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嘘は泥棒の始まり
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嘘は泥棒の始まり──とは、幼い頃よく言われたものだ。
しかし僕は思うのだ。そんなの嘘だ、と。
泥棒は確かにいけないことだ。罪になる。でも、嘘をつくのは別に悪いことじゃない。だって僕も友達もお父さんもお母さんも、みんな嘘をつく。お父さんが俺はヒーローなんだっていうから、友達に僕のお父さんはヒーローなんだと自慢して回ったら、馬鹿じゃねえのと友達に笑われた。お父さんにも、まだそんなこと信じてたのか、と呆れられた。
でも僕のお父さんは泥棒じゃない。
「拓!このカーペットにジュースをこぼしたのはお前だろう?」
そう僕──浦島拓に怒鳴っているのがお父さんだ。お父さんはサラリーマンとして、遅くまで毎日働いている。
「ごめんなさい、お父さん」
嘘は悪いことじゃないけれど、僕は素直に謝った。だって、お父さんは僕が嘘をつくと怒るのだ。自分だって嘘をついていたのに。
許される嘘と、許されない嘘。僕にはその見分けが全くつかなかった。
「素直でいいぞ。嘘は悪いことだからな」
そう言ってお父さんはにっこりと笑い、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「拓──落ち着いて聞いてほしい」
ある日、僕が学校から帰ってくると、お父さんにそう言われた。お父さんはいつになく暗い顔をしている。
「父さんな、離婚することにしたんだ」
「離婚……?」
僕はそう繰り返してみたが、言葉の意味は知っていた。知っていても、聞き返さざるを得なかった。
「ああ。あの女、他に男を作ってやがったんだ」
周りの同年代の子供と比べてもかなり頭が良い方だった僕には、お父さんの言っていることがよく分かった。同時に、幼い子供の前で言うべきことではないということも、よく分かっていた。
「……そういうことだから、拓はこれから父さんと二人で暮らしていくんだ。いいな?」
有無を言わさぬ口調だった。
幼い僕には、断ることはできなかった。断ったとて、待っているのは野垂れ死にだけなのだ。
「うん。分かった」
僕はそう言って頷いた。
それからしばらく、僕とお父さんの二人きりの生活は続いた。
お父さんは友達を家に呼ぶことを許してくれなかったし、仕事に行く以外、どこに行こうとも、誰と会おうともしなかった。
お父さんがいるから、孤独じゃないけれど、どこか寂しかった。でも、僕がそう言うと、お父さんは決まって僕を鋭く睨むのだった。
家に取り付けられているインターフォンは、ボタンの部分も埃を被っており、暫く使われていないことを物語っている。お父さんと二人で暮らすようになって一年。もう僕は一年間も、インターフォンの音を聞いていない。
そんな僕が──久し振りにインターフォンの音を聞いた。一人で、お父さんの帰りを待っていた、日曜日の夕方のことだった。
宅配便も使わない、給食費も直接学校に持っていく、隣人はお父さんを気味悪がって回覧板を玄関の前に置いていく。
ずっとそんな生活だったのだ。インターフォンなんて、鳴るはずもない。
僕は少しの間、どうしようか迷ったが、意を決して出てみることにした。
僕が玄関の扉を開けると、そこには数人の警察官が神妙な面持ちで立っていた。
「浦島──拓くん?」
何やら手元の資料のページを繰りながら、警察官は僕にそう問うた。
「はい」
僕がそう言うと、警察官は家の中を無遠慮に見渡した後、僕に尋ねた。
「お父さんは?」
「お父さんはまだ帰ってきてません」
「そうか」
警察官は顎に手を当て、考える素振りを見せた。今度は僕が尋ねる。
「何かあったんですか?」
警察官は眉を寄せた。何やら困っているらしく、他の警察官に目配せしている。
他の警察官が首を横に振ったのを確認すると、僕の目の前の警察官は、わざとらしくにっこり笑った。
「何でもないよ。君のお父さん、今日はちょっと帰りが遅くなるかもしれないんだ。だから、君もお父さんを待ってないで、早く寝るんだよ」
警察官は僕の頭を撫でてから、外に出て扉を閉めた。今は冬だから、ずっと扉を開けていたせいですっかり空気は冷え切ってしまって、痛いくらいに冷たい。
僕は暫くその場から動けなかった。寒かったからではない。ショックを受けたのだった。
警察官も嘘をつくのだ。嘘は泥棒の始まり──お父さんの教えで、唯一嘘だったのは、それだけだ。それだけのはずだ。
「拓のヤツ──最近変なんだよなあ」
「拓?あいつが変なのは今に始まったことじゃないだろ?」
「そうなんだけどさあ。最近、同じことばっかり繰り返すんだよ」
「へえ。なんて?」
「『嘘は泥棒の始まり』って言葉は嘘なんだ、ってさ。知らねえよそんなの、って話だよ」
クラスメイトは、僕に聞こえるように、わざと大声で会話をしていた。
僕には友達と呼べるような人はいない。でも、親切心で、教えてあげているのだ。
嘘をついたとて、泥棒にはならない。怯えることはないのだ。これまでずっと、泥棒にならないようにと馬鹿正直に生きてきて、沢山の失敗をしてきた。でも、もうその必要もない。僕は悟ったのだった。
お父さんが会社の金を横領して逮捕されたと知ったのは、それから数日して、近所のおばさん達の噂話を小耳に挟んだ時だった。
何かあったとは思っていた。お父さんは、毎朝仕事に行ってくると言って出かけはするものの、いつもよりかなり早い時間に、大量の缶ビールを買って帰ってきていた。買い溜めではない。一晩のうちに全て飲み終えてしまうのだ。
それに、食事もかなり質素になっていた。酷い日なんて、コンビニの塩おにぎり一個だった。そのせいで、僕は大分痩せた。元々かなりの痩せ型ではあったのだが。
でも、まさか逮捕されていたとは知らなかった。
執行猶予がついたため懲役刑にはならなかったらしいが、当然仕事は解雇。前科持ち、それも会社の金を着服した人間──それも四十歳過ぎのバツイチ独身男だ──を雇ってくれる会社など簡単に見つかるはずもない。そもそも、お父さんは働く気力もなくしたようだったし。これでは貧窮するのも当然だった。
「お父さん──」
僕が呼びかけると、お父さんは鋭い目で僕を睨めつけた。見たことのない形相に、僕は萎縮した。
「拓。お前はもう、学校をやめろ。アルバイトでもやれ」
僕は想像もしていなかった言葉に面食らった。あれほど、よく勉強して良い大学に入って、良い職につけと僕に言いつけていたお父さんが、そんなことを言うなんて。
「学校ってえのは金がかかるんだよ。給食費だろ。PTA会費だろ。挙げたらキリがねえや。それに、お前もうすぐ中学生だろ。お前が中学校に入ったら、制服に鞄に靴に、馬鹿みてえに金がかかるんだよ。そんなの払えねえ。とっとと仕事始めて、てめえの生活費くらい払いやがれってんだ」
お父さんは酒が入っているのもあって、言葉遣いがかなり乱雑だった。
「お父さん、そんなの、やりたくてもできないよ」
「できないじゃねえ。やるんだよ」
お父さんはそう言って、また缶ビールをあおった。テーブルの上の空き缶は、既に十本を上回っていた。僕は、玄関の前に大量の空き缶が入ったゴミ袋が無造作に置かれていたのを思い出した。
「小学生は雇えませんよね」
僕がそう尋ねると、大抵の人は驚いた顔をする。そしてすぐ、困ったように肩をすくめるのだ。
それも当然だ。僕は痩せ細って、いつも同じ汚れた服を着ている、貧相な子供。周りの目には大層不憫に映るだろう。
でも、僕を雇ってくれるところはなかった。ひ弱で学もない少年に出来る仕事などあるはずもなかったのだ。
たまに、親切な人が菓子パンやジュースをくれた。腹は多少膨れたけれど、ちっとも栄養にはならなかった。むしろ、栄養バランスを崩して、しょっちゅう体調を崩すようになった。体調を崩しては体力を消耗する。体力を消耗しては、いつもの少ない食事を余計に辛く感じてしまう。かと言って、貰った食べ物を食べないわけにはいかなかった。申し訳なさからではない。やはり空腹は耐え難いものなのだ。その後、もっと耐え難い事態に悩まされると分かっていても。空腹では、まともな判断など出来やしない。
こうする他ない──そう悟った時には、恐怖も罪悪感もなくなっていた。
僕は両手いっぱいに抱えたスナック菓子やカップラーメン、菓子パンや水を机の上に放り投げた。空き缶が数個、転がって床に落ちた。
──思えば初めから、こうなることは決まっていたのだ。
僕に嘘をついたお父さんは、会社の金を盗って泥棒になった。そして、「嘘は泥棒の始まり」という言葉は嘘だという偽りを周りに言い触らしてしまった僕も──
──泥棒になった。
その時僕は知ったのだ。嘘は泥棒の始まりであると同時に──純粋でいることを諦めた証拠でもあることを。
しかし僕は思うのだ。そんなの嘘だ、と。
泥棒は確かにいけないことだ。罪になる。でも、嘘をつくのは別に悪いことじゃない。だって僕も友達もお父さんもお母さんも、みんな嘘をつく。お父さんが俺はヒーローなんだっていうから、友達に僕のお父さんはヒーローなんだと自慢して回ったら、馬鹿じゃねえのと友達に笑われた。お父さんにも、まだそんなこと信じてたのか、と呆れられた。
でも僕のお父さんは泥棒じゃない。
「拓!このカーペットにジュースをこぼしたのはお前だろう?」
そう僕──浦島拓に怒鳴っているのがお父さんだ。お父さんはサラリーマンとして、遅くまで毎日働いている。
「ごめんなさい、お父さん」
嘘は悪いことじゃないけれど、僕は素直に謝った。だって、お父さんは僕が嘘をつくと怒るのだ。自分だって嘘をついていたのに。
許される嘘と、許されない嘘。僕にはその見分けが全くつかなかった。
「素直でいいぞ。嘘は悪いことだからな」
そう言ってお父さんはにっこりと笑い、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「拓──落ち着いて聞いてほしい」
ある日、僕が学校から帰ってくると、お父さんにそう言われた。お父さんはいつになく暗い顔をしている。
「父さんな、離婚することにしたんだ」
「離婚……?」
僕はそう繰り返してみたが、言葉の意味は知っていた。知っていても、聞き返さざるを得なかった。
「ああ。あの女、他に男を作ってやがったんだ」
周りの同年代の子供と比べてもかなり頭が良い方だった僕には、お父さんの言っていることがよく分かった。同時に、幼い子供の前で言うべきことではないということも、よく分かっていた。
「……そういうことだから、拓はこれから父さんと二人で暮らしていくんだ。いいな?」
有無を言わさぬ口調だった。
幼い僕には、断ることはできなかった。断ったとて、待っているのは野垂れ死にだけなのだ。
「うん。分かった」
僕はそう言って頷いた。
それからしばらく、僕とお父さんの二人きりの生活は続いた。
お父さんは友達を家に呼ぶことを許してくれなかったし、仕事に行く以外、どこに行こうとも、誰と会おうともしなかった。
お父さんがいるから、孤独じゃないけれど、どこか寂しかった。でも、僕がそう言うと、お父さんは決まって僕を鋭く睨むのだった。
家に取り付けられているインターフォンは、ボタンの部分も埃を被っており、暫く使われていないことを物語っている。お父さんと二人で暮らすようになって一年。もう僕は一年間も、インターフォンの音を聞いていない。
そんな僕が──久し振りにインターフォンの音を聞いた。一人で、お父さんの帰りを待っていた、日曜日の夕方のことだった。
宅配便も使わない、給食費も直接学校に持っていく、隣人はお父さんを気味悪がって回覧板を玄関の前に置いていく。
ずっとそんな生活だったのだ。インターフォンなんて、鳴るはずもない。
僕は少しの間、どうしようか迷ったが、意を決して出てみることにした。
僕が玄関の扉を開けると、そこには数人の警察官が神妙な面持ちで立っていた。
「浦島──拓くん?」
何やら手元の資料のページを繰りながら、警察官は僕にそう問うた。
「はい」
僕がそう言うと、警察官は家の中を無遠慮に見渡した後、僕に尋ねた。
「お父さんは?」
「お父さんはまだ帰ってきてません」
「そうか」
警察官は顎に手を当て、考える素振りを見せた。今度は僕が尋ねる。
「何かあったんですか?」
警察官は眉を寄せた。何やら困っているらしく、他の警察官に目配せしている。
他の警察官が首を横に振ったのを確認すると、僕の目の前の警察官は、わざとらしくにっこり笑った。
「何でもないよ。君のお父さん、今日はちょっと帰りが遅くなるかもしれないんだ。だから、君もお父さんを待ってないで、早く寝るんだよ」
警察官は僕の頭を撫でてから、外に出て扉を閉めた。今は冬だから、ずっと扉を開けていたせいですっかり空気は冷え切ってしまって、痛いくらいに冷たい。
僕は暫くその場から動けなかった。寒かったからではない。ショックを受けたのだった。
警察官も嘘をつくのだ。嘘は泥棒の始まり──お父さんの教えで、唯一嘘だったのは、それだけだ。それだけのはずだ。
「拓のヤツ──最近変なんだよなあ」
「拓?あいつが変なのは今に始まったことじゃないだろ?」
「そうなんだけどさあ。最近、同じことばっかり繰り返すんだよ」
「へえ。なんて?」
「『嘘は泥棒の始まり』って言葉は嘘なんだ、ってさ。知らねえよそんなの、って話だよ」
クラスメイトは、僕に聞こえるように、わざと大声で会話をしていた。
僕には友達と呼べるような人はいない。でも、親切心で、教えてあげているのだ。
嘘をついたとて、泥棒にはならない。怯えることはないのだ。これまでずっと、泥棒にならないようにと馬鹿正直に生きてきて、沢山の失敗をしてきた。でも、もうその必要もない。僕は悟ったのだった。
お父さんが会社の金を横領して逮捕されたと知ったのは、それから数日して、近所のおばさん達の噂話を小耳に挟んだ時だった。
何かあったとは思っていた。お父さんは、毎朝仕事に行ってくると言って出かけはするものの、いつもよりかなり早い時間に、大量の缶ビールを買って帰ってきていた。買い溜めではない。一晩のうちに全て飲み終えてしまうのだ。
それに、食事もかなり質素になっていた。酷い日なんて、コンビニの塩おにぎり一個だった。そのせいで、僕は大分痩せた。元々かなりの痩せ型ではあったのだが。
でも、まさか逮捕されていたとは知らなかった。
執行猶予がついたため懲役刑にはならなかったらしいが、当然仕事は解雇。前科持ち、それも会社の金を着服した人間──それも四十歳過ぎのバツイチ独身男だ──を雇ってくれる会社など簡単に見つかるはずもない。そもそも、お父さんは働く気力もなくしたようだったし。これでは貧窮するのも当然だった。
「お父さん──」
僕が呼びかけると、お父さんは鋭い目で僕を睨めつけた。見たことのない形相に、僕は萎縮した。
「拓。お前はもう、学校をやめろ。アルバイトでもやれ」
僕は想像もしていなかった言葉に面食らった。あれほど、よく勉強して良い大学に入って、良い職につけと僕に言いつけていたお父さんが、そんなことを言うなんて。
「学校ってえのは金がかかるんだよ。給食費だろ。PTA会費だろ。挙げたらキリがねえや。それに、お前もうすぐ中学生だろ。お前が中学校に入ったら、制服に鞄に靴に、馬鹿みてえに金がかかるんだよ。そんなの払えねえ。とっとと仕事始めて、てめえの生活費くらい払いやがれってんだ」
お父さんは酒が入っているのもあって、言葉遣いがかなり乱雑だった。
「お父さん、そんなの、やりたくてもできないよ」
「できないじゃねえ。やるんだよ」
お父さんはそう言って、また缶ビールをあおった。テーブルの上の空き缶は、既に十本を上回っていた。僕は、玄関の前に大量の空き缶が入ったゴミ袋が無造作に置かれていたのを思い出した。
「小学生は雇えませんよね」
僕がそう尋ねると、大抵の人は驚いた顔をする。そしてすぐ、困ったように肩をすくめるのだ。
それも当然だ。僕は痩せ細って、いつも同じ汚れた服を着ている、貧相な子供。周りの目には大層不憫に映るだろう。
でも、僕を雇ってくれるところはなかった。ひ弱で学もない少年に出来る仕事などあるはずもなかったのだ。
たまに、親切な人が菓子パンやジュースをくれた。腹は多少膨れたけれど、ちっとも栄養にはならなかった。むしろ、栄養バランスを崩して、しょっちゅう体調を崩すようになった。体調を崩しては体力を消耗する。体力を消耗しては、いつもの少ない食事を余計に辛く感じてしまう。かと言って、貰った食べ物を食べないわけにはいかなかった。申し訳なさからではない。やはり空腹は耐え難いものなのだ。その後、もっと耐え難い事態に悩まされると分かっていても。空腹では、まともな判断など出来やしない。
こうする他ない──そう悟った時には、恐怖も罪悪感もなくなっていた。
僕は両手いっぱいに抱えたスナック菓子やカップラーメン、菓子パンや水を机の上に放り投げた。空き缶が数個、転がって床に落ちた。
──思えば初めから、こうなることは決まっていたのだ。
僕に嘘をついたお父さんは、会社の金を盗って泥棒になった。そして、「嘘は泥棒の始まり」という言葉は嘘だという偽りを周りに言い触らしてしまった僕も──
──泥棒になった。
その時僕は知ったのだ。嘘は泥棒の始まりであると同時に──純粋でいることを諦めた証拠でもあることを。
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