近江の轍

藤瀬 慶久

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初代 仁右衛門の章

第7話 楽市楽座

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※今回の話は、物語を通した裏テーマである楽市楽座というものについての筆者なりの考察回になっています
物語の進行に直接は関係しないので、読みづらい方は飛ばしてください
また、本文内容は個人としての理解であり、異論はあると思いますが少なくともこの物語においては下記考察を元に進行していきます



 1572年(元亀3年) 秋  近江国野洲郡金森


 定     条々   金森
 一、楽市楽座たる上は、諸役免除せしめおわんぬ、並びに国質郷質押買すべからず。付けたり、理不尽の催促使停止の事
 一、往還の荷物当町へ着くべきの事
 一、年貢の古未進ならびに旧借米銭以下納所すべからざる事

 右、違背の輩においては罪科に処すべきの状 件の如し
 元亀三年九月  

 金森市の整備を行うべく現地での調整を行っていた伝次郎は、楽市楽座令の制札を見上げていた
(楽市楽座か…看板としては良いのかもしれぬがな…)



『楽市楽座』

 現代では小学校の教科書にも載るほどの有名な法令であり、中世から近世の扉を開いた革命児 織田信長を代表する政策として日本人であればその名を聞いたことがない人はいないほどであろう
 しかし、楽市楽座とは何なのかということになると最新の研究においても謎が多く、その全容の解明は困難となっている

 通説では『商工業者による自由営業の保障と荘園領主の中間搾取を廃止し、領国の経済発展と銭収入をもたらした革新的な都市政策』とされている
 これは一面では正しい
 しかし、これはあくまで『信長』が楽市楽座によって得た果実であり、結果的に天下を取った英雄織田信長の実施した政策であるがゆえに『革新的であるはず』という一種のバイアスがかかっているのではないかと思う

 制札や文書は発行する為政者の都合が最優先されるため、現代に残る資料にはすべからく『為政者にとっての』楽市楽座が残ることになる
 では、『民衆にとっての』あるいは『そもそもの意味としての』楽市楽座とは何だったのか


 そもそも市とは何なのか

 古来、市は神の宿る空間とされた
 市には『市庭神いちばがみ』が宿り、市に供される品物はすべて神への捧げものであった
 たとえ盗品であっても一旦神にお供えされたものとして扱われ、それらの品物は市庭神から下されるのであり、それはもはや盗品ではなく正当な神からの賜りものとして扱われた
 だからこそ、市は神社で行われるのであり、後に寺にその場を移した
 中世の商人は宮座や神人といった一種の神職としての地位を得ていた

 時代が下り貨幣経済が浸透してくると、市は近在の者たちが品物を持ち寄って交換する場から専業の商人が客相手の商いをする場へと変わる

 元が祭祀であるが故に、その市の運営を行えるものは限られた者たちに固定された
 これが商売道のしきたりと言われ、座が特有の排他性と独占性を持った由来であった
 今日でも祇園祭りや三社祭など伝統ある各種祭祀は日本全国に存在するが、見物は許されてもその参加は近在の家の者に限られているのが通例である

 座商人達は、農家の兼業としての商いから専業となったことで一つの市庭いちばでは生活を維持することができなくなり、複数の立庭たちば(縄張り)を持つ必要が出てきた
 あるいは、複数の立庭を持つことで専業となったのかもしれない
 立庭の数が貧富を作るとなればその争いが起こるのは必然で、争いが起こればそれを解決する為に私的闘争(押買・乱暴・狼藉・喧嘩)が起こるのもまた必然であった
 つまり戦国期の市においては何よりも『平和であること』が商人達の切なる願いであろうことは想像できる
 まして、争いを起こすのは商人同士だけとは限らない

 品物を目当てとした野盗や、時には国人領主が略奪を行う場にもなっただろう
 後年の楽市令には必ずと言っていいほど『押買・乱暴・狼藉・喧嘩・理不尽の使』の禁止が謳われている
 これは裏を返せば、それまではこういった行為が市で横行していたことにもなろう


 史上初の楽市令と言われる六角定頼の楽市令が、実は資料を詳細に読めば六角氏の発案によらず、むしろ商人達の申し合わせによってすでに成立していた可能性があることは第1話にて触れたが、湖東地域においては座商人達の縄張り争いが激しく行われていたことは【今堀日吉神社文書】から読み取れる

 激化する座商人間の争いを和らげるため、一種の緩衝地帯として『参加自由』の楽市が設定されていたのではないだろうか


 民衆にとっての楽市とは諸役免除のことである
 これも一面においては正しい
 しかし、諸役免除=楽市というならば、楽市という言葉が信長の没後たかだか30年を経ない間に失われたことの説明がつかない
 まして、『楽市』ではなくとも諸役免除の特権を保証した市場法は安土桃山時代を通じて枚挙にいとまがない

 江戸期に入り、徳川幕府からの度重なる税徴収や労働負担の強制に耐えかねた農民・町民たちは、信長や秀吉から受けた『諸役免除』の制札や文書を根拠として、この土地はもともと税は免除されていたから追加徴収は受けられない と裁判を起こしている
 だが、数多くの訴訟の中で『楽市だから』税を免除されていたとは一度も訴訟文書に記載していない
 あくまで『諸役免除だから』税を免除されていた として訴訟を起こしている
 このことからも、楽市=諸役免除ではないことは当の民衆たちが宣言している


 ここからは筆者の想像だが、そもそも『楽市』とは具体性を持たない極めて抽象的な表現であり、現代で言いかえれば『夢の国』とでも表現すべき言葉だったのではないだろうか


『楽』は本来的に仏教的用語であり、『極楽浄土』『十楽』『抜苦与楽』など仏教の中でも具体性は持たない言葉であり、素晴らしいものというイメージで用いられる用語である
『天国』という概念は、現代人ならばおおよそ理解されていると思うが、『天国』の持つ具体的なイメージは人によって千差万別に変化する
 例えば、暖かな日差しにあふれ、一年中花が咲き誇る大地 を天国と考える人もいれば
 雲の上に建つ荘厳なギリシャ風神殿の中で、金銀財宝が散りばめられた玉座に神が座る場所 を天国としてイメージする人もいるだろう
 楽市もこれと同じで、イメージは人によって異なるが、概念としては民衆の間で共有されていたのではないだろうか
 しかし、制度として普及させるためにはそれの具体的な要件を規定する必要があるだろう
 ウォールトディズニーはディズニーランドを建設し、これこそが『夢の国』と規定した
 同じように織田信長は諸役免除をを規定することによって、これこそが『楽市』としたのだろう

 そう考えれば、岐阜の加納で発行した信長の楽市楽座令の異様さも説明できる

 定    加納
 一、当市場越居の輩、分国往還煩いあるべからず、並びに借銭借米さがり銭、敷地年貢門並び諸役免許せしめおわんぬ。譜代相伝の者たりというとも、違乱すべからざる事
 一、
 一、押買狼藉喧嘩口論使入るべからず、ならびに宿をとり非分申しかくべからざる事
 右条々、違背の族においては成敗を加えるべきものなり  よって下知件の如し


 加納宛制札の読み下し文であるが、第一条と第三条の極めて具体的かつ豊富な例示に対し、第二条のあいまいさ、具体性のなさが不自然であるとしか思えない
 人によっては第二条の具体例が第一条・第三条であると言うが、それならば第一条と第二条は逆になっていなければおかしい
 これは、制札を発給した信長自身も楽市楽座の具体的イメージをこの時点では持っていなかった と解釈すれば理解できる

 上洛を間近に控えて、本拠地岐阜の安定と発展こそが急務であった信長に対し、加納の商人達あるいは後に御用商となる伊藤宗十郎あたりが信長に対して
「この文言を入れてくれれば人が集まり、焼け野原の岐阜が再生する」と言って書かせたのではないだろうか
 そしてその効果たるや、制札発給後たったの二年足らずでルイスフロイスが『バビロンの都と見まがう』ばかりに人が集まり、繁栄を謳歌している岐阜城下が信長の眼に映った
 信長は『これはキャッチコピーとして大いに使える』と思ったのではないか
 ここに人を集めたいというときに、一種の宣伝文句としての利用価値を見出した
 そして、冒頭の金森の楽市令では第一条の先頭に『楽市楽座たる上は』という文言へと変わった

 また、楽市はそこら中に乱立していては本命の場所での効果が薄くなる
 そのため、ここぞという場所でしか使わなかった
 だからこそ、その後の『南近江の通行の要衝である金森』『岐阜より移した新たな本拠地安土』
 の楽市令となったのではないだろうか


 一方、楽座については楽市に比べて非常に理解が難しい
 理由は簡単で、現状『楽座』のみに言及した文書は一点しか見つかっていないからだ
 柴田勝家統治時代の越前における唐人座・軽物座の長である橘屋三郎左衛門尉の手紙がそれだが、要約するとこの文書の中で橘屋は『柴田家への段銭(上納金)の負担が重くて商売に支障が出ているから、』と柴田勝家に嘆願している
 このことから楽座が従来言われている中世寺院等の中間搾取の廃止ではなく、はっきりと柴田家への上納金を一時免除してほしいという意味で使われていることがわかる
 また、それを受けた勝家の返事は『段銭の減免は認めない。さっさと商人どもから集めて納めよ』と督促している
 ここから、座からの上納金が既に領国経営に必要不可欠な財源となっていたことがわかる
 商人が苦しいからといって一時納入を免除してやるということなどできない相談だったのだろう

 つまり、統治者にとって都合が悪かったからこそ、『楽座令』は非常に少なかったのではないか
 加納も最初は楽市令だったが後に楽市楽座に変更されたのも、そもそも初期の『楽市楽座』は信長自身がイマイチ理解しておらず、商人達がどさくさ紛れで座商人に有利な『楽座』を楽市令に組み込ませたと解釈すると、全てが納得いく

 ちなみに、楽市楽座令の完成形と言われる安土山下町宛ての文書には、『楽座』の文言は一言も出てこない



 楽市という言葉がそのものには具体性のない抽象的な言葉であるならば、伝次郎達保内商人にとっての楽市とはどういうものだったのだろうか
 一般に座は市場の独占と物価の統制によって暴利を貪る悪徳商人の代名詞のように言われることが多い
 これは、楽市楽座研究が始まった戦前・戦後の財閥支配やその解体という社会情勢と無関係ではないだろう
『市場を独占することは悪いこと』という観点から、無意識的に『独占』していた座商人達はすべて悪徳商人と考えられてきたが、【今堀日吉神社文書】に残る保内商人の姿からはとてもそうは思えない
 彼らは商人間の縄張り争いこそ、六角家の力を借りて他座の商人の権益を食い荒らしていったが、商売掟や生活の掟などに見える生活態度は清貧そのものであり、まさに後の『三方良し』へと繋がる公益思想を感じさせる
 そして、座は江戸期に入ると『株仲間』としてその物流機能は保存され、明治維新後は同一事業者から同資本事業者による『財閥』という物流機能へと保存されていく


 物価統制は何も商人が暴利を貪る為だけに行われる物ではなかったのではないか

 天保の改革における株仲間の解散は、株仲間の統制による物価高騰を緩和するために行われたが、結果は逆に株仲間が担っていた江戸への物資の供給能力が失われ、株仲間が行っていた債権保証による金融や取引品質の向上といった市場の自浄作用も消し去ってしまった
 また、一部の商人たちの投機的な買占めなどが横行したことで相場が乱高下し、逆に一層の物価高騰を招いた品目もあり、市民生活が大混乱となった

 財閥が維新後の日本の産業の量と質を向上させることで殖産興業を支え、一部に犠牲を生みながらも鎖国後の、海外から見れば『周回遅れ』の日本の国力を短期間に立て直し、富国強兵を為しえた事実は否定できない

 また、1997年まで続けられた塩の専売制は、当初こそ国の財源を確保する政策であったが後には塩の品質向上と価格・供給量の安定を目的とした制度となり、生活必需品である塩の安定供給に多大な貢献をした

 こう考えていくと、戦国期に伝次郎を始めとする保内商人達は『何のために』独占行為を行ったのか
 自らの利のみを考え、暴利を貪り庶民を食い物にするためだったのか
 地場産業の育成と生活必需品の安定供給のために独占行為を行っていたと解釈することはできないか
 保内商人が独占していたのは塩や呉服、牛馬と言った庶民生活と物流に必須の物品だ
 逆に言えば、織田の楽市令以前は保内商人が独占しているからこそ、他の商人たちの投機的な買い占めや値のつり上げ、さらには物流の混乱を招かずに済んだと言えば都合が良すぎるだろうか


 市場と庶民の生活を守るためにこそ商人は利を確保するのであり、その信念を忘れてただただ銭儲けの為だけに商う者を伝次郎は心底嫌悪した
 どんな者でも無条件に受け入れるという信長の楽市令は、その意味で有象無象の悪徳商人を呼び寄せる政策でもあり、例えるなら『商法による信義則が守られない、やりたい放題の自由主義経済』のようなものに映ったのだろう
(せめてどのような商人か吟味する制度を作ることができれば…)
 伝次郎は痛切に思った

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