アニマスブレイク

猫宮乾

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 務は、気がつけば薄闇の最中、遇津の部屋を訪れていた。膝立ちで虚空を見据え、彼女は静かに涙を流していた。時折口元が笑みを築くかと思えば、奇声が漏れる。
 痛んだ長い髪が、彼女の胸元まで落ちいていて、身体が震える度に静かに揺れる。
 彼女はあれほど、梓月の帰還を願っていたというのに、現実では、それが契機となって自我を失ってしまった。願望が達成されることと、幸福が訪れることは、同義ではなかったのだと、彼女の無機質な表情を眺めるために、務は感じる。
「何してるんだよ?」背後から声を掛けられ、務は視線だけで振り返った。
 そこには、扉の脇に背を預け腕を組んでいる焔紀の姿があった。
「彼女を壊したのは誰だと思う?」
 懸命に微笑を作りながら、務は訊ねる。
「遇津自身だろ。狂気の来訪を他人のせいにして良いのは子供だけだ」
「まだ、遇津さんが子供だったとしたら?」
「梓月が戻ってきて嬉しくないって?」
「そんなわけないだろう。ただ、焔紀の意見を聞いてみたかったんだ」
「お前は誰だと思うんだ?」
「……さぁ。分からない」
「務は、自分だ、っていわれたいみたいに見える。止めとけよ。そこまでの女だったんだろ」
「そういう割り切り方は好きじゃないんだ。出来なかったのが、本当にその人のせいだなんて言うのは、残った人間の逃げじゃないかな」
「お前って珍しいよ。この世には、責任から逃れたい人間が大勢いるって言うのに、重荷を切望してるんだもんな。間宮にもその清らかな心が欠片でもあれば良かったっつぅのに、世の中上手くいかんねぇ」
「そうだ、間宮は梓月さんと君のことを追いかけていったみたいだけど」
「ああ、そ。人払いされちゃったんだよ、俺。だから今日はもう、あっち関係の仕事は終わり。本業でちょっとな。悪いんだが、ちょっと協力してくれないか?」
「ごめん、献血――……」
「良いさ、仕方ない。どうせ間宮だろ? ありゃ俺のことを妬んでるから仕方ないんだよ。何を言われたから知らないけどな、気にすんな。あいつは何時も間違ってるから」
「間宮が君を妬んでる?」
「嗚呼、寿命短縮化計画の時にちょっとな」
 二人の間に、特に間宮の心情に嫉妬があるようにはとても思えなかったが、焔紀の話には納得できたから、務は頷いて見せた。
 そのまま、他愛もない雑談をしながら、焔紀が好んで使用する処置室へと向かう。
 そこは青緑色の光でいつも照らし出されていて、窓がない。
 他の色はと言えば、入り口上に点る、赤い電光板だけで、銀色の器具以外は全て、その寒色に飲まれていた。
 慣れた仕草で、固く簡素な寝台へと腰を下ろし、務は靴を脱いだ。処置用の衣が渡されなくなって久しい。初めは前々から打診があったのだけれど、ここの所、不意に思い立つように週に一度はこうして招かれる。腕から掌側の骨を残され、関節の逆側、二の腕の骨から肩までの部分を切除した場合の実験をされたのが端緒だった。マキナエルライトの効力はすさまじく、失われた骨は二週間程度で再生し、再び肩と、腕から先を繋いだ。最も辛かったのは、麻酔なしで胸部を切開され、心臓に触れられた時だったのだと思う。自身の鼓動が脈打つ臓器によってもたらされているのだと実感したのは、焔紀に直接撫でられた時のことだった。勿論、先日目を抜き取られた後の眼窩に指を押し込まれた時だって死ぬ思いをしたのだけれど。
 口には出さずにそんなことを考えながら、務は身体を横たえた。歩み寄ってきた焔紀が拘束具を弄ぶ姿を一瞥しながら、目を伏せる。それこそ初めは鎮痛剤もあった。いつか間宮に注射された黄色い液体が痛み止めだと分かったのも、それが理由だ。当初、焔紀は麻酔だってしてくれた。しかし今は、痛みの研究にご執心らしい。だから、身体が動いて別の箇所を傷つけてしまわないよう、拘束は必須なのだ。
「もう右目は大丈夫そうだから、眼帯外すぞ」
 焔紀の言葉に頷きながらも、思わず務は片目を閉じる力をより込めた。
「ねぇ、今日はどんな実験なの?」瞼越しにもありありと伝わってくる青い光に懐かしさと安堵と、僅かばかりの新たな恐怖を覚える。
「今日はちょっと、脳の表面の研究」
 拘束を終えた焔紀が、電動鋸を振るわせる。その音に、自然と務の身体はこわばっていった。
「それは……命には関わらない?」
「はぁ? 何言ってるんだよ。俺たち、不老不死だぜ。今更どうした」
 笑いながら応えた焔紀が、鋸をおいて、メスを手に取る。その楽しそうな顔を見据えながら、何度も務は瞬きをした。それは恐怖からだったのだけれど、一歩引いた無感情の理性は、先ほどの間宮の声を反芻していく。
「……そうだね」
「ちょっと痛いかもしれないけどな、これも医療の進歩のためなんだぞ? お前のおかげで救われる沢山の人間がいるんだ」
 落ち着かせるような焔紀の声音に、務は目頭を押さえたい気持ちに駆られたのだけれど、拘束された身体ではそれは叶わない。そのまま、焔紀に口へと拘束具をはめられ、何も喋ることが出来なくなる。
「はじめるから」
 そう宣言して、焔紀が務の額へメスを降ろした。その時だった。
「何をしてる」
 乱暴に開いた扉が、大きな声を上げる。
 動かぬ身体のまま、懸命に務が視線を向けると、そこには怒りを瞳に宿した様子の間宮がたっていた。
「勝手に入ってくるんじゃねぇよ。今施術中なんだ」
 笑って応えながら、焔紀がメスに力を込める。その痛みに、務は思わず目を伏せた。
「確かに考えは足りないけどな、手術が必要には見えないぞ、その患者。いや、献体か?」
「部外者は帰れよ」
「帰れるはずがないだろ。何をする気だ? どう見てもお前が、務の脳を砕いて殺そうとしているようにしか見えない」
「だったら何だよ? 別に、俺がそうした所で、お前に口出しする権利なんて無いだろ」
「目の前で、お前の娯楽のために尊い命が一つ失われようとしてるんだから、誰にだって口を出す権利がある」
「命ねぇ。一つどころか数え切れない程奪ってきたお前に言われても説得力がねぇんだよ」
「悪いが俺はお前と違って、興味や楽しみから、人命を粗末にしたこと何て無い」
「結果は同じだ、そうだろ?」
「務を離せ」
「嫌だね」
「務である必要性がないだろ」
「じゃあお前が代わるか? 別に俺はお前でも良いけどな」
「巫山戯るな。お前には、そいつを弄ぶ権利なんて無いんだよ」
「それはそうだ。俺は務を友達だと思ってるし、ちゃんと同意だって取ってる。ただなぁ、確かに今俺の手が滑れば、務の脳の断面は空気に触れることになるだろうな。血がどれだけ跳ぶか、見物だな」
 自分の頭上で交わされる会話に、務は身体をこわばらせた。
 けれど、死という未来が本当にあるのであれば、それは寧ろ望ましいのではないかとさえ考えた。
「いい加減にしろ、止めてくれ」
「どうして?」
「そいつがこんな所で死ぬなんて、それもお前なんかの玩具として殺されるなんてな、見るに堪えない」
「随分と言ってくれるな。医療の発達に犠牲がつきものだって言うのくらいは共通認識だと思っていたが。でもなにそれ、務の命乞いか?」
「今そいつの頭蓋を外して一体どんな発達があるのか説明してみろよ」
「命乞いじゃぁないわけだ。じゃあ別に良いだろ、俺がこいつの頭を切り落としたって」
 焔紀が電動鋸へと手を伸ばす。
「止めろ」
 反論など無いだろうと思っていた務は、間宮の制止に、逆に困惑した。動かない身体の細部へと力を込めながら、ただただ、なぜ間宮が今止めろと言ったのだろうかと考える。
「やっぱり、命乞いか? 動いたらその瞬間、やるから、俺」
 務の額の上へと刃を近接させながら、焔紀が笑った。つかみかかかろうとしていた様子の間宮が足を止める。
「素敵な正義感だな。羨ましいよ。それとも何、友情とか言う奴?」
 交渉した焔紀の声が、モーター音にかき消されていく。
「待て、止めろ」
「そんなに止めて欲しい?」
「そいつは、俺やお前とは違うんだ」
「どういう意味だよ、そりゃあ」
「世の中には生きてることに価値がある人間だっている」
「お前が何を言ってるのか全くわかんね」
「止めてくれ、頼む」
 間宮がそう口にしたのを聴いて、焔紀が鋸を停止させた。
「頼む? それがお願いする人間の態度か?」
 その声に唇を噛んだ様子の間宮を見据える視界が、次第にゆがんでいくことを務は自覚していた。何故涙が浮かんできたのかは分からない。嫌、本当は、死んでも良いと考えたことが、死んだ方が楽なのではないかと思った気持ちが、嘘だったからなのかもしれない。誰かに、生きていて欲しいと、言われたかったからなのかもしれない。
「まぁお前が、記憶装置を渡すって言うんなら話は別だけどな」
 続いた焔紀の言葉に、間宮が息を飲んだ。
「勿論、原初からの、最初からの記憶が入った記憶装置を、だ」
 感情を抑えることに必死になりながらも、間宮は思案するように瞳を揺らす。
「言ってる意味が分からない程馬鹿じゃないよな? 途中からじゃない、最初からだ。それ以外は、認めない。俺は務の事を大切な友人だと思ってるが、だからこそ此処で医療のために命を費やしてくれるだろうと自負している。つまり、お前が要求をのまなければ、務の脳を切り落とすことに、罪悪なんて感じない」
 鼻で笑った焔紀の言葉に、間宮が務を見据えた。視線がかち合ったことを、務は理解していたのだけれど、自分のために間宮がこんなことを言ってくれて、そして迷ってくれている姿に、いたたまれない思いと、懺悔の気持ちでいっぱいになる。もし、口を拘束されていなければ、迷わず、その必要はないと叫んだことだろう。執念深いと言われた声を思い出した。確かにそうだったのかもしれない。それで全てが見えなくなっていたのかもしれない。けれど間宮はこうして助けに来てくれた。最低で最悪な人間だと感じていたはずなのに、今の彼は、務にとって、誰よりも正義の味方に近い存在だった。
「……分かった」
 長い間をおき、間宮がピアスに似た形状の記憶装置を外しながら、もう一方の手で、衣のポケットを探った。取り出された装置に、ピアスを翳した後、間宮が一歩進み出る。
「ただし、渡すのと、務を解放するのは同時だ」
「待てよ。そいつが本物だって確信するまでは、俺だってはなせない」
「だったらこの取り引きは無しだ。俺が無用な嘘をこんな場面でつくと本気で思っているのか? それもすぐばれる嘘を」
「思ってる。でもまぁ、そうだな。だったら、その記憶装置が偽物だった時、俺が暫く前に務の身体に埋めた爆弾を、起動しても文句はないな?」
 その声に困惑して務は眉をひそめた。泣きそうになった務同様、その声に、忌々しそうに間宮が舌打ちする。
「記憶装置が本物でも、お前が爆破しない保証はあるか?」
「勿論。記憶装置が本物かどうか何て、二日もあれば分かる。それだけあれば、お前だってこいつの身体から爆弾を摘出できるだろ」
「……そうだな」
 頭上で交わされた約束のすぐあと、務の身体は解放された。

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