極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ

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Lesson 12 恋の媚薬

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 結局夜になっても勉強する気にはなれなかった。
 昼寝までしてしまったので、夜中に起きて勉強する羽目になった。
 すっかり冷めたコーヒーに口をつけつつ教科書と参考書と睨めっこをしてから1時間経っていて、もうそろそろ1時を回るところだ。
 いろんなことを考えすぎて、肝心のテスト勉強がまったく手に着かない。
 さんざん寝たにもかかわらず眠くて仕方ない。

 ――ああ、もう本当。やってらんないわ!

 んんっと大きく伸びをしたそのとき、コツンと窓ガラスに何かが当たる音がした。
 なんだろうと思いつつ窓を見る。
 またコツンと音がした。
 窓を開けて顔を出すと、すぐに声が降ってきた。

「お勉強、おつかれさん」

 その声に一瞬で心臓が凍りついた。
 嫌な汗まで噴き出してきて、生唾をごくりと飲み込んだ。
 それから声のしたほうへゆっくりと顔を向けた。
 隣の家のベランダでたばこをふかすジャージ姿の見慣れた顔がひとつある。
 にっこりとほほ笑みをうかべたその顔は、昼間見た顔とは違う私の知っている葵だった。

「なに? 俺の顔になんかついてる?」

 その言葉はどこか楽しげで、いつになく上機嫌に思えた。
 昼間のあの女の人となにかいいことでもしてきたのだろうか?
 そんな勘ぐりさえもしてしまう。

 ――嫌な女。

 自分だって葵のことは責められないことしていたのに――

「わからないとこはない?」

 ベランダに置いた灰皿に灰をトントンと落としながら葵は尋ねた。
 首を振る。
 わからないところを聞くほど勉強していないから。
 それに葵には勉強していないことを知られたくなかったし、言いたくなかった。

「そう。なら、いいけど」

 小さく首を傾げた葵はもう一度たばこをふかしてから、短くなったそれをギュッと灰皿に押しつけた。

「ヒナ、手出して」
「えっ?」
「いいから出して」

 胸の前に差し出すように手を出せと言われ、不審に思いつつも手を出してみる。
 そんな私に向かって葵がポンっとなにかを投げてよこした。
 出した手で必死に葵が投げてきた物をキャッチする。
 胸と手でしっかり抑え込んだそれを見る。
 赤いリボンの掛かった小さな箱が私の胸の中にあった。

「これ?」
「お詫び」
「え?」
「だからお詫び。大事なヒナを置いて仕事に行ったから、そのお詫び」

 にっこりとほほ笑む葵を直視できなくなって、箱に視線を移す。

 罪悪感。

 たぶん葵の口から『大事なヒナ』という言葉をもらったからなんだと思う。

「……開けてみていい?」
「どうぞ」

 リボンに手を伸ばしてゆっくりとほどく。
 シュルンッと音を立てながら滑るようにリボンがほどけていく。
 包装をはがすと出てくる箱の文字を追った。

『kids smile chocolate』

 黄色い箱に書かれた茶色の文字を読み終えると反射的に顔を上げた。

「ロイズのチョコ?」
「そう、ロイズのチョコ」

 嬉しそうに葵が笑う。

「なんでチョコか、わかる?」

 そう問う葵に私は首を振る。
 疲れたときに……ということなのだろうか? 

「まあ、ヒナが甘いものが好きだからっていうのもあるけどね。だけど今回はね、ちょっと別の意味もあるの」
「そう……なんだ」
「そう。実はね、チョコの香りには集中力や注意力、記憶力を高める効果があるんだよ。勉強のお供には持ってこいでしょ?」

 そう解説して葵はニッコリほほ笑んだ。

「うん……もってこいだ……ね」

 カテキョらしい差し入れというのか、お詫びの品というのか。
 あくまで『勉強』からは遠ざからないらしい。
 たしかに甘いものは好きだし、チョコも好きだし、もちろんロイズのチョコに文句なんてあるわけがない。
 だけど、なんか『そうじゃない』感が素直に喜ぶのを邪魔してくれるんだ。

「でもね、それだけじゃあなくてさ」

 じっとチョコの箱と睨めっこをし続ける私に、葵は尚も続けた。

「チョコは『恋』に効くんだよ」
「え!?」

 思わず顔を上げて葵を見る私に、葵は含んだような笑みを向けた。

「フェニルエチルアミン」
「は?」
「恋愛物質。目と目があったり、相手に触れたりしたとき、ドキドキするでしょ? そのときに脳内に分泌されるのがフェニルエチルアミン。それがチョコの成分に含まれてるんだよ」

 葵の言葉に胸がざわめきはじめる。

「あと、エンドルフィン」

 追い打ちでもかけるように、葵は続ける。

「モルヒネに似た構造を持つ脳内麻薬で『快感』をもたらす物質なんだけど、フェニルエチルアミンがエンドルフィンの分泌を促すんだよ」

『だからチョコを食べたときの感覚は恋愛での『快感』に似ているんだよ』

 葵の説明に胸の高鳴りがさらに加速していく。
 思わずギュッとチョコの箱を抱きしめてしまう。
 箱を抱く手がビリっと静電気が走るみたいに痺れ始める。
 そんな私を計算しているのか、いないのか、葵は大きく伸びをしてひとつあくびをして見せると「寝るかな」とつぶやいた。

「明日も仕事になっちゃって教えてやれなくなったけど、大丈夫だよな?」

 私の顔を伺うように首を傾げてみせる葵を直視できないまま、私は大きく二度うなずいた。
「よっし。それじゃあテスト、がんばれよ」

 ひらひらと手を振って、葵はゆっくりと部屋の中へと消えていく。
 窓が完全に閉まるのを見送ってから、私も部屋の中に戻る。
 椅子に深く腰を掛けながら、机の上にそっとチョコの箱を置いた。

 ゆっくりと箱を開く。
 規則正しくぎっしりと詰まったチョコ。
 その一つを無造作に選んで、包み紙をとく。
 2cm四方の板チョコをじっと見つめた後、一気に口の中に放り込んだ。
 口の中に転がすように舌の上に乗せて溶かす。
 甘い香りと味が口の中に溶けだして満たされる。

 しあわせな甘さ。

 張り詰めていたものがこの甘さの中に急速に溶け込んで消えていく。

『快感』

 葵の口から飛び出したそのフレーズに、いまだ心が高鳴ってドキドキと早鐘を打ち続けている。


 チョコレートは媚薬。

 ――チョコレートは『恋』の媚薬。

 口の中に溶けて消えていくチョコ。
 甘い媚薬が心の中に沁み込んでいく――

「……カッコよすぎなんだよ」

 チョコの包み紙をギュッと握りしめ、その拳を額に押しつけながらつぶやいた。
 口の中ではまだチョコの甘みが深く、深く広がり続けていた。
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