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第五章 蒲生定秀編 観音寺騒動
第66話 父と子と母と
しおりを挟む小倉西家の本拠地である山上城には物々しい空気が漂っていた。小倉実治の正室であるお鍋の方は、居室で長男の甚五郎と共にじっと息を潜めている。
だが、周囲には具足を着込んだ鎧武者が行き交う音が聞こえる。それだけで、戦況は圧倒的に不利なのだと察せられた。
「ははうえ、ちちうえは?」
「甚五郎、大丈夫ですよ。父上は必ずや戻られましょう。今は信じて母と共に帰りを待ちましょう」
実治の嫡男である甚五郎は母の言葉を純粋に信じているようだったが、お鍋の方はさすがに城内の空気を敏感に察している。
この様子では蒲生の兵が城内に雪崩込んで来るかもしれない。城を落ち延びて逃げることも考えたが、お鍋の方は腹に子を宿している。大きな腹を抱えての逃避行などは不可能だった。
―――せめてこの子だけは
そう思い、思わず甚五郎を強く抱きしめる。甚五郎はまだ五歳の幼子だが、れっきとした小倉賢治の嫡孫であり小倉西家の後継者だ。仮に山上城が蒲生の手に落ちれば、どのような目に遭うかは想像に難くない。騒がしさを増す城内にあって、お鍋には嫌な想像だけが次々に膨らんでいた。
しばらくすると、お鍋と甚五郎の居る奥の間の襖が開いて鎧武者が入ってくる。
「お方様、申し訳ありません。この城は間もなく蒲生に包囲されます」
「殿は……殿はどうなさいましたか?」
「若殿は……市原野にてお討死。大殿は野戦に敗れて城へ逃げ戻る途中、敵方に捕らえられております」
「そんな……」
悪い予感が的中してしまったことに目眩を覚えながら、お鍋の方は怯える甚五郎をもう一度強く抱きしめた。
「もはや小倉家はこれまでにございます。甚五郎様は某が介錯仕ります故……」
「お待ちなさい」
一転して毅然としたお鍋の物言いに、入って来た家老も思わず言葉を飲み込む。
「この子を無益に殺すことはなりません」
お鍋とて家老の言いたいことは分かる。どのみち甚五郎が敵の手に落ちれば、小倉西家の嫡男として首を刎ねられる宿命だ。後に遺恨を残さぬために敵将の嫡男を殺しておくのは乱世の習いでもあるし、小倉賢治の娘を娶って蒲生の血縁の者を養子入りさせれば小倉西家は完全に蒲生の支配下に置くことが出来る。蒲生家が小倉宗家に対して行った婚姻政策だ。
もっとも、小倉宗家は蒲生に相談の上で嫡男の居ないままに死んだ小倉実光の養子を蒲生から迎えたわけだが、小倉西家は蒲生に反抗し、あまつさえ定秀の三男を討ち死にさせてしまっている。小倉宗家よりもはるかに惨い沙汰になることは十分にあり得る。
このまま敵に捕らえれれれば、幼い甚五郎は磔にされて苦しみながら死ぬことになるだろう。それならばいっそ一思いに首を刎ねてやった方が楽に死ねる。家老はそう言っているのだ。
だが、お鍋は最後まで甚五郎の命を守り通すと心を決めていた。
「城を開きなさい」
「ハッ!しかし……」
「どのみちこの城では長く持ちません。それならば早く城を開きなさい。そして、私が蒲生下野守様にお会いしたいと申していると伝えなさい」
「……承知いたしました」
家老が走り去って行った後をぼおっと見ながら、お鍋は再び甚五郎を抱きしめた。城内の喧噪は益々大きくなっている。
城を開くと言ったところで、蒲生がそもそも一族郎党を皆殺しにすると考えていれば城を開くことすら許されないかもしれない。何しろ相手は京の法華門徒を皆殺しにしたと噂される『鬼左兵』なのだ。天文法華の乱の折、京の制圧を行った蒲生の体は返り血で真っ赤に染まっていたと聞く。
近頃は年寄って丸くなったと聞くが、小倉実隆の死がその怒りに火を付けていればどうなるかはわからない。
お鍋の心には不安だけがさざ波のように押し寄せていた。
しばしの後、先ほどの家老が再び戻ってくる足音が聞こえた。甚五郎は相変わらずお鍋の腕の中で何も理解していないような顔をしていた。
※ ※ ※
「お目通り叶いましてありがとうございます。小倉右京亮の妻、お鍋でございます」
山上城攻めの本陣に座りながら、定秀は正面に座るお鍋に厳しい視線を向ける。お鍋は腹が突きだしており、その腹に子を宿していることは一目瞭然だった。
お鍋が来た目的は分かっている。甚五郎の助命嘆願だろう。だが、定秀としてもおいそれと聞けるものではない。事がここまで大きくなってしまった以上、甚五郎を残せば遺恨を生む恐れが大きい。とてものこと、はいそうですかと要求を呑むわけにはいかない。
「お鍋と申したな。そなたの申したいことは分かっている。だが、それが難しいことは理解していよう?」
「無論のこと、私も武家の女でございます。ですが、そこを押してお願いに参りました。まだ五つの幼子に何卒お慈悲を賜りますようお願い申し上げます」
定秀に頭を下げるお鍋は必死の形相をしている。まるでたった今から死地に赴く武士のような顔だ。いや、お鍋にすればまさにここは戦場であり、定秀と対面しているこの場は敵の総大将との一騎討ちという心持なのだろう。
そう思うと、定秀には妙にお鍋の必死さに共感を覚える気持ちが芽生えた。まるで実隆の死を聞いた時の雪の顔のように見えたからだ。
―――子を守ろうとする女人の気迫はすさまじい
小倉実隆の死を聞いた時の雪は、今のお鍋と同じ顔で定秀の胸を泣きながら叩き続けた。
何故小倉家などへ養子に入れたのか、息子が死んで何故平気で居られるのか、と散々になじられたが、すぐに正気を取り戻した雪に頭を下げられた。
定秀としてはそのまま雪になじられていた方がいっそ気が楽だった。自分自身、何故内紛を起こしかねないと分かっている小倉家へ息子を行かせたのかと己を責めている。あの時はそれが最善の選択だと信じたが、今となっては本当にそうだったのかと己に問う日々が続いている。
大人しく小倉家を六角家から離反させ、その後で正面から討ち果たす。そうすれば、少なくとも実隆を死なせることは無かったはずだ。
だがその想いは想いとして、定秀としては小倉西家を簡単に許すことは出来ない。小倉西家を許せば再び六角に背こうとするだろうし、そうなれば実隆は小倉西家の反乱を抑えられずにただ無益に死んだことになってしまう。
実隆が命を捨ててまでも防ごうとした小倉西家の反乱は、今ここで潰してしまわねばならない。そうでなければ、今度こそ冥土の実隆に会わせる顔が無い。
「残念だがその方らを許すことは出来ない。小倉西家の血筋にはここで死んでもらわねば、倅の死はただの犬死となろう。
そなたも母ならばわかるだろう。我が子を無益に死なせる親の無念を。その思いを儂に背負えと申すは、非道とは思わぬか?」
定秀にそう問われたお鍋は言葉に詰まる。お鍋が思わず定秀の顔を見ると、そこには噂に聞く『鬼左兵』ではなく、息子の死を悲しむ一人の父親の顔だけがあった。
しばらく戦場の喧噪だけが辺りを包み込む。だが、その沈黙を破ったのはお鍋だった。
「ならば、甚五郎には小倉を捨てさせまする」
「何?」
「小倉西家は断絶とされて構いませぬ。小倉の旧領は全て蒲生家に進上いたします。それ故、命だけはお助け下さいませ。下野守様のお慈悲に縋らせて下さいませ」
定秀にもお鍋の言葉は想定外の申し出だった。小倉を捨てるということは、甚五郎は小倉の姓を捨てるということになる。いや、姓を捨てることは無くとも山上城一帯を治めた小倉西家は廃絶ということになるだろう。何もかもを投げ捨てて生きることが果たして幸せなことなのかどうか、定秀は幼い甚五郎の為に考えを巡らせた。
―――日野で引き取ることにするか
日野には小倉実隆の子である松千代を預かっている。小倉甚五郎を松千代の近習とし、山上城一帯には蒲生の一族か重臣の誰かを配すれば小倉西家の反乱は完全に抑えることが出来る。
父親は敵同士だったとしても、今の内からお互いに馴染んでおけば上手く行くかもしれない。
「……わかった。甚五郎は人質として我が日野中野城で預かることとする。以後小倉西家の家督は継げぬ物と心得よ。それで良いのならば、甚五郎の命は助けよう」
「ありがとうございまする。下野守様のお心遣いに感謝申し上げます」
お鍋との話を終えた定秀は、捕らえていた小倉賢治に腹を切らせて小倉西家討伐を終了した。
賢治には甚五郎が小倉西家を捨てることは告げず、開城と共に自害したと伝えるに留めた。小倉宗家と小倉西家の内紛に対して中立を保っていた小倉東家も以後は蒲生の触れに従うことを誓い、小倉氏は完全に蒲生の配下となる。この措置によって八風・千草の両街道は共に蒲生家の影響下に置かれることになる。
小倉実隆の死は、結果的に蒲生が東近江の要地を抑える契機となった。
永禄八年(1565年)六月
蒲生定秀は小倉氏を降して日野中野城に凱旋する。だが、その途上で京からもたらされた驚くべき報せに接した。
京に居る将軍足利義輝が三好三人衆によって弑逆されたとする、いわゆる『永禄の変』の報せだった。
三好家の全盛期を築いた三好長慶は前年の永禄七年に亡くなっており、知勇兼備の将と言われた長慶の嫡男三好義興は父よりも先に病で亡くなっていた。
三好家の武威は衰え、天下は再び騒乱の渦に巻き込まれようとしている。
報せを受けた定秀は、何よりもまず死んだ六角定頼のことを思い出していた。
天下を差配した六角定頼が死んだ時、次の天下人として三好長慶が名乗りを上げた。それに対して六角義賢は旧勢力として天下を二分し、三好長慶の独走を阻んだ。
その三好長慶の死によって、時代はまた変わるという予感が定秀を襲う。次なる天下を担うために再び六角家の威信を賭けて戦わねばならない日が必ず来るだろう。その六角家にあって、今の自分は既に老い、力を失いかけている。
息子の賢秀もすでに三十歳を超え、一家の当主として堂々たる風格を備えつつある。いつまでも老人の出番ではないのかもしれないという思いが定秀の心中を満たしていた。
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