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第二十五話 背に腹は代えられない
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ものすごい痛みが全身を襲っている。
どこもかしこも鉛みたいに重たくて、指先をわずかに動かすのがやっとだった。
目は開いているから視界は良好だけど、喉がカラカラに渇いているから声がうまく出せなかった。
痛みの正体はそう『筋肉痛』。
翌日に結果が出るということは若さの象徴でもある。
それにしたってこの倦怠感。
そしてこの痛みは尋常じゃない。
まあ、それぐらい体を酷使したということに他ならないんだけど、どうしたものか、どうしたものか、どうしたものか……
水飲みたい。
おなか空いた。
っていうか、服着たい。
記憶は昨夜帰宅したときまでで途絶えている。
ご飯を食べるような気力もなく、とにかくどっぷり疲れ果て、そしてなにより重たくなったまぶた。
汗にまみれてどうしようもなくなった体は汗臭くて、ぼんやりしながらシャワーを浴びたまではよかった。
体が温まってホッとしたのもあったんだ。
なにも着ないでベッドにダイブして、寒いなと思って目が覚めてみれば、ほら体が動きませんよという大惨事に至っている。
――どうしたもんかな、マジで。
何度となく悩んでみても打開策がまったく浮かばない。
体は重い。
疲労感は残っている。
そしてなによりちょっと動かすだけで痛いこの体が恨めしい。
ああ、こんなときに彼氏でもいようものなら電話でもして「助けてほしい」と言えるのに、生憎そういった相手はいない。
では親は?
こんなときに親なんか呼べるわけがない。
真っ裸で寝ている娘を見てどう思うだろう?
こんな姿を見られたら恥ずかしくて実家にもう帰れない。
助けてほしい。
本当に心から助けてほしい。
そうだ。
この際、人は選べない。
数少ない知り合いの中で助けてくれそうな相手を思い起こす。
美波……仕事中だろう。
倫子さん……女性に見えるけれど中身は男性。
倫子さんのお店のオネエサマ方、これも同じく中身が女性の男性ばかり。
龍空、問題外。
ピンポーン。
と、こんなタイミングで鳴る呼び出しチャイムに嫌な予感と、少しのラッキー感が入り混じる。
出れば助けを乞えるが、出た先にいる人物によっては地獄絵図だ。
時計は午前七時半。
お店に行くという約束の時間はすでに過ぎている。
となると、呼び鈴を押したのは心配して様子を見に来てくれた倫子あたりであってほしい。決してあのバカホストでないことを祈る。
祈る。
祈ります。
なんとか体をベッドから引きずり下ろす。
その反動で引きずられたシーツを引っ掴み、なんとなく体に巻きつける。
けれど立ち上がれるほど力の入らない体ゆえに、匍匐前進よろしく這うように玄関先へ向かう。
床に擦れる体も痛いが、途中の家具という障害物を避けるのに四苦八苦して動かす体はキシキシ痛んで、じっとしているよりもかなりつらい。
それでも何とかずり這って玄関に向かう。
首を無理やり動かしてドアノブを見ると、ラッキーというのか、安全性に欠けすぎているというか、玄関の鍵はしっかり開けられている。
扉さえ開けてくれれば誰でも中へ入ることが可能な状況だ。
あとは「開いてますよ」と言うだけなのだが、そもそも声がガラガラの状態でそれをどうつたえていいのやら……
またしてもチャイムが鳴る。
なかなか粘ってくれている。
二回もピンポンピンポン押してくれた。
わかってます。
私、ここまで来てますよという言葉が出ないだけなの。
そんなに何度もピンポン押さなくてもわかってますから、黙って扉を開けてもらえないだろうか?
沈黙が落ちる。
帰ったか。
足音は聞こえないから立ち去ったかんじもしないけど、黙ったまま扉の前で立っているのはなぜなのか?
瞬間、ドンドンドンドンとけたたましく扉を叩く音が響き渡り、目を見張る。
「愛希! 愛希! ねえ、なんで返事ないの! 出かけてる? ねぇ! どうしたの! 大丈夫!?」
という一番聞きたくない声が否応なく鼓膜に響き渡る。
ああ、神様はなんて無情なんだろう。
一番あり得ない人物をこうも寄越してくれるとは。
いや、この際背に腹は代えられないか。
裸に近い状況は見ている相手だし。
もっと恥ずかしいこともした相手だし……
――ええぃっ、ままよ!
腹を決めて扉に少し体を近づけてからコンコンと返す。
刹那、ドンドンという音も声も静まり返り、代わりにバンッと勢いよく扉が開かれた。
扉を開けた当人が部屋の中へ飛び込んでくる。
けれど、これもものすごく悪いことに飛び込んだ先に私の右手があったんだ。
龍空は思いっきり私の手を踏みつけた。
――いったあああぃっ!
「うわぁぁぁぁッッッッ!!」
私を見つけた瞬間に目を剥いた龍空が絶叫と共に扉を開けて外へ出ていく。
バンッと大きな音を立てて閉まる扉とともに、またしばしの沈黙がやって来る。
逃げたよな、あいつ。
叫び声あげて逃げたよな?
「なにやってるの、愛希ちゃん?」
扉をゆっくりと開けて、そろそろと入ってくる龍空が苦笑いを浮かべていた。
――それはこっちの台詞だ、バカホスト。
「……くれ」
「え? なに? もっとはっきり言って」
「たすけてくれ……」
か細い声で答え、彼の脚に縋る自分のなんと情けないことか。
状況がやっと掴めたらしい龍空は「ああ」というように大きくうなずくと、私の体をコロンと転がして仰向けにさせると膝をつき、私の両ひざを立たせてからひざ裏に腕を差し入れた。
膝を動かされるだけで強烈な痛みが走って思わず顔が歪む。
ラッキーなのは顔が筋肉痛でなかったことだけだ。
瞬間、体が重力を失ったかのように宙に浮く。
龍空が私のことをお姫様抱っこして静かに靴を脱いだ。
先ほどまで私が寝ていたベッドへと運んでくれる。
ベッドの頭側の背もたれを利用して座らせるような姿勢で私を下ろすと、そのままキッチンへ行って冷蔵庫から出した水をガラスコップに注ぎ入れて戻ってきた。
「飲める?」
小さくうなずく。
飲めなかったら口移ししようとこの男なら言いかねない。
案の定、グラスに己の口元を運ぼうとする龍空を睨みつけると「冗談だよお」と言いながら、コップを私の口元に近づけて飲ませてくれた。
冷たい水が渇ききった大地に吸い込まれるかのように喉を潤していく。
勢いよく水を飲みほした頃には、声はまともに出せるようになっていた。
「さっきなんで逃げたのよ?」
「だってホラーだったんだもん」
怖かったんだよと彼は苦笑いして続けた。
「髪がこうバサッと顔を覆ってさ。ホラー映画のあれみたいだったんだよね。ほら、シーツだったし、這ってたし……」
彼が説明したホラー映画はなんとなく察しができた。
それでも逃げることなかったんじゃないか――とツッコミたい元気が出てこない。
だって体がバッキバキに痛いんだもの。
「ねえ、愛希。筋肉痛、楽にしてあげようか?」
顔の筋肉を緩めた龍空がそう投げかけた。
明らかにヤマシイものが透けて見えている。
「だってさ、練習しないと間に合わないでしょ?」
時計をトントンと指さしながら言うあたりが憎らしい。
振り付けはなんとか体に覚え込ませたものの、完成度は低い。
マリリンの怒声が頭を横切っていく。
『あんた、明日もちゃんと来なさいよ! 来なかったら絞め殺すわよ!』
遅刻だって許された状況じゃなかろうに。
これでは指一本痛みで動かせない。
いや、そもそも行けないし。
「たまにはさあ、オレをとことん信じてみない? ほら、やらしいことはしないから、たぶん」
絶対と言うべきなのに『たぶん』と濁して笑うこの顔を思いっきり引っぱたきたい。
それでもあと4日でなんとかしないといけないのに、思い切り時間を無駄にしている。それならば、万に一つの可能性とやらに賭けてみようか。
もしもこいつがやましいことをしでかしたときは、体が動くようになってから死ぬほどそお返してやればいいだけの話だ。
「頼んだ……でも絶対に変なことしないでよね」
「うんうん。素直な愛希ちゃん、オレ大好きよ」
どうしたらこの減らず口を失くさせることができるんだろうか?
すると龍空はタンスのところまで歩いていくと「ねえ、下着どこ?」と振り返った。
「は?」
「パンツ穿いてる?」
「穿いてない」
「じゃ、とりあえず着替えしようよ。さすがにシーツじゃやりにくいもん」
「着替えてからなにするのよ?」
「そりゃ、筋肉痛治すんだよ」
語尾がウキウキ、ワクワクと上がっているように感じるのは勘違いではなかろうよ。
そう思いながら服の場所を龍空に教えると、躊躇せず龍空はそこを開けた。
「ベージュだらけ。あっ、黒がある。っていうか、全部レースとかお飾りついてないじゃん。おっ! 勝負下着見っけ。って、ピンク? ベージュに近いね、この色」
「悪かったわね。レースは洋服に響くから嫌なの。ベージュはなんにでも合わせられる万能ものなの。見た目より実用性重視で買ってるの。文句ある?」
「んー、オレ的につまんない」
「別にあんたを喜ばせるために買ってない」
「じゃあ今度、すごいのプレゼントするね!」
「いらない」
「それじゃあ、今度こっそりここに入れておくよ」
「犯罪だ」
「足すんだから盗まれるよりいいじゃん」
「そういう問題じゃない」
龍空は笑いながら下着を選ぶと、違う引出しからTシャツとハーフパンツを取り出して私の前に置いた。
「さて問題は着替えだけど……手伝ったほうがいい?」
「……手伝ってもらいたくない……けど……」
「けど?」
「着替えられない」
「了解。なるべく見ないように手伝うねぇ」
嬉々とした表情浮かべて、龍空は下着の端と端を両手で摘まむように持ち上げた。
楽しんでいる。
この男、心からこの状況を楽しんでいる!
ゆっくりと足を持ち上げて、下着を通す。
丁寧に、慎重に、肌に触れないように。
約束通り見ないように顔を横に背けながら、ゆっくりゆっくりと通していく。
そろそろと持ち上がる下着がなんともいやらしく感じるのは私だけなのか?
それでもなんとかしっかり下着は身につけられた。
それと同じように今度はハーフパンツに足が通る。
「なんかさ。すごくエッチな気分にならない?」
龍空がハーフパンツをあげながらそんなことを言い出した。
「余分なこと言わなくていいから、さっさとして」
「ああ、なんかそれ聞くとすごく興奮するね」
「あんたってやつは!」
「冗談だよお。そんなに怒らないで。うまく着替えさせてあげられないじゃない?」
コイツに頼んだ自分を呪おう。
それでも龍空は私の肌には触れないようにしっかり肌から離してハーフパンツも穿かせてくれた。
次は上着の番なのだが、龍空が選んだカーキ色のTシャツは少し小さめのサイズのもので、着たら体のラインがはっきりわかるものの上に、今はブラをつけてない。
「さすがにブラをつけるとなると、肌触らないわけにはいかないんだよねぇ」
「スポーツブラがあったでしょ?」
「あれ? あったけ?」
「いいから持ってきて!」
「なんだ……つまんない」
「リク!」
その一声にリクはしぶしぶ腰を上げ、また下着をあさりだした。
棚の奥のほうから見つけ出すと、戻ってきて私の腕を通した。
「生乳、拝みたかったなあ」
「その口に杭を突っ込もうか?」
「あはは。まあ、先のお楽しみにしようかなあ」
なんとしてもそっちへ話を持っていきたいらしい。
男って本当にどうしようもない生き物だ。
低俗というか、おバカというか。
「えっと、ごめん。ちょっと手首触るよ。一瞬痛いと思うけど、これは我慢ね」
そう言うと龍空は私に腕を組ませると、言った通り手首を持ち上げた。
首を通すと、また肌に触れないように静かにブラを脇下まで押し下げた。
Tシャツを着るときも同じことを繰り返した。
なんとか無事、裸という状況下からは脱出できたものの……さて、ここからが問題だった。
首をコキコキ鳴らして腕まくりをし、顔をパツパツ二回叩いて私をしっかり見つめる龍空がにやりといやらしい笑みを浮かべてた。
「さて、はじめようかぁ、愛~希ちゃん?」
ニシシシシ……これまでに見たこともないような悪寒のする笑顔を湛えた龍空に嫌な予感が背筋を這う。
逃げようにも逃げられない状況下で、龍空はお尻を軸にしていとも簡単に私の体を回転させた。
そう。
いとも簡単に。
ベッドサイトに足を下ろすような形に体を方向転換させると、覆いかぶさるように龍空は身を重ねてきたのだった。
どこもかしこも鉛みたいに重たくて、指先をわずかに動かすのがやっとだった。
目は開いているから視界は良好だけど、喉がカラカラに渇いているから声がうまく出せなかった。
痛みの正体はそう『筋肉痛』。
翌日に結果が出るということは若さの象徴でもある。
それにしたってこの倦怠感。
そしてこの痛みは尋常じゃない。
まあ、それぐらい体を酷使したということに他ならないんだけど、どうしたものか、どうしたものか、どうしたものか……
水飲みたい。
おなか空いた。
っていうか、服着たい。
記憶は昨夜帰宅したときまでで途絶えている。
ご飯を食べるような気力もなく、とにかくどっぷり疲れ果て、そしてなにより重たくなったまぶた。
汗にまみれてどうしようもなくなった体は汗臭くて、ぼんやりしながらシャワーを浴びたまではよかった。
体が温まってホッとしたのもあったんだ。
なにも着ないでベッドにダイブして、寒いなと思って目が覚めてみれば、ほら体が動きませんよという大惨事に至っている。
――どうしたもんかな、マジで。
何度となく悩んでみても打開策がまったく浮かばない。
体は重い。
疲労感は残っている。
そしてなによりちょっと動かすだけで痛いこの体が恨めしい。
ああ、こんなときに彼氏でもいようものなら電話でもして「助けてほしい」と言えるのに、生憎そういった相手はいない。
では親は?
こんなときに親なんか呼べるわけがない。
真っ裸で寝ている娘を見てどう思うだろう?
こんな姿を見られたら恥ずかしくて実家にもう帰れない。
助けてほしい。
本当に心から助けてほしい。
そうだ。
この際、人は選べない。
数少ない知り合いの中で助けてくれそうな相手を思い起こす。
美波……仕事中だろう。
倫子さん……女性に見えるけれど中身は男性。
倫子さんのお店のオネエサマ方、これも同じく中身が女性の男性ばかり。
龍空、問題外。
ピンポーン。
と、こんなタイミングで鳴る呼び出しチャイムに嫌な予感と、少しのラッキー感が入り混じる。
出れば助けを乞えるが、出た先にいる人物によっては地獄絵図だ。
時計は午前七時半。
お店に行くという約束の時間はすでに過ぎている。
となると、呼び鈴を押したのは心配して様子を見に来てくれた倫子あたりであってほしい。決してあのバカホストでないことを祈る。
祈る。
祈ります。
なんとか体をベッドから引きずり下ろす。
その反動で引きずられたシーツを引っ掴み、なんとなく体に巻きつける。
けれど立ち上がれるほど力の入らない体ゆえに、匍匐前進よろしく這うように玄関先へ向かう。
床に擦れる体も痛いが、途中の家具という障害物を避けるのに四苦八苦して動かす体はキシキシ痛んで、じっとしているよりもかなりつらい。
それでも何とかずり這って玄関に向かう。
首を無理やり動かしてドアノブを見ると、ラッキーというのか、安全性に欠けすぎているというか、玄関の鍵はしっかり開けられている。
扉さえ開けてくれれば誰でも中へ入ることが可能な状況だ。
あとは「開いてますよ」と言うだけなのだが、そもそも声がガラガラの状態でそれをどうつたえていいのやら……
またしてもチャイムが鳴る。
なかなか粘ってくれている。
二回もピンポンピンポン押してくれた。
わかってます。
私、ここまで来てますよという言葉が出ないだけなの。
そんなに何度もピンポン押さなくてもわかってますから、黙って扉を開けてもらえないだろうか?
沈黙が落ちる。
帰ったか。
足音は聞こえないから立ち去ったかんじもしないけど、黙ったまま扉の前で立っているのはなぜなのか?
瞬間、ドンドンドンドンとけたたましく扉を叩く音が響き渡り、目を見張る。
「愛希! 愛希! ねえ、なんで返事ないの! 出かけてる? ねぇ! どうしたの! 大丈夫!?」
という一番聞きたくない声が否応なく鼓膜に響き渡る。
ああ、神様はなんて無情なんだろう。
一番あり得ない人物をこうも寄越してくれるとは。
いや、この際背に腹は代えられないか。
裸に近い状況は見ている相手だし。
もっと恥ずかしいこともした相手だし……
――ええぃっ、ままよ!
腹を決めて扉に少し体を近づけてからコンコンと返す。
刹那、ドンドンという音も声も静まり返り、代わりにバンッと勢いよく扉が開かれた。
扉を開けた当人が部屋の中へ飛び込んでくる。
けれど、これもものすごく悪いことに飛び込んだ先に私の右手があったんだ。
龍空は思いっきり私の手を踏みつけた。
――いったあああぃっ!
「うわぁぁぁぁッッッッ!!」
私を見つけた瞬間に目を剥いた龍空が絶叫と共に扉を開けて外へ出ていく。
バンッと大きな音を立てて閉まる扉とともに、またしばしの沈黙がやって来る。
逃げたよな、あいつ。
叫び声あげて逃げたよな?
「なにやってるの、愛希ちゃん?」
扉をゆっくりと開けて、そろそろと入ってくる龍空が苦笑いを浮かべていた。
――それはこっちの台詞だ、バカホスト。
「……くれ」
「え? なに? もっとはっきり言って」
「たすけてくれ……」
か細い声で答え、彼の脚に縋る自分のなんと情けないことか。
状況がやっと掴めたらしい龍空は「ああ」というように大きくうなずくと、私の体をコロンと転がして仰向けにさせると膝をつき、私の両ひざを立たせてからひざ裏に腕を差し入れた。
膝を動かされるだけで強烈な痛みが走って思わず顔が歪む。
ラッキーなのは顔が筋肉痛でなかったことだけだ。
瞬間、体が重力を失ったかのように宙に浮く。
龍空が私のことをお姫様抱っこして静かに靴を脱いだ。
先ほどまで私が寝ていたベッドへと運んでくれる。
ベッドの頭側の背もたれを利用して座らせるような姿勢で私を下ろすと、そのままキッチンへ行って冷蔵庫から出した水をガラスコップに注ぎ入れて戻ってきた。
「飲める?」
小さくうなずく。
飲めなかったら口移ししようとこの男なら言いかねない。
案の定、グラスに己の口元を運ぼうとする龍空を睨みつけると「冗談だよお」と言いながら、コップを私の口元に近づけて飲ませてくれた。
冷たい水が渇ききった大地に吸い込まれるかのように喉を潤していく。
勢いよく水を飲みほした頃には、声はまともに出せるようになっていた。
「さっきなんで逃げたのよ?」
「だってホラーだったんだもん」
怖かったんだよと彼は苦笑いして続けた。
「髪がこうバサッと顔を覆ってさ。ホラー映画のあれみたいだったんだよね。ほら、シーツだったし、這ってたし……」
彼が説明したホラー映画はなんとなく察しができた。
それでも逃げることなかったんじゃないか――とツッコミたい元気が出てこない。
だって体がバッキバキに痛いんだもの。
「ねえ、愛希。筋肉痛、楽にしてあげようか?」
顔の筋肉を緩めた龍空がそう投げかけた。
明らかにヤマシイものが透けて見えている。
「だってさ、練習しないと間に合わないでしょ?」
時計をトントンと指さしながら言うあたりが憎らしい。
振り付けはなんとか体に覚え込ませたものの、完成度は低い。
マリリンの怒声が頭を横切っていく。
『あんた、明日もちゃんと来なさいよ! 来なかったら絞め殺すわよ!』
遅刻だって許された状況じゃなかろうに。
これでは指一本痛みで動かせない。
いや、そもそも行けないし。
「たまにはさあ、オレをとことん信じてみない? ほら、やらしいことはしないから、たぶん」
絶対と言うべきなのに『たぶん』と濁して笑うこの顔を思いっきり引っぱたきたい。
それでもあと4日でなんとかしないといけないのに、思い切り時間を無駄にしている。それならば、万に一つの可能性とやらに賭けてみようか。
もしもこいつがやましいことをしでかしたときは、体が動くようになってから死ぬほどそお返してやればいいだけの話だ。
「頼んだ……でも絶対に変なことしないでよね」
「うんうん。素直な愛希ちゃん、オレ大好きよ」
どうしたらこの減らず口を失くさせることができるんだろうか?
すると龍空はタンスのところまで歩いていくと「ねえ、下着どこ?」と振り返った。
「は?」
「パンツ穿いてる?」
「穿いてない」
「じゃ、とりあえず着替えしようよ。さすがにシーツじゃやりにくいもん」
「着替えてからなにするのよ?」
「そりゃ、筋肉痛治すんだよ」
語尾がウキウキ、ワクワクと上がっているように感じるのは勘違いではなかろうよ。
そう思いながら服の場所を龍空に教えると、躊躇せず龍空はそこを開けた。
「ベージュだらけ。あっ、黒がある。っていうか、全部レースとかお飾りついてないじゃん。おっ! 勝負下着見っけ。って、ピンク? ベージュに近いね、この色」
「悪かったわね。レースは洋服に響くから嫌なの。ベージュはなんにでも合わせられる万能ものなの。見た目より実用性重視で買ってるの。文句ある?」
「んー、オレ的につまんない」
「別にあんたを喜ばせるために買ってない」
「じゃあ今度、すごいのプレゼントするね!」
「いらない」
「それじゃあ、今度こっそりここに入れておくよ」
「犯罪だ」
「足すんだから盗まれるよりいいじゃん」
「そういう問題じゃない」
龍空は笑いながら下着を選ぶと、違う引出しからTシャツとハーフパンツを取り出して私の前に置いた。
「さて問題は着替えだけど……手伝ったほうがいい?」
「……手伝ってもらいたくない……けど……」
「けど?」
「着替えられない」
「了解。なるべく見ないように手伝うねぇ」
嬉々とした表情浮かべて、龍空は下着の端と端を両手で摘まむように持ち上げた。
楽しんでいる。
この男、心からこの状況を楽しんでいる!
ゆっくりと足を持ち上げて、下着を通す。
丁寧に、慎重に、肌に触れないように。
約束通り見ないように顔を横に背けながら、ゆっくりゆっくりと通していく。
そろそろと持ち上がる下着がなんともいやらしく感じるのは私だけなのか?
それでもなんとかしっかり下着は身につけられた。
それと同じように今度はハーフパンツに足が通る。
「なんかさ。すごくエッチな気分にならない?」
龍空がハーフパンツをあげながらそんなことを言い出した。
「余分なこと言わなくていいから、さっさとして」
「ああ、なんかそれ聞くとすごく興奮するね」
「あんたってやつは!」
「冗談だよお。そんなに怒らないで。うまく着替えさせてあげられないじゃない?」
コイツに頼んだ自分を呪おう。
それでも龍空は私の肌には触れないようにしっかり肌から離してハーフパンツも穿かせてくれた。
次は上着の番なのだが、龍空が選んだカーキ色のTシャツは少し小さめのサイズのもので、着たら体のラインがはっきりわかるものの上に、今はブラをつけてない。
「さすがにブラをつけるとなると、肌触らないわけにはいかないんだよねぇ」
「スポーツブラがあったでしょ?」
「あれ? あったけ?」
「いいから持ってきて!」
「なんだ……つまんない」
「リク!」
その一声にリクはしぶしぶ腰を上げ、また下着をあさりだした。
棚の奥のほうから見つけ出すと、戻ってきて私の腕を通した。
「生乳、拝みたかったなあ」
「その口に杭を突っ込もうか?」
「あはは。まあ、先のお楽しみにしようかなあ」
なんとしてもそっちへ話を持っていきたいらしい。
男って本当にどうしようもない生き物だ。
低俗というか、おバカというか。
「えっと、ごめん。ちょっと手首触るよ。一瞬痛いと思うけど、これは我慢ね」
そう言うと龍空は私に腕を組ませると、言った通り手首を持ち上げた。
首を通すと、また肌に触れないように静かにブラを脇下まで押し下げた。
Tシャツを着るときも同じことを繰り返した。
なんとか無事、裸という状況下からは脱出できたものの……さて、ここからが問題だった。
首をコキコキ鳴らして腕まくりをし、顔をパツパツ二回叩いて私をしっかり見つめる龍空がにやりといやらしい笑みを浮かべてた。
「さて、はじめようかぁ、愛~希ちゃん?」
ニシシシシ……これまでに見たこともないような悪寒のする笑顔を湛えた龍空に嫌な予感が背筋を這う。
逃げようにも逃げられない状況下で、龍空はお尻を軸にしていとも簡単に私の体を回転させた。
そう。
いとも簡単に。
ベッドサイトに足を下ろすような形に体を方向転換させると、覆いかぶさるように龍空は身を重ねてきたのだった。
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