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人類居住区までの道のりは、重い沈黙に満ちていた。
通路照明は夜間モードに落とされ、足音だけが虚ろに響く。背後のヴェクスの存在が、ステーションの環境システムが生み出す1.2Gの人工重力よりも、ずっと強く俺の肩を押しつけているような気がした。
この状況に妙に既視感があることに気づく。
皮肉なものだ。ちょうど俺たちが初めて出会った夜と同じように、今また俺の居室まで並んで歩いている。あの時は、ヴェクスがゼクスカの暴力から救ってくれた。だが今回は立場が逆転している。暴力的な言葉を投げつけ、相手を傷つけたのは、この俺自身だ。
将校用ラウンジでの自分の暴言が胸に焼きつき、ウイスキーと相まって毒のように広がっていく。
ここにいる俺は人類の代表として、銀河社会での居場所を証明するはずだった。それなのに何だ? 銀河の偏見に初めて触れた新兵のように、感情を爆発させた。
酒のせいにもできない。確かに酔っていた。だが、あれは何ヶ月も――いや何年、何十年と抑え込んできた感情の蓋が、ついに緩んだだけだ。今日のメッシュスーツの一件は、ただの最後の一押しでしかない。人類が直面してきた全ての偏見、積み重なった屈辱と怒りの山を崩す、きっかけでしかなかった。
だがよりにもよってヴェクスに向かって吐き出すことはなかった。異種族人の中で唯一、本物の敬意を持って接してくれた相手だ。それなのに、見当違いな恨み節をぶつけた。
俺は一体何をやっているんだ?
メインステーションと人間居住区を隔てるエアロックに着く頃には、宇宙で最も愚かな男になったような、惨めな気分だった。
「……もういい、今夜は十分子守りしてもらった」
彼の複眼を避けながらパスコードを叩き、呟く。
指が操作を誤るのが苛立たしい。その度に警告音が鳴り、さらに惨めな気分を深めた。
『君が部屋に入るまで見届ける』
それは命令でもなく、かといって優しすぎるわけでもない、反論の余地を与えない声音。
彼がこの境界を越えて人類居住区内に足を踏み入れるのは、俺たちの友情が始まって以来初めてだった。
幸い、この時間帯の通路は完全な無人だった。ほとんどの地球軍クルーは自室で休息を取っているはずだ。
前だけを見つめ、背後にそびえる彼の存在を意識しないように努める。
時折、生体装甲が壁に擦れる音が響く。人類のスケールで作られた通路は、甲虫族の体格には窮屈すぎるはずだ。それでも彼は、本来なら人間以外の立ち入りが制限されているこの区画を、黙って進んでいく。
自室の前で追い返そうと振り向いた時、予想以上に近くに彼がいて息を呑んだ。4つの主眼がレーザーのように俺の顔に集中し、両こめかみの副眼は微細な表情の変化も見逃すまいとしているのが分かる。
『ジョン、起きたことについて、話をする必要がある』
「……非礼をお詫びする、大佐。酒が入っていたとはいえ、度を越えた発言でした。二度とこのような――」
『そうではない。聞いてくれ』
俺はドア枠に寄りかかり、彼が差し出すであろう外交辞令を待った。
だが、次の言葉は予想を裏切るものだった。
『これから言うことは……おそらく賢明ではないかもしれないが、今夜の出来事を考えると、話さねばならないと感じている。先ほどの君の言葉は、完全な的外れというわけではなかった』
まるで小惑星帯の暗がりから何かが接近してくるような、そんな不安が背筋を這い上がる。頭のどこかで警報が鳴り始めていた。
「何が言いたい……?」
『君は私が本性を隠していると言った。無規律な同胞と同じように……装備を汚した連中の行為は言語道断だが、私も似たような欲望を隠し持っていると、非難した』
彼は慎重に言葉を選んで続けた。
『間違いではない。私とて……君の種族に対して、特に君に対して、そういった本能から自由だと言えば、それは不誠実になる』
その告白とも懺悔ともつかない言葉に、内臓が浮き上がる。
ラウンジで投げかけた苦々しい言葉は、ただの怒りに任せた当てつけのつもりだった。酔った勢いで口走った、根拠のない戯言のはずだった。それが、まさか……こんな形で返ってくるとは。
ヴェクスが、知性と礼節を備えたヴェクスロル大佐が、自らの内にある本能を認めるなんて。他の甲虫族と同じ衝動を持っていると。
信じられない気持ちと同時に、どこか予感めいたものもあった。彼との数週間に及ぶ夜毎の会話、時折感じた視線の重み、そして彼が意図的に保っていた距離――全てが違った意味を帯び始める。
記憶が押し寄せてきた。
これまでの軍歴で躱してきた異種族からの数えきれない誘い。欲望に満ちた視線。傷つき、挫けていった同僚たち。そして二十年近く前のケンタウロス種との出来事が、まるで昨日のことのように蘇る。
二度と味わいたくないと誓った、暴力めいた愛撫と屈服――それだけではない。巨体と圧倒的な力に押しつぶされそうになりながら、それでも感じてしまった背徳的な興奮が、俺の心拍を上げる。
その思考を必死で押しのけようとするが、執拗にまとわりつき、目の前の状況と溶け合っていく。
今、目の前には普段の知的で高潔なヴェクスではなく、異種族のオスがいた。
心の片隅で裏切り者の自分が囁く。
本当は望んでいたんじゃないのか? このモラルと獣性の狭間で引き裂かれる彼の姿を。ヴェクスにも、欲望を持っていて欲しかったんじゃないのか? 単純で分かりやすい欲望、人間に対する純粋な肉欲を。
ただ肉の器として扱われ、消費されればいい。
それなら簡単だった。憎むことも拒絶することも、その略奪的な欲望に身を任せ、何も考えずに受け入れることもできた。
でも現実は違う。彼は今、自らの弱さを曝け出している。その姿は、憎むどころか、痛ましいほど等身大だった。
賢明な選択は明白だった。彼の正直さに感謝を述べ、今夜の出来事は水に流そうと言うこと。そうすれば、築き上げてきた友情も、互いの尊厳も守られる。
その代わりに、まるで別の誰かが操っているかのように、ヴェクスを遮ってこんな言葉が口をついて出た。
「――だからこんな長い芝居を打ってたのか? 戦術や哲学を語ったあの夜は全部、人間将校の心を開かせるための周到な長期戦だったってわけだ」
声が想像以上に冷たく響いた。
彼の主眼4つすべてがわずかに見開かれ、瞳孔が収縮した。
「正直に言ってくれよ、ヴェクス。ラウンジで過ごした時間、一度も考えなかったとは言わせないぞ。人間が体の下でもがくのがどんな感じなのか。中がどれだけ締まってるのか。艦長や提督たちが人間の補佐官を寝室に呼びつけるみたいに、お前も……」
『違う』
彼の声が鋭く響く。その一言には、今まで聞いたことのない怒りが含まれていた。
『我々が築き上げてきたものを、そんな下劣な次元に貶めるな』
「いい加減、その高潔ぶった態度を止めてくれ」
一歩近づき、分別を投げ捨てて食って掛かった。
「少なくともゼクスカは正直だった。お前も本当のことを認めろ。突っ込んだら気持ちいい繁殖袋……俺たちをそう思っているなら、そう扱えばいいんだ。他の連中と同じように」
『もういい。やめろ、ジョン』
「何をやめろって? 見ろよ、こんなチャンスはない。やっと人間が自ら股を開こうとしてるんだぞ。これがお前の望みじゃないのか? お前ら全員の望みじゃないのか? 高尚な建前はもういい。敬意だの尊重だのもううんざりだ。たまには誰かの欲望の対象になりたいって時もあるんだよ!!」
ヴェクスの全身が硬直し、一瞬、殴られるかと思った。その方がまだ楽だったかもしれない。
その代わり、ヴェクスはその体格からは想像できないほどの速さで動き、副腕の一本を俺の頭の横の壁に叩きつけた。その衝撃は通路中に響き渡った。
長い沈黙。俺の鼓動だけが、自分の耳の中で大きく響いている。
そして彼が話す時、その声は深宇宙のように静かだった。
『そうだ、私は……君を欲している。そうならないはずがない。しかし私は、遺伝子にコードされた種としての衝動よりも、君との友情を価値あるものとして選び取ってきた。それは私の意志による選択だ。なぜなら私は、毎日君が、偏見と欲望に満ちた銀河を渡り歩かなければならないのを見ているからだ。私自身が君にとってもう一つの苦痛の源になることを、拒否するからだ』
俺は言葉を失った。
『君は傷つけられてきた。物体化され、利用され、我が種には――いや、人類以外の全ての種にとって、肉体の器以上の存在にはなれないと何度も何度も言い聞かされ、ついにはそれを信じ込むようになった。今や、本物の繋がりが生まれる前に、自ら破壊しようとするほどに……』
背中が壁に押しつけられている。逃げ場はない。彼の言葉からも、その真実からも。
「ヴェクス……」
『私を怒らせているものが何か知りたいか、ジョン?』
その声に今や怒りはなかった。
『私が君に欲望を抱いているという非難ではない――それは確かに事実だ、君が言うような下劣な形ではないにせよ。私を激怒させているのは、君が自分を貶めていることだ。我が種族の最も愚かな者たちが君たちに押しつけようとする、君が自分で嫌悪していると主張する、まさにその役割に』
彼の口から放たれる言葉が、皮肉や挑発で固めた防壁を、一枚一枚剥がしていく。何かが崩れていく感覚。
『君が、種の年齢をはるかに超えた知恵で部隊を指揮するのを見てきた。困難な状況に適応し、より弱い存在なら挫けてしまうような偏見を乗り越えるのを。君は兵士として、指揮官として、知的存在として、私の敬意に値する。君は単なる肉体の器以上の存在だ、ジョン・コナー。そしてそうでないふりをする君の言葉など、聞いていられない』
複眼の中の精緻な瞳孔の模様が見えるほど、近い。その目に今まで認めるのを恐れていたものが見えた。
『君は今、怒りと不信を正当化するような反応を誘おうとしている。君は私に、君が期待する怪物を演じることを強要しようとしている。本当は十分に承知しているはずだ。私が他の者とは違うことを。だが私に、君の最悪の想定を実証して欲しいのか? 君を本当に尊敬している者が。君の知性を。経験を。親交を。……価値あるものとして見ている者がいると信じるより……その方が楽なのか?』
いかなる物理的な暴力よりも恐ろしい形で暴かれ、見透かされた気がした。今まで誰にも見せたことのない暗部が、彼の複眼の前では完全に透明であるかのように。
ヴェクスは正しい。
この数時間、俺は彼を傷つけようとしていた。いや、それは正確じゃない。彼を使って自分を傷つけようとしていた。
非難を投げつけ、挑発し、結局は彼も人間の肉体を自分の性的快楽のために使いたがる、ただの異種族人に過ぎないと証明するよう、ほとんど懇願していた。
そうであってほしかった。これまでの全ての苦い思いを正当化できる。銀河で人間として生きることの虚しさが飲み込める。異種族への信頼が、尊敬が、そしてそれ以上のものが、ただの幻想だと片付けられる。
ヴェクスがあの知的な眼差しで俺を見る度に胸の奥で大きくなっていく、もっと深い感情と向き合わなくて済む。
そのために俺は何をした? この冷たく広大な銀河で築いた数少ない本物の友情を、自分の手で破壊しようとした。彼の誠実さを、まるでナイフのように自分に突き立てようとしていた。
最後の虚勢が崩れ去り、丸裸の、震える自分が残される。
出てきた声は掠れていた。
「……すまない。本当にすまない。ただ……俺は……クソ、何もかもめちゃくちゃだ」
肺いっぱいに空気を吸い込む。吐き出す。
「わかってる。お前は違う、他の連中とは……。本当の意味で俺のことを見てくれている」
自分でも理解できていないことを、どうやって説明すればいいのか?
敬意から始まり友情に発展し、さらに複雑なものに変わっていったこの感情を。
夜ごとの会話が、日々の中で最も楽しみな時間になっていったことを。
彼に惹かれる気持ちが純粋な知的好奇心を超えていることに、徐々に気付いていったことを。
『ジョン……』
翻訳機がかろうじて捉えた複雑な音の連なりで、俺の名が紡がれる。
見上げると、そこにいるのは単なる甲虫族でも、進んだ種族の上級将校でもなく、ヴェクスだった――宇宙の闇の中で、いつの間にか俺の人生で最も心の内側に食い込んだ個人が。
ゆっくりと、意図的に、俺は手を伸ばし、彼の胸部装甲の滑らかなキチン質に触れた。
「……自分を偽るのはもう止める。俺も、お前に惹かれてる。多分、ずっと前からそうだった。教えてほしい。ただのヴェクスロルとして、お前は何を望んでいるのか……」
通路照明は夜間モードに落とされ、足音だけが虚ろに響く。背後のヴェクスの存在が、ステーションの環境システムが生み出す1.2Gの人工重力よりも、ずっと強く俺の肩を押しつけているような気がした。
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皮肉なものだ。ちょうど俺たちが初めて出会った夜と同じように、今また俺の居室まで並んで歩いている。あの時は、ヴェクスがゼクスカの暴力から救ってくれた。だが今回は立場が逆転している。暴力的な言葉を投げつけ、相手を傷つけたのは、この俺自身だ。
将校用ラウンジでの自分の暴言が胸に焼きつき、ウイスキーと相まって毒のように広がっていく。
ここにいる俺は人類の代表として、銀河社会での居場所を証明するはずだった。それなのに何だ? 銀河の偏見に初めて触れた新兵のように、感情を爆発させた。
酒のせいにもできない。確かに酔っていた。だが、あれは何ヶ月も――いや何年、何十年と抑え込んできた感情の蓋が、ついに緩んだだけだ。今日のメッシュスーツの一件は、ただの最後の一押しでしかない。人類が直面してきた全ての偏見、積み重なった屈辱と怒りの山を崩す、きっかけでしかなかった。
だがよりにもよってヴェクスに向かって吐き出すことはなかった。異種族人の中で唯一、本物の敬意を持って接してくれた相手だ。それなのに、見当違いな恨み節をぶつけた。
俺は一体何をやっているんだ?
メインステーションと人間居住区を隔てるエアロックに着く頃には、宇宙で最も愚かな男になったような、惨めな気分だった。
「……もういい、今夜は十分子守りしてもらった」
彼の複眼を避けながらパスコードを叩き、呟く。
指が操作を誤るのが苛立たしい。その度に警告音が鳴り、さらに惨めな気分を深めた。
『君が部屋に入るまで見届ける』
それは命令でもなく、かといって優しすぎるわけでもない、反論の余地を与えない声音。
彼がこの境界を越えて人類居住区内に足を踏み入れるのは、俺たちの友情が始まって以来初めてだった。
幸い、この時間帯の通路は完全な無人だった。ほとんどの地球軍クルーは自室で休息を取っているはずだ。
前だけを見つめ、背後にそびえる彼の存在を意識しないように努める。
時折、生体装甲が壁に擦れる音が響く。人類のスケールで作られた通路は、甲虫族の体格には窮屈すぎるはずだ。それでも彼は、本来なら人間以外の立ち入りが制限されているこの区画を、黙って進んでいく。
自室の前で追い返そうと振り向いた時、予想以上に近くに彼がいて息を呑んだ。4つの主眼がレーザーのように俺の顔に集中し、両こめかみの副眼は微細な表情の変化も見逃すまいとしているのが分かる。
『ジョン、起きたことについて、話をする必要がある』
「……非礼をお詫びする、大佐。酒が入っていたとはいえ、度を越えた発言でした。二度とこのような――」
『そうではない。聞いてくれ』
俺はドア枠に寄りかかり、彼が差し出すであろう外交辞令を待った。
だが、次の言葉は予想を裏切るものだった。
『これから言うことは……おそらく賢明ではないかもしれないが、今夜の出来事を考えると、話さねばならないと感じている。先ほどの君の言葉は、完全な的外れというわけではなかった』
まるで小惑星帯の暗がりから何かが接近してくるような、そんな不安が背筋を這い上がる。頭のどこかで警報が鳴り始めていた。
「何が言いたい……?」
『君は私が本性を隠していると言った。無規律な同胞と同じように……装備を汚した連中の行為は言語道断だが、私も似たような欲望を隠し持っていると、非難した』
彼は慎重に言葉を選んで続けた。
『間違いではない。私とて……君の種族に対して、特に君に対して、そういった本能から自由だと言えば、それは不誠実になる』
その告白とも懺悔ともつかない言葉に、内臓が浮き上がる。
ラウンジで投げかけた苦々しい言葉は、ただの怒りに任せた当てつけのつもりだった。酔った勢いで口走った、根拠のない戯言のはずだった。それが、まさか……こんな形で返ってくるとは。
ヴェクスが、知性と礼節を備えたヴェクスロル大佐が、自らの内にある本能を認めるなんて。他の甲虫族と同じ衝動を持っていると。
信じられない気持ちと同時に、どこか予感めいたものもあった。彼との数週間に及ぶ夜毎の会話、時折感じた視線の重み、そして彼が意図的に保っていた距離――全てが違った意味を帯び始める。
記憶が押し寄せてきた。
これまでの軍歴で躱してきた異種族からの数えきれない誘い。欲望に満ちた視線。傷つき、挫けていった同僚たち。そして二十年近く前のケンタウロス種との出来事が、まるで昨日のことのように蘇る。
二度と味わいたくないと誓った、暴力めいた愛撫と屈服――それだけではない。巨体と圧倒的な力に押しつぶされそうになりながら、それでも感じてしまった背徳的な興奮が、俺の心拍を上げる。
その思考を必死で押しのけようとするが、執拗にまとわりつき、目の前の状況と溶け合っていく。
今、目の前には普段の知的で高潔なヴェクスではなく、異種族のオスがいた。
心の片隅で裏切り者の自分が囁く。
本当は望んでいたんじゃないのか? このモラルと獣性の狭間で引き裂かれる彼の姿を。ヴェクスにも、欲望を持っていて欲しかったんじゃないのか? 単純で分かりやすい欲望、人間に対する純粋な肉欲を。
ただ肉の器として扱われ、消費されればいい。
それなら簡単だった。憎むことも拒絶することも、その略奪的な欲望に身を任せ、何も考えずに受け入れることもできた。
でも現実は違う。彼は今、自らの弱さを曝け出している。その姿は、憎むどころか、痛ましいほど等身大だった。
賢明な選択は明白だった。彼の正直さに感謝を述べ、今夜の出来事は水に流そうと言うこと。そうすれば、築き上げてきた友情も、互いの尊厳も守られる。
その代わりに、まるで別の誰かが操っているかのように、ヴェクスを遮ってこんな言葉が口をついて出た。
「――だからこんな長い芝居を打ってたのか? 戦術や哲学を語ったあの夜は全部、人間将校の心を開かせるための周到な長期戦だったってわけだ」
声が想像以上に冷たく響いた。
彼の主眼4つすべてがわずかに見開かれ、瞳孔が収縮した。
「正直に言ってくれよ、ヴェクス。ラウンジで過ごした時間、一度も考えなかったとは言わせないぞ。人間が体の下でもがくのがどんな感じなのか。中がどれだけ締まってるのか。艦長や提督たちが人間の補佐官を寝室に呼びつけるみたいに、お前も……」
『違う』
彼の声が鋭く響く。その一言には、今まで聞いたことのない怒りが含まれていた。
『我々が築き上げてきたものを、そんな下劣な次元に貶めるな』
「いい加減、その高潔ぶった態度を止めてくれ」
一歩近づき、分別を投げ捨てて食って掛かった。
「少なくともゼクスカは正直だった。お前も本当のことを認めろ。突っ込んだら気持ちいい繁殖袋……俺たちをそう思っているなら、そう扱えばいいんだ。他の連中と同じように」
『もういい。やめろ、ジョン』
「何をやめろって? 見ろよ、こんなチャンスはない。やっと人間が自ら股を開こうとしてるんだぞ。これがお前の望みじゃないのか? お前ら全員の望みじゃないのか? 高尚な建前はもういい。敬意だの尊重だのもううんざりだ。たまには誰かの欲望の対象になりたいって時もあるんだよ!!」
ヴェクスの全身が硬直し、一瞬、殴られるかと思った。その方がまだ楽だったかもしれない。
その代わり、ヴェクスはその体格からは想像できないほどの速さで動き、副腕の一本を俺の頭の横の壁に叩きつけた。その衝撃は通路中に響き渡った。
長い沈黙。俺の鼓動だけが、自分の耳の中で大きく響いている。
そして彼が話す時、その声は深宇宙のように静かだった。
『そうだ、私は……君を欲している。そうならないはずがない。しかし私は、遺伝子にコードされた種としての衝動よりも、君との友情を価値あるものとして選び取ってきた。それは私の意志による選択だ。なぜなら私は、毎日君が、偏見と欲望に満ちた銀河を渡り歩かなければならないのを見ているからだ。私自身が君にとってもう一つの苦痛の源になることを、拒否するからだ』
俺は言葉を失った。
『君は傷つけられてきた。物体化され、利用され、我が種には――いや、人類以外の全ての種にとって、肉体の器以上の存在にはなれないと何度も何度も言い聞かされ、ついにはそれを信じ込むようになった。今や、本物の繋がりが生まれる前に、自ら破壊しようとするほどに……』
背中が壁に押しつけられている。逃げ場はない。彼の言葉からも、その真実からも。
「ヴェクス……」
『私を怒らせているものが何か知りたいか、ジョン?』
その声に今や怒りはなかった。
『私が君に欲望を抱いているという非難ではない――それは確かに事実だ、君が言うような下劣な形ではないにせよ。私を激怒させているのは、君が自分を貶めていることだ。我が種族の最も愚かな者たちが君たちに押しつけようとする、君が自分で嫌悪していると主張する、まさにその役割に』
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いかなる物理的な暴力よりも恐ろしい形で暴かれ、見透かされた気がした。今まで誰にも見せたことのない暗部が、彼の複眼の前では完全に透明であるかのように。
ヴェクスは正しい。
この数時間、俺は彼を傷つけようとしていた。いや、それは正確じゃない。彼を使って自分を傷つけようとしていた。
非難を投げつけ、挑発し、結局は彼も人間の肉体を自分の性的快楽のために使いたがる、ただの異種族人に過ぎないと証明するよう、ほとんど懇願していた。
そうであってほしかった。これまでの全ての苦い思いを正当化できる。銀河で人間として生きることの虚しさが飲み込める。異種族への信頼が、尊敬が、そしてそれ以上のものが、ただの幻想だと片付けられる。
ヴェクスがあの知的な眼差しで俺を見る度に胸の奥で大きくなっていく、もっと深い感情と向き合わなくて済む。
そのために俺は何をした? この冷たく広大な銀河で築いた数少ない本物の友情を、自分の手で破壊しようとした。彼の誠実さを、まるでナイフのように自分に突き立てようとしていた。
最後の虚勢が崩れ去り、丸裸の、震える自分が残される。
出てきた声は掠れていた。
「……すまない。本当にすまない。ただ……俺は……クソ、何もかもめちゃくちゃだ」
肺いっぱいに空気を吸い込む。吐き出す。
「わかってる。お前は違う、他の連中とは……。本当の意味で俺のことを見てくれている」
自分でも理解できていないことを、どうやって説明すればいいのか?
敬意から始まり友情に発展し、さらに複雑なものに変わっていったこの感情を。
夜ごとの会話が、日々の中で最も楽しみな時間になっていったことを。
彼に惹かれる気持ちが純粋な知的好奇心を超えていることに、徐々に気付いていったことを。
『ジョン……』
翻訳機がかろうじて捉えた複雑な音の連なりで、俺の名が紡がれる。
見上げると、そこにいるのは単なる甲虫族でも、進んだ種族の上級将校でもなく、ヴェクスだった――宇宙の闇の中で、いつの間にか俺の人生で最も心の内側に食い込んだ個人が。
ゆっくりと、意図的に、俺は手を伸ばし、彼の胸部装甲の滑らかなキチン質に触れた。
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