近江の轍

藤瀬 慶久

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初代 仁右衛門の章

第19話 商都八幡町始動

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 1594年(文禄3年) 冬  山城国紀伊郡蒲生家伏見屋敷



「忠三郎様。お加減はいかがですか?」
「宗兵衛か。済まぬな。このような無様な姿を…」
「何を仰います。会津若松へお戻りなされたらさぞ驚かれることでしょう。鶴ヶ城下は大変な賑わいでございますぞ」
「……そなたには、苦労ばかりかけたな」
「忠三郎様…」

 宗兵衛は涙が止まらなかった
 一昨年に肥前名護屋城にて発病した氏郷は、翌文禄二年(1593年)に一旦会津若松へ帰ったが、病気療養のため京へ上っていた
 改築していた会津若松城は、氏郷の若松帰還前に竣工を迎え、氏郷の幼名鶴千代と蒲生家の家紋にちなみ『鶴ヶ城』と改名していた

 秀吉は曲直瀬道三の義子である曲直瀬玄朔を派遣し、病気療養に当たらせたが、文禄三年も暮れようとしているこの頃には氏郷の容態は明日をも知れぬ状態となっていた


「宗兵衛、俺はな、亡き信長公に見いだされ、なんとか走り続けてここまで来た。
 だがどうやらそれもここまでのようだ。そなたが居てくれたから、おれは戦い続けることができた。
 礼を言うぞ」
「礼などと……お気の弱い。私は蒲生家へ賭けたのではございませんぞ。忠三郎様に賭けたのです。
 病などで負けて頂いては困りまするぞ」

「ふふふ。宗兵衛もなかなか厳しいな………   うぐぅ」
 氏郷が痛みに顔をしかめた

「忠三郎様!」
「なに、大事無い… とも言えぬか。このザマではな…」

 氏郷はもはや床から起き上がれぬ体となっていた


「宗兵衛。日ノ本の土地をめぐる争いはもはや終わった。次は商人達が民の暮らしを豊かにする戦いだ。

 …民の役に立つものが生き残り、戦しか出来ぬ者や戦の用意だけで …生計を立てる者は徐々に滅びてゆく。

 俺は… 寝込んでからそのことを… ずっと考えていた。

 俺の後を追うなどということは… 許さぬぞ。
 お前にはまだ民の暮らしを… 豊かにする責任が… あるのだ。それを忘れるな…」
「…」

 宗兵衛は涙で声を出すことができなかった



 年が明けた文禄四年(1595年)二月七日 蒲生忠三郎氏郷はこの世を去った
 享年四十歳 あまりにも早すぎる死であった
 死因は直腸癌であったと推測される

 戦国乱世を駆け抜けた氏郷は、乱世と共にその生を閉じた






 氏郷を失った宗兵衛は失意のどん底にいた

 折しも、氏郷亡き後の蒲生家では重臣同士のいさかいがお家騒動に発展し、二代秀行の器量は氏郷に遠く及ばないことが天下に明らかとなった

 宗兵衛は絶望し、会津若松に開いた店をすべて会津の地生えの商人に譲り、商人司を辞して松坂に帰った

 松坂に帰った宗兵衛は全てに気力を失い、日がな一日帳場へ座っている日が多くなった
 組下の商人達は次々と融資を返して独立し、宗兵衛の酒屋に寄り付かなくなっていたが、唯一角屋七郎次郎だけは何くれとなく訪れていた



 1595年(文禄4年) 夏  近江国蒲生郡八幡山下町



「謀反?関白様がか?」
「ええ、巷の噂では太閤様に謀反を企てたとか。どうにも信じられませぬが…」
「何かの間違いではないのか?」
 仁右衛門は豊臣秀次の繊細さを持った目元を思い出していた
 このような噂に傷ついていなければよいが…


 秀次は三年前の天正二十年(1592年)十二月に秀吉から譲られて、関白に就任していた
 今や八幡町との関りはなかったが、秀次統治時代の善政はそのまま京極高次に引き継がれ、八幡町は八日市や安土も超える賑わいを見せていた
 しかし、翌文禄二年(1593年秀次の関白就任に合わせて改元)八月には秀吉の実子である秀頼が誕生し、二代関白秀次の立場は微妙なものになっていた

 翌文禄三年(1594年)には北政所と花見に出かけたり、秀吉と共に能を見物したりと仲睦まじい様子が聞かれたが、この年の文禄四年六月に突如として秀次謀反の風聞が出てきたのである



 1595年(文禄4年) 冬  近江国蒲生郡八幡山下町



「困ったことになりました…」
 扇屋伴荘右衛門が心底困った声で集まった全員を見回した



 この年の七月に関白秀次が高野山にて切腹すると、旧秀次領の近江国内が解体され、大幅な知行替えが行われた
 八幡山城主京極高次は大津城六万石を与えられ、八幡山城を去っていた

 八幡町は変わらず京極領とされたが、城主が去った城は破却され、商家たちの主要顧客であった城主付の武士たちはそのほとんどが大津城へ移転し、八幡町は火が消えたようになっていた


 これからどうするのか
 それを話し合う為に主だった商家の主が集まっているのだった



「武士が去って商いが難しくなった以上、ここは大津へ移転するのも手では…」
「しかし、大津には大津の商人がおりまする。まして大津は米商いが盛んでございます。我ら呉服商や蚊帳商いは外様と扱われるのは必定」
「内府様が入府された関東はこれからの場所となりましょう。家運を賭けて江戸へ行くのはいかがですか?」
「しかし、伝統ある湖東の地に商人が居なくなるのはいかにもどうかと…細々とでも商いを繋いでいくべきではないですかな?」

 誰もかれもが将来さきに不安を持っていた
 商人が顧客を失うということは、武士が領地を失うことと同じだった
 失って細っていくだけでは先がなくなる


 仁右衛門は一言も発せずに、口元にかすかに笑みを浮かべて瞑目していた
 その様子に、議長役の綿屋西村嘉右衛門が最初に気付いた

「山形屋さん。先ほどから何やら笑っておられますが、何か良いお考えがありますか?」
「………いや、これほどの好機はないと思いましてな」

 全員がぎょっとして仁右衛門を見た

「好機!?どう考えても八幡町の危機でございましょう」
「左様。このままでは八幡町は火が消えてしまいますぞ」

 しかし、非難の声をものともせずに仁右衛門は不敵に笑った


「ふっふっふ。確かに顧客を失い、今までの商いはできませんな。
 しかし、思い出していただきたい。八幡町を構える前は皆さんではなかったのですか?
 天秤棒一本を担いで、方々に顧客を作り、商いを育てていた。
 昔に戻るだけではありませんか。

 そして、今度は武士の手ではなく、我ら商人の手によって八幡町を育ててゆくことが出来る。
 言い換えれば、武士の支配が及ばぬ『真の楽市』をこの地に築くことが出来るのです。

 このような好機はなかなかあるものではありませんぞ。そうではありませんか?」


 座が静まり返った


 と、突然に最上屋西谷源左衛門が笑い出した

「はぁーっはっはっはっはっは。確かに山形屋さんのおっしゃる通りですなぁ。
 以前は方々へ出かけて顧客を作っていたのです。もう一度それをやれば良いのだ。
 何を悲観することがあったのか

 …我ながらお恥ずかしい。山形屋さんの言葉で目が覚めましたぞ」


「…そ、そうですな!昔に戻ったと思えば、今はここに店があるのだ。昔よりもよほどに恵まれた環境ですな!」
「いかにも!我らの手で、この八幡町をもう一度商いの町として繁栄させてみせましょう!」



 全員に活力が戻った
 今までの暗い表情が嘘のように、皆が生気に満ち満ちていた


(これでいい。今までのようにはいかぬだろうが、少なくとも前を向いて歩き出すことができる)

 仁右衛門は自身も久しぶりに行商に出る心づもりだった
 八幡山下町の大工組になって以来だから、かれこれ十三年ぶりだ
 だが、不安はなかった
 これからは本当の楽市になるのだという事に年甲斐もなく心が躍っていた


 これからは城下町八幡町ではなく、商都八幡町として再出発するのだ



 1596年(文禄5年) 春  近江国蒲生郡八幡町



「新八。しばらく店を頼むぞ。」
「はい、旦那様。道中無事をお祈りいたします」

「うむ。行ってくる」
「母上、甚五郎、行って参ります」


 店に戻った仁右衛門は、再び行商へ出る準備をした
 以前に越前までは行っていたが、今回はもっと北へ販路を開拓したいと思った
 その為、雪が解ける春まで待った

 また、今回は長男の市左衛門を伴って行くことにした
 行商の経験はさせていなかったから、ちょうどよい機会だ
 次男の甚五郎は自分も行くと駄々をこねたが、戻ったら次は甚五郎を連れていくと言って納得させた


「甚五郎さんが旦那様に一番よく似ておいでですな」
 と新八に言われたが、よくわからない
 新八に言わせると目端の利くところがそっくりなのだとか



 八幡町を出発した仁右衛門と市左衛門は、北国街道を北へ進んだ
 道々の里売りで蚊帳や麻の古着などを商いながら進んだ


「ふ~む。敦賀ではやはり海産物が豊富だな」
「父上、うみと違って水がしょっぱいですね」
「そういうものだ」



「ここが三国湊か。ここからは蝦夷との交易も一部行われていると聞く」
「父上、蝦夷の昆布は上質だと噂で聞きます。登せ荷に良いのでは?」
「うむ。まあ、もう少し先まで歩いてみよう」



「これが金沢か。前田様のお膝元だそうだが、京に勝るとも劣らぬ華やかなものだな」
「しかし、ここで手に入る物は京でも手に入ります。扇屋さんと同じものを商っても意味がないのでは?」
「…そうだな」



「ここはどのあたりでしょうか?」
 仁右衛門が海辺で網を畳んでいる漁民に尋ねる

「ここは鳳至郡ふげしぐん鹿磯かいそという所だ。前田様支配の能登の国だよ」
「能登ですか。ちなみにここらでこういうものを商っている商人は居りますか?」
 仁右衛門が蚊帳を見せた

「さぁ…見たことがないなぁ… 魚網にはちと弱そうだな」

「父上」
 市左衛門が仁右衛門の顔を見る
「うむ」


 仁右衛門と市左衛門は、ここで残りの荷を全てさばき、海産物を仕入れて戻った
 道々でも敦賀から先では蚊帳を知らない人がほとんどだった
 逆に言えば、ここで商うことは北陸の民の暮らしを豊かにすることに繋がる
 夜眠る時に快適に眠れるのだ


 一月目は市左衛門を伴ったので、次の月は甚五郎を連れていった

「父上、あんな大きな船で荷を運べばきっと沢山商いができますよ」
「父上、遠くへ運べば運ぶほど、今まで見たこともない産物が手に入るのではないですか?」
「父上、道々の店を商人宿として卸していけば、里売りをするよりもより早く、多く、広まるのではないでしょうか?」


 甚五郎の意見は正鵠を射ていた
 仁右衛門は内心舌を巻いた

(こいつはとんだ大物になるかもしれんな)
 仁右衛門は内心の喜びを隠しつつ、商いのコツを甚五郎に教えていった


「人と話をするときは、その人が求めるものを考えるのだ。求めぬ物をいくら運んでも意味がない」
「商いは物を商うのではなく信を商うのだ。暴利を貪らず、荷を途切れさせず、いつも安定して来てくれる者にこそ信が生まれるのだ」
「一度断られたとしても、次は求めてくれるかもしれぬ。一度やって駄目だからと言って、商いの可能性を閉ざしてはいけない」


 我ながら市左衛門に比べて説教くさくなってしまったと反省した


 久右衛門はただただ歩くのが辛そうだった
 まだ十歳だから無理もない


 それを受けて、弥兵衛と久右衛門はもう少し大きくなってからと思い、この年は市左衛門と甚五郎を交互に伴って毎月八幡町と鹿磯を往復した
 最初は怪訝な顔をしていた各地の人々も、徐々に話を聞いてくれるようになった


 人と話す事には市左衛門は特に秀でていた
 目を離すと、簡単に相手の心に入り込んで、雑談をしている姿をたびたび見かけた

 子供たちの成長に目を細めながらも、再び行商を始めた仁右衛門はかつてない充実感を得ていた
 里売りで直に買い手と接するのはやはり気分が良かった



 登せ荷の能登の海産物も八幡町では大人気だった
 例え割高でも、近郷のおかみさんたちが競って買いに来てくれる
 伊勢の物より味が良いと評判で、仁右衛門が戻った翌日には山形屋の前に行列ができたほどだった

 こうして、文禄五年の八月までに計五回の行商を行い、仁右衛門は北陸に地盤を固めていった
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