩奈の取り計らいで、2人きりになれたとき。
「好きだよ」と伝えるだけでなく、「付き合って欲しい」と、言えば良かった?
カンナが、悠里と剛士を引き裂くために用意した膨大な写真。
それらを焼いて処分するために、4人で夜の勇誠学園に忍び込んだ日。
エリカと写ったものではない、剛士の昔の写真を悠里に渡すために、2人でバスケ部の会議室に忍び込んだ。
カンナによって、身体も心も傷つけられて。
それでも剛士の――バスケ部の時間を損なわないようにと。
一人でじっと、我慢していた悠里。
思いきり、抱き締めた。
他の男に触れられ、脅えて悲しむ彼女から、恐怖を拭い去りたかった。
柔らかな長い髪に、小さな手と指に。
何度も、キスをした。
彼女の身体に残った辛い記憶を、自分の唇で、上書きしたかった。
悠里は、自分の大事な女の子なんだと。
言葉だけでなく、行動で伝えたかった。
――あのときに、彼女の唇を、攫ってしまえば良かった?
過去と決着をつけてからだなんて、下らない自己満足だった?
そんなことに固執しないで、悠里との新しい時間に、飛び込めば良かった?
どうして、時間はたくさんあると、思っていたのだろう。
こんなことになるなら、強引にでも。
悠里を、自分だけの女の子に、してしまえば良かった?
でも――
剛士は額に手を当て、力なく、かぶりを振る。
やっぱり剛士には、そうは思えなかった。
彼女に対して、少しでも、強引に関係を進めるような真似はしたくなかった。
彼女がそれを許してくれるまで、自分は「紳士」でいたかった――
悠里のストーカー事件が落ち着いてから、すぐのことだ。
4人でお茶をしたときに、何の気なしにした、恋の雑談を思い返す。
いままで誰とも付き合ったことはないと、言った悠里。
そんなふうに、誰かを思ったことはないの、と困ったように笑った悠里。
じゃあ、俺が立候補していい? と顔を覗き込むと、彼女は真っ赤になって慌てていた。
その表情が本当に可愛くて、笑ってしまった。
ああ、この子とは、ゆっくり大切に進んでいきたい。
そう思えたのだ。
その気持ちは、エリカと再会し、悠里を傷つけてしまったことで、より強固なものとなった。
元彼女に会って、動揺して、すぐ傍にいる悠里から目を背け、逃げた。
弱くて、情けない自分。
けれど悠里は、そんな自分にも真っ直ぐに向き合ってくれた。
剛士の過去の痛みを受け止め、『一緒にがんばる』と言ってくれた。
あの優しくて大きな瞳に涙を浮かべて、彼女が打ち明けてくれた、不安な気持ち。
『私ね。まだ、ゴウさんと過ごした時間が短いから……自信がないの』
『私、ゴウさんのこと、何も知らない……ゴウさんとの距離は、まだ遠いのかなって……』
剛士にくれた、ひたむきな願いごとが、忘れられない。
『だからね、ゴウさん。また一緒に、お出かけしたいな』
『これからも、私と一緒に、日常を過ごしてくれますか?』
彼女は、恥ずかしそうに小首を傾げ、微笑んだ。
差し出してくれた、小さくて暖かい手。
自分はその手をしっかりと握り、彼女を大事にすると、誓ったのだ。
一緒に過ごす時間を、少しずつ積み上げて、彼女の不安な気持ちを拭いたかった。
自分との日常に慣れて、少しずつ、自分のことを好きになって貰えたらいいと思った。
最初は、手を繋ぐだけでも、真っ赤になって俯いていた。
髪を撫でたら、恥ずかしそうに両手で、顔を隠してしまった。
そんな彼女がいつしか、自分から手を繋いでくるようになった。
髪を撫でると、嬉しそうに微笑んでくれるようになった。
初めて彼女を抱きしめたのは、剛士の誕生日サプライズの後。
ケーキとネックウォーマーのお礼に、何かして欲しいことはないかと、彼女に尋ねたときだった。
『抱きしめて欲しい……です』
頬を染めて、少し悪戯っぽく微笑んで、彼女がそう言ってくれた。
抱きしめると、彼女はおとなしく、剛士の腕の中でじっとしていた。
そんな彼女がいつしか、抱きしめると、甘えるように頬を擦り寄せてくるようになった。
バスケ部の会議室で抱きしめたときは、剛士の首に腕を回して、身体を預けてくれた――
ゆっくりと、彼女に近づいてきた。
友だちとして一緒にいながら、少しずつ、少しずつ。
大切な思い出が、とめどなく溢れ出す。
濁流のように流れ、堰き止めることのできない、熱い心の揺さぶり。
剛士は額に手をやり、固く目を閉ざす。
――せっかく、ここまできたのに。
少しずつ積み上げてきた、悠里との日常。
少しずつ築き上げてきた、信頼の証。
大きな目、優しい笑顔、柔らかな長い髪。
『ゴウさん』
自分を呼ぶ、可愛らしい声。
大切な、愛しい存在。
この手で、幸せにしたかった。
あの笑顔を、守りたかった。
ずっと傍に、いたかった。
ずっとずっと、あの子が笑っていられるように……
それなのに。
「……はは、」
剛士は自嘲の笑みを漏らした。
「結局、苦しめただけか……」
もう、自分の心には、彼女の笑顔が像を結ばない。
もう、彼女の涙しか、思い出せない――
カンナに、ユタカに、暴力を振るわれ、心も身体も傷ついた悠里。
泣いて、脅えて、剛士の手を拒絶した、あの悲しい瞳が蘇る。
彼女はきっといまも、深く、深く傷ついたままだ。苦しんだままだ。
そう、わかっているのに……
自分は、彼女から離れる。
自分はバスケ部を選び、彼女を、見捨てる。
自分は、彼女の全てを手放すと、決めてしまった。
「悠里……」
唇だけで、虚しく彼女の名をなぞる。
彼女を、裏切る。
自分が、そんな結末しか選べなくなるなんて、想像もしていなかった。
胸を押し潰すような苦しい動悸は、いつまで経っても治まらなかった。
健斗の気配が消え、体育館の中に自分ひとりであることを悟ると、剛士は力なく、その場に両膝をついた。
たったいま、裏切りを約束した唇は、カサカサに乾いていた。
――俺は、どこで間違えたんだろう
ぼんやりと、考える。
どうすれば、あの子を守れたかな。
どうすれば、一緒にいられる未来を掴めたかな。
どうすれば、彼女を裏切らずに済んだのかな……
こんなふうになる前に、彼女と恋人同士になっていれば、良かった?
告白するチャンスは、たくさんあったと思う。
2月14日、剛士の誕生日を祝ってくれた日。
拓真と彩奈の取り計らいで、2人きりになれたとき。
「好きだよ」と伝えるだけでなく、「付き合って欲しい」と、言えば良かった?
カンナが、悠里と剛士を引き裂くために用意した膨大な写真。
それらを焼いて処分するために、4人で夜の勇誠学園に忍び込んだ日。
エリカと写ったものではない、剛士の昔の写真を悠里に渡すために、2人でバスケ部の会議室に忍び込んだ。
カンナによって、身体も心も傷つけられて。
それでも剛士の――バスケ部の時間を損なわないようにと。
一人でじっと、我慢していた悠里。
思いきり、抱き締めた。
他の男に触れられ、脅えて悲しむ彼女から、恐怖を拭い去りたかった。
柔らかな長い髪に、小さな手と指に。
何度も、キスをした。
彼女の身体に残った辛い記憶を、自分の唇で、上書きしたかった。
悠里は、自分の大事な女の子なんだと。
言葉だけでなく、行動で伝えたかった。
――あのときに、彼女の唇を、攫ってしまえば良かった?
過去と決着をつけてからだなんて、下らない自己満足だった?
そんなことに固執しないで、悠里との新しい時間に、飛び込めば良かった?
どうして、時間はたくさんあると、思っていたのだろう。
こんなことになるなら、強引にでも。
悠里を、自分だけの女の子に、してしまえば良かった?
でも――
剛士は額に手を当て、力なく、かぶりを振る。
やっぱり剛士には、そうは思えなかった。
彼女に対して、少しでも、強引に関係を進めるような真似はしたくなかった。
彼女がそれを許してくれるまで、自分は「紳士」でいたかった――
悠里のストーカー事件が落ち着いてから、すぐのことだ。
4人でお茶をしたときに、何の気なしにした、恋の雑談を思い返す。
いままで誰とも付き合ったことはないと、言った悠里。
そんなふうに、誰かを思ったことはないの、と困ったように笑った悠里。
じゃあ、俺が立候補していい? と顔を覗き込むと、彼女は真っ赤になって慌てていた。
その表情が本当に可愛くて、笑ってしまった。
ああ、この子とは、ゆっくり大切に進んでいきたい。
そう思えたのだ。
その気持ちは、エリカと再会し、悠里を傷つけてしまったことで、より強固なものとなった。
元彼女に会って、動揺して、すぐ傍にいる悠里から目を背け、逃げた。
弱くて、情けない自分。
けれど悠里は、そんな自分にも真っ直ぐに向き合ってくれた。
剛士の過去の痛みを受け止め、『一緒にがんばる』と言ってくれた。
あの優しくて大きな瞳に涙を浮かべて、彼女が打ち明けてくれた、不安な気持ち。
『私ね。まだ、ゴウさんと過ごした時間が短いから……自信がないの』
『私、ゴウさんのこと、何も知らない……ゴウさんとの距離は、まだ遠いのかなって……』
剛士にくれた、ひたむきな願いごとが、忘れられない。
『だからね、ゴウさん。また一緒に、お出かけしたいな』
『これからも、私と一緒に、日常を過ごしてくれますか?』
彼女は、恥ずかしそうに小首を傾げ、微笑んだ。
差し出してくれた、小さくて暖かい手。
自分はその手をしっかりと握り、彼女を大事にすると、誓ったのだ。
一緒に過ごす時間を、少しずつ積み上げて、彼女の不安な気持ちを拭いたかった。
自分との日常に慣れて、少しずつ、自分のことを好きになって貰えたらいいと思った。
最初は、手を繋ぐだけでも、真っ赤になって俯いていた。
髪を撫でたら、恥ずかしそうに両手で、顔を隠してしまった。
そんな彼女がいつしか、自分から手を繋いでくるようになった。
髪を撫でると、嬉しそうに微笑んでくれるようになった。
初めて彼女を抱きしめたのは、剛士の誕生日サプライズの後。
ケーキとネックウォーマーのお礼に、何かして欲しいことはないかと、彼女に尋ねたときだった。
『抱きしめて欲しい……です』
頬を染めて、少し悪戯っぽく微笑んで、彼女がそう言ってくれた。
抱きしめると、彼女はおとなしく、剛士の腕の中でじっとしていた。
そんな彼女がいつしか、抱きしめると、甘えるように頬を擦り寄せてくるようになった。
バスケ部の会議室で抱きしめたときは、剛士の首に腕を回して、身体を預けてくれた――
ゆっくりと、彼女に近づいてきた。
友だちとして一緒にいながら、少しずつ、少しずつ。
大切な思い出が、とめどなく溢れ出す。
濁流のように流れ、堰き止めることのできない、熱い心の揺さぶり。
剛士は額に手をやり、固く目を閉ざす。
――せっかく、ここまできたのに。
少しずつ積み上げてきた、悠里との日常。
少しずつ築き上げてきた、信頼の証。
大きな目、優しい笑顔、柔らかな長い髪。
『ゴウさん』
自分を呼ぶ、可愛らしい声。
大切な、愛しい存在。
この手で、幸せにしたかった。
あの笑顔を、守りたかった。
ずっと傍に、いたかった。
ずっとずっと、あの子が笑っていられるように……
それなのに。
「……はは、」
剛士は自嘲の笑みを漏らした。
「結局、苦しめただけか……」
もう、自分の心には、彼女の笑顔が像を結ばない。
もう、彼女の涙しか、思い出せない――
カンナに、ユタカに、暴力を振るわれ、心も身体も傷ついた悠里。
泣いて、脅えて、剛士の手を拒絶した、あの悲しい瞳が蘇る。
彼女はきっといまも、深く、深く傷ついたままだ。苦しんだままだ。
そう、わかっているのに……
自分は、彼女から離れる。
自分はバスケ部を選び、彼女を、見捨てる。
自分は、彼女の全てを手放すと、決めてしまった。
「悠里……」
唇だけで、虚しく彼女の名をなぞる。
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