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ACT 4:MERCENARY
[18] ターゲットの目前で、予想外の強敵が立ちはだかる。[女扱い/口説かれ]
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視聴覚リンクが息を吹き返したとき、俺の声は自分で思ってたより必死だった。
『――……ムコ! おい、ムコ! 聞こえるか!?』
数秒の沈黙。
それから、抑揚のない女声が、いつも通り落ち着いて返ってきた。
「ああ、聞こえる」
安堵で全身の力が抜けた。
『クソ、よかった……信号抑制の対抗周波数組むのに手間取って……いや、んなことはどうでもいい! 今どうなってる!?』
「問題ない。武装要員は片付けた」
リンクが安定して、ムコの光学系との同期がオンラインに復帰する。乱れてたフィードが一気に解像度を取り戻した。
ペントハウススイートの内部が見えた。
赤い非常灯が一定のリズムで明滅してて、部屋全体が血の色に染まってる。……いや、比喩じゃなくて、マジで血だらけだった。壁に、床に、ひっくり返った家具に。そこらじゅうに、いろんな死に様の男たちが転がってる。
……これ全部、ムコがやったのか。
通信途絶してた5分ちょっとで、この人数を。
とはいえ、5分でこれだけ片付けられたってことは、こいつらはただの頭数。ハウザーが金で集めた連中だろう。
ブラックドッグのプロとはまだ遭遇してない。
オーメンはどこかにいる。まだ動いてない。待ち伏せか、それとも――
『……ムコ、気をつけろ。ヤバい情報掴んだ。ハウザーの野郎、敵対PMCと裏で繋がってた。バシリスクの内部情報と引き換えに逃がしてもらう約束だったらしい。そいつらがプロを送り込んできてる』
「知ってる」
『コールサインはオーメン。そいつは……待て、知ってるってどういう意味だよ』
「ここにいる」
『……何?』
ムコの目に映るペントハウスを食い入るように見つめた。動いてるものは何も、揺れる影すら見当たらない。
『……いるって、どこに? 誰も映ってねえぞ……』
「どこかに」
ムコの頭がゆっくり旋回する。
「今ここに、いる」
ムコは動かない。でもその姿勢に変化があった。蛇が獲物に跳びかかる直前の、張り詰めた静止状態。
フィード越しに、ムコの視線がじわじわと空間を舐めていく。俺には知覚できない何かを追ってる。
――ムコが動いた。
考える前に体が反応したみたいな、爆発的なサイドステップで横に2メートル飛ぶ。
同時に、さっきまでムコがいた空間で何かが起きた。
背後の柱に深い溝が刻まれて、石の破片が爆散する。
『な……っ!?』
ムコが転がって、しゃがみ込んで、また即座に飛び退く。回避パターンを流れるように繋いでいく。
何も見えない、でも一つ一つの動きに、正体不明の音が付随する。空気の唸り。何か高速で鋭いものが空間を切り裂く音が、一瞬遅れで聞こえてくる。
ムコがオットマンの陰に滑り込んだ瞬間、革張りの表面が裂けて、詰め物が噴き出す。
ひたすら逃げを打ってたムコだったが、ついに攻撃の発生源を捕捉した。
――シュッ!!
ムコの両手が跳ね上がって、それを受け止める。
その光景に、俺は凍りついた。
刃だ。ムコの顔から数センチのところで、ブレードが宙に浮いて震えてる。
でもそれを握ってる手がない。その手に繋がってる腕がない。
POVフィードに映ったムコの手は何も掴んでない。
でも腕は明らかに力んでて、ジリジリと押し下げてくる見えない力に抵抗して、人工筋肉が張り詰めてる。
……いや。
目を凝らすと、刃の向こう側にわずかに歪み。
真夏のアスファルトに浮かぶ陽炎みたいに、空気の密度がずれてるような……。
そこで声がした。
「……驚いた。初手で見抜かれたのは初めてだ。格好がつかないな、不意打ちが決まらないと……」
男の声だった。
殺し合いの現場じゃなくて、まるでカクテルパーティーで隣り合わせた相手に話しかけるみたいな、そんな温度感。
「お名前を伺っても? 美人さん」
ムコが腕を振り払った。
見えない重量を自分の正中線から弾き飛ばして、後方に跳躍、距離を取る。
刃が消えた。それを振るってる何者かに引き戻されて。
赤い明滅の中を移動するそれが、ゆらりと位置を変える。動いてる。形じゃない、形の不在が。
ああ、そういうことか。
――光学迷彩義体。
光の屈折率を動的に制御するメタマテリアル被覆を表層に組み込んだ、ステルス特化の軍用義体だ。
入射光を受け取って、曲げて、連続的に背後へ送り出す。肉眼じゃまず見えない。大抵の光学センサーだって欺ける。事実上の透明化。
存在することは知ってる。でも激レアだ。
普及しない理由はコストじゃない。演算負荷のせいだ。
迷彩を維持するには、全身の表面積をカバーする光路をナノ秒単位で再計算し続けなきゃいけない。その演算リソースをどこから引っ張ってくるかっていうと――戦闘系のルーチンを削るしかない。
動作補正、予測演算、照準アシスト。サイボーグが本来頼りにするはずの戦闘支援プログラムが、透明でいるためだけに食い潰される。
トレードオフとして割に合わない。普通の傭兵ならな。
でも。
こいつの専門はなんだ?
チェックポイントを通って、高セキュリティゾーンで殺しをやること。
だったらこれ以上ない適性だ。
光学迷彩自体は軍用テックだが、分類上は非殺傷装備。スキャナーはこいつを致死性サイバネティクスとして検出しないし、通行も妨げない。
……こいつがオーメンの正体か。
通常戦力じゃ対処できない案件に対する、ブラックドッグの回答。
ムコの手が太ももに動いた。リテンションキャッチが外れて、掌に落ちてきたのは、マットブラックのミニマルなハンドル。
OTFナイフ。
マイクロレイヴン・バズヴ・カタⅣ。
ムコの親指がトリガーを押し込む。13センチの単分子エッジが、一息に射出された。
「……いいセンスだ。それがあんたの本気ってわけだ」
実体のない声が、どこか嬉しそうに響いた。
ムコのヒールがジリッと床を擦り、重心が沈んだ。体重を両足に分散させて、ナイフは逆手に持ち替える。
あいつの目は、俺に見えるものを追っていない。軍用グレードのセンサーが空気の流れを読んで、床を伝わる微振動を解析してる。
――攻撃は右上段から来た。
俺に見えたのは、ムコがすでに迎撃に動いてたからだ。
ムコの刃が弧を描いて迎え撃って、虚空から実体化したブレードと噛み合った。衝撃でムコの体が押され、血で濡れた大理石の床をヒールが滑る。
オーメンの刃は可視と不可視を行き来する。たぶん、ムコのOTFナイフと似た機構で、体内に格納・瞬時に展開を繰り返してるんだろう。
ムコが旋回して、見えない胸元を狙って突きを繰り出す。
揺らぎが躱す。ムコの背後でまたブレードが実体化して、無防備な背中を狙う。ムコがしゃがみ込み、頭上スレスレを斬撃がかすめて、白い髪が数本宙に舞った。そのまま低い姿勢から回転蹴りで反撃する。
本格的に始まった。
さっきまでの探り合いじゃない、純粋な殺意の交換が。
俺には何が起きてるのかほとんど追えない。
でもなんとなくわかるのは、2人が拮抗してるってことだ。
理由は明白。
ムコは、見えない敵と戦ってるんだから。
繰り出す全ての斬撃、全ての突きは、相手が「いるはず」の場所を狙うしかない。
空気の動きを読んで、床の振動を拾って、刃が受けた抵抗からその先にある腕の位置を逆算して――そうやって見えない敵の輪郭を、一瞬ごとに描き直し続けてる。
対してオーメンは、ムコを完璧に視認できる。
動きを読める。好きな角度から、好きなタイミングで仕掛けられる。
圧倒的に不公平な戦いだ。
でもこいつ、素の反射神経と戦闘スキルだけでムコと渡り合ってるんだよな……。光学迷彩に演算リソースを食われてて、戦闘サブルーチンは動かせないはずだ。
不可視のアドバンテージがあるとはいえ、それでムコと互角以上っていうんだから、常人じゃない。こいつ自身も別種のバケモンってことだ。
2人が破壊されたペントハウスを横切って打ち合う。
攻防は苛烈だった。刃が噛み合い、組み付きは形成された瞬間に崩され、並みの相手なら致命傷になる一撃がミリ単位の差で逸らされる。
ムコの左前腕に、一筋の赤い線が走った。
浅い。ボディスーツの強化繊維がほとんど吸収してる。でも相手の先制だ。
ムコは傷に意識を向けなかった。
どこからともなく来た突きを受け流して、払うような斬撃でカウンター。だが空振り、ナイフは空を切った。
回転して、あの鞭みたいにしなる蹴りに移行する。踵が、何か固いものを捉えた。リンク越しに呻きが聞こえ、空間の歪みが揺らいだ。
もう一発蹴りを放つ、今度は低く狙って。踵のスパイクが動作の途中で展開した。格納式の刃が、ジャキッ!! と、インパクトの直前に最大長まで伸びる。
「――ッ……!!」
ヒールスパイクがヒットした。
たぶん浅いけど、それでも――血には血を。
空気に黒い染みが浮いてる。オーメンの血だ。
迷彩がちらつき、再確立する前に、男の姿が一瞬だけ見えた。
「ああ……こりゃ痕が残るな」
さっきまでの余裕に、初めて鋭いものが混じっていた。
2人が互いの周りを回る。どちらも先に瞬きする気はない。
ムコが仕掛けた。
蹴り、足払い、連撃になって途切れないナイフワーク。
でもオーメンは、強い。
ムコが追い詰めたと思うたびに、するりと抜ける。揺らぎが一箇所で消えて、別の場所に再出現する。ブレードが予想外の角度から実体化する。高いと見せて低く、右にコミットさせて左から。
ムコの体に切り傷が増えていく。ボディスーツが裂けて、下の白い人工皮膚が露出する。
また一撃。顔をかすめて、ムコがよろめいた。
ムコの手が頬に触れて、その指先が赤く濡れた。セクサロイドボディに循環する再現血液。
俺の視界はムコのPOVフィードに限られてる。それでも戦況は嫌というほどわかる。
ムコが押されてる。
少しずつ、守勢に回って。一歩ずつ、後退させられてる。
オーメンはムコのパターンを読んで、適応してる。そしてムコは同じことができない、なぜなら適応する相手が見えないから。
また斬撃。腹を貫くはずだった突きを、ムコがギリギリで躱した。
……頼む、ムコ。頑張れ。
俺は100メートル離れたキャットウォークにしゃがみ込んで、借り物の目で見てるだけだ。何もできない。クソの役にも立たない。拳を握りしめても、歯を食いしばっても、ムコの代わりに斬られてやれるわけじゃない。
情けない。
こんなとき、俺にできることは何もない。
前腕に一撃。腕をかすめるもう一撃。喉を狙った突きをブロックしたけど、続く蹴りで体勢を崩されて、また後退する。
ムコが下がる。地面を譲る。オーメンが優位を押して、ペントハウスの奥へ追い詰めていく。
背後には巨大な強化ガラス。床から天井まで伸びる、一枚板の窓。
ムコの背中がガラスに触れた。
逃げ場がない。
「惜しいな、本当に。別の状況で会いたかった」
男の声が降ってくる。
「……でもプロ同士だ。恨みっこなしで頼む」
明確な殺意が空間を満たす。
俺にもわかった。次の一撃で決まる。
ムコの体がバネみたいに沈み込んで、放たれたのは、大振りの回し蹴り。
でも――外した。
踵が虚空を薙いで、オーメンに当たらない。
いや……
違う。
狙いは最初からあいつじゃなかった。
回転の勢いが、ムコの体を一周させた。
遠心力を乗せた踵からスパイクブレードが展開し、背後に、ペントハウスの窓に叩き込まれる。床から天井まである、ガラスの大窓に。
一瞬、何も起きなかった。
蹴りの衝撃がガラス全体に伝播していく、その刹那の静寂。
そして、砕け散った。
強化ガラスは設計された通りに割れた。鋭利な破片じゃなく、小さく角の取れたキューブ状に。何千、いや何万ものプリズムが、一斉に宙に舞い、ざあああっと雨みたいに降り注ぐ。ムコの視界がきらめく光で満たされた。
――綺麗じゃん、と俺はぼんやり思った。
そしてそれは、光学迷彩に頼ってる奴に起こり得る、最悪の事態でもあった。
光学迷彩システムは、周囲の光がどう屈折すべきかをリアルタイムで計算することで、透明化を実現する。
さあ想像してみろ、その計算をやってる最中に突然、何万もの反射面が現れたら?
それぞれがランダムな軌跡で落下して、別方向に光を跳ね返して、その一つ一つに対して個別の屈折解を要求してきたら?
……演算負荷が指数関数的に跳ね上がり、処理が追いつかない。
戦闘が始まって以来初めて、まるまる3秒間、オーメンが完全に見えた。
白いポリマーでコーティングされたサイバネティクス、そして……出し抜かれたと悟った、見開かれた眼。
全身のメタマテリアルがフル稼働して、クローキングを再確立しようと高速演算してる。でも変数が多すぎる。散乱光が多すぎる。補正すべき角度が多すぎる。
ムコはその隙を一瞬たりとも無駄にしなかった。
壊滅的な弧を描いて、長い脚が跳ね上がる。軍用グレードアクチュエータの全出力を乗せた蹴りが、浮き彫りになった男の胴体ど真ん中にめり込んだ。
オーメンが後方に吹っ飛んだ。
キャビネットに激突して、そのまま突き抜けて、白い手足がもつれ合いながら床を転がった。
そしてあいつは起き上がってこなかった。
◇
ムコは立っている。かつて窓だった虚空を背に。ブーツの下で、砕けたガラスがジャリッと鳴った。
無数の破片が床に散らばって、吹き込む夜風に追われて、凍った涙みたいに滑っていく。
「……は……、」
ガラスの波が押し寄せる先で、白い影が動いた。
「クソ、厄日だな……」
床に転がったまま、男が呟く。
「……目が覚めた時から、予感はあったんだ。『今日はそういう日になる』って……」
ムコの蹴りでシステムがイカれたのか、それとも演算負荷に耐えられなくなったのか。迷彩が死んで、全身が露わになっている。
真っ白なボディスーツに包まれた細身の体。数か所から血が滲んで、急速に白じゃなくなりつつある。
両腕は、ポリマーコーティングされた白いサイバネティクス。前腕部の外殻に走る継ぎ目。神出鬼没のブレードは、そこに格納されてるんだろう。
男は片肘で体を起こした。
「今日はマジで……ベッドにいりゃ、よかった。でも俺ってば、プロ意識があるもんだからさ……」
震える手が上がって、顔を覆っていた白いマスクを引き剥がす。
その下から現れたのは、生身の顔。……正直、悪くなかった。
アジア系、30代半ばってとこか。特定のタイプの女には効きそうな、ちょっとやさぐれた感じ。黒い髪が汗で額に張り付いて、数日分の無精髭が顎に影を落としている。
男が咳き込んだ。口の端から血が垂れる。
赤い塊を大理石の床に吐き出して、軽く嫌そうな顔で眺めてから、芝居がかったため息をついた。
ムコはあの瞬きしないドールの目で見下ろしてる。ナイフはまだ手の中。こいつが少しでもおかしな動きをすれば、すぐに終わらせる準備ができてる。
オーメンが宥めるみたいに片手を上げた。
「……あんたの勝ちだ。ラウンド2をやる気はないよ。たぶん中で大事なとこが、何本か折れてるしな」
疲れ切った自嘲気味の笑みが唇に浮かんでる。
本気で続ける気はなさそうだった。よろめきながら立ち上がって、動き出す。ムコに向かってじゃない。出口に向かってでもない。
バーカウンターに向かって。
「ただ……最後に一杯やらせてもらっていいかな。今夜はそれぐらい、働いた気がするんでね」
声は苦しげだったが、どうにかあの軽い調子を保とうとしてる。
ムコは何も言わなかった。でも攻撃もしなかった。
オーメンはそれを許可と受け取ったらしい。
バーまでたどり着いて、スツールの上に崩れ落ちるように座った。
カウンタートップは誰かの血で派手に装飾されてる。男は気にする様子もなく、銃撃戦を生き残ったボトルを一本掴んだ。
「別に、時間稼ぎしようって魂胆じゃない。AVが来るまであと5分はある。俺の依頼人は今頃、震えながら指折り数えてるだろうな」
グラスを引き寄せて、2フィンガー注ぐ。
啜って、喉を通る時に顔をしかめた。内臓のダメージに染みてるんだろう。でももう一口飲むのはやめなかった。
「……んん。部屋の趣味はともかく、酒の趣味はいいらしい」
ムコは黙って状況を評価してる。
ナイフを持った手が、ゆっくり下がった。
親指がスイッチに触れて、単分子エッジがハンドルに吸い込まれ、太腿のアタッチメントポイントに戻される。
オーメンの眉がわずかに上がった。
「信用してくれるんだな」
「立っているのがやっとだろう。お前はもう脅威じゃない」
「おっと。そいつは手厳しい」
オーメンは軽く笑いながら、2つ目のグラスに注いだ。
カウンターを滑らせる。捧げ物みたいに。
「……」
コツ。コツ。コツ。
大理石にヒールの音が響き、ムコがバーに歩み寄る。
そして、マジで驚いたことに、オーメンの隣のスツールに腰を下ろした。
長い脚が組まれる。ダイヤモンド型のヒートシンクパターンが、蛇の鱗みたいに妖しく輝く。視聴覚フィードのおかげで、ムッチリした太腿が押し付け合うのを特等席から見物できた。
隣でオーメンも見つめてた。まあ、男である以上、責められない。
「……へえ、予想外だな」
ムコは答えなかった。ただ、あいつが注いだ酒を見てる。
細い指がグラスを取り上げた。
ムコと暮らして数ヶ月、あいつが何か口にするのを見たことあったっけ。
セクサロイドに食事は要らない。クグツメのボディには飲酒機能があるけど、それは純粋に見かけ上のもんだ。社交の場に溶け込むためにデザインされた、ただのギミック。
でも今、ムコはあの深紅の唇にグラスの縁を当てて、ゆっくりと傾けた。
グラスを下ろしたとき、縁に三日月形のリップマークが残ってた。
オーメンはその一部始終を、隠しもしない鑑賞の目で見てた。もう二度と見れないとわかってる夕焼けを眺めるみたいに。
手の甲で口の端の血を拭いながら言った。
「……今夜死ぬにしても、少なくともあんたみたいな女に看取られるわけだ。死に方としちゃ悪くない」
ムコは静かにグラスを置いて、男を見た。
「お前の戦い方には骨がある。ついてこられる相手と出会ったのは久しぶりだ」
間を置いて続ける。
「楽しめた」
オーメンが瞬きした。何を言われると思ってたにせよ、これは明らかに予想外だったらしい。
肩をすくめて――すぐに「いてて……」と顔をしかめて、後悔してる。
「……透明になってうろつき回って、一方的に刺す。いやあ。名誉ある戦い方とは言えないと思うが」
「あのレベルでナイフ戦闘を理解している人間は稀だ。光学迷彩を処理しながらそれができる者はさらに少ない。戦闘ルーチンに頼らない、純粋なお前自身の技能だろう。どこかでちゃんとした訓練を受けたな」
「えーと……どうも? 俺をキャビネットに蹴り込んでくれた女性から、そんな風に高く評価してもらえるとは思わなかった」
沈黙が2人の間に降りた。
割れた窓から夜風が吹き込んで、夜の街の音を運んでくる。
オーメンが残りの酒を飲み干した。
「……そろそろ、あんたの仕事を終わらせなきゃな。だろ?」
「お前を殺したくない」
ムコが言った。
グラスを下ろすオーメンの手が止まった。俺が見てから初めて、本当に不意を突かれた顔をした。
「……すまない、もう一回いいか?」
「停戦を提案してる」
「……いや、なあ」
オーメンは困ったように頭を掻いた。
「俺にそう言う奴は、たいてい命乞いしてるんだが。逆の立場で言ってきたのはあんたが初めてだ」
ムコの人工の目が、男の顔に固定される。
「ターゲットはハウザーだ。パニックルームへのアクセス方法を教えろ。そうすればお前は生きて出られる」
オーメンの顔から、面白がってる気配がすっと消えた。
鼻梁をつまんで、しばらく黙る。顔を上げた時には、もうプロの顔に戻っていた。
「なるほどね。俺を懐柔してるわけだ」
「頼んでる」
「断ったら?」
「お前の死体から奪う」
ムコは一拍置いた。
「できればそうしたくないと言ってる」
ムコはそれ以上何も付け加えなかった。人工の目が、忍耐強く相手を見つめている。
オーメンは口を閉じたまま、何かを考え込んでいた。
「……俺に依頼人を売れと」
「そうだ」
「評判に響くな。そんな噂が立ったら、契約単価がガタ落ちだ」
「お前の依頼人はどのみち死人だ。逃がす気はない」
「ず、随分な自信家だなぁ……」
オーメンの視線がチラリと横に逸れた。
天井の隅に設置された監視カメラ、というかその残骸。最初の戦闘でムコが撃ち抜いたんだろう。死んだレンズが、何も記録することなく見返している。
目撃者なし。ここで起こっても、証拠は残らない。
オーメンの視線がムコに戻った。横目でじっと見つめてる。まるでそこに答えが書いてあるみたいに。
やがて、ふっと息を吐いた。
「……昔から美人に弱いんだ。性格上の欠陥だな。いつもトラブルの種になる」
手がタクティカルスーツの懐に伸びる。
ゆっくりと、ムコが脅威と受け取らないように動きを見せながら、小さなチップを取り出す。見た目からしてアクセスキー。
カウンターの上に置いた。
「で、あんたは――ちょっと別格だ」
ムコがチップを拾い上げて、数秒、確認するように眺めてから、しまった。
「ありがとう」
「やめてくれ。誰かに聞かれたら、気絶した俺から引っぺがしたことにしてくれよ。ハンドラーにバレたらキャリア終了だ」
ムコは静かに立ち上がった。視線はすでにパニックルームへの通路に向いている。
「なあ」
オーメンの声に、足が止まる。
「俺はスティーブン。スティーブン・兆だ。……『オーメン』になる前に、母親が呼んでた名前はな」
沈黙の一拍。
ムコの頭がわずかに動いた。横顔が見えるくらい。
「ムコ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
オーメン――ジャオは、ゆっくり頷いた。
その視線がもう一度、ムコの全身を辿る。
「じゃあ、ただのムコさん。また会う気がするんだよな。この街は、俺たちみたいな人間がずっと他人でいるには狭すぎる。その時は……ちゃんとした酒を奢らせてくれ」
声に笑みが混じった。
「もっとよく知り合いたいんだ。もう少し、穏やかな状況で。他人の血まみれじゃない時の君がどんなか、ぜひとも見てみたいね」
あの完璧に作り込まれたドールフェイスは、相変わらず何も読み取らせないまま。
ただ一瞬だけ、あいつの視線を受け止めた。
「……どうかな」
ムコはそれだけ言って、また歩き出す。
ヒールが大理石を叩く音が、静まり返ったスイートに響く。
「『たぶん』、と受け取っとくよ」
背中に投げかけられた声は、どこか満足げだった。
「……良い夜を、ムコ」
『――……ムコ! おい、ムコ! 聞こえるか!?』
数秒の沈黙。
それから、抑揚のない女声が、いつも通り落ち着いて返ってきた。
「ああ、聞こえる」
安堵で全身の力が抜けた。
『クソ、よかった……信号抑制の対抗周波数組むのに手間取って……いや、んなことはどうでもいい! 今どうなってる!?』
「問題ない。武装要員は片付けた」
リンクが安定して、ムコの光学系との同期がオンラインに復帰する。乱れてたフィードが一気に解像度を取り戻した。
ペントハウススイートの内部が見えた。
赤い非常灯が一定のリズムで明滅してて、部屋全体が血の色に染まってる。……いや、比喩じゃなくて、マジで血だらけだった。壁に、床に、ひっくり返った家具に。そこらじゅうに、いろんな死に様の男たちが転がってる。
……これ全部、ムコがやったのか。
通信途絶してた5分ちょっとで、この人数を。
とはいえ、5分でこれだけ片付けられたってことは、こいつらはただの頭数。ハウザーが金で集めた連中だろう。
ブラックドッグのプロとはまだ遭遇してない。
オーメンはどこかにいる。まだ動いてない。待ち伏せか、それとも――
『……ムコ、気をつけろ。ヤバい情報掴んだ。ハウザーの野郎、敵対PMCと裏で繋がってた。バシリスクの内部情報と引き換えに逃がしてもらう約束だったらしい。そいつらがプロを送り込んできてる』
「知ってる」
『コールサインはオーメン。そいつは……待て、知ってるってどういう意味だよ』
「ここにいる」
『……何?』
ムコの目に映るペントハウスを食い入るように見つめた。動いてるものは何も、揺れる影すら見当たらない。
『……いるって、どこに? 誰も映ってねえぞ……』
「どこかに」
ムコの頭がゆっくり旋回する。
「今ここに、いる」
ムコは動かない。でもその姿勢に変化があった。蛇が獲物に跳びかかる直前の、張り詰めた静止状態。
フィード越しに、ムコの視線がじわじわと空間を舐めていく。俺には知覚できない何かを追ってる。
――ムコが動いた。
考える前に体が反応したみたいな、爆発的なサイドステップで横に2メートル飛ぶ。
同時に、さっきまでムコがいた空間で何かが起きた。
背後の柱に深い溝が刻まれて、石の破片が爆散する。
『な……っ!?』
ムコが転がって、しゃがみ込んで、また即座に飛び退く。回避パターンを流れるように繋いでいく。
何も見えない、でも一つ一つの動きに、正体不明の音が付随する。空気の唸り。何か高速で鋭いものが空間を切り裂く音が、一瞬遅れで聞こえてくる。
ムコがオットマンの陰に滑り込んだ瞬間、革張りの表面が裂けて、詰め物が噴き出す。
ひたすら逃げを打ってたムコだったが、ついに攻撃の発生源を捕捉した。
――シュッ!!
ムコの両手が跳ね上がって、それを受け止める。
その光景に、俺は凍りついた。
刃だ。ムコの顔から数センチのところで、ブレードが宙に浮いて震えてる。
でもそれを握ってる手がない。その手に繋がってる腕がない。
POVフィードに映ったムコの手は何も掴んでない。
でも腕は明らかに力んでて、ジリジリと押し下げてくる見えない力に抵抗して、人工筋肉が張り詰めてる。
……いや。
目を凝らすと、刃の向こう側にわずかに歪み。
真夏のアスファルトに浮かぶ陽炎みたいに、空気の密度がずれてるような……。
そこで声がした。
「……驚いた。初手で見抜かれたのは初めてだ。格好がつかないな、不意打ちが決まらないと……」
男の声だった。
殺し合いの現場じゃなくて、まるでカクテルパーティーで隣り合わせた相手に話しかけるみたいな、そんな温度感。
「お名前を伺っても? 美人さん」
ムコが腕を振り払った。
見えない重量を自分の正中線から弾き飛ばして、後方に跳躍、距離を取る。
刃が消えた。それを振るってる何者かに引き戻されて。
赤い明滅の中を移動するそれが、ゆらりと位置を変える。動いてる。形じゃない、形の不在が。
ああ、そういうことか。
――光学迷彩義体。
光の屈折率を動的に制御するメタマテリアル被覆を表層に組み込んだ、ステルス特化の軍用義体だ。
入射光を受け取って、曲げて、連続的に背後へ送り出す。肉眼じゃまず見えない。大抵の光学センサーだって欺ける。事実上の透明化。
存在することは知ってる。でも激レアだ。
普及しない理由はコストじゃない。演算負荷のせいだ。
迷彩を維持するには、全身の表面積をカバーする光路をナノ秒単位で再計算し続けなきゃいけない。その演算リソースをどこから引っ張ってくるかっていうと――戦闘系のルーチンを削るしかない。
動作補正、予測演算、照準アシスト。サイボーグが本来頼りにするはずの戦闘支援プログラムが、透明でいるためだけに食い潰される。
トレードオフとして割に合わない。普通の傭兵ならな。
でも。
こいつの専門はなんだ?
チェックポイントを通って、高セキュリティゾーンで殺しをやること。
だったらこれ以上ない適性だ。
光学迷彩自体は軍用テックだが、分類上は非殺傷装備。スキャナーはこいつを致死性サイバネティクスとして検出しないし、通行も妨げない。
……こいつがオーメンの正体か。
通常戦力じゃ対処できない案件に対する、ブラックドッグの回答。
ムコの手が太ももに動いた。リテンションキャッチが外れて、掌に落ちてきたのは、マットブラックのミニマルなハンドル。
OTFナイフ。
マイクロレイヴン・バズヴ・カタⅣ。
ムコの親指がトリガーを押し込む。13センチの単分子エッジが、一息に射出された。
「……いいセンスだ。それがあんたの本気ってわけだ」
実体のない声が、どこか嬉しそうに響いた。
ムコのヒールがジリッと床を擦り、重心が沈んだ。体重を両足に分散させて、ナイフは逆手に持ち替える。
あいつの目は、俺に見えるものを追っていない。軍用グレードのセンサーが空気の流れを読んで、床を伝わる微振動を解析してる。
――攻撃は右上段から来た。
俺に見えたのは、ムコがすでに迎撃に動いてたからだ。
ムコの刃が弧を描いて迎え撃って、虚空から実体化したブレードと噛み合った。衝撃でムコの体が押され、血で濡れた大理石の床をヒールが滑る。
オーメンの刃は可視と不可視を行き来する。たぶん、ムコのOTFナイフと似た機構で、体内に格納・瞬時に展開を繰り返してるんだろう。
ムコが旋回して、見えない胸元を狙って突きを繰り出す。
揺らぎが躱す。ムコの背後でまたブレードが実体化して、無防備な背中を狙う。ムコがしゃがみ込み、頭上スレスレを斬撃がかすめて、白い髪が数本宙に舞った。そのまま低い姿勢から回転蹴りで反撃する。
本格的に始まった。
さっきまでの探り合いじゃない、純粋な殺意の交換が。
俺には何が起きてるのかほとんど追えない。
でもなんとなくわかるのは、2人が拮抗してるってことだ。
理由は明白。
ムコは、見えない敵と戦ってるんだから。
繰り出す全ての斬撃、全ての突きは、相手が「いるはず」の場所を狙うしかない。
空気の動きを読んで、床の振動を拾って、刃が受けた抵抗からその先にある腕の位置を逆算して――そうやって見えない敵の輪郭を、一瞬ごとに描き直し続けてる。
対してオーメンは、ムコを完璧に視認できる。
動きを読める。好きな角度から、好きなタイミングで仕掛けられる。
圧倒的に不公平な戦いだ。
でもこいつ、素の反射神経と戦闘スキルだけでムコと渡り合ってるんだよな……。光学迷彩に演算リソースを食われてて、戦闘サブルーチンは動かせないはずだ。
不可視のアドバンテージがあるとはいえ、それでムコと互角以上っていうんだから、常人じゃない。こいつ自身も別種のバケモンってことだ。
2人が破壊されたペントハウスを横切って打ち合う。
攻防は苛烈だった。刃が噛み合い、組み付きは形成された瞬間に崩され、並みの相手なら致命傷になる一撃がミリ単位の差で逸らされる。
ムコの左前腕に、一筋の赤い線が走った。
浅い。ボディスーツの強化繊維がほとんど吸収してる。でも相手の先制だ。
ムコは傷に意識を向けなかった。
どこからともなく来た突きを受け流して、払うような斬撃でカウンター。だが空振り、ナイフは空を切った。
回転して、あの鞭みたいにしなる蹴りに移行する。踵が、何か固いものを捉えた。リンク越しに呻きが聞こえ、空間の歪みが揺らいだ。
もう一発蹴りを放つ、今度は低く狙って。踵のスパイクが動作の途中で展開した。格納式の刃が、ジャキッ!! と、インパクトの直前に最大長まで伸びる。
「――ッ……!!」
ヒールスパイクがヒットした。
たぶん浅いけど、それでも――血には血を。
空気に黒い染みが浮いてる。オーメンの血だ。
迷彩がちらつき、再確立する前に、男の姿が一瞬だけ見えた。
「ああ……こりゃ痕が残るな」
さっきまでの余裕に、初めて鋭いものが混じっていた。
2人が互いの周りを回る。どちらも先に瞬きする気はない。
ムコが仕掛けた。
蹴り、足払い、連撃になって途切れないナイフワーク。
でもオーメンは、強い。
ムコが追い詰めたと思うたびに、するりと抜ける。揺らぎが一箇所で消えて、別の場所に再出現する。ブレードが予想外の角度から実体化する。高いと見せて低く、右にコミットさせて左から。
ムコの体に切り傷が増えていく。ボディスーツが裂けて、下の白い人工皮膚が露出する。
また一撃。顔をかすめて、ムコがよろめいた。
ムコの手が頬に触れて、その指先が赤く濡れた。セクサロイドボディに循環する再現血液。
俺の視界はムコのPOVフィードに限られてる。それでも戦況は嫌というほどわかる。
ムコが押されてる。
少しずつ、守勢に回って。一歩ずつ、後退させられてる。
オーメンはムコのパターンを読んで、適応してる。そしてムコは同じことができない、なぜなら適応する相手が見えないから。
また斬撃。腹を貫くはずだった突きを、ムコがギリギリで躱した。
……頼む、ムコ。頑張れ。
俺は100メートル離れたキャットウォークにしゃがみ込んで、借り物の目で見てるだけだ。何もできない。クソの役にも立たない。拳を握りしめても、歯を食いしばっても、ムコの代わりに斬られてやれるわけじゃない。
情けない。
こんなとき、俺にできることは何もない。
前腕に一撃。腕をかすめるもう一撃。喉を狙った突きをブロックしたけど、続く蹴りで体勢を崩されて、また後退する。
ムコが下がる。地面を譲る。オーメンが優位を押して、ペントハウスの奥へ追い詰めていく。
背後には巨大な強化ガラス。床から天井まで伸びる、一枚板の窓。
ムコの背中がガラスに触れた。
逃げ場がない。
「惜しいな、本当に。別の状況で会いたかった」
男の声が降ってくる。
「……でもプロ同士だ。恨みっこなしで頼む」
明確な殺意が空間を満たす。
俺にもわかった。次の一撃で決まる。
ムコの体がバネみたいに沈み込んで、放たれたのは、大振りの回し蹴り。
でも――外した。
踵が虚空を薙いで、オーメンに当たらない。
いや……
違う。
狙いは最初からあいつじゃなかった。
回転の勢いが、ムコの体を一周させた。
遠心力を乗せた踵からスパイクブレードが展開し、背後に、ペントハウスの窓に叩き込まれる。床から天井まである、ガラスの大窓に。
一瞬、何も起きなかった。
蹴りの衝撃がガラス全体に伝播していく、その刹那の静寂。
そして、砕け散った。
強化ガラスは設計された通りに割れた。鋭利な破片じゃなく、小さく角の取れたキューブ状に。何千、いや何万ものプリズムが、一斉に宙に舞い、ざあああっと雨みたいに降り注ぐ。ムコの視界がきらめく光で満たされた。
――綺麗じゃん、と俺はぼんやり思った。
そしてそれは、光学迷彩に頼ってる奴に起こり得る、最悪の事態でもあった。
光学迷彩システムは、周囲の光がどう屈折すべきかをリアルタイムで計算することで、透明化を実現する。
さあ想像してみろ、その計算をやってる最中に突然、何万もの反射面が現れたら?
それぞれがランダムな軌跡で落下して、別方向に光を跳ね返して、その一つ一つに対して個別の屈折解を要求してきたら?
……演算負荷が指数関数的に跳ね上がり、処理が追いつかない。
戦闘が始まって以来初めて、まるまる3秒間、オーメンが完全に見えた。
白いポリマーでコーティングされたサイバネティクス、そして……出し抜かれたと悟った、見開かれた眼。
全身のメタマテリアルがフル稼働して、クローキングを再確立しようと高速演算してる。でも変数が多すぎる。散乱光が多すぎる。補正すべき角度が多すぎる。
ムコはその隙を一瞬たりとも無駄にしなかった。
壊滅的な弧を描いて、長い脚が跳ね上がる。軍用グレードアクチュエータの全出力を乗せた蹴りが、浮き彫りになった男の胴体ど真ん中にめり込んだ。
オーメンが後方に吹っ飛んだ。
キャビネットに激突して、そのまま突き抜けて、白い手足がもつれ合いながら床を転がった。
そしてあいつは起き上がってこなかった。
◇
ムコは立っている。かつて窓だった虚空を背に。ブーツの下で、砕けたガラスがジャリッと鳴った。
無数の破片が床に散らばって、吹き込む夜風に追われて、凍った涙みたいに滑っていく。
「……は……、」
ガラスの波が押し寄せる先で、白い影が動いた。
「クソ、厄日だな……」
床に転がったまま、男が呟く。
「……目が覚めた時から、予感はあったんだ。『今日はそういう日になる』って……」
ムコの蹴りでシステムがイカれたのか、それとも演算負荷に耐えられなくなったのか。迷彩が死んで、全身が露わになっている。
真っ白なボディスーツに包まれた細身の体。数か所から血が滲んで、急速に白じゃなくなりつつある。
両腕は、ポリマーコーティングされた白いサイバネティクス。前腕部の外殻に走る継ぎ目。神出鬼没のブレードは、そこに格納されてるんだろう。
男は片肘で体を起こした。
「今日はマジで……ベッドにいりゃ、よかった。でも俺ってば、プロ意識があるもんだからさ……」
震える手が上がって、顔を覆っていた白いマスクを引き剥がす。
その下から現れたのは、生身の顔。……正直、悪くなかった。
アジア系、30代半ばってとこか。特定のタイプの女には効きそうな、ちょっとやさぐれた感じ。黒い髪が汗で額に張り付いて、数日分の無精髭が顎に影を落としている。
男が咳き込んだ。口の端から血が垂れる。
赤い塊を大理石の床に吐き出して、軽く嫌そうな顔で眺めてから、芝居がかったため息をついた。
ムコはあの瞬きしないドールの目で見下ろしてる。ナイフはまだ手の中。こいつが少しでもおかしな動きをすれば、すぐに終わらせる準備ができてる。
オーメンが宥めるみたいに片手を上げた。
「……あんたの勝ちだ。ラウンド2をやる気はないよ。たぶん中で大事なとこが、何本か折れてるしな」
疲れ切った自嘲気味の笑みが唇に浮かんでる。
本気で続ける気はなさそうだった。よろめきながら立ち上がって、動き出す。ムコに向かってじゃない。出口に向かってでもない。
バーカウンターに向かって。
「ただ……最後に一杯やらせてもらっていいかな。今夜はそれぐらい、働いた気がするんでね」
声は苦しげだったが、どうにかあの軽い調子を保とうとしてる。
ムコは何も言わなかった。でも攻撃もしなかった。
オーメンはそれを許可と受け取ったらしい。
バーまでたどり着いて、スツールの上に崩れ落ちるように座った。
カウンタートップは誰かの血で派手に装飾されてる。男は気にする様子もなく、銃撃戦を生き残ったボトルを一本掴んだ。
「別に、時間稼ぎしようって魂胆じゃない。AVが来るまであと5分はある。俺の依頼人は今頃、震えながら指折り数えてるだろうな」
グラスを引き寄せて、2フィンガー注ぐ。
啜って、喉を通る時に顔をしかめた。内臓のダメージに染みてるんだろう。でももう一口飲むのはやめなかった。
「……んん。部屋の趣味はともかく、酒の趣味はいいらしい」
ムコは黙って状況を評価してる。
ナイフを持った手が、ゆっくり下がった。
親指がスイッチに触れて、単分子エッジがハンドルに吸い込まれ、太腿のアタッチメントポイントに戻される。
オーメンの眉がわずかに上がった。
「信用してくれるんだな」
「立っているのがやっとだろう。お前はもう脅威じゃない」
「おっと。そいつは手厳しい」
オーメンは軽く笑いながら、2つ目のグラスに注いだ。
カウンターを滑らせる。捧げ物みたいに。
「……」
コツ。コツ。コツ。
大理石にヒールの音が響き、ムコがバーに歩み寄る。
そして、マジで驚いたことに、オーメンの隣のスツールに腰を下ろした。
長い脚が組まれる。ダイヤモンド型のヒートシンクパターンが、蛇の鱗みたいに妖しく輝く。視聴覚フィードのおかげで、ムッチリした太腿が押し付け合うのを特等席から見物できた。
隣でオーメンも見つめてた。まあ、男である以上、責められない。
「……へえ、予想外だな」
ムコは答えなかった。ただ、あいつが注いだ酒を見てる。
細い指がグラスを取り上げた。
ムコと暮らして数ヶ月、あいつが何か口にするのを見たことあったっけ。
セクサロイドに食事は要らない。クグツメのボディには飲酒機能があるけど、それは純粋に見かけ上のもんだ。社交の場に溶け込むためにデザインされた、ただのギミック。
でも今、ムコはあの深紅の唇にグラスの縁を当てて、ゆっくりと傾けた。
グラスを下ろしたとき、縁に三日月形のリップマークが残ってた。
オーメンはその一部始終を、隠しもしない鑑賞の目で見てた。もう二度と見れないとわかってる夕焼けを眺めるみたいに。
手の甲で口の端の血を拭いながら言った。
「……今夜死ぬにしても、少なくともあんたみたいな女に看取られるわけだ。死に方としちゃ悪くない」
ムコは静かにグラスを置いて、男を見た。
「お前の戦い方には骨がある。ついてこられる相手と出会ったのは久しぶりだ」
間を置いて続ける。
「楽しめた」
オーメンが瞬きした。何を言われると思ってたにせよ、これは明らかに予想外だったらしい。
肩をすくめて――すぐに「いてて……」と顔をしかめて、後悔してる。
「……透明になってうろつき回って、一方的に刺す。いやあ。名誉ある戦い方とは言えないと思うが」
「あのレベルでナイフ戦闘を理解している人間は稀だ。光学迷彩を処理しながらそれができる者はさらに少ない。戦闘ルーチンに頼らない、純粋なお前自身の技能だろう。どこかでちゃんとした訓練を受けたな」
「えーと……どうも? 俺をキャビネットに蹴り込んでくれた女性から、そんな風に高く評価してもらえるとは思わなかった」
沈黙が2人の間に降りた。
割れた窓から夜風が吹き込んで、夜の街の音を運んでくる。
オーメンが残りの酒を飲み干した。
「……そろそろ、あんたの仕事を終わらせなきゃな。だろ?」
「お前を殺したくない」
ムコが言った。
グラスを下ろすオーメンの手が止まった。俺が見てから初めて、本当に不意を突かれた顔をした。
「……すまない、もう一回いいか?」
「停戦を提案してる」
「……いや、なあ」
オーメンは困ったように頭を掻いた。
「俺にそう言う奴は、たいてい命乞いしてるんだが。逆の立場で言ってきたのはあんたが初めてだ」
ムコの人工の目が、男の顔に固定される。
「ターゲットはハウザーだ。パニックルームへのアクセス方法を教えろ。そうすればお前は生きて出られる」
オーメンの顔から、面白がってる気配がすっと消えた。
鼻梁をつまんで、しばらく黙る。顔を上げた時には、もうプロの顔に戻っていた。
「なるほどね。俺を懐柔してるわけだ」
「頼んでる」
「断ったら?」
「お前の死体から奪う」
ムコは一拍置いた。
「できればそうしたくないと言ってる」
ムコはそれ以上何も付け加えなかった。人工の目が、忍耐強く相手を見つめている。
オーメンは口を閉じたまま、何かを考え込んでいた。
「……俺に依頼人を売れと」
「そうだ」
「評判に響くな。そんな噂が立ったら、契約単価がガタ落ちだ」
「お前の依頼人はどのみち死人だ。逃がす気はない」
「ず、随分な自信家だなぁ……」
オーメンの視線がチラリと横に逸れた。
天井の隅に設置された監視カメラ、というかその残骸。最初の戦闘でムコが撃ち抜いたんだろう。死んだレンズが、何も記録することなく見返している。
目撃者なし。ここで起こっても、証拠は残らない。
オーメンの視線がムコに戻った。横目でじっと見つめてる。まるでそこに答えが書いてあるみたいに。
やがて、ふっと息を吐いた。
「……昔から美人に弱いんだ。性格上の欠陥だな。いつもトラブルの種になる」
手がタクティカルスーツの懐に伸びる。
ゆっくりと、ムコが脅威と受け取らないように動きを見せながら、小さなチップを取り出す。見た目からしてアクセスキー。
カウンターの上に置いた。
「で、あんたは――ちょっと別格だ」
ムコがチップを拾い上げて、数秒、確認するように眺めてから、しまった。
「ありがとう」
「やめてくれ。誰かに聞かれたら、気絶した俺から引っぺがしたことにしてくれよ。ハンドラーにバレたらキャリア終了だ」
ムコは静かに立ち上がった。視線はすでにパニックルームへの通路に向いている。
「なあ」
オーメンの声に、足が止まる。
「俺はスティーブン。スティーブン・兆だ。……『オーメン』になる前に、母親が呼んでた名前はな」
沈黙の一拍。
ムコの頭がわずかに動いた。横顔が見えるくらい。
「ムコ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
オーメン――ジャオは、ゆっくり頷いた。
その視線がもう一度、ムコの全身を辿る。
「じゃあ、ただのムコさん。また会う気がするんだよな。この街は、俺たちみたいな人間がずっと他人でいるには狭すぎる。その時は……ちゃんとした酒を奢らせてくれ」
声に笑みが混じった。
「もっとよく知り合いたいんだ。もう少し、穏やかな状況で。他人の血まみれじゃない時の君がどんなか、ぜひとも見てみたいね」
あの完璧に作り込まれたドールフェイスは、相変わらず何も読み取らせないまま。
ただ一瞬だけ、あいつの視線を受け止めた。
「……どうかな」
ムコはそれだけ言って、また歩き出す。
ヒールが大理石を叩く音が、静まり返ったスイートに響く。
「『たぶん』、と受け取っとくよ」
背中に投げかけられた声は、どこか満足げだった。
「……良い夜を、ムコ」
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