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素直と悪態
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毎日毎日石を投げつけられ、足を引っ掛けられては転び、背後からぶつかって来て川や沼や崖に落とされた。
白い肌や羽はボロボロになり、泥や傷で赤茶けて美しくは無くなった。
たまに仕掛けた罠や取っ組み合いで手にした貴重な獣の肉や魚は、奪われる事も多くて、畑も荒らされて居る事も少なくなかった。
誰がそんな酷い事をしているかは分かっては居るが、決して反抗はしなかった。
もちろん、悔しくない訳では無い。
いつか、を信じても裏切られる事も分かっている。
でも、やり返す事はしなかった。
自分が望んだ道だと、何度も唇をかみ締めて堪えた。
何度も修繕を重ねたボロボロの籠の中には、小さい数個の木の実と野草、片手に小さくもないが大きくもない魚を一匹持って、小さな掘っ建て小屋に戻った。
ボロボロの男は扉の前に立つと、大きく深呼吸をする。
そして、小さな取っ手を掴んだ。
「ただいまーっ!!」
笑顔で大きな声で元気良くそう言いながら、扉を開けた。
「おとおしゃん!!」
小さい男の子が、両手を広げてトタトタと可愛い足音を響かせながら近付いて来た。
「カグヤ、今日は魚を採って来たぞっ!!」
「おしゃかなっ!しゅごいっ!!」
カグヤと呼ばれた男の子は、赤い目をまん丸くさせ、キラキラと輝かせた。
「おとおしゃん、しゅごいっ!!」
走り寄って、男を見上げると抱っこをせがむ様に両手をいっぱい広げた。
「お父さんは身体が汚れてしまっている。抱っこしたいが、カグヤも汚れてしまう。後でいっぱい抱っこしてやるからな」
男も抱き上げたい気持ちを抑え、ニッコリ笑みを見せた。
カグヤもニッコリと微笑み返す。
「お母さんは?」
「るしかをねかしつけてる」
そうか、と男は呟いた。
野草の入った籠を炊事場に持って行くと、竈の横に置き、魚を小さな籠に入れた。
水瓶から、酌で水を救うと、片手づつ水を掛けた。
「おとおしゃん……、はね、いたいいたい?」
泣き出しそうな弱々しい声に、男は振り向いた。
男の羽は所々抜け落ち、隙間が見える。
傍にあった手拭いで手を拭くと、男はカグヤの頭を撫でた。
「痛くないよ。すぐ直る」
「……ほんとう?」
先程、キラキラとした赤い目が、うるうると水気を増していた。
「本当だとも。カグヤは優しい子だ。お父さんは嬉しいよ」
男はわしゃわしゃとカグヤの頭を撫でると、手を離した。
「お父さんはそこの川で身体を流して来る。その後ご飯の準備をしよう。カグヤも手伝ってくれるだろう?」
カグヤは撫でられた頭に手を乗せると、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「お父さんが身体を綺麗にしている間に、お手伝いの準備をしておきなさい」
「うんっ!!」
カグヤはもう一度頷くと、男から離れた。
男は、その小さく愛おしい存在に目を細めると、手拭いを掴んで再び外へ出た。
掘っ建て小屋に、小さな畑。
その横に流れる小さな小川に腰を屈めると、男は上半身を脱いだ。
ボロボロの衣服は、後で繕おうと軽く丸めて横に置いた。
家族が増えた。
もう少し家を補強して、部屋を増やして、風呂場も作ろう。
風呂場を作って、子供達と入るのはどれ程楽しいだろう、と子供の笑顔を想像すると自然に表情が綻んだ。
小川を覗き込むと、泥や土で汚れ薄らと傷が付いた汚い自分の顔が見えた。
男は小さく溜息を吐くと、小川の水を両手で掬おうと手を伸ばした。
『やられたらやり返せば良いものを……』
そんな低く太い声が、背後から聞こえた。
男は背筋を伸ばすと、後ろを振り返った。
「そんな事をしたら、ルシフェルが悲しむでしょう?」
『魔族になりたいのであろう?ならば、欲望のままにやり返せば良い。さすれば、奴らも貴様を認めるじゃろうて』
男は再び小川に手を伸ばし、両手で水を掬うと顔を洗った。
顔から水が滴ると、首を左右に振る。
「確かに、私達の存在を認めては欲しいですし、やり返すのは簡単です」
『ならば、存分にやり返せ』
声を背中で聞きながら、男は片腕に水をかけ、汚れを落とす為に腕を擦った。
「ここは、天界に似ています」
『……ほう?』
「だから、やられてやり返すのは嫌なんです」
汚れて茶色くなった腕を水で流すと、傷だらけの白い腕が見えた。
「もし仮に、やり返して受け入れられても、嬉しくないですよ。私もルシフェルも。何より子供達に面目が立たない」
もう片方の腕を伸ばすと、上から水を掛けた。
「魔王様だって、ルシフェルが悲しむのは嫌でしょう?大事な妹君なんだし」
『その妹を拐かした輩から出る言葉じゃないの』
「気に入らないなら、真っ先に私を殺せば良いじゃないですか」
『あの陰湿な奴らと争う程、時間の無駄は無い』
「でも、一番はルシフェルを泣かせたくないからでしょう。私を消す方法なんて、いくらでもやりようがある」
擦った腕に水を掛け、汚れを流す。
『貴様とて、この地に留まる理由などなかろう。ルシフェルを連れ去る方法もあったのではないか?』
「天界へ連れて行っても、ルシフェルが余計に辛くなるだけです。それなら、私がここに留まった方が、必ずルシフェルの助けになる人が出て来るじゃないですか?」
くるっと振り返った男は、にっと笑った。
相手はこの世界の魔王だ。
それでも友好的に、男は笑顔を向ける。
「そうするには、やられたからやり返すのは間違いです」
『我らはそう言うのを好む』
「それに、いづれは私もここの仲間だと認めて貰うのに、仲間を傷つけられないじゃないですか」
仲間……、その様な発言に魔王は煙たげな表情を浮かべた。
『貴様の様な天界人丸出しの見てくれじゃ。やり返し、自分の力を誇示した方が早かろう……』
「それも分からない訳では無いです。……でも、私は暴力が好きではありません」
『貴様の気持ちなど問題では無い。……貴様が傷付いて、ルシフェルが平気な訳が無い』
「そう、大事なのはその気持ちなんです」
男は安心げに笑い、魔王は訝しげな表情で腕を組んだ。
「ルシフェルが私を心配なんて私が思えば自惚れです。しかし、妹であるルシフェルを心配するのは、兄として、家族としての『情』なんです」
嬉しげに話す男に、魔王は苛立った。
組んだ腕に力を入れる。
「私は仲間を大事にしたい。だから、やり返しません」
『その仲間とやらが、貴様を裏切るやもしれぬ』
「そうなれば、私が未熟なだけな事です」
『天界との争いになるやも知れぬ。……我らは構わぬが』
「……やはり、貴方は優しい方だ。ルシフェルが優しいのも頷ける」
男は下を向くと、小さく笑った。
『儂はただルシフェルを案じておるだけじゃ』
「ルシフェルだって貴方を案じてましす。……だから、それで良いんです」
『……ふん』
話にならないと思ったのか、魔王は鼻先で笑った。
「私はいづれこの地にて命を落とすでしょう。……その時、ルシフェルと子供達が寂しくならなくて済む……」
『……阿呆か、貴様は』
「貴方はルシフェルの兄上だ。子供達の叔父でもあり、家族です。私は信じてますよ、義兄上様」
笑顔で話す男の身体が突然浮き上がり、小川に吹っ飛ばされた。
小川に尻餅を付くと、身体がびしょ濡れになった。
前を向くと、魔王の掌が男に向いていた。
しばらく冷たい目で男を睨むが、ふいっと空を見上げると腰を引き、大きな翼をはためかせ飛び去ってしまった。
男はそれを見送ると小さく笑い、濡れたついでに身体を洗い流した。
小川から上がると手拭いで簡単に身体を拭き、さすがに下半身は丸出しには出来ないと、濡れたまま掘っ建て小屋へと戻った。
ドアを開けると、魚が焼けるいい匂いがした。
ルシフェルが調理をしている。
「あら、貴方。おかえりなさい」
小さい台所で調理をしていたルシフェルは、男に気が付くとそう優しく声を掛けた。
「ルシフェル、君はずっと子供達の面倒を見ているんだ。食事くらい私が……」
男は慌ててルシフェルに近づいた。
「貴方は、私やカグヤの為に頑張ってくれています。食事の用意くらい出来ますよ」
「しかしだな、ルシカが産まれてまだ日も浅い。無理はして欲しくないのだ」
「大丈夫です。カグヤもルシカのお世話を一緒にしてくれているので……」
ほら、とルシフェルはゆりかごをゆっくり揺らすカグヤに目線を向けた。
ルシカが喜んで居るのか、カグヤは目をキラキラさせている。
「ちゃんとお兄ちゃんになろうと頑張っているのだな」
「ええ、微笑ましい限りです。……さぁ、貴方も着替えていらして下さい。濡れたままですと風邪をひきますよ?」
「そうだな、これ以上ルシフェルの手を煩わせる訳には行かんな」
そう言うと、男は衣服のある部屋へと行った。
しばらくすると、濡れて汚れた衣服と手拭いを持って戻り、それを籠に入れる。
「そう言えば、義兄上様にお会いしたぞ」
何気にそう男は言ったが、ルシフェルは動きを止めた。
「何かされたのですか?」
ルシフェルは語気を強めて早口に聞いてきた。
「いや、話をしただけだ。大丈夫、何にもされてないさ」
ルシフェルの横に立つと、竈にかかっている野草のスープの鍋を覗き込んだ。
「ただ、ルシフェルの心配をしているだけだよ」
「私の心配なぞ口実に過ぎません」
「何かされたなら、私はここには戻って居ないよ」
鍋の中をクルクルと混ぜながら、男は答えた。
「大事な妹君を天界人の私が奪ったのだ。心配して当たり前」
「ならば、もう少し寛容になって下されば良いのに……。せめて、カグヤとルシカには……」
「義兄上様はこの世界の魔王様だ。立場だとかいろいろあるだろう。それに、私達の事もちゃんと考えて下さってる筈だよ」
男は手を止め、ルシフェルの方を見た。
不安そうなルシフェルの頬をそっと撫でた。
「もし、義兄上様が心配をしなかったら、私はルシフェルに惚れた時点で消されていた筈だ。今でさえ、消す方法はいくらでもある。それをしないのは、君の悲しむ姿を見たくないからだ」
「……」
「ルシフェルが私を慕っている様に、義兄上様だって君の事が大事だ。もちろん、甥御であるカグヤやルシカの事も。……だから、私は義兄上様を信じているよ」
男はルシフェルを優しく抱き締めた。
(……全く、今もなお儂を苦しめおって)
暗い部屋の中で、魔王は目を覚ますと溜息を吐いた。
目の前にはルシフェルの大きな肖像画。
《私は信じていますよ、義兄上様》
そう言って笑う男の顔がチラついた。
(何が義兄上じゃ、気色悪い……)
胸の奥でそう呟いても、余計に男の笑顔がチラついた。
(儂は魔族の王じゃ。……何としても)
魔王はルシフェルの肖像画を見上げた。
白い肌や羽はボロボロになり、泥や傷で赤茶けて美しくは無くなった。
たまに仕掛けた罠や取っ組み合いで手にした貴重な獣の肉や魚は、奪われる事も多くて、畑も荒らされて居る事も少なくなかった。
誰がそんな酷い事をしているかは分かっては居るが、決して反抗はしなかった。
もちろん、悔しくない訳では無い。
いつか、を信じても裏切られる事も分かっている。
でも、やり返す事はしなかった。
自分が望んだ道だと、何度も唇をかみ締めて堪えた。
何度も修繕を重ねたボロボロの籠の中には、小さい数個の木の実と野草、片手に小さくもないが大きくもない魚を一匹持って、小さな掘っ建て小屋に戻った。
ボロボロの男は扉の前に立つと、大きく深呼吸をする。
そして、小さな取っ手を掴んだ。
「ただいまーっ!!」
笑顔で大きな声で元気良くそう言いながら、扉を開けた。
「おとおしゃん!!」
小さい男の子が、両手を広げてトタトタと可愛い足音を響かせながら近付いて来た。
「カグヤ、今日は魚を採って来たぞっ!!」
「おしゃかなっ!しゅごいっ!!」
カグヤと呼ばれた男の子は、赤い目をまん丸くさせ、キラキラと輝かせた。
「おとおしゃん、しゅごいっ!!」
走り寄って、男を見上げると抱っこをせがむ様に両手をいっぱい広げた。
「お父さんは身体が汚れてしまっている。抱っこしたいが、カグヤも汚れてしまう。後でいっぱい抱っこしてやるからな」
男も抱き上げたい気持ちを抑え、ニッコリ笑みを見せた。
カグヤもニッコリと微笑み返す。
「お母さんは?」
「るしかをねかしつけてる」
そうか、と男は呟いた。
野草の入った籠を炊事場に持って行くと、竈の横に置き、魚を小さな籠に入れた。
水瓶から、酌で水を救うと、片手づつ水を掛けた。
「おとおしゃん……、はね、いたいいたい?」
泣き出しそうな弱々しい声に、男は振り向いた。
男の羽は所々抜け落ち、隙間が見える。
傍にあった手拭いで手を拭くと、男はカグヤの頭を撫でた。
「痛くないよ。すぐ直る」
「……ほんとう?」
先程、キラキラとした赤い目が、うるうると水気を増していた。
「本当だとも。カグヤは優しい子だ。お父さんは嬉しいよ」
男はわしゃわしゃとカグヤの頭を撫でると、手を離した。
「お父さんはそこの川で身体を流して来る。その後ご飯の準備をしよう。カグヤも手伝ってくれるだろう?」
カグヤは撫でられた頭に手を乗せると、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「お父さんが身体を綺麗にしている間に、お手伝いの準備をしておきなさい」
「うんっ!!」
カグヤはもう一度頷くと、男から離れた。
男は、その小さく愛おしい存在に目を細めると、手拭いを掴んで再び外へ出た。
掘っ建て小屋に、小さな畑。
その横に流れる小さな小川に腰を屈めると、男は上半身を脱いだ。
ボロボロの衣服は、後で繕おうと軽く丸めて横に置いた。
家族が増えた。
もう少し家を補強して、部屋を増やして、風呂場も作ろう。
風呂場を作って、子供達と入るのはどれ程楽しいだろう、と子供の笑顔を想像すると自然に表情が綻んだ。
小川を覗き込むと、泥や土で汚れ薄らと傷が付いた汚い自分の顔が見えた。
男は小さく溜息を吐くと、小川の水を両手で掬おうと手を伸ばした。
『やられたらやり返せば良いものを……』
そんな低く太い声が、背後から聞こえた。
男は背筋を伸ばすと、後ろを振り返った。
「そんな事をしたら、ルシフェルが悲しむでしょう?」
『魔族になりたいのであろう?ならば、欲望のままにやり返せば良い。さすれば、奴らも貴様を認めるじゃろうて』
男は再び小川に手を伸ばし、両手で水を掬うと顔を洗った。
顔から水が滴ると、首を左右に振る。
「確かに、私達の存在を認めては欲しいですし、やり返すのは簡単です」
『ならば、存分にやり返せ』
声を背中で聞きながら、男は片腕に水をかけ、汚れを落とす為に腕を擦った。
「ここは、天界に似ています」
『……ほう?』
「だから、やられてやり返すのは嫌なんです」
汚れて茶色くなった腕を水で流すと、傷だらけの白い腕が見えた。
「もし仮に、やり返して受け入れられても、嬉しくないですよ。私もルシフェルも。何より子供達に面目が立たない」
もう片方の腕を伸ばすと、上から水を掛けた。
「魔王様だって、ルシフェルが悲しむのは嫌でしょう?大事な妹君なんだし」
『その妹を拐かした輩から出る言葉じゃないの』
「気に入らないなら、真っ先に私を殺せば良いじゃないですか」
『あの陰湿な奴らと争う程、時間の無駄は無い』
「でも、一番はルシフェルを泣かせたくないからでしょう。私を消す方法なんて、いくらでもやりようがある」
擦った腕に水を掛け、汚れを流す。
『貴様とて、この地に留まる理由などなかろう。ルシフェルを連れ去る方法もあったのではないか?』
「天界へ連れて行っても、ルシフェルが余計に辛くなるだけです。それなら、私がここに留まった方が、必ずルシフェルの助けになる人が出て来るじゃないですか?」
くるっと振り返った男は、にっと笑った。
相手はこの世界の魔王だ。
それでも友好的に、男は笑顔を向ける。
「そうするには、やられたからやり返すのは間違いです」
『我らはそう言うのを好む』
「それに、いづれは私もここの仲間だと認めて貰うのに、仲間を傷つけられないじゃないですか」
仲間……、その様な発言に魔王は煙たげな表情を浮かべた。
『貴様の様な天界人丸出しの見てくれじゃ。やり返し、自分の力を誇示した方が早かろう……』
「それも分からない訳では無いです。……でも、私は暴力が好きではありません」
『貴様の気持ちなど問題では無い。……貴様が傷付いて、ルシフェルが平気な訳が無い』
「そう、大事なのはその気持ちなんです」
男は安心げに笑い、魔王は訝しげな表情で腕を組んだ。
「ルシフェルが私を心配なんて私が思えば自惚れです。しかし、妹であるルシフェルを心配するのは、兄として、家族としての『情』なんです」
嬉しげに話す男に、魔王は苛立った。
組んだ腕に力を入れる。
「私は仲間を大事にしたい。だから、やり返しません」
『その仲間とやらが、貴様を裏切るやもしれぬ』
「そうなれば、私が未熟なだけな事です」
『天界との争いになるやも知れぬ。……我らは構わぬが』
「……やはり、貴方は優しい方だ。ルシフェルが優しいのも頷ける」
男は下を向くと、小さく笑った。
『儂はただルシフェルを案じておるだけじゃ』
「ルシフェルだって貴方を案じてましす。……だから、それで良いんです」
『……ふん』
話にならないと思ったのか、魔王は鼻先で笑った。
「私はいづれこの地にて命を落とすでしょう。……その時、ルシフェルと子供達が寂しくならなくて済む……」
『……阿呆か、貴様は』
「貴方はルシフェルの兄上だ。子供達の叔父でもあり、家族です。私は信じてますよ、義兄上様」
笑顔で話す男の身体が突然浮き上がり、小川に吹っ飛ばされた。
小川に尻餅を付くと、身体がびしょ濡れになった。
前を向くと、魔王の掌が男に向いていた。
しばらく冷たい目で男を睨むが、ふいっと空を見上げると腰を引き、大きな翼をはためかせ飛び去ってしまった。
男はそれを見送ると小さく笑い、濡れたついでに身体を洗い流した。
小川から上がると手拭いで簡単に身体を拭き、さすがに下半身は丸出しには出来ないと、濡れたまま掘っ建て小屋へと戻った。
ドアを開けると、魚が焼けるいい匂いがした。
ルシフェルが調理をしている。
「あら、貴方。おかえりなさい」
小さい台所で調理をしていたルシフェルは、男に気が付くとそう優しく声を掛けた。
「ルシフェル、君はずっと子供達の面倒を見ているんだ。食事くらい私が……」
男は慌ててルシフェルに近づいた。
「貴方は、私やカグヤの為に頑張ってくれています。食事の用意くらい出来ますよ」
「しかしだな、ルシカが産まれてまだ日も浅い。無理はして欲しくないのだ」
「大丈夫です。カグヤもルシカのお世話を一緒にしてくれているので……」
ほら、とルシフェルはゆりかごをゆっくり揺らすカグヤに目線を向けた。
ルシカが喜んで居るのか、カグヤは目をキラキラさせている。
「ちゃんとお兄ちゃんになろうと頑張っているのだな」
「ええ、微笑ましい限りです。……さぁ、貴方も着替えていらして下さい。濡れたままですと風邪をひきますよ?」
「そうだな、これ以上ルシフェルの手を煩わせる訳には行かんな」
そう言うと、男は衣服のある部屋へと行った。
しばらくすると、濡れて汚れた衣服と手拭いを持って戻り、それを籠に入れる。
「そう言えば、義兄上様にお会いしたぞ」
何気にそう男は言ったが、ルシフェルは動きを止めた。
「何かされたのですか?」
ルシフェルは語気を強めて早口に聞いてきた。
「いや、話をしただけだ。大丈夫、何にもされてないさ」
ルシフェルの横に立つと、竈にかかっている野草のスープの鍋を覗き込んだ。
「ただ、ルシフェルの心配をしているだけだよ」
「私の心配なぞ口実に過ぎません」
「何かされたなら、私はここには戻って居ないよ」
鍋の中をクルクルと混ぜながら、男は答えた。
「大事な妹君を天界人の私が奪ったのだ。心配して当たり前」
「ならば、もう少し寛容になって下されば良いのに……。せめて、カグヤとルシカには……」
「義兄上様はこの世界の魔王様だ。立場だとかいろいろあるだろう。それに、私達の事もちゃんと考えて下さってる筈だよ」
男は手を止め、ルシフェルの方を見た。
不安そうなルシフェルの頬をそっと撫でた。
「もし、義兄上様が心配をしなかったら、私はルシフェルに惚れた時点で消されていた筈だ。今でさえ、消す方法はいくらでもある。それをしないのは、君の悲しむ姿を見たくないからだ」
「……」
「ルシフェルが私を慕っている様に、義兄上様だって君の事が大事だ。もちろん、甥御であるカグヤやルシカの事も。……だから、私は義兄上様を信じているよ」
男はルシフェルを優しく抱き締めた。
(……全く、今もなお儂を苦しめおって)
暗い部屋の中で、魔王は目を覚ますと溜息を吐いた。
目の前にはルシフェルの大きな肖像画。
《私は信じていますよ、義兄上様》
そう言って笑う男の顔がチラついた。
(何が義兄上じゃ、気色悪い……)
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