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あるいは7月20日の皆既月蝕が契機だったのかもしれない。
それともこの年を境に暫しの間見る事が困難になると言う獅子座の流星群、次いで見られた双子座の流星群、それらを「始まり」だと言う事も出来るだろう。
終わりの始まりだ。
この年に起こった出来事は、何であれ、全てが始まりの一因だと換言できる。
逆に、全く全てが同一の事象など無いというその一点でのみ類似した、凡庸な出来事で構成された、繰り返し繰り返すありがちな一年だった、とするのが正しいのかもしれない。
巷では新型の流行性感冒に罹患する者が多いと聴くが――、
「務、有紗にお粥持って行って」
唐突に軋んだ扉の音。乱暴な足の音。
少なくとも語り部たる自分は風邪一つ患わず健康だ、と少年が日記の先を続ける前に、彼の部屋は暗い踊り場と繋がった。
さも宿題をしていたというそぶりでシャープペンをルーズリーフの上へと置き、務はヘッドホンを首元へと落としながら、頭だけで振り返る。
するとそこには飴色の四角い盆に皿を載せ、両手が塞がった状態の姉、沙希香が立っていた。一つに結んだ長い髪が揺れている。手の代わりに扉を押し開けた左足は、未だ宙を見つめたままだ。
「うん、分かったよ」一拍おいてから、務は応えた。頬を持ち上げる。これは応答の言葉と共に、忘れてはならない動作だ。
ああ、自分は夢を見ているのだ、と務は思った。
立ち上がり、姉から盆を受け取る。
「あんまり根を詰め過ぎちゃ駄目だよ。大学だってもう決まったんだからさ」
朗らかな笑み混じりの声に、目を伏せて苦笑を押し殺す。
こんな日常、自分には似つかわしくない。
「だけどセンターの勉強続けないと、やっぱり入った後に大変だと思うんだ。みんな、やってるからさ。後でおいて行かれたら困るし」
みんなとは誰だろうと、自問しながら務は、姉が手を伸ばしている左手の扉を見た。
彼の自室は、階段の踊り場と、妹有紗、姉沙希香の部屋を結ぶ通路の役割も兼ねている。
「頑張りやさんだなぁ。でも本当に無理はしちゃ駄目だからね」
背後で扉の閉まる音がする。
暗いままの妹の部屋を目指して進み務は嘆息した。
本当は有紗の容態も訊ねたかったのだろうが、あの位置からでは妹自身の耳にも入るからと言葉を濁した様子の姉。
新型を罹った妹は、もう4日も自室から出ていない。
姉は仕事があるから接触を避ける事にして、今罹患しても最も弊害が少ない務が食事を運んでいる。引き戸を足で開けながら、向かいの姉の部屋を一別した。逆に沙希香はここの所、一階の両親の寝室で眠っている。姉妹の部屋の中央を伸びる床の先には、務の部屋に向かい合う形で洗面所がある。そこにシャワー室もお手洗いも在るから、完全に階下とは隔絶された生活が送れるのだろう。
「入るよ」開けてから言っても遅いだろうとは思いながら声をかける。
「お兄ちゃん?」暗いままの室内で、掠れた有紗の声と、シーツの衣擦れの音が響いた。
「何? 大丈夫?」
机に盆を置き、手探りで電気の紐をひく。同時に、暖色の灯りにつつまれた室内。そこでは携帯電話を閉じた様子の妹が、ベッドの上で身を起こそうとしていた。
「ちゃんと寝てないと駄目だって言っただろ」
「だって暇で死んじゃう」
「じゃあシャワーでも浴びれば?」
「浴びたいけど、体怠くて、今入ったら死んじゃう」
「そんなに簡単に人は死なないよ」
「でも本当。死ぬほど怠いの。熱、下がってからの方が体が怠くて」
青白い顔をして、唇にも血の気のない妹が、髪を束ね始める。声だけ聴いていれば、それほど具合も悪くなさそうだが、ここの所食欲もあまりないらしく、頬が少し窶れた気がした。
「さっき間宮の妹が、大丈夫かって心配してたらしいよ」
「日和が?」
「そ。珍しく間宮から電話きてさ、何だろうと思ったら妹に頼まれたって」
「変なの。さっきメール返したのに」
「だから寝てろよお前は。まぁ、あれだろ。世間話で妹が間宮に話したんじゃないの? 有紗の事。で、あいつは気になって僕に電話をしてきた、と」
「なんで良和先輩が気にするの?」
「別に意味なんて無いと思うけど。間宮は永瀬と付き合って長いし」
「いやそういう事じゃなくて。つーか男同士で妹の話とかすんの? 軽くキモいよ」
「間宮に伝えといてやるよ。毎日のように妹の話してるからな、最近。逆に僕は滅多に有紗の話はしない。だから気になったのかもな」
「止めてよ。てか酷くない? 何で私の話しないの?」
「お前どっちだよ。結局して欲しいのか、しないで欲しいのかさ」
「それより本当に良和先輩って、由海先輩と付き合ってるの?」
「いや別にそこから疑う余地無いだろ? あれだけ一緒にいてさ、付き合ってるのかって訊いても否定しないんだし」
「肯定もしなかったんだ」
「え?」有紗の話は、日々テンポ良く変わっていく。しかし、今に限っては、彼女が何を言いたいのか見当がつかず、務は半眼で首を傾げた。
「何お前、間宮の事好きなの?」
「は? 馬鹿じゃないの?」
「止めとけば?」
「違うし。逆だよ逆」
「逆……? まぁ……うん。何、その、思春期には同性の先輩に憧れる女の子も、うん」
「うざいなァ、ああもう。だからさ、私は、間宮先輩が嫌い、って事。お兄ちゃんが仲良いの知ってるけどさ、あんまり仲良くしない方が良いと思う。あの人には近づかない方が良いよ」
「いやお前、あいつの何?」
「あ?」
「いやだからお前、あいつの何を知ってるの?」
「別に」
吐き捨てるような妹の声と共に、食器が強く盆の上に置かれた音が響いた。気づけばお粥は完食されていた。有紗が布団の中に潜り始める。
「兎に角、仲良くしないで」
「そんな事言われても。まぁ分かったよ。考えとく。約束は出来ないけど」
務のその言葉に、有紗の返答はなかった。深く吐息し、彼は盆を手に取る。重みが大分減っていた。
「じゃあ行くけど。何かあったらすぐに言えよ」
「うん、ねぇ」
「何?」
「有難う」
この変に素直なところが、可愛いところなのかもしれないと務は考えた。これがふて腐れた声色で無かったならば、なおの事良かっただろう。そんな風に感じながら、務は自室を横切り、皿を洗うために階下へと降りる。階段の軋む音、その暗がりの中で、一人また思った。こんな日常は、しかし、やはり、夢なのだと。
それともこの年を境に暫しの間見る事が困難になると言う獅子座の流星群、次いで見られた双子座の流星群、それらを「始まり」だと言う事も出来るだろう。
終わりの始まりだ。
この年に起こった出来事は、何であれ、全てが始まりの一因だと換言できる。
逆に、全く全てが同一の事象など無いというその一点でのみ類似した、凡庸な出来事で構成された、繰り返し繰り返すありがちな一年だった、とするのが正しいのかもしれない。
巷では新型の流行性感冒に罹患する者が多いと聴くが――、
「務、有紗にお粥持って行って」
唐突に軋んだ扉の音。乱暴な足の音。
少なくとも語り部たる自分は風邪一つ患わず健康だ、と少年が日記の先を続ける前に、彼の部屋は暗い踊り場と繋がった。
さも宿題をしていたというそぶりでシャープペンをルーズリーフの上へと置き、務はヘッドホンを首元へと落としながら、頭だけで振り返る。
するとそこには飴色の四角い盆に皿を載せ、両手が塞がった状態の姉、沙希香が立っていた。一つに結んだ長い髪が揺れている。手の代わりに扉を押し開けた左足は、未だ宙を見つめたままだ。
「うん、分かったよ」一拍おいてから、務は応えた。頬を持ち上げる。これは応答の言葉と共に、忘れてはならない動作だ。
ああ、自分は夢を見ているのだ、と務は思った。
立ち上がり、姉から盆を受け取る。
「あんまり根を詰め過ぎちゃ駄目だよ。大学だってもう決まったんだからさ」
朗らかな笑み混じりの声に、目を伏せて苦笑を押し殺す。
こんな日常、自分には似つかわしくない。
「だけどセンターの勉強続けないと、やっぱり入った後に大変だと思うんだ。みんな、やってるからさ。後でおいて行かれたら困るし」
みんなとは誰だろうと、自問しながら務は、姉が手を伸ばしている左手の扉を見た。
彼の自室は、階段の踊り場と、妹有紗、姉沙希香の部屋を結ぶ通路の役割も兼ねている。
「頑張りやさんだなぁ。でも本当に無理はしちゃ駄目だからね」
背後で扉の閉まる音がする。
暗いままの妹の部屋を目指して進み務は嘆息した。
本当は有紗の容態も訊ねたかったのだろうが、あの位置からでは妹自身の耳にも入るからと言葉を濁した様子の姉。
新型を罹った妹は、もう4日も自室から出ていない。
姉は仕事があるから接触を避ける事にして、今罹患しても最も弊害が少ない務が食事を運んでいる。引き戸を足で開けながら、向かいの姉の部屋を一別した。逆に沙希香はここの所、一階の両親の寝室で眠っている。姉妹の部屋の中央を伸びる床の先には、務の部屋に向かい合う形で洗面所がある。そこにシャワー室もお手洗いも在るから、完全に階下とは隔絶された生活が送れるのだろう。
「入るよ」開けてから言っても遅いだろうとは思いながら声をかける。
「お兄ちゃん?」暗いままの室内で、掠れた有紗の声と、シーツの衣擦れの音が響いた。
「何? 大丈夫?」
机に盆を置き、手探りで電気の紐をひく。同時に、暖色の灯りにつつまれた室内。そこでは携帯電話を閉じた様子の妹が、ベッドの上で身を起こそうとしていた。
「ちゃんと寝てないと駄目だって言っただろ」
「だって暇で死んじゃう」
「じゃあシャワーでも浴びれば?」
「浴びたいけど、体怠くて、今入ったら死んじゃう」
「そんなに簡単に人は死なないよ」
「でも本当。死ぬほど怠いの。熱、下がってからの方が体が怠くて」
青白い顔をして、唇にも血の気のない妹が、髪を束ね始める。声だけ聴いていれば、それほど具合も悪くなさそうだが、ここの所食欲もあまりないらしく、頬が少し窶れた気がした。
「さっき間宮の妹が、大丈夫かって心配してたらしいよ」
「日和が?」
「そ。珍しく間宮から電話きてさ、何だろうと思ったら妹に頼まれたって」
「変なの。さっきメール返したのに」
「だから寝てろよお前は。まぁ、あれだろ。世間話で妹が間宮に話したんじゃないの? 有紗の事。で、あいつは気になって僕に電話をしてきた、と」
「なんで良和先輩が気にするの?」
「別に意味なんて無いと思うけど。間宮は永瀬と付き合って長いし」
「いやそういう事じゃなくて。つーか男同士で妹の話とかすんの? 軽くキモいよ」
「間宮に伝えといてやるよ。毎日のように妹の話してるからな、最近。逆に僕は滅多に有紗の話はしない。だから気になったのかもな」
「止めてよ。てか酷くない? 何で私の話しないの?」
「お前どっちだよ。結局して欲しいのか、しないで欲しいのかさ」
「それより本当に良和先輩って、由海先輩と付き合ってるの?」
「いや別にそこから疑う余地無いだろ? あれだけ一緒にいてさ、付き合ってるのかって訊いても否定しないんだし」
「肯定もしなかったんだ」
「え?」有紗の話は、日々テンポ良く変わっていく。しかし、今に限っては、彼女が何を言いたいのか見当がつかず、務は半眼で首を傾げた。
「何お前、間宮の事好きなの?」
「は? 馬鹿じゃないの?」
「止めとけば?」
「違うし。逆だよ逆」
「逆……? まぁ……うん。何、その、思春期には同性の先輩に憧れる女の子も、うん」
「うざいなァ、ああもう。だからさ、私は、間宮先輩が嫌い、って事。お兄ちゃんが仲良いの知ってるけどさ、あんまり仲良くしない方が良いと思う。あの人には近づかない方が良いよ」
「いやお前、あいつの何?」
「あ?」
「いやだからお前、あいつの何を知ってるの?」
「別に」
吐き捨てるような妹の声と共に、食器が強く盆の上に置かれた音が響いた。気づけばお粥は完食されていた。有紗が布団の中に潜り始める。
「兎に角、仲良くしないで」
「そんな事言われても。まぁ分かったよ。考えとく。約束は出来ないけど」
務のその言葉に、有紗の返答はなかった。深く吐息し、彼は盆を手に取る。重みが大分減っていた。
「じゃあ行くけど。何かあったらすぐに言えよ」
「うん、ねぇ」
「何?」
「有難う」
この変に素直なところが、可愛いところなのかもしれないと務は考えた。これがふて腐れた声色で無かったならば、なおの事良かっただろう。そんな風に感じながら、務は自室を横切り、皿を洗うために階下へと降りる。階段の軋む音、その暗がりの中で、一人また思った。こんな日常は、しかし、やはり、夢なのだと。
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