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第十九話 好きじゃないはずなのに……

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 なんて奴だ。
 なんて奴だ。
 なんて奴だ。

  休憩室から戻る足取りは大股かつがに股になっていた。
 ドスドスと歩くたびに地割れでも起こしそうな勢いで休憩室から撮影現場へ向かう。
 勿論、なんて奴だと毒づく相手であるバカホストは休憩室にそのまま置き去りにしている。

 見事なまでにきれいに決まった下段蹴りにもだえ苦しめ、バカホストめ!

『どうしてほしい?』

 なんて甘いささやきに

『大丈夫』

 なんて薄っぺらい気遣いに

『もっと感じたい?』

 なんて猛毒たっぷりな営業トークにほだされた結果がこれなんだから、自分のガードの甘さにほとほと呆れてしまう。
 
  しかしこんなことはもう二度とない。
  今回はたまたま間が悪かった。
 気を抜いた。
 ちょっとのぼせて我を忘れてしまっただけ!
  別に自ら身を任せたくてしたことじゃない!

 ――でも。

  ふと足がとまる。
 
  イライラは頂点だし、 ムカムカは吐き気を通り越している。
  カッカ、カッカと湯気が上げるほど頭にきているのは確かなのに、その一方で胸がチクチク、しくしくするのはなぜだろう?

『意地悪したくなっちゃったんだもん』

 その言葉にチクンチクンと小さな針で胸を突かれているような気分になっているのはなぜだろう?

  結局、あれは本気でとか、気持ちがあってとかじゃなくて、そういう現場に遭遇した男の性というか、据え膳食わねばなんとやらという美味しいシチュエーション取りこぼしてなるものかという男の本能ゆえの行動だったんだと言われたことに、どうしてこれほど胸が痛むのか。
 
 別にあんなバカホスト、好きでもなんでもないじゃない。
 薄っぺらい言葉を並べて、気を引くような行動や言葉を時折混ぜ込んで、こっちを揺さぶって、それを楽しんで金にするような男のことなんてこれっぽっちも好きじゃないのに、それでも胸が痛む。

『こんなにいじってるのに、なんでおまえって濡れねーの? なんか、本気でオレのこと好きなわけ?』

 ――なんで今そんな言葉がフィードバックするのよ!

 好きでもない男の責めに反応する体のくせに、好きになった男の責めにはなんにも反応しなかった。
 でもそれは自分だけのせいじゃない。
 充分濡らしてくれた後じゃなければ、ただ痛いだけだもの。
 それこそ拷問だというのに、男ってばなんにもわかってない。
 胸だって同じ。
 ちゃんとたくさんキスをして、脳内のマッサージをしてもらってから胸を触れてもらえたら格段に気持ちいい――はず。
 勘違い男による間違いだらけのセックステクに反応しなかった自分が悪いわけじゃないのに、精神的に追いつめられていた――それが私のセックスへの概念を変えていってしまったと思う。

 龍空とはキスもしていない。
 
 でも首筋へのあのキスは脳内をものすごくマッサージしていたんだと思う。
 あのとろける感覚は今まで味わってこなかった。
 唇と唇で交わすキスでさえ、あんなに濡れたことがなかった私の体。
 そして首の根元があんなに気持ちがいいものだってことも知らなかった。
 
 振り返って休憩室のあるほうを向く。

 ――もしもあのまま龍空としていたら……私は絶頂ってやつにたどり着けたのかな?

 休憩室の扉が開いてそこから龍空が姿を見せた。
 足を少し引きずって出てくる龍空の目が立ちどまる私を見つけてちょっとだけ見開いた後、柔らかな曲線を描いた。
 彼の唇が言葉を紡ぐ。
 だけど聞こえない。
 唇の動きで言葉を読めるような術なんて心得てない。
 それでも龍空が『ごめんね』と言ったような気がして、それが余計に胸のささくれを増やしてくれる。

 ――謝るくらいなら最初からするな、バカホスト!

 思いっきり舌を出して顔をそらした。
 撮影所へと戻ると、モニターの前に監督と高嶺の他に数名のスタッフが待っていた。

「遅いぞ、藤崎君」

 高嶺がちらりと私の姿を確認して声を掛けた。
 すごい違和感が襲う。

 ――藤崎君?

 敬称がついている。
 ううん。
 名前を呼んだよね?
 いつも『キミ』としか言わない人が?
「す……すみません」

 高嶺にすばやく頭を下げる。

「熱があるのか? 顔が赤いみたいだが」

 そう言って高嶺が真顔で近づいてきて私の額に自分のおでこを押し当てた。

 ――はい!?

 突然の高嶺の行動にひとしきり大きな音を心臓が立てる。

 ななななななに!?
 どういうこと!?
 これ現実!?

 昨日まではさんざん人のことを見下していた男が撮影後、人が変わったみたいに優しくするって。
 なにか悪いもの食べたの、この人?
 それとも改心したの?
 なに?
 なによ、これ!?

「お待たせしました~」

 背後から空気を読まない恐ろしく明るい声が飛んでくる。
 その人物がすぅっと自然に自分の隣に並び立って、私のおでこにくっついている高嶺の肩に手をかけた。

「なにやってるんすか?」
「部下の健康管理も上司としての務めだろう? それに彼女は今回の撮影のモデルなわけだしな」
「気安く触ってもらっちゃ困るんですけど。彼女はオレの特別な人なんで」
「私にとっても特別な女性なんだがね」
「先に見つけたのはオレだから」
「先と後ということなら私のほうがおまえよりも年上。兄には敬意を払うべきだ。おまえが引け」
「引かない」

 眼前で言い争いをする男2人。
 やはりだ。
 やはり高嶺は龍空の兄なんだ――と、こんな形で事実確認をすることになろうとは。
 高嶺が龍空の兄ということは、倫子さん含めて彼らは三兄弟ということになり……でもって龍空はうちの会社の社長ご子息様ということになる。

 ――なんてこと!

「あの……高嶺さん。よろしいですか? あと星野君はもう大丈夫?」
「はい、休憩室でゆっくりできたので」

『ね?』とこちらにウィンク投げて寄越してくるその足を踏みつける。

 ――社長の息子だろうと、上司の弟だろうと知ったこっちゃないわよ!

 「うぐっ」と痛みを押し殺した声が漏れ聞こえたがそこはスルーする。
 高嶺がくすっと『いい気味』と言いたげに笑ったことにカチンっと来て「すみません」と彼の体を押しのけた。
 監督がモニターを指して「早速だけど」と私たちを見たので、三人並んでモニターに近づいた。
 輪になって先ほど撮ったものを確認する。
 視線を交わして抱き合って、抱き合って、抱き合って、抱き合ってという映像を想像していたのに違った。
 私の口元をクローズアップしたものばかり――

 漏れる吐息。
 艶めかしく動く唇。
 光沢感のある唇に重なり合いそうになるもう一つの唇。
 
 そして最後は起き上がった状態で抱きしめ合いながらカメラに向く龍空の顔。
 想像よりも遥かに妖艶に見えて、思わず生唾を飲み込んでしまった。

「編集してナレーションをつければすごくいいと思うんだけどね。どうかな? なにか不満な点はありますかね? 物足りない点や撮りなおしたいところはあるかな?」
「オレはないです。初めから一発撮りのつもりでいましたから。最初にお伝えした通り、ちゃんと撮ってもらえていますし。本当、素晴らしいです。こちらから注文つけて申し訳ないくらいです」
「いやぁ、キミの提案にこちらはずいぶん困惑したけどね。いや、確かにこれ以上はないくらい彼女の情熱的な部分を引き出してくれたね。どう、アキさん? キミもこれで構わないかね?」

 突然、自分のほうに話を振られて「え?」と声が上がる。

「あ……その……綺麗に撮ってくださってありがとうございます」
「絵コンテとかなり変わっちゃったけど、高嶺さんもこれでいいとおっしゃってくださったんだ。ねえ、高嶺さん」
「ええ。きっと話題になると思いますよ、これは」
「じゃあそういうことで。顔は出さないようにうまく編集するから。また機会があったら是非撮らせてください」

 そう言って監督が私に向かって右手を差し出した。

「えっと……本当にありがとうございました」

 監督の手を握り返す。
 残った片手を添えてしっかり握手した監督は「本当にお疲れ様でした」とほほ笑むと「片づけするぞ」とスタッフに声を掛けた。
 監督の言葉でまたせわしくスタッフが動くのをぼんやりと見つめる。

「さて藤崎君。どこかで食事でもしようか? 撮影で疲れただろうから」

 そう高嶺に声を掛けられる。

「それには及びません。彼女はオレと食事に行くことになってますので。あっ、倫ちゃんも行きますけど? 亨兄もどうです? 倫ちゃんと久しく話してないでしょう?」

 龍空が私と高嶺の間に割って入ってにんまりと笑みを作った。
 龍空の放った『倫ちゃん』というワードに高嶺が眉をひそめた。

「倫兄がいるなら……またの機会にする。それじゃあ藤崎君。また別の機会に」

 これまで見たこともないような爽やかな笑みを浮かべると高嶺はくるりと踵を返していった。

「まったく油断も隙もないな、あの人は」

 龍空がぶうっと口を尖らせた。
 龍空と一緒に高嶺の後姿を見送りながら「ねえ」と声を掛けた。

「ん?」
「最初から打ち合わせ済みだったのね」

 そう突くと、龍空はコリコリとこめかみを人差し指で掻いて「まあね」と答えた。

「全部話しちゃったらきっとさ。愛希はもっと緊張してがちがちになって、思ったようなものを撮れないと思ったんだ。どんな人が見てもキレイだと思ってもらえる画を撮りたかったから。まあ、オレの想像以上にすごいもんが撮れちゃったわけだけど。だって一発であの堅物の部長様を落としちゃったくらいだし。やっぱり愛希、すごいや」
「私のこと、ちゃんと考えて行動したのよね?」
「そりゃもちろん」
「私利私欲のためじゃないのね?」
「いや、それは……ちょっとはある……かなあ……なんて?」
「ちょっとあんたねえ!」

 一歩踏み出した私を見た龍空は「待って待って」とすかさず両手を突き出した。
 それから私の耳元に口を寄せる。

「愛希ってばすごく感じる体質だから、これからが楽しみだね」

 そう言って白い歯をむき出してシシシ……と笑う。

 ――このお調子者を反省させるにはもうフルボッコしかないな。

 右手を大きく振りかぶってワンパンチ入れようとしたそのとき、パンパンッと手を叩く音が割入った。
 思わず二人揃ってそちらを振り返ると、龍空なんか目じゃないくらい意地悪な笑みを浮かべて佇んでいらっしゃる長身のオネエサマが片眉をつり上げて佇んでいらっしゃった。

『いつまでもジャレてんじゃねぇぞ、このヤロウ』

 鋭い眼光がそう投げかけている。

「飯……行こうか、愛希ちゃん」
「そうね」
「覚悟……できてる?」
「なんの?」
「さっきのあれやこれを掘り起こす気満々な顔、あの人してるからさ」
「……ああ……なんか、それはわかるような気がする」

 二人揃って手を後ろに回し小さく笑い、しっかり背筋を伸ばしてオネエサマに「ごめんなさい」をしてから着替えに戻る。
 そして今度は三人で撮影現場を後にする。


 かくして一週間後、編集された映像がコマーシャルとして日本中に放映されることになるのだが――それがまた私の人生に大きなビックウェーブを連れてくるなんていうことはこのときの私は想像すらしていなかったのだった。

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