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第三章 不倫の入り口
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第三章 不倫の入り口
陽が伸びて、まだ西陽が高いにもかかわらずそろそろ時刻は五時になろうとしている。もちろん彼女の姿はまだ見えない。土曜日の夕方、人込みは多くはないものの観光客はかなりいる。そんな中、わたしのように不倫を目的に待ち合わせている人はそうはいないに違いない。ましてわたしは中学の教師。その相手は教え子の母親だ。
わたしはこれから世間的には決して許されないことに突き進もうとしている。彼女が来なければ何事もなく過ぎて行き、例え心の中に淫らな思いを秘めていても、非難される行いをしていることにはならない。心のほんの一部ではそれを望んでもいる。己の欲望に正直に従い不倫の道を進めば世間の非難を浴びざるを得ない。しかし、一度振られた賽はもう取り返しはつかない。このことで職を失おうと誰を恨むことはできないし、その覚悟も出来つつある。
そんなことが脳内を巡り巡っている時、この場所に不似合いな姿の女性が駅の方からやって来た。まさしく彼女なのだが、人生最大の決心をした上でやって来たのだろう、緊張が全身に溢れている。まるでロボットが歩いているようだ。しかも、真夏を迎えようとしている今、ほぼ黒ずくめのワンピース姿だ。
わたしを探し、見つけた喜びと不倫へ踏み入る不安が同時に彼女の表情にあらわれた。わたしも同じ表情で彼女を迎えていたのだと思う。
わずか三日前に告白しあい、中二日でハードルを越えた二人。わたしは既にラブレターをしたためた段階で覚悟を固めている。そして彼女の決断を待つだけのある意味ずるい位置にいる。対して彼女がここに来る迄に如何なる葛藤が有ったのだろう。彼女の顔を見て、わたしはこれからの全てにその責任の重さを認識した。さらに男としての覚悟も固めた。
「奥さま、ありがとうございます。」
「先生、来てしまいました。
一度の人生だもの、そう思ったの。」
「奥さま、今なら引き返すことできます。」
「ううん、ダメよ、そう言っては。折角の決意が」
「わかりました。奥さま。
でも、わたしには、」
そう、わたしにはここまでのシナリオしか準備していない。ここは正直に言うしかない。
「奥さま、こうしてお会い出来ても、このあとのことはまるで白紙なんです。
このまま二人で東京に戻ってもいいのです。」
「先生って、案外臆病なのかしら。
いいわ、わたしに任せて。」
わたしの手を引くようにして小諸の駅に戻ると、壁の時刻表と腕時計の時間を見比べ、
「先生、これからお泊まりして明日まで二人きりで過ごしましょう。」
と言いながら、公衆電話の所に向かい備え付けの電話帳で何かを調べると早速ダイヤルしている。そして話がまとまったらしく、
「さあ、先生、早速行きましょう。」
切符を二人分求め、わたしの腕を抱えてホームに入った。流れるような動きはもしかしたら、ここへくるまで電車の中で段取りを考えていたのかもしれない。九分九厘来ないかもしれないと思っているわたしと、心を決めてわたしに会いに来た彼女とでは心構えがまるで違う。
電車を待つ間、二人とも無言でいる。彼女のわたしの腕を抱えている手に力がこもり、彼女の胸の鼓動が伝わってきてさえいる。五分もしないで各駅停車の電車が入って来た。席は満員に近い。二人は立ったままお互い抱えあっている。
何駅か過ぎ上田の駅に着いた。
「さあ先生、ここで降りましょう。」
もう俎の鯉、言われるまま降りると、案内板を確認しながら私鉄の乗り替え口へ向かう。そのホームに入っている電車に乗り込むと空いた座席に並んで腰を下ろした。電車は別所温泉が終点の別所電鉄だ。
「先生、さっき宿を予約したの。
これからわたしたち、年の離れた夫婦として宿に泊まりましょう。
だからわたしのこと奥さまなんて呼んじゃダメよ。
わたしの名前を呼んでね。」
「はい、三田さん。」
「うふっ、わたしは雅恵よ。かおるさん。」
ドキッとした。初めて名前を呼んでくれた。わたしは彼女の名前を自然に呼べるだろうか。
「かおるさん。わたしの名前を呼んでください。」
「はい、雅恵さん。」
「なんか新鮮ね。
名前を呼び会うって気持ちが一瞬で通じ合うみたいよ、かおるさん。」
「雅恵さん、雅恵さん大好きです。」
「ありがとう、かおるさん。わたしもよ。」
彼女が何軒か電話で確認の上予約した別所温泉の宿は離れのあるくたびれた感のある老舗旅館で、その離れへ案内された。
離れを予約した彼女の心理はたぶんわたしが推測する通りだと思う。隣のない部屋で遠慮なく痴態の限りを尽くしたい。違うとしたらわたしの勝手な妄想であり、期待するわたしが聖職に在りながら性の異常者なのかもしれない。
ともあれ、部屋に落ち着くと仲居さんが大浴場の場所をおしえてくれ、是非その効能を体験して欲しいと言う。わたしは少しでも早く二人だけになりたいが、彼女は落ち着いた様子で
「あなた、まず御風呂に行きましょう。」
と用意された浴衣やタオルをわたしに手渡しながら言う。誰しもまことの夫婦と思わせる彼女の物腰と言い様。
「御風呂から出られましたらこちらに食事の準備をして置きます。ごゆっくり温泉につかってきてくださいませ。」
の声をあとに、女の、いや彼女の意外な一面に驚く間もわたしに与えないで、手を引くように本館の男女別々の大浴場へ向かう。これから始まるわたしにとって世紀のイベントへのセミファイナル、しばし待てなのだろうか。とにかくはやる心を抱えつつしっかり大浴場で身を隅から隅まで洗い浄めた。
大浴場出口で一緒になると離れの部屋に手に手を取ってもどる。そこにもう豪華とは言えないが山趣豊かな夕食が用意されていた。さらに横の部屋には既に夜具が延べられている。しかも枕元にはティッシュの箱があり、如何にも艶々しい雰囲気になっている。
彼女が心付けを渡し、
「あとは構わないで。」
と仲居さんに言うと、丁寧に三つ指をつき、静かに部屋を出て行く。
やっと二人だけになれた。わたしは並べられた夕食など目に入らない。洗い髪も色っぽい彼女だけしかもう心にない。しかし、落ち着いた様子の彼女は、
「かおるさん、二人の恋に乾杯しましょう。」
とコップにビールを注いでいる。
このまま彼女がわたしの妻であったならと思うが、もちろん他人の妻。まだ彼女とは口づけさえしていない。不思議な心地で彼女の言われるままに、注がれたビールで乾杯する。そして、なにを食べたかわからないうちに食事を終えた。
彼女がわたしの横にきて語りだした。
「わたし小諸に来るのすごく迷ったわ。
かおるさん、小諸に来てないとも考えて、懐古園の入場券だけ買って帰り、後でかおるさんにこんなに本気だったのにと言うことを考えていたの。
でも、かおるさんはいてくれた。
わたし、一度くらいは許されるかなって、主人や子供には絶対知られないなら、色んなこと考えているわ。」
「雅恵さん。僕の思いに応えて頂いてありがたいけど、だんなさまやかなえちゃんに申し訳ない気持ち一杯です。
今はこれが夢でも、覚めないで欲しい。
今まで生きてきて一番幸せな時です。」
「かおるさん。言葉は無意味よ。わたしを抱きたいのでしょう。
恋の焔はあなたを抱くことでしか鎮められない。
あなたを抱きたいって書いてあったわ、あのラブレターに。」
わたしは恥ずかしさから黙って彼女を腕の中に納め、優しくしかも強く抱き締めた。この時をわたしはほぼ六年間夢に見てきた。叶わぬ思いと、今腕の中にいる人によく似た真弓に恋したが、彼女は代替の人でしかない。あくまでも腕の中の人こそわたしの恋しい人で、今はわたしだけの人になっている。
「どう、わたしの抱き心地は?」
「新たな力が身体の中に生まれてます。」
「わたしもよ。
かおるさん、彼女いるんでしょう。」
突然の言い方でわたしを見つめる。
「えっ、どうして?」
「まさか、かおるさんにいい人がいないなんて思えないわよ。」
「奥さま、彼女がいます。」
少し動揺しながら
「でも、今はっきりわかりました。
彼女は奥さまへの階段だったんです。
奥さまを思うあまりに、よく似た人に恋していました。
わたしには奥さまこそ究極の女性なんです。」
「かおるさん、わたしは普通の女よ。」
「いいえ、わたしには絶対の存在です。」
「かおるさん、試してみましょう。キスしてください。」
陽が伸びて、まだ西陽が高いにもかかわらずそろそろ時刻は五時になろうとしている。もちろん彼女の姿はまだ見えない。土曜日の夕方、人込みは多くはないものの観光客はかなりいる。そんな中、わたしのように不倫を目的に待ち合わせている人はそうはいないに違いない。ましてわたしは中学の教師。その相手は教え子の母親だ。
わたしはこれから世間的には決して許されないことに突き進もうとしている。彼女が来なければ何事もなく過ぎて行き、例え心の中に淫らな思いを秘めていても、非難される行いをしていることにはならない。心のほんの一部ではそれを望んでもいる。己の欲望に正直に従い不倫の道を進めば世間の非難を浴びざるを得ない。しかし、一度振られた賽はもう取り返しはつかない。このことで職を失おうと誰を恨むことはできないし、その覚悟も出来つつある。
そんなことが脳内を巡り巡っている時、この場所に不似合いな姿の女性が駅の方からやって来た。まさしく彼女なのだが、人生最大の決心をした上でやって来たのだろう、緊張が全身に溢れている。まるでロボットが歩いているようだ。しかも、真夏を迎えようとしている今、ほぼ黒ずくめのワンピース姿だ。
わたしを探し、見つけた喜びと不倫へ踏み入る不安が同時に彼女の表情にあらわれた。わたしも同じ表情で彼女を迎えていたのだと思う。
わずか三日前に告白しあい、中二日でハードルを越えた二人。わたしは既にラブレターをしたためた段階で覚悟を固めている。そして彼女の決断を待つだけのある意味ずるい位置にいる。対して彼女がここに来る迄に如何なる葛藤が有ったのだろう。彼女の顔を見て、わたしはこれからの全てにその責任の重さを認識した。さらに男としての覚悟も固めた。
「奥さま、ありがとうございます。」
「先生、来てしまいました。
一度の人生だもの、そう思ったの。」
「奥さま、今なら引き返すことできます。」
「ううん、ダメよ、そう言っては。折角の決意が」
「わかりました。奥さま。
でも、わたしには、」
そう、わたしにはここまでのシナリオしか準備していない。ここは正直に言うしかない。
「奥さま、こうしてお会い出来ても、このあとのことはまるで白紙なんです。
このまま二人で東京に戻ってもいいのです。」
「先生って、案外臆病なのかしら。
いいわ、わたしに任せて。」
わたしの手を引くようにして小諸の駅に戻ると、壁の時刻表と腕時計の時間を見比べ、
「先生、これからお泊まりして明日まで二人きりで過ごしましょう。」
と言いながら、公衆電話の所に向かい備え付けの電話帳で何かを調べると早速ダイヤルしている。そして話がまとまったらしく、
「さあ、先生、早速行きましょう。」
切符を二人分求め、わたしの腕を抱えてホームに入った。流れるような動きはもしかしたら、ここへくるまで電車の中で段取りを考えていたのかもしれない。九分九厘来ないかもしれないと思っているわたしと、心を決めてわたしに会いに来た彼女とでは心構えがまるで違う。
電車を待つ間、二人とも無言でいる。彼女のわたしの腕を抱えている手に力がこもり、彼女の胸の鼓動が伝わってきてさえいる。五分もしないで各駅停車の電車が入って来た。席は満員に近い。二人は立ったままお互い抱えあっている。
何駅か過ぎ上田の駅に着いた。
「さあ先生、ここで降りましょう。」
もう俎の鯉、言われるまま降りると、案内板を確認しながら私鉄の乗り替え口へ向かう。そのホームに入っている電車に乗り込むと空いた座席に並んで腰を下ろした。電車は別所温泉が終点の別所電鉄だ。
「先生、さっき宿を予約したの。
これからわたしたち、年の離れた夫婦として宿に泊まりましょう。
だからわたしのこと奥さまなんて呼んじゃダメよ。
わたしの名前を呼んでね。」
「はい、三田さん。」
「うふっ、わたしは雅恵よ。かおるさん。」
ドキッとした。初めて名前を呼んでくれた。わたしは彼女の名前を自然に呼べるだろうか。
「かおるさん。わたしの名前を呼んでください。」
「はい、雅恵さん。」
「なんか新鮮ね。
名前を呼び会うって気持ちが一瞬で通じ合うみたいよ、かおるさん。」
「雅恵さん、雅恵さん大好きです。」
「ありがとう、かおるさん。わたしもよ。」
彼女が何軒か電話で確認の上予約した別所温泉の宿は離れのあるくたびれた感のある老舗旅館で、その離れへ案内された。
離れを予約した彼女の心理はたぶんわたしが推測する通りだと思う。隣のない部屋で遠慮なく痴態の限りを尽くしたい。違うとしたらわたしの勝手な妄想であり、期待するわたしが聖職に在りながら性の異常者なのかもしれない。
ともあれ、部屋に落ち着くと仲居さんが大浴場の場所をおしえてくれ、是非その効能を体験して欲しいと言う。わたしは少しでも早く二人だけになりたいが、彼女は落ち着いた様子で
「あなた、まず御風呂に行きましょう。」
と用意された浴衣やタオルをわたしに手渡しながら言う。誰しもまことの夫婦と思わせる彼女の物腰と言い様。
「御風呂から出られましたらこちらに食事の準備をして置きます。ごゆっくり温泉につかってきてくださいませ。」
の声をあとに、女の、いや彼女の意外な一面に驚く間もわたしに与えないで、手を引くように本館の男女別々の大浴場へ向かう。これから始まるわたしにとって世紀のイベントへのセミファイナル、しばし待てなのだろうか。とにかくはやる心を抱えつつしっかり大浴場で身を隅から隅まで洗い浄めた。
大浴場出口で一緒になると離れの部屋に手に手を取ってもどる。そこにもう豪華とは言えないが山趣豊かな夕食が用意されていた。さらに横の部屋には既に夜具が延べられている。しかも枕元にはティッシュの箱があり、如何にも艶々しい雰囲気になっている。
彼女が心付けを渡し、
「あとは構わないで。」
と仲居さんに言うと、丁寧に三つ指をつき、静かに部屋を出て行く。
やっと二人だけになれた。わたしは並べられた夕食など目に入らない。洗い髪も色っぽい彼女だけしかもう心にない。しかし、落ち着いた様子の彼女は、
「かおるさん、二人の恋に乾杯しましょう。」
とコップにビールを注いでいる。
このまま彼女がわたしの妻であったならと思うが、もちろん他人の妻。まだ彼女とは口づけさえしていない。不思議な心地で彼女の言われるままに、注がれたビールで乾杯する。そして、なにを食べたかわからないうちに食事を終えた。
彼女がわたしの横にきて語りだした。
「わたし小諸に来るのすごく迷ったわ。
かおるさん、小諸に来てないとも考えて、懐古園の入場券だけ買って帰り、後でかおるさんにこんなに本気だったのにと言うことを考えていたの。
でも、かおるさんはいてくれた。
わたし、一度くらいは許されるかなって、主人や子供には絶対知られないなら、色んなこと考えているわ。」
「雅恵さん。僕の思いに応えて頂いてありがたいけど、だんなさまやかなえちゃんに申し訳ない気持ち一杯です。
今はこれが夢でも、覚めないで欲しい。
今まで生きてきて一番幸せな時です。」
「かおるさん。言葉は無意味よ。わたしを抱きたいのでしょう。
恋の焔はあなたを抱くことでしか鎮められない。
あなたを抱きたいって書いてあったわ、あのラブレターに。」
わたしは恥ずかしさから黙って彼女を腕の中に納め、優しくしかも強く抱き締めた。この時をわたしはほぼ六年間夢に見てきた。叶わぬ思いと、今腕の中にいる人によく似た真弓に恋したが、彼女は代替の人でしかない。あくまでも腕の中の人こそわたしの恋しい人で、今はわたしだけの人になっている。
「どう、わたしの抱き心地は?」
「新たな力が身体の中に生まれてます。」
「わたしもよ。
かおるさん、彼女いるんでしょう。」
突然の言い方でわたしを見つめる。
「えっ、どうして?」
「まさか、かおるさんにいい人がいないなんて思えないわよ。」
「奥さま、彼女がいます。」
少し動揺しながら
「でも、今はっきりわかりました。
彼女は奥さまへの階段だったんです。
奥さまを思うあまりに、よく似た人に恋していました。
わたしには奥さまこそ究極の女性なんです。」
「かおるさん、わたしは普通の女よ。」
「いいえ、わたしには絶対の存在です。」
「かおるさん、試してみましょう。キスしてください。」
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