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二代 甚五郎の章
第31話 先義後利者栄
しおりを挟む1645年(正保2年) 春 武蔵国豊島郡江戸日本橋
「熊之助!これをよく見るのだ」
世間が寛永大飢饉からようやく立ち直りを見せ始めた頃、『大文字屋』西川利右衛門は念願の江戸日本橋に江戸店を開設した
開店した江戸店の帳場の後ろに、大書した家訓を貼り出していた
『先義後利者栄 好富而施其徳』
「商人はこうあらねばならん。私は先年の飢饉の折り、山形屋さんや扇屋さん達の己の利を超えた振る舞いに感激したのだ。
これを我が大文字屋の家訓とし、分家や別家に至るまでよくよく教えを守ってゆかねばならんぞ」
「これは…?
『義を先にし、利を後にする者は栄え 富を好しとし、而して其の徳を施せ』と読むのですか?」
「いいや、『好く富んで』と読む。
人を救うにせよ、何事かを為すにせよ、まず商人は富まねばならん。自らが富を得てこそ、其の徳を施すことを得る。
何よりも始末して富を蓄え、一朝事あらばそれを施すことを念じなければならぬ。
故にこそ、日々の暮らしはつましく倹約して、自らが奢ることがあってはならんのだ。
八幡町の方々は皆それを当然のように行っている。だが、世の中にはそのような気高い商人達ばかりではない。残念なことだがな…
我が大文字屋では、そのような気高い商人を目指すのだ。よくよく心得て商いに励むのだぞ」
「はい!」
八幡の商人達はその富に相応しい教養を身に付けるべく、方々の師匠に学び、また書を読んで己を高める勤勉さを徳とした
大文字屋に伝わる家訓は、荀子の栄辱編『先義而後利者栄』の引用かと思われる
結果的にこれが初代利右衛門数政の遺言になった
利右衛門はこの年の冬、五十五歳で急逝する
物言わぬ遺骨となって八幡町に戻った利右衛門に、甚五郎は涙を流した
「この上は、利右衛門殿の志を継いで家業を発展させなければなりませんぞ」
「はい。山形屋さんには父が生前お世話になりました。
代が変わっても変わらぬお引き立てをお願いいたします」
泣き腫らした赤い目をしながら、利右衛門の長男・熊之助が深々と頭を下げた
自身も父・仁右衛門を亡くしたばかりの甚五郎は、若い熊之助が懸命に父・利右衛門の跡を継ごうと頑張る姿に心を打たれた
「困ったことがあれば何でも遠慮なく言ってくだされ。江戸での商いも、善吉によくよく言い聞かせます。
八幡商人は、事に当たっては一致団結して難局を乗り切るのが習わしですぞ」
「ありがとうございます。ひとえに頼りにさせていただきます」
二十六歳で跡を継いだ長男熊之助は、二代目西川利右衛門重数を名乗り、山形屋や扇屋の援助を受けながら家業を発展させ、父の遺訓を実現するために商売に邁進した
1647年(正保4年) 夏 蝦夷国松前城下恵比須屋
「御免ください」
「ああ、住吉屋さん。また太物を持ってきてくださったんですね」
「少ない量で恐縮ですが…」
「いえいえ、こうやって毎月運んでくださるので助かっていますよ。アイヌとの交易には米と太物が不可欠ですからな」
『恵比須屋』岡田弥三右衛門の元を一人の行商人が訪れていた
彼の名は『住吉屋』西川傳右衛門
後の北海道開拓史において、また八幡商人を語るにも欠かせぬ人物である
この時、若干二十一歳
「しかし、さすがは恵比須屋さんですなぁ。これだけの大店を構えられるのはやはり並のご器量ではありませんなぁ」
傳右衛門が店内を見回しながら心底感心したように声を上げる
二年前から毎月のように越後上布を登せ荷にして、蝦夷の恵比須屋に通い詰めていた
「何をおっしゃる。住吉屋さんに言われるとからかわれているように感じてしまいますぞ。
何せ、元手銀わずか六匁から商売を始められて、今ではこれだけの隊商を引き連れて蝦夷まで参られるのですから」
「いやいや、早く蝦夷に店を持ちたいと念じつつ、なかなか果たせない小物でございますよ」
西川傳右衛門は越後で生まれ、八幡町で育った
その為、その活動は越後から蝦夷の北陸・奥羽をメインにしていた
商売を始めた最初の資本金はわずか銀六匁(約五千円)
その六匁で箒や塵取りなどの荒物と菓子を仕入れて北陸方面を行商し、財を蓄えて呉服・太物の扱いを始め、蝦夷に至ってその商いは大を為したという、まさに商人として立志伝中の人物だった
彼はその商才もあったが、何よりも諸国の人と良く話をし、その土地の風土・人情をよく理解し、情報を第一の売り物とした
仕入れた情報を元に各地で売る物を考え、また各地の情報を得意先で話す事で情報源としての役割を果たした
現代でも通用する、一流の営業マンの典型と言える
「ところで、松前藩では商業知行制の影響で中々に商人の手が足りなくなってきています。
住吉屋さんさえよければ、開店資金を含めお世話させていただきますので、直ちにこちらで店を出されませんか?」
「…ありがたいお申し出ですが、手前はやはり自ら蓄えた財によって店を得たいと思います。
それに、まだ蝦夷やアイヌの風土・人情をしっかりと理解できてはおりませぬ。今店を出したとて上手くいかぬように思うのです。
両浜組のお手伝いは是非にも致したいと思っていますが、今しばし時を頂きたく…」
傳右衛門は丁寧に頭を下げた
「こちらこそ、出過ぎた事を申しました。
いつか必ず力を合わせて蝦夷の地を繁盛させてゆきましょう」
「はい。その時はお引き立てのほどよろしくお願いいたします」
結局、この三年後の慶安三年に傳右衛門は蝦夷に住吉屋を構える
その後の傳右衛門の着想が、後に続く商人達の蝦夷開拓のスタンダードになってゆくのである
1647年(正保4年) 秋 近江国蒲生郡八幡町
「馬鹿者が…とうとう飛び出したまま一度も帰って来ぬとは…」
『綿屋』西村嘉右衛門は文と一枚の絵馬を手に涙に暮れていた
生糸を買付けるといって飛び出した弟の太郎右衛門が鎖国令によって帰国できなくなり、オランダ商人に託して、せめて絵姿だけでもと日牟禮八幡宮に奉納する絵馬を送って来たのだった
『以後は二度と故郷の地を踏むことは叶いませぬ
兄上様には万事壮健にあられ、家業の益々の繁栄を祈念いたします
最後に一目お会いすることも叶わず、不孝な弟をお許しください』
長崎でのキリシタン禁令により御朱印船の渡航が禁止になったとは風の噂で聞いていた
次の船便で帰ってくるだろうと思いながら心待ちにしていたが、まさかに日本人の入国まで禁止されていようとは思いも寄らなかった
嘉右衛門は弟の魂だけでも故郷に帰ることを願って、自らの敷地内に太郎右衛門の供養塔を建てた
それはまさに『家族』としての扱いであり、禁令を破った『罪人』への扱いではなかった
『安南屋』西村太郎右衛門のその後の足跡は杳として知れない
この翌年、北の蝦夷地のさらに果て、樺太のその先のオホーツク海沿岸
ロシアの探検隊はシベリアを東へ東へと探検し、ついにオホーツクに都市を建設していた
この探検の間に1644年に建国した『清』とアムール川(黒竜江)沿岸で武力衝突を繰り返していた
また、1643年にはオランダ船のカストリクム号が択捉島と得撫島を発見し、アッケシ(厚岸町)に寄港するに至る
アイヌ諸族は蝦夷各地を根拠としながら、オホーツク沿岸部や後金(のちの清)、千島列島などにまで狩猟と交易の手を伸ばしていたが、ロシアの進出によってその広がりは制限されることになる
1415年ポルトガルによるセウタ攻略から始まった大航海時代は、海の外に無限の広がりを見せるかに思えた
だがここに至って、世界はその果てを人類に全てさらけ出すことになった
1648年(慶安元年) 春 蝦夷国夷人地シブチャリ(静内 現新ひだか町周辺)
シブチャリのシャクシャインは酋長であるカモクタインの元を訪れていた
「カモクタイン。またニイカップ(新冠)のオニビシの配下の者がシブチャリ(静内)川の我らの領域で鮭を取っていた。
和人と交換できる米が減っている今、放置しては我らの取れ高が減ってしまう!こうなればオニビシと戦ってでもシブチャリ川をこちらのものにしなければ我らは飢え死にしてしまうぞ!」
シャクシャインは話している内に激高してきていた
「…オニビシはニイカップからシコツ(支笏)までを纏める大族だ。戦えばこちらとて無傷では済まぬ。
それどころかシブチャリは全滅の憂き目に会うかもしれん。
迂闊に手を出せる相手ではないぞ」
「わかっている!だが、ここで戦わねばいずれ我らは漁獲を奪われ、飢えて全滅するのではないのか?」
「…」
カモクタインが項垂れつつ目だけでシャクシャインを見上げる
「我らメナシクル(シブチャリ川東方のアイヌ民族)の武勇はシュムクル(シブチャリ川西方のアイヌ民族)に負けるものではない!カモクタイン!決断を!」
「…やむを得ぬか。シブチャリ周辺のメナシクルの主だった者を集めよ」
シャクシャインはシブチャリに主だったメナシクルの族長たちを集め、カモクタインと共に彼らと向き合った
「知っての通り、マツマエでの交易が禁じられてから我らが交換できる米の量は大きく減らされた!
以前と同じだけの米や酒を手に入れる為には、より多くの魚を取る必要がある!
しかし!オニビシ達シュムクルは我らのシブチャリ川の魚を目の前で好き放題に取ってゆく!
このままでは我らメナシクルの民は飢えて死ぬのを待つだけだ!
―――座して死ぬか!戦って生きるか!」
「戦うぞ!シャクシャイン!」
「そうだ!今こそメナシクルの武勇を見せる時だ!」
族長たちが気勢を上げる
尚も厳しい顔を崩さぬカモクタインをよそに、集会は開戦へと大きく傾いていた
シャクシャインがカモクタインを振り返る
「カモクタイン!皆も同じ気持ちだ!」
「………皆の気持ちはわかった!シュムクル何するものぞ!我らメナシクルの武勇を示すのだ!」
「「「オオーーー!」」」
気勢を上げた東方メナシクル達は、カモクタインを大将、シャクシャインを副将に据えてオニビシに対し戦端を開いた
「まずは我らのシブチャリ川を取り戻す!かかれーーー!」
シャクシャインの号令一下、シブチャリ川西岸で漁業に当たるシュムクルの家を襲い、集落を焼き払った
そのまま騎馬にて進軍し、ニイカップ周辺の攻略にかかった所でオニビシが配下の族長たちを引き連れて反撃に出た
戦いはお互いに損害を出し合いながら、一進一退でなかなか決着が付かなかった
両軍はシブチャリ川を挟んで対陣し、矢戦を交えながら持久戦になった
同じ頃、イシカリのハウカセも東蝦夷の『ヘニ黒立』との抗争に突入していた
世界の広がりが有限であり、交換できる物資の量が制限されれば、交換するべき資源を取り合って戦いが起きる
兵たる農民の『食』を確保するため戦った戦国時代の構図が、そのまま蝦夷の大地で再現された
この時代、確かに幕府の治める日本本土は一時的な平和を享受していた
しかし、その陰で鎖国によってアイヌの戦乱が引き起こされたのは皮肉な事というには余りに残酷だった
あるいは、戦国の世に現れた織田信長のような英雄がアイヌにも現れれば、その後の歴史にも大きな変動があったのかもしれない
だが、その出現を期待するには松前藩の対応は迅速すぎた
蝦夷各地でのアイヌの抗争によって蝦夷全土を統一する大首長の登場を警戒した松前藩は、自ら積極的にアイヌ諸族の仲裁に動いた
自らが介入することで、『松前による平和』を維持しようとし、確かに一時的にアイヌも矛を収めるのだが、本質的に『食』を得るための戦いであることからその平和は度々破られた
アイヌ諸族が争いの中にあることで肝心の漁獲量が減り、松前藩の知行地を拝領する武士たちはやむを得ず自ら、あるいは商人達に依頼して漁を行う者が出てきた
事ここに至った時に、その後の事態の推移は最後まで決定づけられたと言える
応援ありがとうございます!
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