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ACT 4:MERCENARY
[16] ムコはブラッドの支援を受けながら、上層階への鍵を探す。[男子トイレ侵入]
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ムコの視界が激しく揺れた。壁と天井が一瞬で入れ替わって、俺の目では追えない速度で何かがフレームを横切る。
ゴッ、と鈍い音。男の短い呻き声。もう一発、今度はさっきより重い打撃音が届く。
俺はもう共有視界のサブレイヤーを強化視野の隅に最小化して、セダンの運転席から飛び出していた。
頭を低くしたまま、小走りで裏口に向かう。
このビルの監視カメラ配置は頭に入ってる。裏口周辺のカメラが繋がってる先は1階の詰所だけ。今そこをムコが制圧したなら、俺がここを通っても誰の目にも映らない。
従業員入口に着いた。手を伸ばすより先に、内側からロック解除の電子音。ムコが中のコンソールで開けてくれた。
ドアの隙間に体を滑り込ませる。警備詰所は左手3メートル。
部屋の中は、さっきムコの目を通して見たまんまだった。――ムコの体をベタベタ触ってた警備員どもを除いて。
2人とも床に転がってる。
クローム腕の方はうつ伏せに倒れてた。ご自慢のサイバネが絶対にメーカーの想定してない角度で曲がって、スーツの袖を突き破ってる。
ネックタトゥーの方は武器ロッカーに寄りかかるような姿勢で、半開きの口から胸元まで涎が糸を引いてる。ズボンの前はしっかり開いていた。……見たくないもんが見えちまった。
その真ん中に、ムコが立ってた。
ピンヒールは脚技を繰り出したときにどっかに飛んでったのか、裸足。ボディコンドレスはたくし上げられたまま、あのKカップが普通に、出てる。本人は完全に平静で、俺が入ってきても気にする素振りすらない。
「こいつら殺してないよな?」
言いながら、担いできたダッフルバッグをムコに放り投げる。弧を描いて飛んでって、見もせずに片手でキャッチされる。
「頸椎神経への打撃で意識を失っているだけだ」
ムコがバッグを開けながら答えた。
「おそらく1時間程度で目を覚ますだろう。かなり酷い頭痛と吐き気と一緒にな。数日は使い物にならないと思うが、後遺症は残らない」
「……そりゃよかった。このクソ野郎2人を代表して、お慈悲に心からの感謝を表明しとくわ」
俺は警備員どもをちらっと見下ろした。
さっきまでムコの体を好き勝手触ってた手が、今は力なく投げ出されてる。
因果応報って言うのか? こういうの。
……にしても、1時間か。
ハウザーを確保してビルから抜け出すまで、それが俺たちの持ち時間ってわけだ。
余裕があるようなないような、微妙なラインだな。
ムコはバッグの中身を次々と取り出していた。
ODジャケット、ブーツ一体型のボディスーツ。最後に出てきたのは、マイクロレイヴン・バズヴ・カタⅣ。ムコが一目惚れして、うちの運転資金をごっそり削り取っていったOTFナイフだ。
ムコはそれらを床に並べると、何の断りもなく、恥じらいもなく、ボディコンドレスの裾を掴んで、一気に足元まで引き下ろした。
当然のようにノーブラノーパン。全裸。
「ちょっ……せめて一言言えよ!?」
「このボディは何度も見てるだろう」
「そういう問題じゃねーの!!」
なんで他人がいる場所でノータイムで素っ裸になれるんだよ!? いや、こいつら意識ないけどさ! 俺はいるだろ!?
相変わらず羞恥心がぶっ壊れてんな……。セクサロイドのOSがそうさせてるのか、40年間フルボーグやってると感覚がそうなるのか、俺にはわかんねえよ。
ムコがラテックスから脚を抜いてボディスーツに滑り込むまで、たぶん10秒もかかってない。チラッと見ると、もうフロントジッパーを喉元まで引き上げてるところだった。
スーツの真空化が作動して、六角形のヒートシンクパターンがボディに吸い付く。無骨なコンバットジャケットが肩に乗った途端、最初からそうだったみたいに全てが馴染んだ。OTFナイフは、太もものアタッチメントポイントにクリップ。
さっきまでの娼婦姿とは打って変わって、どこからどう見ても戦闘員だ。
ムコは戦闘モード。
さて、今度は俺が仕事する番だ。
床で昏倒してるクローム腕の隣に片膝をつく。左耳の後ろを探ると、すぐにアクセスポートが見つかった。標準的な民生規格。軍用グレードみたいな隠蔽処理はされてない。
俺はジャケットの内ポケットからハンドヘルド端末を引っ張り出した。
分厚いペーパーバックくらいのサイズの赤い筐体。角があちこちへこんでる。旧式の軍用デッキを民生向けに落とした型で、インターフェースは二世代前だけど信頼性は折り紙つき。修理仕事で使ってる相棒だ。
コネクタケーブルを引き出して、クローム腕のポートにジャックインする。
接続が確立すると、俺の強化視野にクローム腕の認証情報が流れ込んでくる。指を操作盤の上で走らせながら、データを選り分けていく。
「何をしてる?」
頭上からムコの声。
「上に行く手段を作ってる」
俺は手を止めずに答えた。
この手の商業ビルには、たいていサブネットが敷かれてる。建物全体をカバーするローカルネットワークで、セキュリティからエアコンから照明から、ありとあらゆるものが繋がってる。
従業員にはそれぞれ固有の認証トークンが割り振られてて、ドアを開けるとき、エレベーターに乗るとき、制御ユニットが中央のセキュリティハブに問い合わせて、こいつを通していいかどうか判断する仕組みだ。
逆に言えば、有効なトークンさえ持ってれば、ハブは何も疑わずに通してくれる。
クローム腕から吸い出した認証プロファイルを構成要素にバラして、必要な部分だけ抽出。
1分足らずで、トークンの複製が完了した。
「できた。今から送る」
偽造アクセストークンを、暗号化リンク経由でムコの内部システムに転送する。
データを受け取る一瞬、ムコの瞳孔がわずかに焦点を失った。内部処理が走ってるときの顔だ。
クローム腕のポートから切断して、立ち上がりながら膝の埃を叩いた。
「これで俺たち2人とも、クラブ・クリサリスの内部人員だ。少なくともビルのサブネット上はな。ドアもエレベーターも、こいつが通れる場所ならフリーパスだ」
「……やけに手慣れてるな」
顔を上げると、ムコの目がわずかに細められてた。
何千回もやってきたみたいに軽犯罪の手口を披露したら、そういう顔にもなるか。
肩をすくめて2人目の警備員に移る。念のため、こいつのトークンも抜いとく。
「下層のガキの悪知恵だよ。ストリートじゃ、読み書きより先にシステムの出し抜き方を覚えんのがデフォだ」
ムコは黙ってる。完全には納得してないって顔。
嘘は言ってない。ただ、俺が平均的な下層育ちよりこの手のことが得意なのも事実だ。
義体技師ってのは、メカニクスだけ知っててもダメなんだ。
客が義体の不調を訴えて持ち込んでくるとき、それは関節部のアクチュエータが物理的に摩耗してるのか。ファームウェアのバグで制御信号が化けてるのか。認証システムがエラー吐いて、パーツが正規品として認識されてないのか。原因の切り分けができなきゃ話にならない。
結果として、俺はシステムの裏側を覗くことに慣れた。義体の認証プロトコルを解析して、互換性のないサイバネを動かす方法を編み出したり。ブラックマーケットのテックを検証して、バックドアが仕込まれてないか確認したり。
今やってることは、そういうスキルの延長線上でもある。
「それにな、こんなクラブのセキュリティなんてたかが知れてる」
俺は2人目のトークンをクローンしながら続けた。
「サブネットにまともなICEもないしな。俺が堂々とやれてるのは、ハウザーがネットランナーを雇ってないって事前にわかってたからだ」
ICE。電子侵入対抗壁《Intrusion Countermeasure Electronics》。
オールドネットが死んだ後の世界で、あらゆるサブネットを守ってる攻性防御プログラムだ。
話によると、昔は地球全体を覆うネットがあって、国境を越えて端末が相互に接続されてたらしい。
敵性AIが暴走して、そのグローバルネットワーク全体を遊び場にし始めるまではな。
大崩壊って言われてる。詳しいことは知らないが、俺が生まれるずっと前、旧世界のネットは死んだ。そしてその灰の中から生まれ直したのが、何億もの孤立したサブネットだ。企業が、政府が、組織が、それぞれ独自のネットワークを構築して、ICEで武装してる。
高セキュアな企業サブネットなんかに侵入しようとすると、そいつが牙を剥く。神経系に逆流して、接続を切る暇もなく脳を焼かれて死ぬ。
今の時代、ハッキングは自殺行為だ。
で、ネットランナーっていう、その自殺行為を専門にしてるイカれた連中がいる。
ダイブベッドに横たわって、意識をデータ構造に投射するあいつらには、ICEが物理的な建築物として見える。大脳皮質を焼いてくるブラックICEで固められた要塞を攻略しながら、情報を盗んだり、システムを破壊したりする。
でもな、そんな要塞にも弱点があるんだ。
外から来る奴を阻むように設計されてる。
実際に壁の内側に入っちまえば、途端にあのICE全部が逆向きになる。
俺が今やったのは、まさにそれだ。ローテクでショボいけど、確実な手口。
幸い、ハウザーはランナーを雇ってなかった。
こういう回りくどい方法で忍び込んでくるバシリスクの刺客なんて、想定してなかったんだろう。正面から殴り込んでくる傭兵チームなら警戒してたかもしれないけど。
残念だったなハウザー。
お前を殺しに来たのはセクサロイドに閉じ込められた元軍用サイボーグと、下層の工房で義体を弄ってるガキだ。
「……これで大体いける。動く前に、フロアの状況をおさらいしとこう」
コンソール前の椅子を引いて座り、壁一面を覆う監視モニターを見渡した。20枚くらいあるか。ビルの各フロアの映像がタイル状に並んでる。
ムコが俺の背後に移動してきて、2人で眺める格好になる。……あのでかい2つの塊が俺の後頭部スレスレにあるってのは、今は考えないことにした。
「1階。表がメインのクラブスペース、週末だから満員御礼だな。裏手が警備詰所と機材倉庫。俺らが今いるとこだ」
ストロボライトの明滅の下で、人の波がうねってる。まともに数えたら100人はいるだろう。
複数のモニターを横断して、クラブのスタッフが見える。カウンターでシェイカー振ってるバーテンダー、通路の要所に立つ警備員。全員、店の正規雇用だ。こいつらは脅威にはならない。
「2階と3階はVIPエリア。今はほぼ空……あーいや、何部屋か使ってるな。まあここはノータッチでいい。エレベーターで素通りできる」
進行中の活動が微妙に映ってたが、俺は意図的にスルーした。
「4階は管理フロア。オフィスと応接室がいくつか、あと……ここだ」
画面を指で叩く。
暗いガラスパネルの向こうに、ラックにマウントされたサーバーの列が並んでる。この詰所より一回り大きいモニターバンクがあって、その前に男が3人。1人はコンソールに向かって座ってて、残り2人はドア付近で立ってる。腰のあたりに何か下げてるのはシルエットでわかるが、解像度が低くて詳細まではわからない。
「セキュリティハブ。ビル全体のアクセス管理が集約されてる場所だ」
「映っているのはハウザーの私兵か」
背後からムコが言う。
「ああ。クラブの警備とは別系統で、4階から上だけを固めてる。客やスタッフとは接触しないようにしてるみたいだな」
「最上階の映像がないな」
ムコが指摘する通り、ペントハウスの内部を映してるカメラは1つもない。このモニターバンクには、5階からの中継自体が来てないらしい。
「ハウザーが自分のフロアの監視カメラを切ってるか、メインのネットワークから切り離してるかだな。どっちにしても、ここからは覗けない」
「護衛の配置も不明」
「ああ」
俺は椅子の背もたれに体重を預けた。
「でもって問題は、さっきパクったトークンじゃ4階までしか行けないってことだ。ペントハウスへのアクセス権限は、ハウザーの息のかかった奴しか持ってないのかもな」
「つまり4階の人員から、より上位のクリアランスのトークンを入手する必要がある」
「そういうこと」
コンソールの縁に足を乗せて、手元のハンドヘルドデッキを見やすい角度に傾けた。
「俺はここに残ってバックアップに回る。4階に着いたら、あいつらのポートに直接アクセスしてくれ。さっきと同じ手順だ。お前が黙らせて、俺がトークンを吸い出す。それでペントハウス直通チケットの完成だ」
ムコが一度、正確に頷いた。コンバットジャケットの襟を直して、肩にしっかり引き寄せる。
「ペントハウスに着くまでは静かにな。下には一般客がいる。お前が配置につく前に騒ぎになったら厄介だ」
「了解」
「そこから先は……」
「ああ。正面からの接触は避けられない」
ムコが俺の言葉を引き取った。
ペントハウスの構造は把握してる。入り口は一つしかない。エレベーターで上がって、そこから先は一本道。隠れて忍び込む余地がない設計だ。ムコが姿を見せた瞬間、向こうも気づく。
正真正銘の戦闘になる。
「行ってくる」
ムコがそう言って、背後から離れた。
コツ、コツとヒールの硬い音が遠ざかっていく。
俺は振り返らなかった。代わりに正面のモニターを見た。その姿がすぐに1階の監視映像に現れる。機材室の前を抜けて、サービスエレベーターに向かって歩いていくムコの後ろ姿。女の体ひとつで、武装した男どもが詰めてるフロアに乗り込もうとしてる。
でもあの足取りを見てると、そんな表現がひどく間抜けに思えてくる。40年かけて殺しの技術を磨いてきた人間が持つ、無駄のない、静かで、どこにも力みがない。獲物を追う側の足取りだ。
ムコの狩りが始まった。
◇
ムコの目を借りて、エレベーター階数表示がカウントアップしていくのを見てる。2……3……4。
手元では詰所のコンソールにジャックインして、エレベーター内のカメラ映像を弄ってた。ムコが乗り込む直前の無人映像を切り出して、ループ再生させてるだけの応急処置だ。
タイムスタンプまでは誤魔化せないから、誰かがログを精査したら一発でバレる。でもムコが移動する数秒間だけ持てばいい。
――チン。
ドアがスライドして開いた先は、バシリスクの前情報通りの光景だった。
無機質なバックオフィス。薄暗い通路に赤い天井照明が一定間隔で続いてる。壁際には所々使われなくなった機材がまとめて押しやられてて、うっすら埃が積もってた。客の目に触れない場所なんて、どこもこんなもんだ。
でもまず、ムコが一歩も踏み出さないうちに、お出迎えがあった。
警備員が1人、たまたま待ち構えてたみたいにエレベーターの真正面に立っていた。地上階の連中と同じようなダークスーツに、顎から下が防弾皮膚。その口が開いた。たぶんムコが誰で、なんで立ち入り制限フロアにいるのかとか、そういうことを聞こうとしたんだろう。
音節の半分くらい出たところで、ムコの手がパッと閃いた。
掌底が鳩尾にめり込む。ヒュッ、と鋭い呼気で、男の肺の中身が圧縮されて一気に搾り出された。180センチ近い体が二つ折りになる前に、ムコの手が流れるようにその喉を掴み、ガゴン!! とエレベーターの内壁に叩きつける。男の目が裏返って、そのまま崩れ落ちた。
ムコは奴の襟首を掴むと、エレベーターから降りて通路に引きずり出す。脇にあった自販機の影まで運んで、壁にもたれさせた。
……怖いくらいの手際だな。
『さっき俺がやったみたいに繋いでくれ。そいつがペントハウスのクリアランス持ってるか確認する』
俺が言い終わるより先に、ムコの指がもう男の首筋に伸びてた。
左耳の後ろ、生え際に隠れた小さなアクセスポート。それを爪先で器用に開くと、ムコの手首の内側に格納されてたインターフェースケーブルがするりと引き出された。クグツメボディの標準装備だ。本来の用途はニューラルリンク経由のバイタル読み取りとか。今はこんなことに使ってる。ジャックイン。
データが俺のデッキに流れ込んでくる。強化視野の右側にウィンドウが展開して、男のIDに紐づいた情報がスクロールされる。
『……ダメだな。下の奴らと同じだ。このフロアまでしか権限がない』
「了解」
『10メートルくらい先に従業員ロッカーがあるはずだ。そこに放り込んどけ』
ムコがそいつを肩に担いで歩いてく間に、俺は椅子の背もたれに体重を預けて、正面の監視モニターを睨んだ。バシリスクから渡されてた巡回ルートと、リアルタイムの映像と重ね合わせる。
『セキュリティハブの外にあと2人いる。1人は西側の通路を巡回中。今ちょうど折り返し地点だから、たぶん3分でそっちに来る。もう1人は東の非常階段付近。こっちは動いてない。まず外にいるそいつらから狙え』
ムコが動き出す。
俺は注意を分散させた。視界の左端で最小化してあるムコのフィードと、正面に並んだ壁の監視モニター。同じ空間を一人称視点と三人称視点で見てる。
ムコがそこにいるのは知ってる。あいつ自身の目を通して見えてるんだから。
POVフィードでは廊下の壁が規則正しく流れて、曲がり角がクリアされて、物陰が活用されていく。
なのに、監視モニターにはその姿が一切映らない。
不気味なくらいだった。
フロアの見取り図、カメラ配置、巡回ルート。バシリスクの事前情報には全部含まれてたし、ムコが完璧に頭に叩き込んでるのは間違いない。あの軍用グレードの脳殻では俺には想像もつかない並列処理が走ってて、監視網に生じるわずかな空白を縫う最適経路を常に算出し続けてるんだろう。
最初の巡回警備員は、何が起きたかもわからなかったと思う。
ムコが音もなく背後から距離を詰めた。細い腕が首に巻きついて、ぐっと締め上げる。気管を潰すんじゃない、頸動脈を圧迫する裸絞め。
警備員の手が反射で跳ね上がって、ムコの腕を引き剥がそうともがく。脚が床の上でバタバタと蹴った。でも脳への血流が止まれば、意識は長くもたない。数秒で動きが鈍くなって、力が抜けて、最後には弛緩した体がムコにもたれかかる。
ムコは気絶した男を静かに床に下ろすと、片手で左耳の後ろのアクセスポートを探った。
「接続する」
平坦な女声とデータが、リンクを経由して飛んでくる。俺はクリアランス情報を確認して、舌打ちした。
『ハズレ。こいつのアクセストークンも4階止まりだ』
ムコは何も言わずに接続を切って、次の標的に向かって動き出した。
2人目の警備員はでかかった。
POVフィードに映った後ろ姿からして、元軍人か、筋肉増強処置でも入れてるのか、どっちにしろまともに組み合ったら厄介そうな体つきだ。
フィードの中で、男の背中が近づいてくる。ムコは足音を殺したまま距離を詰めて、相手が気配を感じて振り向くより一瞬早く仕掛けた。
跳躍。
あの長い脚が跳ね上がって、ぶっとい太腿が男の首に両側から巻きついた。ムコの全体重を乗せた状態で、ぐるんと身体ごと捻る。
2人がもつれ合うように床に倒れ込んだ。
「ん゛むッ……!?」
くぐもった悲鳴は、太腿がさらに絞まった瞬間に途切れた。ギュチッ、とマットブラックに包まれた長い脚が、万力みたいに男の首を締め上げる。
男の両手がボディスーツのツルツルした表面を掻きむしるが、ピッチリ張り付いた真空シール素材には何の引っかかりもなく、指が滑るだけだ。
そいつの顔が赤くなって、みるみる紫に変わっていく。
目を剥いて、口をパクパクさせて。両脚に挟まれた体勢から見上げるその視界は、ムコの内腿と、Kカップの下半球で埋め尽くされてるはずだ。
……うん、まあ、正直ほんのちょっとだけ羨ましいかもしれない。
この街で最も殺人的なぶっとももが、容赦なく、ゆっくりと、男の意識を絞り出していく。本来何時間でも騎乗位ガニ股杭打ちピストンできるように作られてるあの人工筋肉は、どうやら絞め技との相性も抜群らしい。
最後の痙攣が収まって、男の体から完全に力が抜けた。
「クリア」
合成の女声が通信に入ってきた。今しがたかなりエロいテイクダウンをキメたことなんて、まるで気にしてない声音。
ムコは意識を失った警備員から体を解くと、首のポートを探り当てて接続した。認証情報に目を走らせる。
『……クソ、こいつも権限持ってない。そろそろ当たりを引いてもいい頃じゃねーか?』
「これ以上消していくと、巡回の穴に気づかれるぞ」
ムコの言う通りだった。もう3人倒して、全員ハズレ。誰一人としてペントハウスに行ける奴がいない。
このペースじゃ、ハウザーに近づく前にビル全体に警報を鳴らされる。
『うーん……全員に付与してるわけじゃないのかもな。チームリーダーとか、上位職だけに限定してるとか』
「可能性としてはあり得る」
俺はモニター群をもう一度見渡した。
階級章かなんか、警備員の上下関係がわかるような何かがないか探す。
みんな同じようなスーツだし、ぱっと見じゃ区別がつかない。
そのとき、ハブの中に動きがあった。
人影の一人が椅子から立ち上がって、ドアに向かってる。コンソールに座ってた別の奴と二言三言交わして、軽く肩を叩いて通路に出た。
別のカメラから、もっとよく見えた。スーツの上にタクティカルベストを着てる。でも俺の目を引いたのは別のところだった。
あいつの手だ。
スーツの袖口からちらっと見える。クロームとゴールドのツートンカラーに、特徴的な関節デザイン。あれは見覚えがある。
アーマテック製のプレシジョンシリーズ。
民生用のハイエンドモデルで、生体の限界を超えた精密な運動制御が必要な人間向けに作られてる。メーカーのカタログだと、外科医とかピアニストとか、そういう職業の人間がターゲット。
でもアンダーグラウンドじゃ、別の使い道で有名だった。
ファームウェアをちょっといじってレスポンスカーブを調整すれば、50メートル先に3発撃って、全部同じ穴を通せる手の出来上がりだ。
『ムコ、候補がいるぞ。ハブから1人出てきた。スーツの上にベスト、両腕に反動制御の改造入り。他の雑魚より格上っぽい』
「方向は」
ムコの声が即座に返ってくる。俺は複数のカメラ映像を跨ぎながら、男の動きを追った。
『通路を東に進んでる。お前のいる非常階段の方に向かってんな……』
「あいつだ。視認した」
ムコが物陰から顔を出すと、POVフィードに同じ男が現れた。
向こうから歩いてくる。ムコは壁際に身を寄せて、あいつが通り過ぎるのを待った。
男の歩調は急いでない。パトロールって感じでもない。もっとリラックスした足取りで、どこかに向かってる。
その先にあるのは。
あ。
『……トイレ行くな、あいつ』
「ああ」
男が突き当たりのドアを押し開けて、中に消えた。取り付けられた小さなプレートには、見慣れたピクトグラム。立ってる人型のシルエット。
「好都合だな」
ムコは言うなり、もうスタスタ歩き出してる。
おい、男子トイレだぞ。ちょっとは抵抗とかないのかよ……。そういう言葉が喉まで出かかって、飲み込んだ。
ムコは男だ。
意識は男。脳殻の中身は男。
ガワがどうしようもなく女の形をしてて、Kカップの乳がついてて、腰がくびれてて、尻がでかくても。あいつは男なんだから、ターゲットを追って男子トイレに入ることに、何も変なことはない。
はずだ。
たぶん。
……いや、客観的に見たらめちゃくちゃ変だろ、この状況。
◇
トイレの照明が、整備不良特有の周波数でジジジと鳴ってる。床のタイルは一応掃除されてるみたいだけど、目地の白さは諦められて久しい感じだ。
壁に沿って並ぶ小便器の列。タクティカルベストの男は真ん中を選んで、入口に背を向けて立ってる。
ジッパーを下ろす音が人気のないトイレに響いて、ジョロロロロ……と勢いのある水流が続く。膀胱を空にするとき特有の満足げなため息。
背後でドアが開いて、閉まった。
タイルを打つ足音が一組。別の誰かが入ってきて、隣の小便器の前で止まった。
男は振り返らなかった。エチケットってやつ。用を足してる最中は、壁か自分のブツを見る。振り返る理由もない。ここはセキュアフロアの男子トイレだ、入ってくるのはチームの人間に決まってる。
男は視線を正面に固定したまま、世間話を始めた。
「ハウザーがついに動くぞ。明日には高跳びだ、スケジュール通りならな。ったく、やっとだぜ。3週間もこのビルに缶詰で、あのパラノイア野郎のお守りだ」
声がタイルに反響する。
「報酬が出たらこのクソみたいな街から出て、しばらくゆっくりするかね。バシリスクも俺らみてえな小物を追いかけるほど暇じゃねえだろ、ハウザーが消えちまえばよ」
放尿音は途切れることなく、磁器に当たって鳴り続けてる。
「でもまあ、3週間分の危険手当が口座に溜まってるわけだ。お前、取り分で何するか考えてるか? 街を出る前にパーッとやるのもいいよな。狂ったみたいに遊んでよ。俺はとりあえず高級ドール2人呼んで3Pだな。あと最近出回ってる新しいデザイナー興奮剤、あれも試してみてえんだよ。全身が一個のデカい性感帯になるとか何とか。お前も興味あんだろ? 教えてやるよ、いいブツの仕入先が――」
やっと首を回した。たぶん、そこにあるのが部下の顔だと期待して。
コンマ何秒か、男の脳が目の前の光景を処理することを拒否した。
隣の小便器に立ってたのは、同僚じゃなかった。
女。
プラチナブロンドの短髪。完璧すぎる、左右対称すぎる顔。絶対に男子トイレで見るべきじゃないボディライン。その上に羽織ったコンバットジャケットが、違和感をさらに際立たせる。
その女――ムコが、まばたきの頻度がちょっと少なすぎる目で、男を見つめていた。
長い一瞬、どちらも動かなかった。
「なんだお前――……ッ!?」
あのアーマテック製の拡張義肢が腰のサイドアームに向かって伸びるが、ムコの手の方が速かった。
手首を掴んで、捻り上げる。
ゴキッ、と、関節が自然な可動域を超える嫌な音。高級義肢の精密機構も、対重サイボーグ想定の握力の前には無意味だ。拳銃がタイルに落ちて甲高い音を立てた。
「ッ、あ、ぐ……」
悲鳴を上げる前に、ムコのもう片方の手が男の口を塞いで、後頭部を壁に叩きつける。
男の脚が投げ出され、ズルズル体がずり落ちていく。ムコは倒れる体を支えながら、床に下ろした。
即座に首のポートを探り当てて、ジャックイン。
『……よっし、当たりだ。ペントハウスへのフルクリアランス権限』
俺はすでに認証情報を抽出しながら言った。指がデッキの上を走る。クローン、暗号化、パッケージング。ムコの内部システムに書き込めるフォーマットに変換する。
作業しながら、なんとなくムコのPOVフィードに目がいった。
洗面台の鏡に、ムコの姿が映ってる。小便器の列の前に立ってて、天井照明が直下に当たって、あの爆乳の下にくっきり濃い影を落としてる。
ムコは男で、男子トイレにいて何の問題もない。
理屈ではわかってるんだけど、あのKカップの乳と、くびれた腰と、でかい尻が、この場所に――男がブツ引っ張り出してジョロジョロやるアンモニア臭い空間に存在してるっていう絵面が、なんか俺の脳をバグらせる。
気を紛らわせたくて、口を開いた。
『ひとつ質問なんだけどさ』
「なんだ」
『なんでさっき、ちょっと待ってた? 入った瞬間に詰んでただろ、こいつ。背中向けてて、両手塞がってて、完全に無防備だったじゃん』
「まだ排尿中だった」
『……出し切るまで待ってやったってこと?』
「その方が衛生的だと思った」
俺はPOVフィードに視線を戻した。
『あー、ムコ。悪い知らせなんだけど、こいつ自分の小便に浸かってるぞ』
男は小便器の根元で意識を失ってる。膀胱は中断前に空になってなかったらしく、床に水たまりが広がってた。それがじわじわとムコのヒールブーツに向かって迫ってくる。
ムコは無言で横に一歩動いて、それを避けた。
「……」
『……あんま意味なかったな、待ってやったの』
ムコは反応しなかった。
『嫌なやられ方ランキングがあるとしたら、これ上位かもなぁ……』
フィードでは、ムコが意識のない男を個室に引きずり込んでる。便座に座らせ、内側からドアをロック。これで外から見たら「使用中」の個室が一つあるだけだ。仕切りの上端を両手で掴むと、腕の力だけで一息に体を引き上げる。向こう側にスタッと着地した。
『……今のは普通にカッコよかった』
「アクセストークンは複製完了したか?」
ムコが俺のコメントを無視して聞いた。
『ちょうど終わったとこ。今送る』
俺はデッキを操作して、データパケットを転送した。さっき吸い出したクリアランス情報をムコが受け取って、偽装プロファイルの認証レベルが更新されるのを確認。
『これでさっきのエレベーターが追加の認証を受け付けて、上に行くはずだ』
「確認した。お前は今のうちに安全な場所に移動しておけ。ハウザーを確保したら、脱出を急ぐ必要があるかもしれない」
そうだ、俺はまだ詰所にいる。
足元を見る。最初にムコが落とした警備員たちが転がってる。こいつが目を覚ますまでにはまだ時間があるだろうけど、いつまでもここに居座るのはちょっとな。
『わかった、場所変える。何かあったら通信しろよ』
ハンドヘルドデッキをポケットに突っ込んで、立ち上がった。
ゴッ、と鈍い音。男の短い呻き声。もう一発、今度はさっきより重い打撃音が届く。
俺はもう共有視界のサブレイヤーを強化視野の隅に最小化して、セダンの運転席から飛び出していた。
頭を低くしたまま、小走りで裏口に向かう。
このビルの監視カメラ配置は頭に入ってる。裏口周辺のカメラが繋がってる先は1階の詰所だけ。今そこをムコが制圧したなら、俺がここを通っても誰の目にも映らない。
従業員入口に着いた。手を伸ばすより先に、内側からロック解除の電子音。ムコが中のコンソールで開けてくれた。
ドアの隙間に体を滑り込ませる。警備詰所は左手3メートル。
部屋の中は、さっきムコの目を通して見たまんまだった。――ムコの体をベタベタ触ってた警備員どもを除いて。
2人とも床に転がってる。
クローム腕の方はうつ伏せに倒れてた。ご自慢のサイバネが絶対にメーカーの想定してない角度で曲がって、スーツの袖を突き破ってる。
ネックタトゥーの方は武器ロッカーに寄りかかるような姿勢で、半開きの口から胸元まで涎が糸を引いてる。ズボンの前はしっかり開いていた。……見たくないもんが見えちまった。
その真ん中に、ムコが立ってた。
ピンヒールは脚技を繰り出したときにどっかに飛んでったのか、裸足。ボディコンドレスはたくし上げられたまま、あのKカップが普通に、出てる。本人は完全に平静で、俺が入ってきても気にする素振りすらない。
「こいつら殺してないよな?」
言いながら、担いできたダッフルバッグをムコに放り投げる。弧を描いて飛んでって、見もせずに片手でキャッチされる。
「頸椎神経への打撃で意識を失っているだけだ」
ムコがバッグを開けながら答えた。
「おそらく1時間程度で目を覚ますだろう。かなり酷い頭痛と吐き気と一緒にな。数日は使い物にならないと思うが、後遺症は残らない」
「……そりゃよかった。このクソ野郎2人を代表して、お慈悲に心からの感謝を表明しとくわ」
俺は警備員どもをちらっと見下ろした。
さっきまでムコの体を好き勝手触ってた手が、今は力なく投げ出されてる。
因果応報って言うのか? こういうの。
……にしても、1時間か。
ハウザーを確保してビルから抜け出すまで、それが俺たちの持ち時間ってわけだ。
余裕があるようなないような、微妙なラインだな。
ムコはバッグの中身を次々と取り出していた。
ODジャケット、ブーツ一体型のボディスーツ。最後に出てきたのは、マイクロレイヴン・バズヴ・カタⅣ。ムコが一目惚れして、うちの運転資金をごっそり削り取っていったOTFナイフだ。
ムコはそれらを床に並べると、何の断りもなく、恥じらいもなく、ボディコンドレスの裾を掴んで、一気に足元まで引き下ろした。
当然のようにノーブラノーパン。全裸。
「ちょっ……せめて一言言えよ!?」
「このボディは何度も見てるだろう」
「そういう問題じゃねーの!!」
なんで他人がいる場所でノータイムで素っ裸になれるんだよ!? いや、こいつら意識ないけどさ! 俺はいるだろ!?
相変わらず羞恥心がぶっ壊れてんな……。セクサロイドのOSがそうさせてるのか、40年間フルボーグやってると感覚がそうなるのか、俺にはわかんねえよ。
ムコがラテックスから脚を抜いてボディスーツに滑り込むまで、たぶん10秒もかかってない。チラッと見ると、もうフロントジッパーを喉元まで引き上げてるところだった。
スーツの真空化が作動して、六角形のヒートシンクパターンがボディに吸い付く。無骨なコンバットジャケットが肩に乗った途端、最初からそうだったみたいに全てが馴染んだ。OTFナイフは、太もものアタッチメントポイントにクリップ。
さっきまでの娼婦姿とは打って変わって、どこからどう見ても戦闘員だ。
ムコは戦闘モード。
さて、今度は俺が仕事する番だ。
床で昏倒してるクローム腕の隣に片膝をつく。左耳の後ろを探ると、すぐにアクセスポートが見つかった。標準的な民生規格。軍用グレードみたいな隠蔽処理はされてない。
俺はジャケットの内ポケットからハンドヘルド端末を引っ張り出した。
分厚いペーパーバックくらいのサイズの赤い筐体。角があちこちへこんでる。旧式の軍用デッキを民生向けに落とした型で、インターフェースは二世代前だけど信頼性は折り紙つき。修理仕事で使ってる相棒だ。
コネクタケーブルを引き出して、クローム腕のポートにジャックインする。
接続が確立すると、俺の強化視野にクローム腕の認証情報が流れ込んでくる。指を操作盤の上で走らせながら、データを選り分けていく。
「何をしてる?」
頭上からムコの声。
「上に行く手段を作ってる」
俺は手を止めずに答えた。
この手の商業ビルには、たいていサブネットが敷かれてる。建物全体をカバーするローカルネットワークで、セキュリティからエアコンから照明から、ありとあらゆるものが繋がってる。
従業員にはそれぞれ固有の認証トークンが割り振られてて、ドアを開けるとき、エレベーターに乗るとき、制御ユニットが中央のセキュリティハブに問い合わせて、こいつを通していいかどうか判断する仕組みだ。
逆に言えば、有効なトークンさえ持ってれば、ハブは何も疑わずに通してくれる。
クローム腕から吸い出した認証プロファイルを構成要素にバラして、必要な部分だけ抽出。
1分足らずで、トークンの複製が完了した。
「できた。今から送る」
偽造アクセストークンを、暗号化リンク経由でムコの内部システムに転送する。
データを受け取る一瞬、ムコの瞳孔がわずかに焦点を失った。内部処理が走ってるときの顔だ。
クローム腕のポートから切断して、立ち上がりながら膝の埃を叩いた。
「これで俺たち2人とも、クラブ・クリサリスの内部人員だ。少なくともビルのサブネット上はな。ドアもエレベーターも、こいつが通れる場所ならフリーパスだ」
「……やけに手慣れてるな」
顔を上げると、ムコの目がわずかに細められてた。
何千回もやってきたみたいに軽犯罪の手口を披露したら、そういう顔にもなるか。
肩をすくめて2人目の警備員に移る。念のため、こいつのトークンも抜いとく。
「下層のガキの悪知恵だよ。ストリートじゃ、読み書きより先にシステムの出し抜き方を覚えんのがデフォだ」
ムコは黙ってる。完全には納得してないって顔。
嘘は言ってない。ただ、俺が平均的な下層育ちよりこの手のことが得意なのも事実だ。
義体技師ってのは、メカニクスだけ知っててもダメなんだ。
客が義体の不調を訴えて持ち込んでくるとき、それは関節部のアクチュエータが物理的に摩耗してるのか。ファームウェアのバグで制御信号が化けてるのか。認証システムがエラー吐いて、パーツが正規品として認識されてないのか。原因の切り分けができなきゃ話にならない。
結果として、俺はシステムの裏側を覗くことに慣れた。義体の認証プロトコルを解析して、互換性のないサイバネを動かす方法を編み出したり。ブラックマーケットのテックを検証して、バックドアが仕込まれてないか確認したり。
今やってることは、そういうスキルの延長線上でもある。
「それにな、こんなクラブのセキュリティなんてたかが知れてる」
俺は2人目のトークンをクローンしながら続けた。
「サブネットにまともなICEもないしな。俺が堂々とやれてるのは、ハウザーがネットランナーを雇ってないって事前にわかってたからだ」
ICE。電子侵入対抗壁《Intrusion Countermeasure Electronics》。
オールドネットが死んだ後の世界で、あらゆるサブネットを守ってる攻性防御プログラムだ。
話によると、昔は地球全体を覆うネットがあって、国境を越えて端末が相互に接続されてたらしい。
敵性AIが暴走して、そのグローバルネットワーク全体を遊び場にし始めるまではな。
大崩壊って言われてる。詳しいことは知らないが、俺が生まれるずっと前、旧世界のネットは死んだ。そしてその灰の中から生まれ直したのが、何億もの孤立したサブネットだ。企業が、政府が、組織が、それぞれ独自のネットワークを構築して、ICEで武装してる。
高セキュアな企業サブネットなんかに侵入しようとすると、そいつが牙を剥く。神経系に逆流して、接続を切る暇もなく脳を焼かれて死ぬ。
今の時代、ハッキングは自殺行為だ。
で、ネットランナーっていう、その自殺行為を専門にしてるイカれた連中がいる。
ダイブベッドに横たわって、意識をデータ構造に投射するあいつらには、ICEが物理的な建築物として見える。大脳皮質を焼いてくるブラックICEで固められた要塞を攻略しながら、情報を盗んだり、システムを破壊したりする。
でもな、そんな要塞にも弱点があるんだ。
外から来る奴を阻むように設計されてる。
実際に壁の内側に入っちまえば、途端にあのICE全部が逆向きになる。
俺が今やったのは、まさにそれだ。ローテクでショボいけど、確実な手口。
幸い、ハウザーはランナーを雇ってなかった。
こういう回りくどい方法で忍び込んでくるバシリスクの刺客なんて、想定してなかったんだろう。正面から殴り込んでくる傭兵チームなら警戒してたかもしれないけど。
残念だったなハウザー。
お前を殺しに来たのはセクサロイドに閉じ込められた元軍用サイボーグと、下層の工房で義体を弄ってるガキだ。
「……これで大体いける。動く前に、フロアの状況をおさらいしとこう」
コンソール前の椅子を引いて座り、壁一面を覆う監視モニターを見渡した。20枚くらいあるか。ビルの各フロアの映像がタイル状に並んでる。
ムコが俺の背後に移動してきて、2人で眺める格好になる。……あのでかい2つの塊が俺の後頭部スレスレにあるってのは、今は考えないことにした。
「1階。表がメインのクラブスペース、週末だから満員御礼だな。裏手が警備詰所と機材倉庫。俺らが今いるとこだ」
ストロボライトの明滅の下で、人の波がうねってる。まともに数えたら100人はいるだろう。
複数のモニターを横断して、クラブのスタッフが見える。カウンターでシェイカー振ってるバーテンダー、通路の要所に立つ警備員。全員、店の正規雇用だ。こいつらは脅威にはならない。
「2階と3階はVIPエリア。今はほぼ空……あーいや、何部屋か使ってるな。まあここはノータッチでいい。エレベーターで素通りできる」
進行中の活動が微妙に映ってたが、俺は意図的にスルーした。
「4階は管理フロア。オフィスと応接室がいくつか、あと……ここだ」
画面を指で叩く。
暗いガラスパネルの向こうに、ラックにマウントされたサーバーの列が並んでる。この詰所より一回り大きいモニターバンクがあって、その前に男が3人。1人はコンソールに向かって座ってて、残り2人はドア付近で立ってる。腰のあたりに何か下げてるのはシルエットでわかるが、解像度が低くて詳細まではわからない。
「セキュリティハブ。ビル全体のアクセス管理が集約されてる場所だ」
「映っているのはハウザーの私兵か」
背後からムコが言う。
「ああ。クラブの警備とは別系統で、4階から上だけを固めてる。客やスタッフとは接触しないようにしてるみたいだな」
「最上階の映像がないな」
ムコが指摘する通り、ペントハウスの内部を映してるカメラは1つもない。このモニターバンクには、5階からの中継自体が来てないらしい。
「ハウザーが自分のフロアの監視カメラを切ってるか、メインのネットワークから切り離してるかだな。どっちにしても、ここからは覗けない」
「護衛の配置も不明」
「ああ」
俺は椅子の背もたれに体重を預けた。
「でもって問題は、さっきパクったトークンじゃ4階までしか行けないってことだ。ペントハウスへのアクセス権限は、ハウザーの息のかかった奴しか持ってないのかもな」
「つまり4階の人員から、より上位のクリアランスのトークンを入手する必要がある」
「そういうこと」
コンソールの縁に足を乗せて、手元のハンドヘルドデッキを見やすい角度に傾けた。
「俺はここに残ってバックアップに回る。4階に着いたら、あいつらのポートに直接アクセスしてくれ。さっきと同じ手順だ。お前が黙らせて、俺がトークンを吸い出す。それでペントハウス直通チケットの完成だ」
ムコが一度、正確に頷いた。コンバットジャケットの襟を直して、肩にしっかり引き寄せる。
「ペントハウスに着くまでは静かにな。下には一般客がいる。お前が配置につく前に騒ぎになったら厄介だ」
「了解」
「そこから先は……」
「ああ。正面からの接触は避けられない」
ムコが俺の言葉を引き取った。
ペントハウスの構造は把握してる。入り口は一つしかない。エレベーターで上がって、そこから先は一本道。隠れて忍び込む余地がない設計だ。ムコが姿を見せた瞬間、向こうも気づく。
正真正銘の戦闘になる。
「行ってくる」
ムコがそう言って、背後から離れた。
コツ、コツとヒールの硬い音が遠ざかっていく。
俺は振り返らなかった。代わりに正面のモニターを見た。その姿がすぐに1階の監視映像に現れる。機材室の前を抜けて、サービスエレベーターに向かって歩いていくムコの後ろ姿。女の体ひとつで、武装した男どもが詰めてるフロアに乗り込もうとしてる。
でもあの足取りを見てると、そんな表現がひどく間抜けに思えてくる。40年かけて殺しの技術を磨いてきた人間が持つ、無駄のない、静かで、どこにも力みがない。獲物を追う側の足取りだ。
ムコの狩りが始まった。
◇
ムコの目を借りて、エレベーター階数表示がカウントアップしていくのを見てる。2……3……4。
手元では詰所のコンソールにジャックインして、エレベーター内のカメラ映像を弄ってた。ムコが乗り込む直前の無人映像を切り出して、ループ再生させてるだけの応急処置だ。
タイムスタンプまでは誤魔化せないから、誰かがログを精査したら一発でバレる。でもムコが移動する数秒間だけ持てばいい。
――チン。
ドアがスライドして開いた先は、バシリスクの前情報通りの光景だった。
無機質なバックオフィス。薄暗い通路に赤い天井照明が一定間隔で続いてる。壁際には所々使われなくなった機材がまとめて押しやられてて、うっすら埃が積もってた。客の目に触れない場所なんて、どこもこんなもんだ。
でもまず、ムコが一歩も踏み出さないうちに、お出迎えがあった。
警備員が1人、たまたま待ち構えてたみたいにエレベーターの真正面に立っていた。地上階の連中と同じようなダークスーツに、顎から下が防弾皮膚。その口が開いた。たぶんムコが誰で、なんで立ち入り制限フロアにいるのかとか、そういうことを聞こうとしたんだろう。
音節の半分くらい出たところで、ムコの手がパッと閃いた。
掌底が鳩尾にめり込む。ヒュッ、と鋭い呼気で、男の肺の中身が圧縮されて一気に搾り出された。180センチ近い体が二つ折りになる前に、ムコの手が流れるようにその喉を掴み、ガゴン!! とエレベーターの内壁に叩きつける。男の目が裏返って、そのまま崩れ落ちた。
ムコは奴の襟首を掴むと、エレベーターから降りて通路に引きずり出す。脇にあった自販機の影まで運んで、壁にもたれさせた。
……怖いくらいの手際だな。
『さっき俺がやったみたいに繋いでくれ。そいつがペントハウスのクリアランス持ってるか確認する』
俺が言い終わるより先に、ムコの指がもう男の首筋に伸びてた。
左耳の後ろ、生え際に隠れた小さなアクセスポート。それを爪先で器用に開くと、ムコの手首の内側に格納されてたインターフェースケーブルがするりと引き出された。クグツメボディの標準装備だ。本来の用途はニューラルリンク経由のバイタル読み取りとか。今はこんなことに使ってる。ジャックイン。
データが俺のデッキに流れ込んでくる。強化視野の右側にウィンドウが展開して、男のIDに紐づいた情報がスクロールされる。
『……ダメだな。下の奴らと同じだ。このフロアまでしか権限がない』
「了解」
『10メートルくらい先に従業員ロッカーがあるはずだ。そこに放り込んどけ』
ムコがそいつを肩に担いで歩いてく間に、俺は椅子の背もたれに体重を預けて、正面の監視モニターを睨んだ。バシリスクから渡されてた巡回ルートと、リアルタイムの映像と重ね合わせる。
『セキュリティハブの外にあと2人いる。1人は西側の通路を巡回中。今ちょうど折り返し地点だから、たぶん3分でそっちに来る。もう1人は東の非常階段付近。こっちは動いてない。まず外にいるそいつらから狙え』
ムコが動き出す。
俺は注意を分散させた。視界の左端で最小化してあるムコのフィードと、正面に並んだ壁の監視モニター。同じ空間を一人称視点と三人称視点で見てる。
ムコがそこにいるのは知ってる。あいつ自身の目を通して見えてるんだから。
POVフィードでは廊下の壁が規則正しく流れて、曲がり角がクリアされて、物陰が活用されていく。
なのに、監視モニターにはその姿が一切映らない。
不気味なくらいだった。
フロアの見取り図、カメラ配置、巡回ルート。バシリスクの事前情報には全部含まれてたし、ムコが完璧に頭に叩き込んでるのは間違いない。あの軍用グレードの脳殻では俺には想像もつかない並列処理が走ってて、監視網に生じるわずかな空白を縫う最適経路を常に算出し続けてるんだろう。
最初の巡回警備員は、何が起きたかもわからなかったと思う。
ムコが音もなく背後から距離を詰めた。細い腕が首に巻きついて、ぐっと締め上げる。気管を潰すんじゃない、頸動脈を圧迫する裸絞め。
警備員の手が反射で跳ね上がって、ムコの腕を引き剥がそうともがく。脚が床の上でバタバタと蹴った。でも脳への血流が止まれば、意識は長くもたない。数秒で動きが鈍くなって、力が抜けて、最後には弛緩した体がムコにもたれかかる。
ムコは気絶した男を静かに床に下ろすと、片手で左耳の後ろのアクセスポートを探った。
「接続する」
平坦な女声とデータが、リンクを経由して飛んでくる。俺はクリアランス情報を確認して、舌打ちした。
『ハズレ。こいつのアクセストークンも4階止まりだ』
ムコは何も言わずに接続を切って、次の標的に向かって動き出した。
2人目の警備員はでかかった。
POVフィードに映った後ろ姿からして、元軍人か、筋肉増強処置でも入れてるのか、どっちにしろまともに組み合ったら厄介そうな体つきだ。
フィードの中で、男の背中が近づいてくる。ムコは足音を殺したまま距離を詰めて、相手が気配を感じて振り向くより一瞬早く仕掛けた。
跳躍。
あの長い脚が跳ね上がって、ぶっとい太腿が男の首に両側から巻きついた。ムコの全体重を乗せた状態で、ぐるんと身体ごと捻る。
2人がもつれ合うように床に倒れ込んだ。
「ん゛むッ……!?」
くぐもった悲鳴は、太腿がさらに絞まった瞬間に途切れた。ギュチッ、とマットブラックに包まれた長い脚が、万力みたいに男の首を締め上げる。
男の両手がボディスーツのツルツルした表面を掻きむしるが、ピッチリ張り付いた真空シール素材には何の引っかかりもなく、指が滑るだけだ。
そいつの顔が赤くなって、みるみる紫に変わっていく。
目を剥いて、口をパクパクさせて。両脚に挟まれた体勢から見上げるその視界は、ムコの内腿と、Kカップの下半球で埋め尽くされてるはずだ。
……うん、まあ、正直ほんのちょっとだけ羨ましいかもしれない。
この街で最も殺人的なぶっとももが、容赦なく、ゆっくりと、男の意識を絞り出していく。本来何時間でも騎乗位ガニ股杭打ちピストンできるように作られてるあの人工筋肉は、どうやら絞め技との相性も抜群らしい。
最後の痙攣が収まって、男の体から完全に力が抜けた。
「クリア」
合成の女声が通信に入ってきた。今しがたかなりエロいテイクダウンをキメたことなんて、まるで気にしてない声音。
ムコは意識を失った警備員から体を解くと、首のポートを探り当てて接続した。認証情報に目を走らせる。
『……クソ、こいつも権限持ってない。そろそろ当たりを引いてもいい頃じゃねーか?』
「これ以上消していくと、巡回の穴に気づかれるぞ」
ムコの言う通りだった。もう3人倒して、全員ハズレ。誰一人としてペントハウスに行ける奴がいない。
このペースじゃ、ハウザーに近づく前にビル全体に警報を鳴らされる。
『うーん……全員に付与してるわけじゃないのかもな。チームリーダーとか、上位職だけに限定してるとか』
「可能性としてはあり得る」
俺はモニター群をもう一度見渡した。
階級章かなんか、警備員の上下関係がわかるような何かがないか探す。
みんな同じようなスーツだし、ぱっと見じゃ区別がつかない。
そのとき、ハブの中に動きがあった。
人影の一人が椅子から立ち上がって、ドアに向かってる。コンソールに座ってた別の奴と二言三言交わして、軽く肩を叩いて通路に出た。
別のカメラから、もっとよく見えた。スーツの上にタクティカルベストを着てる。でも俺の目を引いたのは別のところだった。
あいつの手だ。
スーツの袖口からちらっと見える。クロームとゴールドのツートンカラーに、特徴的な関節デザイン。あれは見覚えがある。
アーマテック製のプレシジョンシリーズ。
民生用のハイエンドモデルで、生体の限界を超えた精密な運動制御が必要な人間向けに作られてる。メーカーのカタログだと、外科医とかピアニストとか、そういう職業の人間がターゲット。
でもアンダーグラウンドじゃ、別の使い道で有名だった。
ファームウェアをちょっといじってレスポンスカーブを調整すれば、50メートル先に3発撃って、全部同じ穴を通せる手の出来上がりだ。
『ムコ、候補がいるぞ。ハブから1人出てきた。スーツの上にベスト、両腕に反動制御の改造入り。他の雑魚より格上っぽい』
「方向は」
ムコの声が即座に返ってくる。俺は複数のカメラ映像を跨ぎながら、男の動きを追った。
『通路を東に進んでる。お前のいる非常階段の方に向かってんな……』
「あいつだ。視認した」
ムコが物陰から顔を出すと、POVフィードに同じ男が現れた。
向こうから歩いてくる。ムコは壁際に身を寄せて、あいつが通り過ぎるのを待った。
男の歩調は急いでない。パトロールって感じでもない。もっとリラックスした足取りで、どこかに向かってる。
その先にあるのは。
あ。
『……トイレ行くな、あいつ』
「ああ」
男が突き当たりのドアを押し開けて、中に消えた。取り付けられた小さなプレートには、見慣れたピクトグラム。立ってる人型のシルエット。
「好都合だな」
ムコは言うなり、もうスタスタ歩き出してる。
おい、男子トイレだぞ。ちょっとは抵抗とかないのかよ……。そういう言葉が喉まで出かかって、飲み込んだ。
ムコは男だ。
意識は男。脳殻の中身は男。
ガワがどうしようもなく女の形をしてて、Kカップの乳がついてて、腰がくびれてて、尻がでかくても。あいつは男なんだから、ターゲットを追って男子トイレに入ることに、何も変なことはない。
はずだ。
たぶん。
……いや、客観的に見たらめちゃくちゃ変だろ、この状況。
◇
トイレの照明が、整備不良特有の周波数でジジジと鳴ってる。床のタイルは一応掃除されてるみたいだけど、目地の白さは諦められて久しい感じだ。
壁に沿って並ぶ小便器の列。タクティカルベストの男は真ん中を選んで、入口に背を向けて立ってる。
ジッパーを下ろす音が人気のないトイレに響いて、ジョロロロロ……と勢いのある水流が続く。膀胱を空にするとき特有の満足げなため息。
背後でドアが開いて、閉まった。
タイルを打つ足音が一組。別の誰かが入ってきて、隣の小便器の前で止まった。
男は振り返らなかった。エチケットってやつ。用を足してる最中は、壁か自分のブツを見る。振り返る理由もない。ここはセキュアフロアの男子トイレだ、入ってくるのはチームの人間に決まってる。
男は視線を正面に固定したまま、世間話を始めた。
「ハウザーがついに動くぞ。明日には高跳びだ、スケジュール通りならな。ったく、やっとだぜ。3週間もこのビルに缶詰で、あのパラノイア野郎のお守りだ」
声がタイルに反響する。
「報酬が出たらこのクソみたいな街から出て、しばらくゆっくりするかね。バシリスクも俺らみてえな小物を追いかけるほど暇じゃねえだろ、ハウザーが消えちまえばよ」
放尿音は途切れることなく、磁器に当たって鳴り続けてる。
「でもまあ、3週間分の危険手当が口座に溜まってるわけだ。お前、取り分で何するか考えてるか? 街を出る前にパーッとやるのもいいよな。狂ったみたいに遊んでよ。俺はとりあえず高級ドール2人呼んで3Pだな。あと最近出回ってる新しいデザイナー興奮剤、あれも試してみてえんだよ。全身が一個のデカい性感帯になるとか何とか。お前も興味あんだろ? 教えてやるよ、いいブツの仕入先が――」
やっと首を回した。たぶん、そこにあるのが部下の顔だと期待して。
コンマ何秒か、男の脳が目の前の光景を処理することを拒否した。
隣の小便器に立ってたのは、同僚じゃなかった。
女。
プラチナブロンドの短髪。完璧すぎる、左右対称すぎる顔。絶対に男子トイレで見るべきじゃないボディライン。その上に羽織ったコンバットジャケットが、違和感をさらに際立たせる。
その女――ムコが、まばたきの頻度がちょっと少なすぎる目で、男を見つめていた。
長い一瞬、どちらも動かなかった。
「なんだお前――……ッ!?」
あのアーマテック製の拡張義肢が腰のサイドアームに向かって伸びるが、ムコの手の方が速かった。
手首を掴んで、捻り上げる。
ゴキッ、と、関節が自然な可動域を超える嫌な音。高級義肢の精密機構も、対重サイボーグ想定の握力の前には無意味だ。拳銃がタイルに落ちて甲高い音を立てた。
「ッ、あ、ぐ……」
悲鳴を上げる前に、ムコのもう片方の手が男の口を塞いで、後頭部を壁に叩きつける。
男の脚が投げ出され、ズルズル体がずり落ちていく。ムコは倒れる体を支えながら、床に下ろした。
即座に首のポートを探り当てて、ジャックイン。
『……よっし、当たりだ。ペントハウスへのフルクリアランス権限』
俺はすでに認証情報を抽出しながら言った。指がデッキの上を走る。クローン、暗号化、パッケージング。ムコの内部システムに書き込めるフォーマットに変換する。
作業しながら、なんとなくムコのPOVフィードに目がいった。
洗面台の鏡に、ムコの姿が映ってる。小便器の列の前に立ってて、天井照明が直下に当たって、あの爆乳の下にくっきり濃い影を落としてる。
ムコは男で、男子トイレにいて何の問題もない。
理屈ではわかってるんだけど、あのKカップの乳と、くびれた腰と、でかい尻が、この場所に――男がブツ引っ張り出してジョロジョロやるアンモニア臭い空間に存在してるっていう絵面が、なんか俺の脳をバグらせる。
気を紛らわせたくて、口を開いた。
『ひとつ質問なんだけどさ』
「なんだ」
『なんでさっき、ちょっと待ってた? 入った瞬間に詰んでただろ、こいつ。背中向けてて、両手塞がってて、完全に無防備だったじゃん』
「まだ排尿中だった」
『……出し切るまで待ってやったってこと?』
「その方が衛生的だと思った」
俺はPOVフィードに視線を戻した。
『あー、ムコ。悪い知らせなんだけど、こいつ自分の小便に浸かってるぞ』
男は小便器の根元で意識を失ってる。膀胱は中断前に空になってなかったらしく、床に水たまりが広がってた。それがじわじわとムコのヒールブーツに向かって迫ってくる。
ムコは無言で横に一歩動いて、それを避けた。
「……」
『……あんま意味なかったな、待ってやったの』
ムコは反応しなかった。
『嫌なやられ方ランキングがあるとしたら、これ上位かもなぁ……』
フィードでは、ムコが意識のない男を個室に引きずり込んでる。便座に座らせ、内側からドアをロック。これで外から見たら「使用中」の個室が一つあるだけだ。仕切りの上端を両手で掴むと、腕の力だけで一息に体を引き上げる。向こう側にスタッと着地した。
『……今のは普通にカッコよかった』
「アクセストークンは複製完了したか?」
ムコが俺のコメントを無視して聞いた。
『ちょうど終わったとこ。今送る』
俺はデッキを操作して、データパケットを転送した。さっき吸い出したクリアランス情報をムコが受け取って、偽装プロファイルの認証レベルが更新されるのを確認。
『これでさっきのエレベーターが追加の認証を受け付けて、上に行くはずだ』
「確認した。お前は今のうちに安全な場所に移動しておけ。ハウザーを確保したら、脱出を急ぐ必要があるかもしれない」
そうだ、俺はまだ詰所にいる。
足元を見る。最初にムコが落とした警備員たちが転がってる。こいつが目を覚ますまでにはまだ時間があるだろうけど、いつまでもここに居座るのはちょっとな。
『わかった、場所変える。何かあったら通信しろよ』
ハンドヘルドデッキをポケットに突っ込んで、立ち上がった。
0
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