鶴が舞う ―蒲生三代記―

藤瀬 慶久

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第六章 蒲生賢秀編 元亀争乱

第76話 野洲河原の戦い

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主要登場人物別名

左兵衛大夫… 蒲生賢秀 蒲生家当主
忠三郎… 蒲生賦秀 後の氏郷 賢秀の嫡男
駿河守… 青地茂綱 蒲生賢秀の弟

佐助… 三雲賢春 三雲賢持の長男

――――――――

 
 曇天の空に生暖かい風が吹いている。野洲川を挟んだ南側には六角の旗を掲げた軍勢が広く展開し、進藤賢豊の籠る木浜城を包囲していた。
 馬上から彼方に広がる野洲の平野部を見回しても敵味方の軍勢がどこまで展開しているのかが見えない。近江盆地の中でも広大な湿地帯である中主ちゅうず周辺には、山はおろか丘と呼べる小高い場所すらなく、常に使番の報告を聞きながら進退しなければ知らぬうちに大軍に包囲されることにも成りかねなかった。

「木浜を落として湊を確保するつもりか。やはり六角家に心底協力する軍勢は少ないと見えるな」
「そのようです。それに、水運を確保すれば岐阜と京は分断されます」

 近習の外池孫左衛門が賢秀の言葉に頷く。孫左衛門は定秀が長く軍勢を任せていた外池茂七の息子で、忠三郎賦秀とほぼ同時に元服している。ゆくゆくは蒲生の重臣となってくれるよう、賢秀は側近くに置いていた。

「……む」

 風に乗って冷たい雫が賢秀の頬に当たった。

「降って来たか」
「合戦の最中に本降りにならねば良いですが……」
「うむ……」


 元亀元年(1570年)六月

 定秀の説得も虚しく、六角親子は石部城で兵を上げた。公称二万、実兵力九千余りの軍勢だ。
 旧領復帰を目指す六角親子だが、一目散に観音寺城に攻めかかることはせずに進藤氏の本城である木浜城を攻める構えを見せていた。木浜城は野洲川の河口付近を抑える城で、東山道の要所を抑えつつ琵琶湖に船を出すことも出来る好立地にある。
 ここを奪えれば北近江の浅井と水運を使って連携することもでき、さらに堅田衆などを抱き込めば京へと至る湖の道を抑えることも出来る。つまり、織田家の本拠である岐阜と京を完全に分断することができる。

 だが、それは言い換えれば京や北近江と連携しなければ六角家単独で観音寺城を奪還することが難しいという証明でもあった。
 今や六角親子に従う兵の多くは雇いの兵であり、本来六角家を支えていた家臣団の中で今なお協力している者は三雲、三井、鯰江くらいのものだった。


 賢秀の率いる蒲生勢は今回も先陣を外され、後詰の部隊としてやや後方に配置されている。右斜め前方には柴田勝家の本陣が置かれ、先陣は柴田勝豊が務める。先陣は過酷な戦闘を強いられる部署であり、それだけ武勇に優れ、かつ信頼されている者が務めるのが常だ。
 新参の蒲生家はまだそこまで柴田に信頼されているわけでは無かった。

「始まるぞ」

 賢秀の声に近習や馬廻衆も表情を引き締め、あるいは槍を握りなおして脇に抱える。

 ―――忠三郎も戦に慣れて来たか

 隣で馬に乗る賦秀の表情も以前と違って堅さが抜けている。これならば良い働きが出来るだろうと賢秀は満足だった。

 次の瞬間、柴田本陣から太鼓の音が鳴り響き、一拍の後に法螺貝が鳴り響いて先陣の柴田勝豊隊がゆっくりと移動を始める。勝豊隊の前方ではいち早く渡河した三雲勢が迎撃の構えを取っていた。

 ―――三雲が先陣とは……

 甲賀武士を中心に編成されている三雲隊は、本来ならば軽装で戦場を縦横に移動し、隙を見て敵を邀撃する遊撃隊がその役目となる。先陣のように泥臭い戦は今まで蒲生が負っていた領分だ。
 その三雲が先陣を務めなければならないほどに六角家では人材が不足しているのだろう。

 幾度目かの太鼓の音が鳴る頃、柴田勝豊隊と三雲定持隊の先頭が槍を交わし始めた。

「ふむ。中々の勢いだな。だが、三雲も良く耐えている」

 賢秀が独り言ちると、となりで賦秀が不思議そうに賢秀を振り返った。

「三雲は押されているように見えますが……」
「あれは誘っているのだ。崩れてはいかぬところはしっかりと抑えている」

 賢秀の言葉に再び賦秀が前線に目を向けると、果たして賢秀の予想通り突出し始めた勝豊隊の先頭が横から槍を受けて逆に崩れ始めている。柴田勝豊隊は一旦軍勢を退き、改めて隊列を整えている所だった。
 一進一退のまま半刻余りが過ぎたころ、野洲川の対岸から微かに法螺貝の音が聞こえて来る。

「あれは……?」
「駿河守達が裏を突いたのだろう」

 賢秀の弟である青地茂綱は栗太郡の青地城を本拠としている。今回の木浜城攻防戦に合わせて、青地を始めとした西近江勢は六角の背後を突く動きをしていた。それが今この時に攻めかかったのだろう。果たして三雲の前線は大きく動揺し始めた。先ほどと違い、全面的に押されている展開だ。

「勝負あったな。裏をかかれてはどうにもならぬ」

 賢秀の言葉に再び賦秀が顔を向けた瞬間、柴田勝家の本陣から”かかれー!”という大音声が聞こえた。柴田陣からは一町以上離れているのに、それでもこれだけ聞こえるというのは柴田勝家とはよほどに声の大きい大将だと思った。

「父上、我々も」
「うむ。ゆくぞ!」

 賦秀の言葉に従い、賢秀も蒲生勢に号令をかける。本陣が進んでいるのに一人蒲生だけが今の場所に居残っているわけにはいかない。
 野洲河原には柴田と共に永原城の佐久間信盛も出陣しているが、今のところは蒲生のさらに後ろで後衛の位置を占めている。攻めを得意とする柴田に対し、佐久間は撤退戦などの指揮に優れた技巧派だ。『かかれ柴田に退き佐久間』と称された両将らしい役割分担と言えた。



 ※   ※   ※



 本降りになった雨の中を三雲賢春は必死に逃げていた。既に野洲河原に展開する六角軍は崩壊し、祖父の三雲定持は討ち死にした。叔父で現当主の三雲成持は六角親子の撤退を助けるために側に付き従っているはずだ。賢春は討ち死にした祖父に代わって殿しんがりを務め、殿軍が崩壊したことで単身三雲城へ向かっている所だった。

 ―――ひとまず手当をしなければ……

 賢春の右足には逃走中に突き刺さった流れ矢が刺さっている。矢はひとまず羽根を斬り払って短くしてあるが、やじりを抜いて手当をしなければ逃走の動きが妨げられる。
 三上山の麓にある三上神社の塀の影に隠れた賢春は、周囲に人の気配がないことを確認すると懐から釘抜を取り出して刺さった矢を引き抜いた。

「っ痛」

 激痛が走り、思わず大声を上げそうになる。だが落ち武者狩にでも見つかれば命は無い。その為、布を噛んで声を上げないようにしていた。

 鏃を抜いた足からは血が次々と流れ出る。賢春は次に懐の水筒を取り出して傷口を洗うと、膏薬こうやくを塗り込んで止血した後、布をきつく巻いて傷口を塞いだ。傷口の少し上の腿の部分にも布を巻いてこれ以上血を失わない工夫もしている。

 甲賀の山地を走り回っていると、山で枝などを足に引っかけることも珍しくない。その為、甲賀武士は常に応急手当用の傷薬を携行している者が多かった。賢春は普段の癖で救急袋を携帯していたが、この日ほどそれを有難く思ったことは無かった。

 ―――御屋形様やご隠居様は無事に逃れられただろうか

 ひとまず矢を抜き終わった賢春は、ジンジンと痛む足を労わりながら先ほどまでの戦を思い出していた。

 ―――ひどい戦だった

 慣れない先陣の中で最初こそ敵を誘導しつつ何人もの敵兵を葬ったが、後方を乱されるとそれ以上粘ることが出来ずにあっけなく崩れ始めた。元来甲賀の戦い方は一撃離脱だ。矢を放ち、敵がそれを受けて反撃しようとした時には既に居なくなっている。京で木沢軍や三好軍を散々に翻弄した三雲隊は、先陣という慣れない役割に本来の力の半分も出せずに敗退してしまっていた。

 ―――蒲生が居れば……

 詮無き事とわかりつつも、そう思わずにはいられない。同じ山地の兵でありながら、蒲生兵は前線を維持することに長けている。浅井と戦った野良田の合戦でも先陣の蒲生は浅井の猛攻にもビクともせずに立ちふさがり、三雲隊の行動を容易ならしめてくれた。浅井長政も正面から蒲生の防陣を突破することは出来ずに強襲隊を自ら率いて六角本陣に突撃するしかなかった。一歩間違えれば総大将討ち死にによってあっさりと負けていたはずだ。その危険を冒してでも、蒲生を突破するよりも分があると踏んだのだ。

 だが、その蒲生は敵方の後詰として活躍していた。覚悟はしていたとはいえ、敵陣に『対い鶴』の旗を見た時には改めて蒲生は敵になったのだと実感せずにはいられなかった。


 ―――よし、このまま野洲川沿いを……

 賢春が立ち上がろうとした時、不意に馬の馬蹄の音が聞こえた。それも一騎ではなく複数の足音だ。
 普段ならば木の間を飛んで逃げる所だが、今の足ではそれも難しい。やむなく再び息を潜めて隠れていると、馬蹄の音はどんどんと近づいてきてついには話し声も聞こえるようになった。

 ―――雨の音で気付くのが遅れたか

 ”父上! 血痕があります”
 ”どれ”

 聞きおぼえのある声が近づいて来る。やがて塀の向こうで馬を降りる音が聞こえ、続いて複数人の歩く音が近づいてくる。
 やがて姿を見せたのは蒲生賢秀だった。傍らには賦秀も居る。

「佐助殿……」
「左兵衛大夫殿」

 雨の中でしばし見つめ合う。途中から賢春は声の主が賢秀であることに気付いていた。

「どうやら某もここまでのようですね。雑兵ではなく左兵衛大夫殿に討ち取られるならば、本望」

 そう言ってヨロヨロと立ち上がりながら刀を構える。もはや賢秀の槍をかわすことなど出来る状態ではないことは賢春自身が一番知っていた。
 だが、賢秀は色めき立つ賦秀や近習を抑えて槍を外池孫左衛門に渡すと、おもむろに兜を脱いで素面を晒した。その顔は今の天と同じく泣き出しそうな顔に賢春には思えた。

「死ぬことを本望などと言うな。 生きよ。最期まで生きよ」
「もはや六角家の再興は夢と消えました。これ以上生きていても……」
「我が父、蒲生下野守定秀は今も諦めておらぬ」
「……?」

 賢春には言っている意味が解らなかった。そもそも蒲生定秀が何を諦めるというのか。

「父は、最後の最後に承禎様や右衛門督様の御命を守るべく生き恥を晒しておる。いよいよとなった時、織田弾正忠様に縋って御二方の助命を嘆願することが最後に残された仕事と申しておる」
「……!!」

 賢春にはその言葉が衝撃だった。
 やむを得ないことと理解しつつも、心のどこかで蒲生は六角を裏切ったのだという気持ちがあった。だが、違った。蒲生は六角の再起は不可能と見て、最後に六角家の血脈を保つべく織田に降ったのだ。仮に今蒲生が六角家と共に起っていれば、やがて織田に攻め滅ぼされて共に死ぬしかなかったかもしれない。

「生きてさえいれば、何事か為せることもあるはず。死んだ者はそれ以上何もできぬ」
「……」
「孫左衛門。馬を一頭寄越せ」
「ハッ!」

 賢秀の命ずるままに外池孫左衛門が自身の乗馬を前に引き出してくる。

「柴田や佐久間の軍勢は既に木浜城に入っている。これ以上追手は出ぬはずだ」

 そう言って手綱を賢春に渡すと、賢秀らは踵を返して来た道を戻って行く。その後ろ姿に賢春は頭を下げた。

「……かたじけない」

 頬を濡らす雨に混じって熱いものが双眸から溢れていた。
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